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『瞳をとじて』(2023)光を求める者たち

ビクトル・エリセ31年ぶりの新作は169分と既存の劇映画2作の2倍近い上映時間であった
しかしそれは我々観客に映画という「光」の探求を擬似的に追体験させるために必要なものだったのである。

二重の追体験

冒頭とエンドロール時に2つの顔を持つ像が映し出される。
一方は、ミゲルが撮影し未完成となった劇中の映画である「別れのまなざし」に登場する悲しみの王の顔であり、もう一方は同作の主演であり撮影中に失踪してしまうフリオの顔である。
言うまでもなく、この像はフリオが現実において"悲しみの王"と近しい存在であることを示す。
今作は『別れのまなざし』においてフリオ演じる人物が"悲しみの王"の家を訪ね、人探しの依頼を受けるシーンから始まり、そのラストシーンを見ることによって幕を閉じるという劇中映画に挟まれる構造をとっている。
そして、フリオ演じる人物の捜索という行為をミゲルは引き継ぐことになる。
まなざしからフリオとその記憶へと対象を移して。

それによりミゲルは自ら『別れのまなざし』を補完し、追体験する。
さらに観客は『瞳をとじて』という映画として追体験する。
ここに二重の追体験が生じるのである。

光を求めて

なぜこの追体験はなぜ必要だったのか。
今作ではエリセの代名詞とも言える「光」がほとんど失われている。
そしてその「光」は閉館となった映画館で『別れのまなざし』のラストシーンを上映する際に我々はようやくその輝きを再び見ることが叶う。
それは、この「光」こそがまなざしであり、記憶であり、映画であるからだ。
故にこの「光」は映画監督によってもたらされるものなのである。
ミゲルは『ラ・シオタ駅の列車の到着』(1895)を模したフリップブックを持つ。

フリップブックは言うなれば「光」を失った映画だ。
映画は「光」があることによって他者へと伝達される。
「光」を失った映画としてのフリップブックは自己完結的な性質を持ち他者への伝達能力を持ち得ない。
つまりそれを持つミゲルは光を失った映画監督なのであり、今作はフリオとその記憶と共に「光」を探し求める物語でもある

光を探し求めるものたち

この「光」の探究という点において主人公のミゲルと監督であるビクトル・エリセが重なることは言うまでもない。
ミゲル同様かそれ以上の時間、エリセは「光」を失っていた。
本来、エリセの「光」はフィルムで自然光を捉えることによって生み出されるが、今作はデジタルによって撮影され、エリセの「光」をもたらすものは映画という人工物である。
エリセは新たな「光」を発見したと言える。
ミゲルもまた、テレビという新たな「光」によってふたたび「光」を取り戻す。
エリセが発見すると同時にミゲルも「光」を発見したのである。
この「光」を伴ったまなざしによってフリオの失われた記憶共に映画の記憶を伝達しようと試みる。

記憶を伝達する映画という装置によって観客共にエリセは「光」を探究する。
その先の可能性は我々に委ねられ、映画は幕を閉じる。


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