論理的とは何かに関する私見
論理とは何かというのは難しい問題である
現代の諸学問に通底しているはずの本質的な概念なはずなのに、意外とその定義は茫漠としていて掴めない
多くの人は、論理とは何かという尺度を持たないから、上辺の文章表現や数字、ソース、などがしっかりしていれば論理的だと錯覚しやすい
あるいは感情より論理、というような話題においては、相手を尊重するのは感情で、相手を傷付けることが論理だというところまで貶められる
ここで私の私見を述べよう
まず論理的かどうかに口調や表現や数字やソースはなにも関係が無い
感情の対としての論理という見方もセンスが無い
俺にとっての論理とは、「ある事実から別の事実を正しく導く力」である
例えば1+1という情報がある
これに対してその答えは2であるという別の情報を正しく導く、これが論理だろう
つまり、論理という具体的なメソッドがあるというよりも本質的に重要なのは答えが正しいかどうかという点だろう
方法論と言うよりも、実際のところは姿勢、能力と言ったどちらかと言うと抽象的な概念として捉えるべきだと思う
正しい答えを導くことができる途中式は論理的であり、間違った答えを導く途中式は論理的では無いと言っても良い
要するに、結果論である
一見論理的であるように見えて、実は非論理的な情報というのは多い
例えばデータを提示する、ソースを提示する、などだ
しかしそれは「1+1」と示しているだけに過ぎない
その上で「1は良いと思う」「真ん中の+が嫌いだ」みたいな単なるオピニオンが続いていたら、それは全く論理的では無い
算数の解答用紙で、個人的な数字や記号に対する好き嫌いを述べられているだけであれば、独創的でユーモアがあるとは思うが、論理的だとは判断されないはずだ
しかし、ブログの記事や情報発信においては、意外とここの区別がつきづらいのでは無いか?
専門用語や統計データ、読むのが面倒な記事の引用が貼り付けられていて、その人独自の差分はその人の勝手な意見だけ、という事もある
要するに(似た例えをもう一度出すことになるが)、古典的な論理の1つである三段論法で言えば、
A=B
B=C
に対して、
A=C
と答えるのが論理なのに、Aが好きだとかBが嫌いだとか、Cはこうあるべきだとか、イコールが気に食わないだとか
そういうことはもう論理では無いのだ
新しい事実が生産されていないだろう
それは非論理的である
難しい事と簡単な事、それらとも論理は無関係だ
事実に対する、あるいは正しさに対するナイーブなまでの尊重姿勢
それこそが論理的である事の最たる性質である