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英語と歩んできた人生...For Lifelong English(2)


表紙写真  筆者が搭乗したSan Francisco行きJAL機 (1978年3月下旬)



はじめに

「英語と歩んできた人生...For Lifelong English」()の続き(2)です。こんなに英語・英文学を勉強しても英語が聞けない、話せない、これでは話にならない!アメリカ留学しようと思い立ちました。

1967年修士2年の秋、アメリカ文化センターでフルブライト奨学金の2次試験面接を受けたのですが、ネイティブ面接官の言っていることがさっぱり聞き取れず失敗。同席した日本人面接官が見るに見かねて日本語で「~と聞いているんだよ!」と怒鳴る始末。かつてフルブライト奨学金に合格して渡米し、帰国後どこかの大学で職を得て教えていた若手教員でしょう。うらやましい限りです。その横ではフルブライト委員会事務局の帰国子女風の女性が呆れ顔で筆者を見つめていました。情けなくもショックでした。仕方ありません。

それで当時としては珍しい私費留学に切り替えました。どこかに入り込んで1、2年勉強し、帰国してまた博士課程に進もうと軽く考え、幾つかの大学院に出願してみました。しかし全て門前払い、アメリカを舐めていました。大、大ショックです。

アメリカ留学時代、英語の本場で修行、日々が英語習得の場

当時は英文学と言えばイギリス、アメリカなどは問題外、帰ってきても教職につけないとの根拠が無い噂があり、アメリカの大学院なら簡単に入れるだろうと見くびっていたのです。仕方なくLouisiana State Universityキャンパスで行われていた外国留学生向けのEnglish Orientation Programに参加することになりF1-visa(学生ビザ)で渡米しました。1968年3月末、筆者24才の時です。アメリカの地を踏むやいなや、簡単なリスニング、スピーキング、リーディング、ライティング全てお手上げ、日常生活もままならない現実を突きつけられました。こんなことで大学院、それも英語・英文学の精鋭が集まる英文学科で通用する訳がありません。門前払いされたことに即座に納得です。

1978年3月下旬両親と(今生の)別れを交わし搭乗機に向かう筆者

1978年3月下旬両親と(あたかも今生の)別れを交わし搭乗機に向かう筆者筆者に2つの道が残されました。早々に切り上げて帰国するか、何年掛かかろうが英語・英文学で博士号を取るまで留まるかのどちらかです。英語好きの筆者には英語に精進する以外の道は考えられません。剣の道を極めようとした浪人を思い描きながら本場アメリカで英語を研鑽しようと決めました。

ネイティブ大学院生に負けない英語力を

ネイティブ大学院生に負けない英語力が付くまでできるだけ長く滞在しようと考え、研鑽の道は968年から1978年まで10年の長きに亙りました。Kentucky(1カ月)→ Baton Rouge (4カ月)→Santa Barbara(8ヶ月)→San Francisco Bay Area(3年)→Honolulu(1年)→Washington, D.C.(5年)、アメリカ各地を西に東に転々としながら英語力を磨き念願の英語分析で言語学博士号(Ph.D.)を取得することができました。

ある時はキャフェテリア、ある時は老人ホームで働き、最終的には日本語講師をしながら様々な人々と交流し生計を立てました。日常生活そのものが生きた英語の授業でした。しかもお金がもらえるのですからこんなにありがたいことはありません。

アメリカの授業はプロジェクト発信型


授業は言わずもがなです。アメリカの大学、特に大学院の授業は講義を聴いて覚える知識伝授型は皆無で、全てプロジェクト発信型(project-based)でした。とにかく日本の大学と大学院の英文科の授業とは大違いでした。

例えば、英文学史(大学院英文科入学試験の主要科目)では、A Short History of English Literature(1950. Ifor Evans. Pelican)の邦訳版テキストの講義を聞き作品タイトルと作者の名前をひたすら丸暗記するだけ、そこに挙げられている作品を読むことはありませでした。

かたやアメリカの大学の英文科ではThe Norton Anthology of English Literatureをはじめここの作品をテキストに主要作品のほぼ全てを読ませます。週2日のセメスター制では各クラス2日で1作品のペースで読み、授業では先生を交えてdiscussionします。セメスター中にmid-term paper とfinal paperを提出し、mid-term examination とfinal examinationを受けます。先生はいずれも必ず厳しいコメントを付けて返却します。セメスターで平均4コマの授業を受けるので、卒業までにほぼ全作品を読み終え、自ずと頭に入るのです。

ですから日本の英文学史に該当する授業など必要ありませんでした。大学院では批評(critique)が多くなります。筆者などは高度の討論についていくのがやっとでしたが、アメリカ人学生は慣れたもので粛々とこなすのです。

アメリカ人の日常生活がプロジェクトそのもの、知ったかぶりは禁物

しばらくするとアメリカ人の日常生活そのものがプロジェクトの連鎖であることが分かりました。小さい頃から目標を立ててトライアル・エラーしながら達成することに慣れているのです。小学生は夏休みにsummer projectをしていました。各自テーマを探し、図書館で百科事典を読んだり、フィールドワークしたり、インタビューをしながら進めていました。

California State University, Hayward(現East Bay)で日本語を教えていた時、受講者の内の日系3世の多くは、「1世のおじいちゃん、おばあちゃんと日本語で話したい、日本に行って親戚に会って自分のルーツを探りたい」という切実な目標を立てていました。まさにプロジェクトです。そのプロジェクトに応えるべく話せるようにしてあげなければ筆者の授業評価は下がります。筆者にとってのプロジェクトは、彼らの要望に応えられるシラバス、教材、教授法を整えて実践することでした。おおむね好評でした。お陰様で初級だけではなく、中級、上級クラスまで設置できるようになりました。

筆者のキャンパス外の生活もプロジェクト発信型に変わっていきました。どんなことでも人任せは絶対ダメ、しっかり目標を立て計画的に実行するという自主性を身につけないと生きていけません。知ったかぶりは禁物です。

ご存知のようにカリフォルニアでは車が必需品です。お金がないから中古車を買わなければなりません。まさにプロジェクトです。よくよく調べないとポンコツを買わされ酷い目に合います。中古車ディーラーに行く前に人に聞いたり自動車雑誌を読んだりして情報を集め、根掘り、葉掘りの質問をしながら値段交渉をします。相手はできるだけ高く、こちらはできるだけ安くしようと必死です。成果は明白です。予算内で良い車を手に入れればプロジェクトは成功、そうでなければ失敗です。他の事でも同じです。学校でも家でも日々プロジェクトの連続でした。2年もすると英語発信力が抜群に伸びたのを感じました。最初の4年間はCalifornia州で資金稼ぎに費やしましたが決して無駄ではありませんでした。プロジェクトのノウハウをしっかり掴みましたから。

留学5年目で貯めた資金で英語教授法、言語学(英語分析)挑戦

その後University of Hawaiiで英文学から英語教授法(現在は応用言語学)に変えて1年で修士号(Cal State Universityでの取得単位を認定された為)を取り、Georgetown Universityでは言語学に変えて英語分析で博士号(Ph.D.)を取れたのもそのノウハウが活きたからです。University of Hawaii のTESL修士課程は、英語教員養成プログラムとしては最適でしたが、教材・教授法開発のテクニックが中心でした。単刀直入に言えば実(practicum)は得られものの学(research)としては不足で、これではアメリカ伝統のプラグマティズム(pragmatism)には近づけないと考えました。それで当時は言語学理論を社会言語学、言語心理学、外国語教育、テクノロジーに応用するという意味での応用言語学(applied linguistics)で有名なGeorgetown Universityに進んだのです。予想した通り大正解でした。

筆者の留学体験、Noteマガジン『アメリカ留学1968~1978を振り返って:恩師の方々』に詳細が

詳細につきましては、筆者のNoteマガジン『アメリカ留学1968~1978を振り返って:恩師の方々』をご覧ください。本マガジンで掲載していた「アメリカ留学を振り返って:Memorable Teachers」シリーズの(1)ー(10)の10編は、留学生活を1年ごとに分けて掲載したもので、現在それぞれを更に小分けし再編集したものを逐次アップロードしております。

LSUでの数少ない日本人と真ん中筆者(1968年4月)
仕事を終えてマックで昼食(1969年)
カリフォルニア、ハワイ、ワシントンD.C.出会った友達たち

)に続く








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