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結晶性社会の発現

多人数高速対戦ゲーム&スポーツにハマってみよう
反復して洗練させた動作は己に余裕を生む
目の前のことを繰り返しこなすと余裕ができる
余裕を作って周りの様子を見てみよう

私たちは自分がやること、他人にやらせることについて抽象化をできているだろうか。もし、そうでなければ「盲目的にやっている」こと他ならない。

小学生から塾に通って高偏差値大学に入った人が入社して軽んじられ心を病んでしまう。最近では就職すらせず高学歴ニートをしたりパッとしないYoutuberになって大学名を振り翳し社会人としての時を止める。そのような人たちを「勉強できるだけのバカ」などと揶揄する低学歴という構図はこの社会に馴染み深いだろう。

しかし、高偏差値大学所属者と関わってみれば勉強だけでなくスポーツやゲーム、芸術も人並みに(時には人並み以上に)できることがわかる。直接関わらなくてもSNSでそうした実態を垣間見ながら努力をしなければいけない今の若者と子作りを考える夫妻は辛いだろう。

たまたま向き合ったものが机にある書籍かディスプレイに映るキャラクターかで人生の難易度が跳ね上がるのも理不尽に思える。まるで私たちの興味ですら社会に強いられているようだ。

勉強、スポーツ、ゲームという括りはそれぞれ別物に見えて複数できると才能の差があるように感じる。しかしこれらの多くはほとんど1つや2つのものと向き合うことを続けているに過ぎない。大学受験までの評価ポイントは「タイマン性能」であると抽象化できる。また、勉強ができるタイプの頭の良い人を「結晶性知能が強い人」と呼ぶ場合がある。自分と本、ペン、楽器、相手など1、2つと向き合うことが得意であれば良い。

対して個人の領分に明確な境界のないチームプレイではどうだろうか。エースの裏にはそれ以外の人たちが繋いだ貢献がある。周りを見れる人というのは自分のリソースの分配を意識するので華にはなりにくいが、そうして敵集団に対してみんなでみんなの余裕を稼いでいく姿勢は世間の小集団様式にも好まれる。部活強者がクラスでも人気なのは視覚的な要素だけでないのだ。

個人の偏りかもしれないが、高学歴で楽器も得意な人の話で「合奏もしている」という話をあまり聞かない。なので楽器を趣味にして人と関わりを持つなら人と合わせて演奏しなければならないということを覚悟しよう。

自分に余裕を持つと外から感じる余裕が生まれる。外のものを感じる余裕がなければ社会と関わっていけないので必要なことだ。未来を案じて不安に思うときこそ「目の前のことをひとつひとつこなせ」と言われるのは感じる余裕を生み出すのと同時に今自分が外から感じることができるのか確認する意味合いもあるだろう。

高学歴を目指す人や高学歴な人ほど周りに気をつけなければならない。生き方が自分に全てを費やしているタイプが多いからだ。これは人の営みとは反する姿勢なのはもうわかるだろう。そしてこの手の人たちも家族の人間的な営みの上で生活している。日常生活で服や洗い物をまとめて処理するのは自分の生活に自分以外の何かを挟むためだ。自分に余裕を持つことで他者が入って来れる。幼い頃から生理現象に近しいものほど多少の危険(大人の様式トイレを台を使って小さな子どもが使うこと)や手間をかけても反復するのは動作に慣れさせ少ないリソースで自分のことをこなすためだ。

どんな人も最初は自分に余裕がない。自分の生活に慣れてきたら自分の近い人や接する機会が多い人の様子を見てみよう。このときいきなり聞き出すようなことはしてはならない。話を続ける自信があるなら構わないが。人の様子の見方を書くにはこの投稿が長くなり過ぎているので、後日別の記事に書くとしよう。


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