道の声
実家に帰った時のこと。
リビングのソファーに腰掛けて、見たくもないテレビ番組を母親と眺めていたところ、突如散歩をしたい衝動に駆られた私は、矢庭に立ち上がり、「行ってくる」と母親に告げた。
突然の事に驚いた母親は、
「もう家に帰るのか」
と尋ねた。
「散歩」
と私は答えた。
「どこまで」
「わからん」
そう言って私は家を出た。
特に行きたいところがあったわけでもなかったが、なんとなく農村の方へ向かって歩いていた。
その道は中学生の時分、よく歩いた道であった。
学校へ通う時や、友人の家を訪ねてゆく時、そして意味もなく徘徊して回った道である。
その道はあの時から何も変わりはしていなかったが、山中の建築資材を置いていたところが、少しばかり小綺麗になっていたり、大きなコンテナが撤去されていたり、池のほとりのフェンスの看板が変わっていたりと、ほんの僅かばかりの変化が見られた。
少し歩くと田園地帯に沿って東西に延びた道路があり、その道に沿ってさらに農村の方へと歩いていった。
すると、かつてそこにあったコンビニエンスストアが姿を消している事に気がついた。
そしてよく辺りを見てみると、その手前にあった日本料理屋も、文字通り跡形もなく消え去っていた。
料理屋には一度も入ったことはなかったが、その道を通るたびに店の看板を目にしていたのだが、その看板はおろか、建物までがすっかりなくなって、更地になっていたのである。
コンビニエンスストアの方は二つ年上の友人が働いていたし、私も学生の時分に幾度も訪れたことがあった。
それが、コンビニエンスストアの名残を一切残すことのないままに、ただの無機質な白い建物になっていた。
その瞬間、私は自分の記憶の一部が失われてしまったような気になった。
人は何かモニュメントのようなものがなければ、過去を思い返すことができない。
思い出とは、記憶と現実の世界に残された痕跡が補完しあってこそ存在しうるのである。
きっと私はこの先、あのコンビニエンスストアで友人が働いていたという事を、永久に思い返すことはないだろう、そう思った。
そんな中、私に降り注ぐ陽射しの柔らかさや、私の体を通り抜けてゆく風の感触ばかりは、いつまでも変わりのないように思われた。
そして目の前に広がる田園風景と、その先に連なる山々もまた、昔眺めた景色そのままであるように思われた。
ふとその時、慣れ親しんだその風景の中には、まだ見知らぬ場所があることに気がついた。
連なる山々の中に、まだ訪れたことのない寺があったのだ。
その界隈の至る所に、その寺への案内板が立っていたが、私は何故だか一度も足を運んだことがなかった。
私は山の方へと向かうことにした。
いくつもの田園と住宅を隙間を通り過ぎて、やがて山へと通じる道へとやってきた。
山と山の外には明確な境界線がある。
一歩山に踏み込めば、突然世界が圧縮されたように、辺りが収縮し密度が増すような思いがする。
そこにはグラデーションはなく、はっきりとした境界線のようなものがあるのである。
山に入った私に覆い被さるように静寂が辺りを埋め尽くした。
そして静寂は次の瞬間には、山の喧騒へと姿を変えて木霊していた。
道はアスファルトだったので、まだまだ歩きやすかった。
暫く進むと地蔵が現れて、寺へ至る道は舗装されていない砂利道の方であることを案内板が示していた。
その道は山の奥へと、ぐんぐん延びていた。
少し歩いたところに手水舎があり、その先に寺の門があった。
看板によれば、寺の創建は推古天皇の代に遡るということであった。
門をくぐって階段を上ったところで景色が開けた。
目の前には大きな本堂があり、その手前には大きな釣鐘があった。
本堂の中からは、お経を唱える声が聞こえた。
私は暫くそのお経に耳を傾けてみたが、それが何を言っているのかさっぱりわからなかったし、日本語なのかも怪しいと思った。
本堂の中を覗いてみると、奥に胡座をかいた大きな大日如来が鎮座しているのが見えた。
私は賽銭を入れて頭を下げた。
境内を見渡すと、奥に鳥居があるのが見えた。
この辺りの寺社には、神仏習合の名残が見受けられることが多く、寺に鳥居があることも不思議ではなかった。
鳥居の先はまた山の中へと続いていた。
それは道ではあったが、斜面に足を取られないように大きな石がいくつも埋められているだけのもので、道というにはとても足場が悪かった。
未来の世界では、このような山奥もバリアフリーになっているのだろうか、とふと思った。
その道を登った先には、小さな本殿が建っていた。
その中には、厳しいというよりは、なんだ気の抜けた顔をした、特徴的なデザインの狛犬が祀られていた。
私は賽銭を入れて、頭を下げた。
本殿の周りをぐるりと歩いてみると、本殿の丁度裏側に、木漏れ日が差している場所あった。
その中に入って目を瞑ってみると、とても暖かく心地がよかった。
神様がすぐ近くにいるような気になった。
ふと目の前に、来た道とは別の、山を下る道があった。
それは山のずっと下の方へと続いているようであったが、木々に阻まれてどこまで続いているのかは、わからなかった。
その道の先を示す看板もどこにもなく、その道自体も剥き出しの木の根や苔が、辛うじて道としての軌道を描いているばかりで、果たしてこれが進むべき道であるのか、判別がつかなかった。
しかし好奇心は、私にその道を進ませようとしていた。
その道は本当に山道で、周りの木や枝を掴んでいないと転げ落ちてしまいそうだった。
思い返すと、私は母親に行き先を告げずにここまでやって来た。
山に入ってからは、誰とも顔を合わせていないし、寺の境内でも人に合わなかった。
この世界の誰一人として、私がここにいる事を知らない。
さらにここは、日頃人が使っているとも思えない道である。
もしもここで転げ落ちて死んでしまったとしら、もう誰も私を見つけ出すことはできないのである。
そう考えると背筋がヒヤリとする思いがしたが、それでも私は進み続けた。
暫く進むと、所々に斜面に沿って地蔵が立っていた。
矢張りこれは歴とした道だったのである。
するとその時、足元に何かが蒼く広がっているのが見えた。
木々に遮られてよく見えなかったので、私は尚も道を下っていった。
次第に視界が開けてくると、私はその蒼く広がるものの正体を悟り愕然とした。
それは「空」だったのである。
まだ木々によって、その全貌が見えたわけではなかったが、その青さと雲のようなものがあり、それは紛れもなく空なのであった。
私の足元には「空」が広がっていたのである。
「天地がひっくり返る」という言葉はあるが、実際に天地がひっくり返ったのを見るのは初めてだった。
私は地面を見上げた。
頭の上もまた、木々に遮られていたが、その先には地面はなく、矢張り空が広がっているようだった。
私は空に挟まれていた。
果たして私は死んでしまったのであろうか。
よく、自分が死んだことに気がつかないでいる者が地縛霊となるなんて事を聞くし、「シックスセンス」もそういった類の話であった。
私は知らぬ間に斜面を転がり落ちてしまったのだろうか。
不思議とそこに恐怖心はなく、寧ろ晴れやかな気持ちであった。
死んだのであればこれ以上死ぬことはないのだから、気兼ねなく斜面を滑り降りてやろう。
私は天狗にでもなったように、斜面を滑り下り始めた。
直ぐに私は空の元へと辿り着いた。
それは空ではなく、ただの池なのであった。
池が空を映していたのである。
私は生きていたのであった。
それから池に沿って道が続いており、その道の傍にも地蔵が並んでいた。
だが、私はそれ以上進むことができなかった。
目の前には確かに道が延びているというのに、そこには柵があったのである。
その柵は私の腰の高さくらいのものであったので、その気になれば跨いで進むこともできた。
しかし、私にはそれは何かの啓示のように思われた。
啓示を受け取ったところで、これ以上この道を進むことに意味がないように思われたのである。
日頃の散歩で私は道を引き返すということはしない。
それはどの道にも、それぞれの正解があると思うからである。
どんな道筋であっても、進んだ分だけの正解があり、気づきがあるのである。
後戻りすることは、後ろ暗いことのように思われる。
道には道の声があり、その声に耳を傾けてみれば、自然と自らの足が進む方角が決まってゆくのである。
それなのに、この時ばかりは私は来た道を引き返した。
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