多様性社会の基本思考
何でも良いっちゃ良い
好印象と悪印象のバランスをとる
自分の状況についてよく観察すること
善悪良悪を決めるのは何故だろうか。私は群れに所属するからだと考えている。群れは最低限の共通項がなければ成り立たないからだ。個人の好みは群れに害を為さないことが前提で許されているし、群れに理解できないことは説明する責任を負う。その前提を破るなら、責任を果たさないのなら追放される。
いじめっ子に対しても言える。先生にバレないように、周りの罪悪感を刺激しない納得のいく範疇でなければ標的は切り替わる。いじめの標的になる原因は群れの中の個人が気に入らない場合と群れの掟を破った場合がある。前者は群れから実質的に追放されている状態なので掟無視で抗える。しかし後者は掟を破ったという因果関係があるため抗うのは至難の業だ。いじめが過ぎると後者に当てはまる。
暴力もそうだ。「手を出したら負け」と如何なる理由があっても暴力を振るえば自動車事故のように自分(自動車)側が悪く扱われる。だからと言って100%暴力を捨て去るのは大学にまで進学しなければかなり難しいだろう。どんな時でも暴力を振るわず自分の身も心も守れる人生を送れる人は一握りだ。時には命を守るために暴力を振るわなければならないときが来るだろうし、いじめに関連して言えば「暴力を振るえそうで振るわれたらかなり痛そうだ」という印象があるだけでも標的にされる機会は減る。
世の中どんな人がいても良い。その代わり自分の行いによって周りからラベルを付けられることを否定してはいけない。ネットで学校の愚痴ばかり呟いていれば社会不適合者だと思われ、人前で騒げばうるさい奴と認定される。
あなたがうるさい奴だとラベリングされたとき、騒がしく奔放にあることが程度許容される。その上であなたは何のためにやかましくするのか?悪印象を相殺するために何を頑張るのか?この程度は考えて欲しい。やりっぱなしは基本孤立するし、周囲の状況把握や人間観察を怠ると恨まれて足を引っ張られる可能性が高い。
みんなから認められる人気者にはSNSがある今では夢物語だ。それでも観察と省察ができるようになれば最低限"憎めない奴"くらいは目指せるだろう。一番星に憧れない二番星の生き方を見せつけてやろうではないか!
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