『PERFECT DAYS』は日常の形成過程を描いた作品であり、役所広司演じる平山は、日常の中に潜む非日常を観測する者として存在している。 日常への執拗なこだわり 日常は、日々反復される一定数の行動によって形成される。行動の数や予想外の出来事に対する許容範囲は人によって異なるが、今作の主人公である平山はこの日常というものに対する異常なこだわりを持つ。彼は意図的に日常を作り出している。 日常を認識すること 平山の周囲では彼の日常から逸脱した予想外の出来事がたびたび発生す
これは論と呼べるほど大層なものではない。故に「ろん」。それぐらいの気持ちで読んでほしい。この文章は「ヌーヴェルヴァーグとは何だったのか」という問いに対する回答から始まる。その回答は無数に存在し、著者のような批評家に憧れを持っているだけの凡人が改めて書くことでもないのは重々承知しているし、もしかすると既に以下に述べることと同様のことについてはるかに出来のいい文章が存在するかもしれない。ただ、この文章は自身の思考を残しておきたいという極私的な欲求によって書かれていることを承知の上
OPから驚かされた。タイトルロゴと音楽、ゴダールではないか。 これは追悼なのか?いや宣言と受け取るべきか。今思えば既に『パッション』(1982)というゴダールの映画がありながら自身の藝大での修了作品に『PASSION』(2008)と名付けている時点で宣言はなされていたのかもしれない。映画自らが映画史という大きな流れの中にあることを自覚しつつ、意図的に流れから離脱するという宣言。その宣言通り濱口竜介は〈断絶〉の映画を遊戯的に作り上げた。映画の制作プロセスそのものに偶然性を求める
ビクトル・エリセ31年ぶりの新作は169分と既存の劇映画2作の2倍近い上映時間であった しかしそれは我々観客に映画という「光」の探求を擬似的に追体験させるために必要なものだったのである。 二重の追体験 冒頭とエンドロール時に2つの顔を持つ像が映し出される。 一方は、ミゲルが撮影し未完成となった劇中の映画である「別れのまなざし」に登場する悲しみの王の顔であり、もう一方は同作の主演であり撮影中に失踪してしまうフリオの顔である。 言うまでもなく、この像はフリオが現実において"悲
はじめに 喜劇王チャップリンによる資本主義を風刺した1936年の映画『モダン・タイムス』には幾度となく回転の運動が繰り返される。 印象的なのは、工場の歯車の回転だろう。他にも様々な機械の回転する運動が、劇中には登場する。 ただ、この回転の運動を行うのは機械だけではなく、人間であるチャップリン演じる工員もこの運動を行う。 この回転という運動は「人間性の欠如」を表しており、これと対になる「人間性の保持」を示す運動が直進であると私は考えている。 回転と直進 まず、回転と直進
先日、『卒業』を再見した。 笑った、面白かった。 初見のときとは受ける印象が異なり、この映画の本質はコメディなのだと気がついた。 では、いかなるコメディか。 私はシュジンコウたり得ない存在である主人公がシュジンコウになるべく振る舞うコメディだと考えている。 シュジンコウと主人公 まず、この記事におけるシュジンコウと主人公の違いについて説明する。 シュジンコウとはいわば「英雄」(英:Hero)である。 このシュジンコウとはスターによって演じられ、試練を乗り越え、誘惑に負けず
先日、『スミス、都へ行く』を鳥という観点から分析した。 今回は今作において重要な運動である「座ること」と「立つこと」そして「座らせること」に焦点を当てて分析していきたい。 ※2023/08/31追記 この映画はいかなる映画か まず、この映画がいかなる映画であるかについて中村秀之氏は以下のように述べている。 つまり、この映画においては「立つこと」が非常に重要な運動になっている。 特に後半の議場のシーンにおいてはスミスが「立つこと」言い換えれば「座らないこと」が観客の興味の
『スミス、都へ行く』はフランク・キャプラによるアメリカの精神性を体現した傑作である。 そして、この物語は田舎で暮らしていた鳥としてのスミスが、鳥かごに入れられ、その中で倒れるまでの物語であると私は考えている。 スミスという名の鳥 1人の上院議員がなくなったことで、子供から絶大な支持を受けるスミスは新たな上院議員として担ぎ上げられる。 そこには、ジムとペインの思惑が関わっているわけだが、これを私は鳥かごに入れられることだと考えている。 まず、鳥の象徴的な意味として「自由」
とある事情から黒澤明『羅生門』(1950)を再見した。 1951年のヴェネチア国際映画祭において最高賞を受賞し、日本映画の力を知らしめた映画史に残る傑作であることは間違いない。 ただ、初見時にはあまり面白さがわからなかった。 色々調べてみてもどうも納得の行かないものが多かったのだが、2度目の鑑賞で、私の中で『羅生門』が何を描いていたのかという問いに対する私なりの答えを発見し、面白さがわかった。 その答えとは「観客の映画との向き合い方」を描いた作品であるというものだ。 OPか
先日、シネマヴェーラ渋谷にて「知られざるサッシャ・ギトリの世界へ」という日本初のギトリ特集上映が行われた。 以前、同館のラインナップにあった『新しい遺言』(1936)や先輩からDVDを借りて『とらんぷ譚』(1936)を見て以来、彼の特集上映を熱望していた私にとって非常に嬉しい上映であった。 今回の特集で上映された作品は以下の通りである。 これらの作品からギトリ映画における「数字」について論じてみたい。 ※あくまで記憶の中で書いているのでズレがある可能性がありますが、ご容赦く