永井荷風『あめりか物語』感想(その4)...2話「牧場の道」の足跡を追う
はじめに
『あめりか物語』1話目「船房夜話」はシアトルに向けた航海中の信濃丸の一等か二等船室での永井ら3人のアメリカ留学、視察、そして「遊学」組の一や夜の雑談会です。2話目「牧場の道」はワシントン州シアトルに上陸し、そこから海岸沿いを32 miles (51 km) 南西に下ったタコマTacomaでの話です。明治37年(1904年)1月とあり、1話が明治36年(1903年)11月記とあります。察するに、同年10月にシアトルに着きそのままタコマに南下し、しばらく滞在し、11月に1話目を書いたのでしょう。2話「牧場の道」はタコマに着いた直後の「10月最終の土曜日」での出来事につき翌年1月に書き留めたのものと思われます。題名から牧歌的な印象を受けますが、ある日本人移民が見舞われた悲劇を自然主義的タッチで描写しています。
1903年10月末ワシントン州タコマ、永井と「或る友」の自転車ツアーを追う
自転車ツアー
タコマは11月から5月までの半年日を見ぬ陰鬱な毎日霧と雨が続くとあり、本話は1月に書いているのでその真っ只中に居てさぞかし気がめいていたことでしょう。そうなる直前の「10月最終の土曜日」は見納めの晴天で
この地に詳しい「或る友」と自転車で1日平原(プレアリー)を散策することになりました。この「或る友」とはおそらく日本人であると思われますが明記されていません。
以下は永井とその友が自転車で走った1900年初頭のタコマ市中心です。
自転車に乗ってとありますが俄かに想像できません。当時はまだ自動車の黎明期、Henry Fordが量産し始めたのは永井が渡米する2年前の1901年のことまだ普及していませんでした。よって上記のタコマ市の写真と絵には路面電車が走っていますが自動車は見当たりません。多分都市部では道路が舗装され、馬に代わる有効な移動手段として自転車がかなり徴用されていたものと思われます。
永井は面長で背が高くその自転車姿はさぞかし様になっていたことでしょう。
タコマ市の地形
「タコマの市街はピューゼットサウンドという出入りの激しい内海に臨んで」とあるように、現在の上空写真を見ると、タコマとシアトルは氷河により形成された入り組んだ小湾の続くPuget Sound と呼ばれる海岸線で繋がっているのが見て取れます。
彼方に北米の「タコマ富士」レニャー山が
「無数の屋根と煙突、広い埋め立て地、波止場、幾艘もの停泊船、北太平洋会社の鉄道ーー全市街は唯の人目に見下ろされて了う。…そして入り江を隔てた連山の上には日本人がタコマ富士と呼ぶレニャー山が雪を頂き毅然として聳え…」とあり、次の写真にある辺りからの風景を描写したものでしょう。
この写真を見るとレニャー山と麓に広がる入り江を見て、当時の日本人は郷愁の思いに駆られたことでしょう。なんとなら旧清水市日本平や、田子の浦港から見た富士山の景色そっくりですから。
小村南タコマ、孤村スチルカム
そして、「特別に造られた自転車道を4哩(6.4キロ)ばかり」の南タコマSouthTacoma と呼ぶ村落を通りすぎると、…林間の湖水アメリカンレイクの畔に休み、更に転じてスチルカムSteilacoomと呼ぶ海岸の孤村を訪うたのである。」とあります。当時の自転車に乗って野超え山越え、Google Mapを見てその距離を目算すると25キロから30キロ程度の道のりです。
タコマ市、その周辺は当時の大陸横断鉄道と太平洋海運の要所
前段で言い忘れましたが、そもそも何故永井はタコマ市に滞在したのでしょうか。タコマ市は1860年代に中西部ミネソタ州と太平洋北西部を結ぶノースウエスト鉄道 the Northern Pacific Railroad の終着駅となりました。水深が深いタコマ港を抱くコメンスメント・ベイ Commencement Bayに面していたことから誘致に成功したようです。タコマ市は「鉄道が船と出会う時」"When rails meet sails"をモットーに、北米大陸と太平洋を結ぶ要所として栄えていきます。タコマ滞在後の永井はタコマからこの鉄道に乗り移動したものと思われます。移動前の数か月をここタコマ市で過ごしたのでしょう。到着した2週間後の10月末、この町と周辺を自転車で散策したようです。
「ワシントン州の州立癲狂院」
スチルカムの小村を散策し終えると、友は
「帰り道にこの山の上の癲狂院(てんきょういん)を案内しよう。ワシントン州の州立癲狂院(Washington State Asylam)だから、この辺では一寸有名だよ。」
と言います。彼の後について丘を上ると、明るい牧場を望み、その前にやや陰気な林があり、その背後に広壮なそれらしきレンガ造りの建物がありました。
「白いペンキ塗りの低い垣根で境された広い構内は人の歩む道だけ残して、一面に青々とした芝生が其の上に植えられた枝の細かい樹木や色々な草花と相対して目も覚めるばかり鮮やかな色彩をしている。裏手の方には宏大な硝子張りの温室の屋根が見え、小径の所々にはベンチ、広場の木陰には腰掛付きのブランコなぞも出来て居たが、見渡す限り森閑として人の気色も無い。私等は鉄の門前を過ぎ一条の砂道をばゆるゆると自転車を進ませ、もと来た牧場の方へと下りて行った。」
インターネットで調べてみるとこのワシントン州の州立癲狂院(Washington State Asylam)とはWestern State Hospitalのことで、History of Western State Hospitalには、1849年から1868年までスチルカム城塞所属の軍の駐屯所であったものを当時のアメリカ領ワシントン(ワシントン州の前身)が譲り受けて精神病アサイラムに転じたようです。当時の呼び名はワシントン領癲狂院(The Insane Asylum of Washington Territory)でしたが、その後1892年にワシントン州が正式認定に伴い呼び名をWestern State Hospitalに変えたとあります。しかし1903年になっても永井の「或る友」が言及する旧呼称で呼ばれていたのでしょう。
日本人の出稼ぎ労働者が「州立癲狂院」に収容されて
そして友は
「このアサイラムには日本人もニ三人収容されて居るよ。」
と何事もないように言い、
「皆な出稼ぎ労働者さ。」
と続けます。永井にとっては聞捨てならぬ大事件です。(*1)
(その5)に続きます。
(*1)ワシントン州の隣のオレゴン州にはWashington State Hospital と同じ機能を持つOregon State Mental Hospitalがあります。名画”One Flew Over the Cuckoo's Nest"『カッコーの素のもとで』(1975)の舞台と言われています。朝鮮戦争中この病院に精神病と偽って収容された軍人の話です。