抜群の英語コミュニケーション力、ニューオリンズ・ラスカルズ のバンジョー 、ボーカル担当 川合純一氏(その1)
本稿はTOEFL Web MagazineのコラムFor Lifelong Englishに2009年に掲載した記事です。
For Lifelong Englishは、当初、以下の趣旨を掲げ、
「様々な世代の人々が様々な場で、生涯を通して何らかの形で英語にかか わって仕事をしています。英語は人それぞれ、その場その場で違いま す。このシリーズでは、英語を使って活躍する方にお話を聞き、その人 の生活にどう英語が根付いているかを皆さんにご紹介し、英語の魅力、 生涯にわたる楽しさをお伝えしていきます。英語はこんなに楽しいも の、英語は一生つきあえるもの。ぜひ英語を好きになってください。」
英語に関わっている方々をインタビューによる紹介記事という形を取っていました。その流れで大阪で活躍されているニューオリンズ・ラスカルズでバンジョー、ボーカル担当の川合純一氏をインタビューすることのなりました。
筆者はこのインタビューをした当時、立命館大学びわこくさつキャンパス生命科学部・薬学部にて「プロジェクト発信型英語プログラム」を導入したばかり、65歳を過ぎてからの単身赴任で息抜きも必要と思い、大阪梅田近くのライブハウスNew Suntry 5に好きなジャズを聴きました。お目当てはニューオリンズ・ラスカルズです。
バンドリーダーは河合良一氏です。とても残念なことには、最近ご逝去されたとの訃報に接しました。ご冥福をお祈りします。河合氏はとても気さくな方でステージの合間に観客とよくお話をしてくれました。バンドはニューオリンズ・トラディショナル・ジャズ界で国際的に活躍をされており、河合氏に本コラムの上記趣旨を説明したところ即座にバンジョー奏者の川合氏を紹介してくださいました。
川合氏とのインタビューの模様は(その2)と(その3)と(その4)の3度に分けて報告します。本稿(その1)では、ニューオリンズ・トラディショナル・ジャズ、ラスカルズのメンバーが生涯憧れ続けてきたGeorge Lewis、グループの結成に至った背景と演奏活動を紹介します。
2010年2月号ではジャズ・ミュージシャン の川合純一氏に登場していただきます。川合氏は現在大阪在住で、ニューオリン ズ・ラスカルズ(New Orleans Rascals)のバンジョー奏者です。ニューオリ ンズ・ラスカルズは毎週土曜日にJR大阪駅、梅田駅にある老舗のライブハウス、 ニューサントリー5でライブを行っています。『男の隠れ家・別冊・ジャズを巡 る旅』(あいであらいふ2008年2月25日発行p.76〜80)に掲載されている「大 阪・大正末期から脈々と受け継がれたニューオリンズ・ジャズの精神がキタの街 を熱くたぎらせる」と題する記事で、SF作家の堀晃氏はご自身が⻑年聞き続けて きたニューオリンズ・ラスカルズを紹介しています。ラスカルズは1961年に早 稲田大学ジャズ研究会と関⻄学院大学軽音楽部の卒業生が集まり結成され、以来 48年間、ピアノ奏者以外は結成時メンバーのままで、毎週土曜日にニューサント リー5で37年にわたり演奏し続けています。バンドのリーダーでクラリネットの 河合良一氏、トランペットの志賀奎太郎氏、トロンボーンの福田恒⺠氏、ドラム の木村陽一氏、そして今回インタビューに応じてくださったバンジョーの川合純 一氏が結成当初からのオリジナルメンバーです。結成以降、ピアノの尾崎喜康 氏、 ベースの石田信雄氏が加わりました。
私自身、2008年4月に関⻄に赴任してから何度かラスカルズの演奏を聞きにニ ューサントリー5を訪れました。メンバーの平均年齢は60代後半ということです が、まったく年齢を感じさせず、磨き抜かれてパンチが効いた中身の濃い名演奏 を聞かせてくれます。演奏を聞くうちに大阪にいることを忘れ、ニューオリンズ のフレンチ・クォーターにあるニューオリンズ・ジャズの聖地プリザベーショ ン・ホール(Preservation Hall)にいるかのような幻想を抱かせます。リクエストに気軽に応えてくれると言うので、私は後で説明するジョージ・ルイス (George Lewis)とニューオリンズ・ストンパーズ(New Orleans Stompers)の十八番”Ice Cream”をリクエストしてみました。演奏が始まるや しばらくして川合純一氏がバンジョーを奏でる手を休め、”Ice cream, you scream, everybody screams for ice cream...”とソロでボーカルを入れまし た。英語といい歌声といい、あたかもニューオリンズ・ストンパーズのジョー・ ワトキンス(JoeWatkins)がそこにいるかのようでした。遠い昔にニューオリ ンズのアフリカ系アメリカ人が歌った曲が、2008年の大阪で日本人のジャズメ ンによって再現されるとは驚きです。ニューオリンズで途絶えたトラディショナ ル・ジャズの文化をここまで守り続けたラスカルズに興味を抱かざるをえませ ん。
堀氏によると、1923年(大正12年)の関東大震災で東京のジャズメンが大挙し て大阪の道頓堀周辺に移り住み、界隈のダンスホールやカフェからは毎夜ニュー オリンズ・ジャズ(デキシーランド・ジャズ)が流れて、たちまち日本一のジャ ズの街になったとのことです。ところが、1927年(昭和2年)に大阪市がダンス ホールやカフェを禁止すると、行き場を失ったジャズメンは大挙して東京に戻 り、大阪からジャズの火は消えかかりました。それでもその根は生き残り、大阪 を中心に関⻄では往時のニューオリンズ・ジャズを演奏するバンドは多く、毎年 10月に行われる神戶ジャズストリートでも参加するバンドの大部分がトラディシ ョナル・ジャズを演奏しています。ラスカルズはそういったバンドの頂点に立つ 存在であり、海外でもその名は知られ、本場ニューオリンズの名誉市⺠の称号を 受けています。そんなラスカルズを語る上でこの人無くして語れないというニュ ーオリンズ・ジャズの歴史に輝く伝説の巨匠がいます。それがクラリネット奏者 のジョージ・ルイスです。かの有名なルイ・アームストロング(Louis Armstrong 愛称:サッチモ)もニューオリンズで⻘年時代を過ごしましたが、 もしかするとジョージ・ルイスが参加した有名なキッド・オーリー(Kid Ory) のバンドやバンク・ジョンソン(Bunk Johnson)のバンドで一緒に演奏してい たかもしれません。ルイスは生涯ニューオリンズを離れることなく伝統を守りま したが、サッチモは犯罪に巻き込まれてニューオリンズを逃げるように脱出して ニューヨークに流れつき、1970年に生涯を閉じるまでそこに暮らして、ジャズ 史に残る輝かしい成功をおさめました。サッチモのトランペットとルイスのクラ リネットがコラボレーションしたらどんな音楽が生まれたでしょうか、ファンは ついそんな空想をしてしまいます。両巨匠ともこの世を去りましたが、世界中に 残した彼らの遺産は着実に受け継がれてきました。
ジョージ・ルイスは1963年に来日して、東京の厚生年金ホールなどで演奏し(In Tokyo 1963 [2004] - George Lewis & His New Orleans All Stars)そ の後大阪公演を行いましたが、結成間もないラスカルズのメンバーは、毎日のよ うに公演に詰めかけるうちにルイスの一行と交流するようになりました。ジャズ というと酒とタバコなどの退廃の臭いがしますが、それはステレオ・タイプした 見方でルイスには馴染みません。ジョージ・ルイスは1900年にニューオリンズ に生まれたアフリカ系アメリカ人で、敬虔なクリスチャンであり品行方正でとて もひかえめな人であったと言われています。彼の演奏する曲の中には”The Old Rugged Cross”や”Just Walk with Jesus”など賛美歌や黑人霊歌が多いのが特 徴です。清貧で演奏だけでは食べていけず、昼間は港湾労働者として10時間以上 の荷揚げ作業をして75セントほどの日銭を稼いで糊口をしのぎ、夜はフレンチ・ クォーターのニューオリンズ市が管轄するプリザベーション・ホールで観光客を 相手に演奏していたようです。体重は55キロほどしかなく痩せていておまけに喘 息持ちであったために、演奏の合間に突然発作に見舞われて倒れることもあり、 トロンボーン奏者のジム・ロビンソンが絶えず付き添って介抱していたとの話も あります。それでも毎夜毎夜欠かさずトラディショナル・ジャズを演奏し続けた (Keep playing)と言うことです。私は、亡父が1900年生まれでルイスとまっ たく同年齢であったこともあり、そんなルイスに明治生まれの父親と何か共通す るものを感じました。か弱そうなこの人がアルバート式のクラリネットを口にす るや、ソウルフルな音色で聴衆を魅了しその心をすっかり奪ってしまうのです。 圧巻はブルースです。悲痛の叫びのように高音が響いたかと思うと突如重い鉄の 鎖に繋がれて呻くような低音に変わり、まるでアフリカ系アメリカ人の苦しい奴隷時代の悲話を淡々と綴るかのようでした。いずれにせよ、戦後の閉塞感に苛ま れていた当時の日本の若者の心に共鳴するものがあったのでしょう。
かく言う私も例外ではありません。1962年の秋に道玄坂のスイングというジャ ズ喫茶に行き、はじめて耳にしたのが上述の1958年版Blue Note 1208 の”Concert: George Lewis and his New Orleans Stompers”でした。
目か ら鱗というのはこのことです。今まで聞いた事のないこのレコードの演奏に感激 しジョージ・ルイスの虜になってしまいました。前号でも述べた通り、私は1968 年に渡米しました。当時、行く当てもなくニューオリンズからバスで2時間足ら ずのバトン・ルージェにあるルイジアナ州立大学の英語コースを選び4ヶ月ほど 滞在しました。その理由は、ニューオリンズのプリザベーション・ホールでジョ ージ・ルイスの生演奏を聞きたかったからです。残念ながら1968年に彼は既に 病床に臥し、その秋に他界しましたので聞く機会を逸してしまいました。私の失 望は察していただけるかと思います。私はその年の秋にカリフォルニア州サンタ バーバラにてテレビのニュースでルイスの訃報を知りました。ニューオリンズか らの中継でレポーターが、「これが最後のトラディショナル・ニューオリンズ式 の葬式になるでしょう」と紹介していたのを今でも鮮明に覚えています。ジャズ メンらのマーチングバンドが、”Just Walk with Jesus”や”What a Friend We Have in Jesus”などの賛美歌をスローテンポでおごそかに演奏しながら葬儀の行 進は墓まで続きました。ルイスの遺体を埋葬し終えた帰りの行進は雰囲気をがら りと変え”You Rascal, You!(悪党もついにくたばった!)”などのアップテンポ で軽い楽曲でswingしながら行進し、「奴は天国に行ったのだからみんなで喜ん で祝おう」というメッセージを天国のルイスに贈っているかのようでした。これ がニューオリンズ・ジャズの原点と言えるものですが、ラスカルズ(Rascals) の名はこの曲から取ったのでしょう。
ニューオリンズ・ラスカルズは1963年以来ジョージ・ルイスと交友を持ち、彼 らは何度かアメリカの各地を回り好評を博しました。生前ルイスは彼らを我が息 子と呼び、特にクラリネット奏者でリーダーの河合良一氏はルイスの再来といわ れるほど彼の演奏方法を極めたミュージシャンで、生前ルイスが愛用したクラリ ネットは遺族の意思で河合氏のもとに贈られました。上述の1954年版のBlue Noteのレコードはスタジオで録音されたものではなく、カリフォルニア州のある 町のホールでのライブ演奏を、編集せずにそのまま収録したものです。アフリカ 系アメリカ人への激しい差別が残っていた時代ですから、白人クラリネット奏者 のベニ―・グッドマンのような素晴らしいスタジオでは収録できませんでした。 それに追い討ちを掛けるかのように、トラディショナル・ジャズの時代は終焉を 告げ、いわゆるモダンジャズに移っていた時期でした。ある心無い評論家 は“the-nothing-to-lose school of music”「失うものは何も無い音楽ジャン ル」などと見下した批評をしたようです。ルイス自身もこのコンサートの冒頭 で”After a year or so, you may not hear this music any more.(これから 皆さんが聞く我々の音楽は1、2年で消えるでしょう)”とサラッと述べてから演 奏を始めています。ところが”Ice Cream”を皮切りに”Red Wing”と演奏が続く と白人の聴衆は熱狂して総立ちになり歓声が鳴り止みません。レコーディングの 一部は歓声にもみ消されてしまい、その合間を割くようにルイスのクラリネット の高音が聞こえてきます。キリスト教でリバイバルというのがありますが、まさ にそれに似た現象がそのコンサート会場に起きていました。そのリバイバルの火 はたちまちイギリスに飛び、戦後の焼け野原が残るオランダやドイツに飛び火し て、やがて遠い極東の日本の若者たちに燃え移りました。そんな若者たちの筆頭 がラスカルズ結成メンバーであったに違いありません。
1963年にジョージ・ルイスは日本のファンに応えてやって来ました。世はビー トルズ旋風が吹き始めたころですが、東京の厚生年金ホールにはジョージ・ルイ スの音楽にほれ込み待ち焦がれていた人々で埋め尽くされました。NHKテレビで も放映されましたが、アメリカでは音響効果が悪い町の公会堂のような所でしか 演奏できなかった一行は、赤じゅうたんが敷かれ一流のステレオ版録音装置を備 えた厚生年金ホールで演奏できたことに感激したようです。ラスカルズはそうし た一行が大阪で公演を開始するやほぼ毎日のように足しげく通いました。その結果ついにジョージ・ルイスを彼らの練習場に招くことになり、ルイスの前で「御 前演奏」の機会が持てたのです。以来、ニューオリンズ市のプリザベーション・ ホールでルイスのバンドと演奏し、全米各地を回り演奏旅行して拍手喝采を浴び てきました。こうした輝かしい歴史と実績を持つラスカルズのバンジョー奏者の 川合純一氏も、ルイスのバンドに属していたバンジョー奏者ローレンス・マレロ (Lawrence Marrero)とエマニュエル・セイレス(Emanuel Sayless)らを 髣髴させる名奏者です。川合氏はまた、類まれなコミュニケーション能力をも ち、欧米のジャズメンと永きに亘り交流し、彼らの多くが川合氏の英語による話 術の虜になってしまうそうです。次回は音楽もさることながらことばでも魂をゆ する川合純一氏のお話を伺います。お楽しみに。
ジョージ・ルイスの演奏はYouTubeで触れることが出来ます。また、彼の生涯に ついてはDorothy Tait著”Call Him George”を読むとこの天才クラリネット奏者 が世界中の多くの人に感動を与えたことが書かれています。最近、小中セツ子氏 が翻訳し『伝説のクラリネット奏者、ジョージ・ルイス』(Soliton Corporation発行)も出版されました。ラスカルズについての詳細も含めて、 Original Dixieland Jazz ClubのWebサイトをご覧ください。これらのミュージ シャンがニューオリンズ・ジャズを通してどのように素晴らしい文化交流を続け てきたかよく分かり感動を与えてくれます。映画スターかつ監督のWoody Allenもジョージ=ルイスの大ファンの1人で彼自身もそれに影響されクラリネット奏者です(0:17 / 10:29Woody Allen and The Eddy Davis New Orleans Jazz Band Live at Carlyle Cafe 11.18.2012)。Woody Allen On George Lewisは、ジョージ=ルイス音楽と人生をとても素晴らしく集約しています。
ジョージ・ルイスが生きていたら、 ハリケーン・カタリーナの襲来で危機に立つ故郷ニューオリンズを憂えることで しょう。ルイスのオリジナル曲”Burgundy Street Blues”を奏でるラスカルズは その憂いを代弁するにふさわしいミュージシャン達です。元早稲田大学と元関⻄学院大学の学生であったメンバーが立ち上げて、50年近くも続くニューオリンズ・ジャズを 通しての文化交流は、教室のような狭い空間で生まれたものではありません。ラ スカルズが生まれ育ちトラディショナル・ジャズを愛し続けた大阪を中心とする 関⻄という土地柄、それが育んだ自由な創造力から生まれたものと思います。文 化交流とは何かを改めて考えさせられます。Lifelongであることは疑う余地はあ りません。ジョージ・ルイスは”Keep playing!(演奏し続けなさい)”というこ とばを若かりし頃のラスカルズに残したそうですが、Lifelongと通じるものがあ りそうです。
(その2)に川合純一氏とのインタビューの詳細を掲載します。お楽しみに!
ジョージ・ルイスについて「初期のジャズ」Webサイト
http://www.earlyjazz.jp/bio/lewis_george.html
プリザベーション・ホールのWebサイト(英語)
http://www.preservationhall.com/hall/index.aspx
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