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アメリカ留学を振り返って-思い出の恩師たちMemorable Teachers (3-1):California State University at Hayward (現East Bay)4/1969~3/1972

表紙写真 1970年頃建設中のCalifornia State University at Hayward

はじめに

拙稿「アメリカ留学を振り返って-Memorable Teachers 」はシリーズとして筆者の1968年から1978年での10年を1年ずつ(1)~(10)に分け掲載しました。しかしながらそれぞれ12,000字以上と長いので、これらをフルバージョンと銘打って残し、新たにそれぞれを幾つかに割けて加筆・修正を加えた分割バージョンをお届けします。すでに,(1-1)(1-2(1ー3), (2-1)(2-2)(2-3)は掲載済みです。今回から次の3回(3-1)(3-2)(3-3)を掲載します。1969年4月から1972年3月までのCalifornia State University at Haywardでの思い出です。


Greyhoundバスで北上Haywardに着く

1969年3月下旬のある日の早朝、Santa BarbaraでGreyhoundに乗りHighway101を北上しました。(*1)


California’s Route 101 – Power Tasting – The Wine Tasting Experienceより

Santa Maria、San Luis Obispo、John SteinbeckのThe Grapes of Wrath(『怒りの葡萄』)の舞台Salinas、San Joseなどを通り、夜遅くHayward のダウンタウンに着きました。安宿に入るや、シャワーを浴び、ゆっくり休みました。(*2)

1960年代 Downtown Hayward

Cal State HaywardのHousing Officeで下宿を探す

翌朝、通りを行き交う車の騒音で目覚め、そそくさと準備を済ませて宿を後にしました。その日のミッションはただ一つ、住む場所を確保し落ち着くことです。重いスーツケースを抱えてバスに乗り、小高い丘に広がるCalifornia State College at Hayward(略称Cal State Hayward)(*3)のキャンパスに向かいました。

小高い丘にポツンと Cal State Hayward(1960年代)


Cal State Hayward (1960年代後半)

Housing Officeを訪れ、Castro Valley市(*4)にある学生用の下宿(boarding houses)を紹介されました。早速電話して訪ねると、テキパキした60代の女性オーナーが空き部屋を見せてくれました。別室にはイラン人の留学生が1人いるとのこと。プール・テーブル付きの共有空間もあり、部屋代も安く即決しました。

イラン人留学生は筆者と同年輩、Cal State Hayward でbusiness を専攻し、レストランでコックをしながら学費・生活費を稼いでいました。愛称はMack。Chevrolet Camaroのconvertibleを所有し、時間が合う日にはCal State Haywardまで乗せてくれ、資金が底を尽きつつあった筆者としては大いに助かりました。

この後3年続くことになるCal State Hayward在籍中、Mackやboarding houseのオーナーをはじめ大勢の老若男女に出会い、助けられ、また、色々なことを教えられました。筆者にとっては別の意味での”memorable teachers”です。社会情勢が荒れていく中、アメリカでの生活を健全に享受する術を教えてくれました。”Memorable Teachers(4-1~3)”では、その内の何人かを紹介します。本稿では、Cal State Haywardで出会った先生方を紹介します。

Cal State Haywardで出会った素晴らしい先生たち

当時のCal State Haywardはquarter制を採り、4月1週目にSpring Quarterが始まりました。UCSBのように、ここでも、留学生用EFLコースが設置されており、 TOEFL®テストとEFL担当者との面談を受け、授業についていける英語力の有無が診断されました。筆者はその能力ありと判断されました。TOEFL テストが600点を超えていたからでしょう。筆者はEnglish master’s programに、M.A.の取得を目標としない”non-objective student”として受け入れられました。同一専攻で同一学位を取れないという州の規約があり、筆者は、既に日本で英文学の修士号を持っており、EnglishでM.A.を取り直すことはできないということでした。

勿論、それは表向き、日本で取得した英文学の修士号は認めない、かといってM.A.の取り直しは制度に反する、という特殊な事情を打破するために取られた苦肉の策であったということでしょう。(*5)また、当時California State College Systemの全部で19キャンパスでは、種々のmaster’s programsが設置されていたものの、Ph.D. programsは設置されていませんでしたから、Ph.D. programの”non-objective student”はありえません。(*6)筆者は、English master’s programの単位として認められる学部upper divisionの授業とmasterの授業を取ることになりました。名目はともかく、外国人留学生の授業料が1 quarterで$50という破格の安さ、(*7)当時の筆者にはこれしか選択肢はなかったのです。

かくして、ここから1972年Winter Quarterまでの約3年間は、英語・英米文学でPh.D.に要するacademic English skillsをしっかり身につけるべく、Cal State Haywardでの武者修行が続くのです。LSUのEnglish Orientation ProgramとUCSBの英文学の授業の時に劣らず、筆者はここでもwritingにこだわり、担当の先生のコメントを求めてしつこいくらい足を運びました。そんな筆者に根気よく答えてくれたのが、Shakespeare専門のStaniforth先生、古代神話専門のRumburg先生、(*8)そして、世界的に著名なフィリピン人作家N.V.M. Gonzalez先生でした。

他にも、当時のCal State HaywardのEnglish programsには非常に優秀な若手が居ました。25才という若さでUniversity of California, Berkeley(UCB)でPh.D.を取得し、助教授で赴任したばかりの女性がいました。Blondでblue-eyed、映画女優を思わせるように容姿端麗、Jane Austenの作品を取り上げ、研ぎ澄まされた感性で作品を分析していたのが印象的です。



Jane Austen 全集

また、大学1、2年生を対象にした導入的な授業には、UCBやStanfordの大学院に通う多くのteaching assistants(TA)が居ました。筆者はEFLの授業を受けなくてよいことになりましたが、その代わりにこれら導入的な授業も受ける許可をもらい、intensive reading, essay writing, discussionなどのskillsを磨く事にしたのです。The Norton Anthology of English Literature Volume 1 and Volume 2(*9)(1968, W.W. Norton and Company)をテキストに、毎週1回は大教室で教授陣がオムニバスで担当するlectureを受け、残りの2回は、これら TAによる小グループのdiscussion sessionがありました。TAの中には詩人もおり、1970年ベトナム戦争がカンボジアにまで拡大し(*10)、アメリカ各地の大学で学生によるストライキが起きた時には、演説の代わりに自作の詩を披露していました。創作意欲が高い新進気鋭の集団でした。(*11)


The Norton Anthology of English Literature Volume 2

Quarter制度は忙しく、1日で授業登録を済ませると、すぐに授業が開始しました。Mackの赤いCamaroに乗り小高い丘の上にあるCal State Haywardのキャンパスに行く日々が続きました。設立して約10年足らずのキャンパスには、教室棟、小さな図書館、キャフェテリア、事務棟が点在するのみで、ほぼ全学生が自宅から通うcommuter schoolであった為に周辺には広い駐車場が整備されていました。UCSBのようなcampus townは無く殺風景で、筆者は授業が終わると夕方6時ごろまで図書館で勉強し、バスを乗り継いで帰宅しました。(*12)

「アメリカ留学を振り返って-Memorable Teachers(3-2) :California State University at Haywardに続く


(*1)アメリカでは”highway”は一般公道で、高速道路ではありません。高速道路は”freeway”と言います。多分、信号が無いのでそう言うのでしょう。車社会アメリカのfreewaysは一部を除いて無料です。
(*2)”Downtown Hayward 1960s
(*3)その後California State University, Haywardに変更し、現在は、California State University, East Bay. “California State University, East Bay“当時California State CollegeはCalifornia州全域に19キャンパスありました。現在の California State University Systemについては、”The California State University” でチェックできます。University of California Systemとは違います。”The UC System“をチェックしてください。
(*4)”Castro Valley“閑静な住宅街でした。
(*5)アメリカは情報社会です。今も昔も変わりません。各大学は留学生の国別や出身大学別の成績データの記録を持ち、それに基づいて外国の主要大学のランク付けをしています。一説ではA~Fで評価すると聞きました。1970年代に日本から多くの留学生が全米各地の大学に行き、各分野で良い成績を残しました。そうした背景から日本の主要大学のランキングも上がり、1980年代にはどの分野でも日本人留学生を積極的に受け入れるようになったと考えられます。
(*6)現在では、全部で23キャンパスあり、幾つかのキャンパスに限りdoctorate programsがあります。”Search CSU Degrees, The California State University
(*7)現在はCalifornia州の財政は逼迫しており、”Campus Costs of Attendance”を見ると、1単位$396です。それでも、master’s programなら修了まで48単位を取る事になっており、約$19,000で、2年で修了するとしたら、各年24単位、約$8,500という計算になります。日本の私立大学の大学院の授業料とほぼ同程度です。
(*8)Rumburg先生はその後姓をKrafchickに変更しました。
(*9)The Norton Anthology of English Literatureアメリカの大学で英文学専攻を考えている読者は是非読んでください。
(*10)”The Vietnam War, The Invasion of Cambodia
(*11)当時のSan Francisco Bay Areaは、学生運動の中心地で、BerkeleyのUCBには活動家が集まりました。当時の州知事の(後の大統領)Ronald Reagan氏は、UCBからそうした学生を追い出すためにUC全キャンパスの授業料を上げ、追い出された優秀な学生はCal State Haywardなどに移籍したと聞いています。これらTAの多くは元UCB大学院生であった可能性が高いです。
(*12)アメリカのバスは市営バスが多く、市内なら何度乗り換えても料金は同じでした。乗るときに料金を払い乗換券(transfer)を貰います。これは日本でも採用すべきです。路線を変えるたびに払っていたら大変な金額になり、その分、人は車に頼ってしまったり、車がない人は出不精になったりしてしまいます。ちなみに乗換券は一日有効です。

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鈴木佑治
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