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文学フリマ東京〜知らねえ人間がてめえのことを書いた文章を買ってくれてどうもありがとうね!〜
5月19日、文学フリマ東京38に出店をしてきた。
文学フリマには過去に何度か一般客として参加したこともあったが、こうして出店をするのは初めてのことだった。
じつは今までも何度か、本を作ったりイベントで販売をしたりという機会があった。だけれども、それらは全ていわゆる2次創作というものだったので、イベントの雰囲気も、会場へ訪れる客層も、今回のものとは全く違ったのが面白かった。
今回の出店で気づいたことや思ったことを、備忘録的につらつらと書き綴っておこうと思う。
・「買いたい」のか、「売りたい」のか。
一般的に2次創作といわれる本を頒布するイベントでは、そもそも来場者も出店者も、同じジャンルに興味関心があるという共通点があるわけだ。
だから作品を手に取る際の敷居も低いし、人気サークルがどこで、どういった作品が今回のイベントの目玉で……という共通の認識が持たれていることが多い。
2次創作でいわゆる”壁サー”と呼ばれる、行列が形成されるために会場の壁面にスペースが設けられるサークルは、発行部数も桁外れに多い。
人気ゆえに、後になってプレミアの価格が付くこともある(最近では転売防止の対策もなされているようだけれど)。
2次創作のイベントでは、出店サークルの多くが入場して設営もそこそこに、仲間の売り子にあとは任せて、人気サークルの本を買いにまずは並びに走る、などという姿も見られた印象があった。自分が買い物にいく計画ありきで、助っ人を呼んでいるサークルが多いのである。
ところが文学フリマでは、出店サークルはまず「自分の本を売りに」来ているのだ。
これはスペースの大小にかかわらず、どんな出店者も参加の根底に「作った本をまずは売りたい!」という強い意志があるように感じられた。
だからこそ、昼前に開場して、夕方の閉場までずっと、本当にずーっと、どのスペースでも出店サークルが本を売り続けている姿が衝撃的だった。
2次創作のイベントでは、多くの一般来場者、および出店者が「あれも買い!これも買い!」と、とにかくすばやく買いに走り回るイメージだった。
だから本はハイペースではけるし、知り合い同士の交流が済んでしまったら、閉場まで数時間を残して、早めに撤収してしまうサークルもちらほら見受けられる印象だったのである。
文学フリマでは遅い時間に出店者が買い物に回り始める感じもあったので、撤収しないのはそのためかもしれない。
ラストまで「本を売るぞ!」と粘る人の多さに喚起されて最後までいたが、なかなかの体力が必要だった。
・「好き」の広さとは?
先述したように、2次創作では売り手/買い手に共通の「好きジャンル」が根底にある。
そのため本を手に取る際にも、なんとなくのキャラクター設定や、その背景にあるドラマをおさえた上で作品を選別することになる。
まず自分の好きな内容であることがポップなどでわかるし、表紙を見て中身をぱらぱらと見るだけで、そこまで冒険せずとも本を購入しやすくなるような、ジャンルという名の地盤があるわけだ。
ところが文学フリマでは、オリジナルの創作物を販売するサークルが大半である。私が今回販売したのも、自分自身の体験を綴ったエッセイと短歌を集めた本だ。
すると本を手に取った客がそれを実際に買うまでにも、数々のハードルが待ち受けることは、容易に想像できる。
まず本に興味を持ってもらうには、会場に来てスペースに置いているポップや、表紙やタイトルに引っかかってもらうしかない。
さらには私が売るのはエッセイである。
となると、「誰だおまえ、しらんやつだな」と思いながら、誰かまったく知らん人間の書いた本を、それでも読みたいと思うような魅力がなくてはならないわけだ。
小説ならばまだ、設定やジャンルが読み手の趣味嗜好と重なることもあるだろうけれど、ことエッセイとなると「知らねえ人間がてめえのことを書いた文章」であることは忘れてはならない。
だからこそ、会場で出会ったその本と向き合い、「買うに値する本か否か」を吟味する必要が出てくる。
広く一面的に「好き〜!」と会場全体を走り回れる2次創作のイベントとは違って、会場にあるスペースの数だけ、全く違う趣きをもって書かれた本たちが並んでいる文学フリマでは、1冊ずつの本と向き合っていく必要がある。
2次創作における創作物が、いわるゆジャンルに対する「好き」の結晶であるとするならば、その熱量は向かう先の間口が広いものであると言えるだろう。
それに対してより狭く、深く、しかし熱量こそある「好き」の詰まった本たちを売るイベントであるからこそ、読み手も自分の「好き」と合致するものを探しにくる。
だから来場者の雰囲気も実に多岐にわたっているし、見回してみればどの本も異なるコンセプトに基づいたものばかりなのだ。
こりゃすげえや!とシンプルに思った。
・緊張の瞬間
さあスペースにお客さんが立ち止まってくれました!となった際に、立ち読みをしてもらえる見本誌を用意していた。
興味のあるお客さんは、まず本を手に取ってくれて、ぱらぱらと目の前で中身を読んでみてくれる。
わたしが買い手として行うのと同じように、本を流し読みしながら、「買うか/買わないか」という思考がここで繰り広げられるわけである。
そのときの緊張の度合いが、2次創作のときの比ではない!!!と感じた。
2次創作となると、買わずに本を戻した際に、「あー、ちょっと趣味に合わなかったかな」とか、「内容がずれていたかな」だとか、そんなように、本が売れなかった理由をいくらでもジャンルのせいにできたのだ。
ところがオリジナルの、しかも自分が自身の体験を綴ったエッセイを売るとなると、まるで自分の脳みその中を覗き見られているかのようだというか、なんともむずがゆい感覚を覚えた。
もちろん文体だとか、温度感だとか、好みの問題もあるのだろうけれど、対面で自分の体験談を、全くの初対面の多くの人々に読まれるという体験自体が、じつにひりつくような刺激があっておもしろかった。
そしてだからこそ、売れたときの喜びもまたひとしおだった。
・創作しようぜ
そんな中でスペースに訪れてくれたお客さんたちの中でも、自分でもエッセイを書かれていて、本をいつか出してみたいのだと話しかけてくれた方がいた。もちろん初めてお会いする方だった。
どれくらいの期間で本を出したのか、どんな時間に執筆したのかなど聞かれたのだけれど、こちらもへんにアドレナリンが出てしまっていて、
「まともな状態じゃ創作なんかできないので、まともじゃないうちに勢いで本にして発行するしかないっすよ」などと、ろくなアドバイスができなかったことを悔いている。(もしこちらを覗かれていたら、あのときはすんませんでした!)
でもそれが真理だと思う。
創作なんて、ひとたび冷静になってしまったら、どこかでためらってしまうものだ。
だって、自分の私的な体験を書いてそれを多くの人々に一方的に読まれるだなんて、冷静に考えたら「恥」以外のなんでもないのだもの。
しかしそれを上回る、「おもろいもん、できたで〜!」という熱量を、そのまま熱いうちにお召し上がりいただきたい、という創作意欲が満たされたとき、またそこで得られる充足感は他に代えられないものなのである。
鉄は熱いうちに打て。
エッセイは、深夜の頭がおかしいうちに書いて、そのまま原稿に流し込め。
本はノリと勢いで書いて、まともに読み返さずにとりあえず出せ。
紙に文字が書かれていて折られていれば、それはもう本だ。
あたしはねえ、あたしが書いた文章こそ最強だと思っているから本にしているんだよ!みんな読んでくれよ!
そしてあんたもねえ、あんたの書いた、その本が読みたいんだよ!だから書こうや、本にしようや!!!
……などと、そんなあちちなことを考えてしまうのだった。
・知らねえ人間がてめえのことを書いた文章を買ってくれてどうもありがとうね!
言いたいことはもう、ほんとうにこれにつきる。
「知らねえ人間がてめえのことを書いた文章を買ってくれてどうもありがとうね!」
という、この言葉をただ伝えたい。
自分の体験を書いたエッセイに対する感想を対面で、口頭で伝えられるのは、どうも気恥ずかしさがあって苦手なちいせ〜〜〜〜え人間なので、ぜひお読みいただいた際には一言でも感想を(できれば奥付けのアンケートやメッセージで!)いただけるとありがたい。
また、イベントで販売した本の在庫がまだあるので、通販でも販売中!
少しでも興味を持ってくれたそこのきみは、買ってくれよな!!!
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ぜひ読んで読んで読んで〜〜〜〜!!!