2023年は「キリシタン解禁150年」
明治6(1873)年に明治政府はキリシタン禁制を撤廃。今年2023年はちょうど150年ということで、当時の行政文書などを読んでみます。
《2023年6月14日》「敦賀県届」の文字起こしと読み下しを追加しました。これで全文書となります。
はじめに
2009年には、プロテスタント宣教師の本土初来日から150年が記念されました。
2015年には、潜伏キリシタンが名乗り出てから150年が記念されました。
だから2023年には、「キリシタン解禁150年」が記念される、と思ってたのだけど特に何も聞かないし情報もほとんどないので、自分で調べてみたことなど少しまとめます。
年表
プロテスタント宣教150年
1859年、プロテスタントの宣教師が日本本土(*)に初上陸しました。それから150年後の2009年に「プロテスタントの日本宣教150年」が記念されています。
でも1859年はまだ江戸時代で、幕府のキリシタン禁制は続いています。宣教師は来ましたが、日本人がキリストを信じ礼拝することはゆるされていませんでした。
※ これより早い1846年に、プロテスタントの宣教師バーナード・ジャン・ベッテルハイムが沖縄(琉球王国)に上陸し8年間滞在。薩摩藩および江戸幕府のキリスト教禁制方針によって琉球王国から監視や行動の制限を受けながらも、医療活動のかたわら宣教し、聖書を琉球語に翻訳するなどしました(ウィキペディア『バーナード・ジャン・ベッテルハイム』より)。このため、2009年を日本のプロテスタント宣教150年とすることは沖縄の切り捨てだとして反対する声もありました。
信徒発見150年
1865年3月17日、大浦天主堂に、浦上村の潜伏キリシタン数十名があらわれ、プティジャン神父に信仰を告白しました。江戸時代のキリシタン禁制を耐え忍んだ信仰者たちが「発見」されたことは、世界的なニュースになったそうです。それから150年後の2015年に、「信徒発見150年」が記念されました。
しかしこの時点でもまだ江戸時代。幕府はキリシタン禁制を解いてはいませんでした。せっかく大浦天主堂にあらわれた人たちを含めて、浦上村のキリシタンは厳しい弾圧を受けてしまいます。(参考:ウィキペディア『浦上四番崩れ』)
五榜の掲示
明治維新の「維新」とは、「世の中のいろいろなことが改革されて、みな新しくなる」という意味。しかし明治新政府は、宗教の扱いについては江戸幕府のキリシタン禁制を引き継ぎました。
1868年4月、明治新政府は、江戸幕府が出した高札をすべて撤去して「五榜の掲示」と呼ばれる五つの高札を全国に掲出しましたが、その第三札で「キリシタン邪宗門は禁止」であることがあらためて布告されたのです。
「キリシタン邪宗門については、かたく禁じられている。もし不審な者があるなら、その筋の役所へ申し出ればご褒美をいただける」
この「キリシタン=邪宗門」という布告は、欧米列強の駐日公使から明治政府への猛抗議を招きました。
それにあわてた明治政府は「キリシタンという邪宗門」の意味ではなく「キリシタンと邪宗門」を禁ずるもの、などと言い訳をしたものの、「堅くご禁制たり」を解くことはしませんでした。明治政府は、浦上村のキリシタンたちを日本各地に流刑にするなど、弾圧を続けました。(ウィキペディア『邪宗門』『浦上四番崩れ』などご参考)
日本初のプロテスタント教会
明治5(1872)年、日本初のプロテスタント教会が横浜に建てられました。
しかし明治政府はまだキリシタン禁制を解いていません。教会に集うのは各国の外交官や商人、そして政府のお雇い外国人などだったのでしょう。
余談ですが、日本で日曜日が休日なのは、このお雇い外国人のおかげです。
明治政府の官僚は、江戸時代の役人の勤務を踏襲して、五十日(ごとおび。五と十の付く日)が休日でした。しかしお雇い外国人は彼らのカレンダーの日曜日に、教会へ行くため明治政府の仕事を休んでしまいます。彼らに頼っている省庁の仕事も止まってしまうため、お雇い外国人の多いところから、五十日(ごとおび)から日曜休日に切り替えていき、やがて明治政府も西洋のカレンダー導入に至ります。
(明治政府は倒幕のためお金を使いすぎたことで財政も厳しかったという事情があるので、「4日働いて1日休み」の五十日(ごとおび)制よりも、「6日働いて1日休み」の七日制のほうがよいと計算したのかも)
いったんここまでを整理します。
1853年にペリーが砲艦で開国を脅しても、キリスト教は禁止でした。
1859年、本土にプロテスタント最初の宣教師が来ても。
1865年に潜伏キリシタンが「発見」されても。
1868年に改元されて「明治時代」が始まっても。
1872年に日本初のプロテスタント教会が横浜にできても。
日本人がキリスト教を信仰することはゆるされていなかったのです。
がしかし!
岩倉使節団
日本人のキリスト信仰を禁止し弾圧し続ける明治政府に、駐日各国公司は強く抗議を続けていました。
一方、明治4(1871)年に、岩倉使節団が不平等条約の改正交渉のため渡航しました。欧米列強と対等な独立国という地位を得るためには、領事裁判権(治外法権)や関税自主権の問題を解決する必要があったのです。
ところが岩倉使節団は行く先々で、明治政府のキリシタン弾圧を非難されました。
アメリカのグラント大統領、イギリスのヴィクトリア女王、デンマーク王クリスチャン9世などが使節団を強く批判。各国の新聞も日本政府のキリスト教弾圧を厳しく糾弾。
これは欧米列強すなわちキリスト教だったからこそでしょうが、それだけではないかもしれません。
不平等条約が日本にとって不利すぎるということは、相手国にとって有利すぎるということなので、条約改正なんてしたくないのが本音でしょう。そうすると「キリスト教信仰を認めないなら交渉しない」というのはいい口実にもなったのではと思います。
いずれにしても岩倉使節団は、そして明治政府は、「不平等条約撤廃には、キリスト教弾圧をやめることが最低条件」と認識せざるを得なかったでしょう。
キリシタン禁制の高札を撤去
明治維新を経て日本という国の新しいかたちを固めていこうとしている中で、明治政府には「キリスト教を解禁するべきではない」という意見も根強かったらしいです。しかしキリシタン禁制をやめないことには、不平等条約を改正するどころか、交渉のテーブルにつくこともできないのです。
このため明治政府がついに「切支丹邪宗門ノ儀ハ堅ク御制禁タリ」を含む五榜の掲示の除却を各府県に指示したのが、明治6(1873)年2月でした。今年2023年からちょうど150年前です。
当時は内閣制の前の三院制でした。三院とは、天皇の代行ともいうべき太政大臣を首席とする正院(せいいん)と、立法府にあたる左院(さいん)、行政府にあたる右院(ういん)です。
明治6(1873)年2月12日、左院が高札(五榜の掲示)の撤廃を建議。
これを受けて同年2月24日、太政大臣三条実美が太政官布告第68号を発し、キリシタン禁制が破棄されたのです。
国立公文書館アーカイブが公開している史料によると、五榜の掲示の撤廃は各府県に混乱を与えた様子がうかがえます。このあと紹介しますが、「英公使パークスが『まだ高札が残ってるぞ』と言ってます」と外務省がたびたび報告をあげたりもしています。
おそらく、現代のような通信インフラがないことや、地方行政がまだ整っていないことなどのために、徹底されるのにタイムラグがあったのかもしれません。それでも明治政府は、そしてこの日本という国は、1873年にキリシタン禁制を解いたのです。
今年2023年は、日本が「キリスト教信仰の禁止」をあきらめた1873年から150年という、節目の年、記念すべき年なのです。
史料「布告三十日間掲示及従来ノ高札面除却」
ここからは史料の紹介です。
国立公文書館デジタルアーカイブで公開されている史料の中に、
「太政類典・第二編・明治四年~明治十年・第一巻・制度一・詔勅」というものがあります。
その中の「布告三十日間掲示及従来ノ高札面除却」が、切支丹邪宗門の禁止を含む「五榜の掲示」の撤廃に関するものとなります。
「布告三十日間掲示及従来ノ高札面除却」つまり、「布告を30日間掲示すること、および、従来の高札面(五榜の掲示)を除却すること」ということで、これにより五榜の掲示の第3札「キリシタン邪宗門はかたく禁制」も撤廃となったわけです。
以下、上記の国立公文書館デジタルアーカイブの画像を転載して紹介します(デジタル画像等の二次利用は「任意にご利用いただけます」とのこと)
そのあと、画像中の各文書について文字起こしと、現代語への私訳をこころみます。
以下、「布告三十日間掲示及従来ノ高札面除却」に含まれる文書を順次、布忠に可能な範囲で文字起こしして、現代語訳を試みます。
読み下し文にしてから意訳するのがよいのかもしれませんが、いきなり意訳していきます。
文字起こしでは、旧字体については適宜、現代の一般的な字体にしています。
文字起こし、現代語訳とも、素人が辞書を引き引きやってます。間違いなどありましたらコメントでご指摘くださいますようお願いします。
太政官布告第68号
府県へ布告
明治6(1973)年2月24日付け、政府(太政官)より各府県への布告。
府県へ布告の内容
明治6(1873)年2月24日。
府県へ布告。
太政官布告第68号。
今より、もろもろの布告が発令されるごとに、人民の熟知のため交通の便宜のよい地に30日間これを掲示することをゆるす。
ただし、各府県においては、管轄下へ知らせることについてはこれまでどおり取り計らうこと。一般への熟知する際において、従来の高札はもうやめるということである。
明治7(1874)年4月14日付けの第48号布告によって、ただし書きの部分は取消になっている。
左院建議
明治6(1973)年2月12日付け、立法府から政府への意見書。
左院建議の内容
左院(*)における建議
各所の高札の文による周知は、人民を教え導くという趣意が無いわけではないといえるが、これ(高札という仕組み)をもってあまねく庶民を導くには足りないものである。また、いろいろなことが新しく改革されているこんにち、政令もどんどん進歩しているので、多くの典刑(古くからの法)を高札だけでどうにかするべきではないし、実際にも却って不都合の理由ともなる。
つまるところ、(高札というものは)無用なのだ。なのに、このために費やさなければならないコストも少なくない。
というわけで、すみやかに(高札を)撤去されてしかるべきである。
明治6年2月12日。
左院。
※ 左院とは、内閣制度の前の三院制における立法府のこと。立法府で「キリシタン禁制を含む五榜の掲示を廃止」と決めて、それを正院(太政大臣)から周知されています。
司法省届
司法省届
明治6(1973)年3月15日付け、司法省から政府への文書。
司法省届の内容
司法省より政府への文書
従来、地方においては往々にして、朝意(*)の貫徹がいたらないことにより、種々の行き違いがあり、それによって裁判する上でも多少の障害を生じていることについて、今般の布告第68号にもとづきさらに当省(司法省)としては別紙のとおり布達(*)いたしたく存じます。
この司法所届けと兼ね合わせて、下記の司法省布達の件を申し上げます。
明治6年3月5日。
司法省。
※「朝意」とは天皇の意志のことですが、太政官布告のことを指しています。太政大臣は時代によって異なりますが、明治政府では三院制における「正院」の長官で、天皇親政を建前とする明治政府においては天皇代行のようなポジションだったようです。このため、太政大臣の名で周知される太政官布告を「朝意」としているのでしょう。
※「布達」とは、役所が広く周知することですが、明治期においては「行政命令」という意味を持ちます。ここでは、次に紹介する司法省布達(上記の司法省届と同日付け)を指しています。
司法省布達
明治6(1973)年3月5日付け、司法省が出した行政文書。
司法省布達の内容
同省(司法省)からの行政命令
太政官第68号の布告については、今より、太政官布告ならびに各省の行政命令とも、地方裁判所の門前ならびに町村長の家の門前に、太政官布告とこの司法省布達の文面を、文字を漏らすことなく掲示しなければならない。
まだ裁判所が設置されていない地方は県庁の門前ならびに町村長の家の門前に同様に掲示しなければならない。
明治6年3月5日。
7年4月15日に至って、この布達は取消となった。
司法省。
木更津県伺
明治6(1973)年3月5日付け、木更津県から政府へのお伺い。
木更津県伺の内容
木更津県(*)よりおうかがいします。
このたび第68号の布告の但し書きをもって、従来の高札(*)を取り除くべきとの旨を布告なされましたところですが、これは覚札(*)を取り除けとのことでございましょうか。
又は、かねてより永年掲示するべきとされている、いわゆる定三札(*)ともども、ことごく取り除きなさいということでしょうか。
このこと、至急ご指令くださりたく。
以上。
3月5日。
木更津県。
※「木更津県」は、現在の千葉県にあった県のひとつ。
廃藩置県後は全国で約300の県がありましたが、明治4(1811)年の第一次統廃合で房総半島の16の県を統合して木更津県となりました。明治6(1873)年に印旛県と合併して千葉県となります。
※ 「五榜の掲示」のうち、第1,第2,第3条は永年掲示とされ、まとめて「定三札」と呼ばれました。キリシタン禁制は第3条なのでこちらに含まれます。
一方、第4,第5条は幕末の社会状況を反映した時限的法令とされ、まとめて「覚札」と呼ばれました(福井県文書館「開国と近代日本の歩み 明治維新」を参考)
木更津県は「時限的な覚札(第4,5条)だけを取り除くのか、永年掲示のはずの定三札もろとも、ことごとくか」と、おうかがいをたてているわけです。
京都府伺
明治6(1973)年3月12日(*)付け、木更津県から政府へのお伺い。
京都府伺の内容
京都府より太政官におうかがいします。
「今からの諸布告のご発令ごとに、人民の熟知のため、交通の便宜のよい地において、30日間これを掲示することをゆるす」との旨のお達しにつきまして、京都府内では以前から、ご高札の掲示場所は、人民の往来が頻繁な場所、ということはおのずと今般の御趣意にかない則している「便宜の地」です。
なので(今回のお達しでは「地方裁判所の門前か県庁の門前に」とのことではありますが、京都府については)既存の高札を取り除いたその場所を、今回のご布告の掲示場所として設けるところです。
諸々のご布告を京都府内に周知することには真摯に取り組んでおり(*1)、学制や徴兵令(*2)あるいは製糸業についての規則(*3)などの先にご布達された分も、ことごとく(*4)掲示は30日間出しておくようにとの話になりますでしょうか。
(というのも京都府では)掲示場所が狭いので、今後の布告も30日間掲示するということはいたしかねます。かつまた、この個所は人家に近すぎて、掲示場所の増設の余地もありません。
これまでの諸々のご布告を管轄下へ布達する際は、家ごとに回覧し、また各町村の小学校で毎月一度、区長や町村長が集まり、布達の文面を読みすべて知るようにすることで、周知という趣旨を貫徹してきましたので、(今後も)そのように為すよう取り計らうことにさせていただきたいと考えますがいかがでしょうか。
以上のように文書で布告された内容の事柄を見計らい、布達についても(同様に)取り計らうことで、(地方裁判所や県庁に)掲示するには及ばなくてもよろしいかと。
この段についてのお伺いについて、至急の御指揮をお願いいたします。
3月12日。京都府。
伺いは以上のとおり。3月19日(*5)
※ 画像では、末尾に「三月十二日京都」とあるのを「二月」に訂正しているようにも見えるが、太政官布告第68号は明治6年2月24日付けで布告されているため、2月12日というのは矛盾になる。このため、この文書は3月12日付けであるとした。
※「円警」は「円木警枕(えんぼくのけいちん)」の略かと思い「真摯に取り組んで」と解釈しました。(円木は丸い木で「丸太を枕にするとすぐ転がって目が覚めるので、眠り込んでしまわないように警戒になる」ということから、「苦労して懸命に勉学に励んだり、眠る間も惜しんで物事に打ち込むこと」の意味)
※「学制や徴兵令」は、教育制度の改革(学制)と、兵制の改革(徴兵令)のことでしょう。税制の改革(地租改正)とあわせて、明治維新の三大改革として試験に出るやつです。
※ 京都府伺の中の「蠢絲製造御規則」を「製糸業の規則」としました。
富岡製糸場が明治5(1872)年に設立されていますが、江戸末期から日本の主力輸出品だった絹糸がこの頃は粗製乱造により国際的な信用を落としてきていました。そのため、製糸業に関する規則が太政官布告として出されていてそのことを言っているのかもと思います(裏は取れていないので推測です)
※ 史料画像では「悉」と「及」の間に一文字あるのですが、拡大しても何の字かわからず。その不明の字にマルがつけてあるようで太政官も「?」となったのかも。というわけでその一字は飛ばしてます。
※「三月十二日京都」「伺之通三月十九日」はよくわからないです。3月12日付けの京都府からのお伺いを、正院で3月19日に通した(処理した?)ということでしょうか。
外務省申牒
英公使ハルリーパークス(ハリー・スミス・パークス)からの「切支丹邪宗門禁制の高札がまだ残ってるぞ」という指摘。「申牒」とは役所などに文書で通告すること。
外務省申牒
明治6(1873)年4月27日汚付け、外務省から政府への文書による通告。
「張り紙」として、5月9日付けで6府県に口頭指示した旨が添付されている。
外務省申牒の内容
外務省より通告します
各府県に掲示してもらっている制札(五榜の掲示)を取り除く件県については先ごろ一般に布告されているところですが、目黒村あたりにおいて右記の制札が依然として掲示されているのを見たと、過日英公使から申し立てがありました。
この段、箱根あたり、ならびに神奈川県の管轄下にところどころに、制札が依然として掲示されているむきがあることを、別紙のとおり申し出いたします。
右記のことは御布告以来、日数も経ちましたが、東京府の近傍において今もって右記のようにいいかげんなまま時間が過ぎているのは不都合ですので、早々に制札を取り除くよう一般ヘさらに御布告していただきたく、この段を申しあげます。4月27日。
《申牒への添付》
(先述の)申し立てについて、早々に制札を取り除くべく、左記の県へ口頭で伝達しました。
京都府、神奈川県、足柄県、埼玉県
栃木県、宇都宮県。5月9日。
※文字起こし中の■は「併」のつくりのような字なので、「ならびに」と解釈しました。
英公使パークス申報
1873(明治6)年4月26日付け、「拙者」から外務官僚・上野景範あての文書。
英公使パークス申報の内容
日本に駐留の英国公使ハリー・パークス(*)について、外務少輔である上野景範閣下に(拙者から)報告し、お伺いします(*)。
キリシタン禁制の高札が町なかにいまだ取り除かれないままとなっているむきがあり、馬入川(*)の渡し場から小田原の間に7,8か所も、近日まで掲示されてあったように見受けられると申します。
もっとも、小田原においては(その後に)取り除かれてあるようなのですが、箱根やそのほかところどころは、依然として高札があります。
右記の地名はサトウ氏(*)より上野外務少輔閣下へ申し上げるべく、拙者(この申報を上野閣下に提出している官僚)より申し上げます。右記の場所は、実に人の往来があるところですから、制札を取り除く政令は厳しくなされることを上野外務少輔閣下におかれましてもご希望しておられるかと存じますので、右記のとおりご注意されたいと思いこの段を申進いたします。
※ハルリーパークスは、英国の第二代駐日公使ハリー・スミス・パークス。慶応元(1865)年に来日。休暇で一時帰国中の1872年には、訪英した岩倉使節団と会見して条約改正について話し合った。
明治16(1883)年、駐清公使に異動のため在任18年で離日。のち駐韓公使を兼任。(ウィキペディア「ハリー・パークス」より)
※申報(しんぽう)は、上司に報告し、おうかがいをたてること。この文書は、文中で「拙者」と名乗っている外務官僚が、上司である上野外務少輔あてに、ハリーパークスからの抗議について報告し伺いをたてていると解釈しました。
ただもしかしたら、これはハリー・パークスからの申報(日本の官庁に対して、自分を拙者として申し上げている)なのかなとも思います。
※外務少輔(がいむしょうゆう)は、外務卿(のちの外務大臣)の下に位置する官僚で、外務大輔(がいむだゆう)とともに外務卿の補佐にあたった。外務大輔、外務少輔とも、いまの外務次官に相当。
上野外務少輔は、薩摩出身の上野景範(かげのり)。外務少輔、外務大輔、駐米全権公使(赴任せず)、駐英全権公使、駐オーストリア=ハンガリー帝国全権公使を歴任。(ウィキペディア「上野景範」より)
※馬入川(ばにゅうがわ)は、相模川の河口付近の呼び名。
※「サトウ氏」は英公使館のアーネスト・サトウのことでしょうか。幕末(1862年)に駐日英公使館の通訳生として来日、このころは日本語はほとんどできなかったがのちに通訳官に昇進、パークスが来日した頃には「日本語に堪能な英国人」として日英双方に知られ、日本の幕末~維新モノによく登場します。のちに第6代駐日公使、第14代駐清公使を歴任。
外務省再申牒
外務省からの再度の申牒(通告)。
英公使ハルリパークスが「切支丹邪宗門禁制の高札が奥州の街道にまだ残ってるぞ」「兵庫県にもあるぞ」と繰り返し申し立てがあるので、早く高札が除去されるように対処してくれ、という内容。
外務省再申牒
1873(明治6)年5月3日付け、外務省から政府への文書による通告。
外務省再申牒の内容
外務省再申牒
先月27日付けの時点で、東京府の近郊においていまだ制札の掲示がある場所が見られることを英公使より申し立てがあったので早々に取り除かれるようにと申し上げましたことは、もはやご布達いただいていると存じますが、なおまた同公使より、奥州から日光街道にかけて
埼玉県の糟壁駅と野澤村、
栃木県の野木村、
宇都宮県の下徳次郎村、中徳次郎村、
栃木県の小山駅、大新田村、野口村、原町村、久瀧村
右記の宿駅(*)や村落には依然として制札の掲示がある旨、内々で報知いたしております。
右のようにいつも英公使から報知を受けるのは不都合がありますので、早々に取り除くよう各地の地方官へ厳重にご布達あって然るべく、この段くりかえし申し上げるものでございます。
5月3日。外務省。
※糟壁(かすかべ)は、現在の埼玉県春日部市にあたるところにあった、日光街道・奥州街道の宿場町。
※宿駅とは、街道筋など交通の便がよく、宿(宿泊施設)や、駅(荷役用の人馬を用立てる設備)のあるところ。
外務省再申牒
1873(明治6)年5月14日付け、外務省から政府への申し入れ。
外務省再申牒の内容
同じく。
東京近郊その他、奥羽街道などにおいて依然として、従前のごとく制札が掲置されている地があるうんぬんと英公使からの申し立てに付き、過日から繰り返し、除去の御布令(*)をお願いしますと申し上げてきましたが、また英公使パークスから「兵庫県でなお制札を掲示している場所がある」との申し立てがございました。
右記のように何度も彼から申し立てがあるのは、はなはだ不都合ですので、至急除去していただけるよう各府県へご指令いただきたく、この段申し上げます。
5月14日。外務省。
※御布令(おふれ)はおふれ書き、つまり役所から一般に出される法令。
開拓使申牒
開拓使・函館出張所の杉浦中判官から、開拓使本庁(小樽のちに札幌)への手紙を中心として、高札の撤廃は「外国の宗教の許可」かという問い合わせらしい。
次の四つの文書が含まれる。
杉浦中判官からの手紙を別紙とする、開拓使からの問い合わせのヘッドペーパー。
杉浦中判官から開拓使あての手紙。
杉浦中判官からの再伸。
法制課申牒。
開拓使申牒
明治6(1873)年5月7日付け、開拓使(中央省庁のひとつ)から政府への文書による通告。杉浦中判官からの手紙を別紙とするヘッドペーパー。
開拓使申牒の内容
開拓使より書面で通告。
開拓使・函館出張所に在勤の杉浦中判官より、別紙のとおり申し越してきている件について(この別紙は次の文書)。
「五榜の掲示」の高札のことは一般に熟知されているため取り除くことになりました。
その跡地には今よりのちの御布告を掲示するはずであり、外国の宗教をゆるすといった理由によって高札を取り除いたのではない旨を、きっとお答えくださるよう、申し遣わしてください。
共同地の状態について、政府にて洞察していただくため文書にてお知らせつかまつります。
なお今後の処置のしかたについて、文部省および教部省(*)と打ち合わせするべきことを申し上げるため、この段を上陳(*)いたします。
※ 杉浦中判官:おそらく杉浦誠。幕臣である杉浦家の養子となり八代目当主。江戸幕府の最後の函館奉行であり、また明治政府でも開拓使の函館出張所で約9年にわたり民政に尽力したという。明治5年に開拓少判官、のち中判官。(函館市文化・スポーツ振興財団より)
※ 判官:省と同格の中央官庁である開拓使における、長官や次官の部下。当初は「判官」「権判官」だったがすくに「大判官」「中判官」「少判官」に編成された。(開拓判官より)
※ 文部教部両省:文部省と教部省の両方ということ。教部省は、神道および仏教の教義、寺社、陵墓など管轄した官庁で、明治5(1872)年に神祇省を廃止して設置され、明治10(1877)年に廃止されて内務省に移管された。
※ 上陳:役所に対して申し上げること。上位に対して陳情すること。
別紙「杉浦中判官からの手紙」
明治6(1873)年4月10日付け、開拓使・函館出張所の官僚・杉浦誠から、札幌の開拓使本庁への手紙。
別紙「杉浦中判官からの手紙」の内容
函館出張所の杉浦中判官からの手紙。開拓使本庁あて。
当地(函館)に在留のフランスの司祭ベルセイ氏が、寄留している岩手県管轄の士族・本堂圭(*)と同行して拙者宅に来たので面会した。
ベルセイ氏が言うには、最近明治政府が従来の制札を廃止し、外国の宗教を許可したとのことを伝え聞いたとのこと。
そのとおりであるなら(外国の宗教が許可されたなら)、今より、キリスト教を信仰する者たちも公然と、職につくこもとも高等教育を受けることもできるるということになるが、実際にそのように発信しているのか(虚報といううことはないのか)確認したく、それぞれのためおじゃました次第であるとのこと。
制札の条文は、日本国民はすでに熟知であるから廃止したものであり、あえて宗教の禁止や禁止解除に関することではない。かつ、我が輩(杉浦)のように東京から隔絶されて地方に赴任している者は取り分け、政府のおふれを規範として何ごとも実現させることは言うまでもない。ベルセイ氏がご質問の、「宗教の許可」の布告が政府から出るかどうか来ているかというのは、荒唐無稽なことである。それがベルセイ氏の耳に入ったということはわかったが、こまごまとお問い合わせのこともありますので、一応は東京にいる開拓使次官に問い合わせ、可及の答えを求めるものです。
ベルセイ氏はほとんど日本語を理解していて、かなり談判もできる。なので、書生の本堂圭が同行しているが発言することはなく、ただベルセイ氏のもとに寄留しているだけで、キリスト教の教えとフランス語を修行していると聞いている。キリスト教の教え(を許可するかどうか)についてはベルセイ氏に回答したとおり(禁止や禁止解除という話ではない)であり、拙者の職務の範囲では(教えについて)承るのは難しいが、ベルセイ氏はとても平穏な人物に見えるとおり別に議論に持ち込むでなく、本堂圭と共に引き上げていった。
このフランスの僧侶ベルセイのもとには最近6,7名の書生が寄留しているらしい。ロシアの僧侶アナトリー(*)とは宗門がことなるためか、円満ではない様子なのは、拙者との談判中のものの言い方にも明らかだった。フランスカトリックとロシア正教とでたがいに布教を競っている様子であるところに(*)、キリシタン禁制の制札が廃止されたことにより、酔いつぶれたような書生どもがごうごうと異説をとなえるのは太鼓のようにやかましく、ついに訊問したと察せられる。
右記の考察は、以前の文書(*)からも適当であろうと思われるものの、地方役人としては事情がよくわからないために(*)後日に不都合が生じてはよろしくない。ただいまの廟議(*)で議論されているであることは承知の上で、なにとぞご教示を、かつまた追ってなるべく再答願います。それまでは拙者の理解ともあいなるべく、お触れの各条は漏れなく示していただきく、この段あつくご依頼もうしあげます。
明治6年4月10日。
開拓使(函館出張所)
※ 来翰(らいかん):「翰」は「ふで」、また「ふでで書いたもの」の意味で、「来翰」は「手紙」の意味。
※ ベルセイ氏:当地(函館)に在留のフランス国の司祭ベルセイ氏ということだが、よくわからない。明治6(1873)年当時ということでは、函館にはパリ外国宣教会が建てたカトリック本町教会の仮聖堂がすでにあったが、その関係者だろうか(カトリック函館教区の初代司教アレクサンドル・ベルリオーズ神父が名前が近いようにも思うが、函館に入るのはもう少しあとの明治18(1884)年)
※ 貫属(かんぞく):「岩手県貫属士族」で、「岩手県の管轄下にある士族」の意味。
※ 本堂圭:西南の役の田原坂慰霊碑に岩手県出身の「本堂 圭」の名があるが、同一人物であろうか。
※ アナトリー:ロシア正教・函館ハリストス正教会のアナトリイ・チハイ司祭と思われる。のちに東京にニコライ堂を建てるニコライ・カサートキンがロシア領事館付属礼拝堂の司祭をしていたが、アナトリイは1871(明治4)年、ニコライの補佐として函館に入り、ニコライが東京に異動後は函館教会を牧会している(参考:ウィキペディア「アナトリイ・チハイ」「ニコライ」)
※ 「相競フ」の前に「追々豆ニ」とあるのは意味が取れなかったため省略した。あるいは「豆ニ」は「豈ニ」だろうか。
※ 前文ノ答振ニテ:前文が何を指すか未詳。杉浦中判官から以前に申牒した文書か、あるいは以前にベルセイ氏かアナトリー氏に問い合わせて文書で回答があったのか。
※ 遠官時情ニ暗ク:「時情」は事情だろうか。「遠官」は寺田寅彦『物理学序説』(1936年)に用例があり、感覚器官のうち直接の接触がない聴覚や視覚を遠官、接触する味覚や触覚を近官というとのこと。
また「地方の官吏」という意味もあるとのことで、上記ではこちらの意味を採用しました(参考:日国友の会)
※ 廟議【びょうぎ】:は「朝廷の評議」の意味だが、明治政府の太政官制においては、太政大臣を首席とする正院での会議を指すのだろうか。
別紙「杉浦中判官からの手紙・再伸」
開拓使・函館出張所の官僚・杉浦誠から、札幌の開拓使本庁への手紙の再伸。日付の記載がないが、さきの手紙が明治6(1873)年4月10日付けであるためその後と思われる。
別紙「杉浦中判官からの手紙・再伸」の内容
再伸。
ロシア僧アナトリーのところの寄留生については先日お問い合わせさせていただたところ、本文中の本堂氏について当人はもちろんフランス僧からも何の届けもありませんでした。
この度フランス僧と同伴で(開拓使函館出張所に)入り来たり、それで初めて承知したこととして、アナトリーのところの書生の扱いについてご指図のとおりに、右(フランス側の本堂ら)に照らして同様に取り計らうように心得ますので、開拓使次官殿(*)へお申立ての上、至急のご回答ありたくお願いいたします。
※ 次官:明治6(1873)年当時は薩摩出身の黒田清隆が開拓使次官だったが、長官が空席(東久世通禧が明治4(1871)年に辞任したまま)であったため黒田は次官のまま開拓使のトップだった。(参考:ウィキペディア「黒田清隆」)
法制課申牒
明治6(1873)年5月8日付け、法制課からおそらく太政官への文書による通告。
法制課申牒の内容
法制課(*)より申し上げます。
別紙の黒田開拓次官からの申し立てについてお聞き置きのとおりあい成るべきであると存じたてまつります。
(明治6年)5月8日、開拓使(*)。
※ 法制課:明治6(1873)5月2日に太政官に設置され、明治8(1875)年に法制局に改組された(参考:アジ歴グロッサリー「法制局」)
さっそく5月8日にこの申牒を、おそらく太政官に上げたものと思われる。
※ この「開拓使」の意味が不明。ほかの文書では末尾に、その文書の発出元の組織名が略記されているので、この申牒は開拓使からのものということか?しかしタイトルからは法制課からの申牒と思われ、本文も「開拓使の黒田次官からの申し立て」の件ですよという内容。
敦賀県応札ヲ撤却ス
敦賀県届
明治6(1873)年5月10日付け、敦賀県から太政官への届け。
敦賀県届の内容
敦賀県からの連絡。
太政官布告第68号をもって高札を取り除く件、御布達がありましたところですが、かねて申し上げ続けてきましたとおり、敦賀県の管内において越前の国の大野郡をはじめ各郡の領民による暴挙(*)では、(ご禁制の影響により)キリシタンの教えを(何か恐ろしい者であるかのように)まったく誤解して(*)集団暴動にいたっております。このように当時は市民感情がざわついたところに、高札を撤廃されてはいよいよ民心の動揺を招くことになるのではとの懸念も少なくなく、したがってこの件に向き合うにはなお、あらかじめ準備期間を要することを申し上げておりました。しかし今日に至って右の憂慮は無用のためご高札を除去せよとの指示が発令されましたので、このことを申し上げおきます。以上。
明治6(1983)年5月10日。
敦賀県。
※ 本文書は「届」、先の木更津県や京都府からの文書は「伺」とあった。行政文書の種別として「伺」「届」などの区別があったのかもしれないが未確認。
※ 敦賀県:廃藩置県で300余だった県を明治4年に統合した際に設置された県。明治6年の合併で現在の福井県とほぼ同じ姿に。のちに分割されて滋賀県と石川県に併合されるも、さらにのちに両県から分離された地域が福井県として併合された(参考:ウィキペディア「敦賀県」「福井県#歴史」)
※ 全ク説教ノ御趣意ヲ誤解致シ候ヨリ:キリシタン禁制の影響で市民たちが「キリシタンの説教は何か恐ろしく危険なもの」と誤解し、暴挙とか騒櫌(集団暴動)という事態に至っていた、ということだろうか。ウィキペディアの「浦上四番崩れ」の記事に次のように書かれている。
『また、長年キリスト教を「邪宗門」と信じてきた一般民衆の間からもキリスト教への恐怖から解禁に反対する声が上がったため、』
実際にどのようなことがあったのかは未確認。ただ北陸では加賀藩で「根切り」と呼ばれる苛烈なキリシタン根絶制作もあった。また、浦上村のキリシタンが全国に流刑にされたが、加賀藩にも流されたらしい。そうしたキリシタンの悲惨が敦賀を含めて北陸に知られていて、キリシタンと関わるのは恐ろしいという印象を与えていたのだろうか。あるいは浦上から敦賀に配流されたキリシタンもあったのだろうか(未確認)
あとがき
明治初期の文書を画像から文字起こしをして、さらに現代語に意訳することに挑戦しましたが、こうしたことにはまったくの門外漢で、手持ちの漢字辞典のたぐいとグーグル検索に頼り切っています。
なので、正確さよりも「こんなことが書いてあるっぽい」くらいの参考としてください。
文字起こししている部分で画像中の文字を読み間違えていたり、意訳に無理がある、文法や解釈を間違えているなどありましたら、助けると思ってコメントでご指摘ください。
また、この文書の現代語訳がどこかのサイトにあるとか、この書籍に載っているなどの情報がありましたら、コメントで教えてくださったらうれしいです。