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思い出のSanFranciscoの町並みと英語の変化(その1)...2008年夏



はじめに


本稿は2008年『TOEFLメールマガジン』のFor Lifelong Englishに掲載した
記事です。筆者は1968年ー1972年までカリフォルニア州に滞在し、大部分をSan Francisco Bay Areaで過ごしました。現在はScillicon Valleyで有名ですが、当時は映画「卒業」The Graduateの舞台となるなど自由な雰囲気が漂い若者文化の中心地でした。筆者にとっても青春の思い出が詰まった場所でその後も何度も行きましたが1995年の夏を最後に遠ざかっておりました。

当時アメリカではジャパン・バッシングが盛んで、特に、西部カリフォルニア州では酷く、車のバンパーにはBoycot Japanと書かれたステッカーが貼られたり排斥ムードが漂い、知り合いの日系家族の多くがワシントン州、オレゴン州、アリゾナ諸州などに引っ越しました。筆者の家族も何度かとても不愉快な思いをしたので、もっぱらそうした感情がマイルドな東部や南部に足を向けた時期です。

ようやく2008年の夏になって久しぶりに行ってみようと思うようになり、14年ぶりのSan Francisco Bay Areaを見るやその変貌に驚きました。リーマンショックの直前、カリフォルニア州は不動産バブル、州内に買う土地がなく他州に触手を伸ばすほど過熱していました。他方ではあちこちに差し押さえforeclosuresと銘打たれた売り出し中の建物が多かったこと!変だなと思ったらその後リーマンショックでガラガラポン。と思いきや、あれから16年、現在のSan Francisco Bay Areaは、Scillicon Valleyなどを抱えてまたもや住宅が不足し、全米一、否、世界一不動産が高騰し射場生活者やホームレスが増加するなどその弊害が出始めています。

以下、2008年夏筆者が見たSan Francisco Bay Areaの思い出を(その1)(その2)の2回に分けてお届けします。



Fremont市に住む友人家族を訪ねて


今回は2008年度の締めくくりとして、私がこの夏San Franciscoを訪れた際に思い当たったことを述べさせていただきま す。 今年の夏、久しぶりにアメリカの西海岸に行く機会があり、San Francisco湾岸のFremontという町に住む親友夫婦を訪ね2週間ほど滞 在しました。私は、1970年代初頭に近くのCalifornia State University―Hayward校(現在のCalifornia State University―East Bay校)で日本語を教えた経験があり、この親友は当時の学生の一人 でした。奥さんは、Hawaiiからきた日系3世で、私の紹介で二人は結 ばれて結婚し、以来仲むつまじく小さな旅行会社を経営しています。

親友は、San Franciscoの隣町Oaklandで生まれ育ちました。父親 はスコットランド系で母親はフランス系で、2才年下の弟がいます。 父親は早くに他界し母親が小学校の教師をしながら2人を育てま した。母親は数年前に他界しました。弟も私の友達で、現在は San Franciscoで観光バスを運転しながら観光案内をしています。親 友も奥さんも60歳で弟は58歳です。私とは幾つも違わない同年輩と いうことで気の置けない友達です。彼らには娘が1人おり、UCLAを卒 業し現在はUniversity of Southern Californiaの大学院で薬学を勉強 しています。 一見なんら変哲もないごく普通の中産階級のアメリカ人ですが、日 本では味わえない変化を体験してきました。San Francisco湾岸で生 まれ育った同年配の人たちなら誰でも味わっているでしょう。

アメリカ中産階級の過去、現在

今回 は、それがどのような変化であったかを、親友の体験を通して語りた いと思います。というのは、言語状況の変化をはじめ、いずれは日本 でも起きうる変化であると思えるからです。 親友が生まれて育ったのは、Oakland市の東地区、通称East Oaklandです。Californiaではスペイン統治時代から海岸沿いに一本 の道が走っています。英語ではMission Street (布教の道)、スペ イン語ではEl Camino Realと呼ばれています。かつてカソリックの僧 侶が布教して歩いた道で、その道に沿ってカソリックのお寺が建造さ れ、周辺に集落ができて都市に発展していきました。その代表的なの がSan Diego, Los Angeles, Santa Barbara, Santa Maria, Santa Cruz, San Franciscoなどです。布教に尽力した聖人の名前などカソ リックにちなんだ名称が多いのはその為です。 Mission Streetは、Oakland市内に入ると14th Streetになります。 その通りを1番街(1st Avenue)から始まり百何十本の道が東西に 交差しています。親友が生まれ育った家は100th Avenue (100番 街)にありました。

この通称East Oaklandは戦前から戦後1950年中 頃までは白人区域でした。親友は生徒のほぼ全員が白人で占められた 近くの小学校に通いました。中学生になる頃にアフリカ系アメリカ人 が移り住み、私が親友と出会った1970年にはすっかりアフリカ系ア メリカ人の居住区になっていました。100番街に住む白人家族も親友 の家族のほか1軒残すのみでした。

全米最大スラムEast Oakland

1960年後半から1970年前半のEast Oaklandは、New Yorkの HarlemやLos Angelesのワットなどに匹敵する大スラム街 (slum/ghetto)になりました。Huey NewtonやAngela Davisらが Black Panther Partyという過激派のグループを立ち上げたのもこの 地域でした。公民権運動を成功させアフリカ系アメリカ人の公民権が 確保されたものの、提唱者のKing牧師は1968年4月に凶弾に倒れてし まいました。その後も差別による格差は是正されず、アフリカ系アメ リカ人の若者の中にアメリカ社会に対する不信と失望が広がり、その 苛立ちがKing牧師の主張とは逆に非合法暴力に向かいつつある時でし た。これらのスラム街では暴動が頻発するようになりました。

親友の母親は小学校の先生でアフリカ系のアメリカ人の境遇にとて も理解がある人でしたので、危険な場所だと言われたこの地域に住み 続けたのだと思います。とはいえ、思春期の親友には大きな変化であ ったに違いはありません。しかし実際は言われるほど危険なところで はなく、隣近所のアフリカ系アメリカ人の家族となんらトラブルもあ りませんでした。私は毎週のように親友の家に行って家族と一緒に食 事をさせてもらいましたが、界隈を歩いていて危険な体験をしたこと は一度もありません。

それでも、街角で顔の白い親友と黄色人種である私が歩いている と、見知らぬアフリカ系アメリカ人に怪訝そうな顔で見られました し、親友の方は不快な言葉を浴びせられたこともあります。アフリカ 系アメリカ人が白人から受けた差別を考えるとなんでもないと言って 別に気にはしませんでした。私も、Richard Wrightなどの黒人作家に 興味を持っていましたし、King牧師を尊敬していましたのでとてもよ い体験でした。親友の母親の用でアフリカ系アメリカ人のマーケット によく買い物に行ったりするうちに、アフリカ系アメリカ人の人たち と会話をするうち彼らの英語が分かるようになりました。今でも懐か しい思い出として残っています。

しかし、1970年中頃を過ぎると治安が悪化し近所のマーケットが 次々と閉鎖され住みにくい場所となり、親友一家はFremontの新興住 宅街に引越しせざるを得なくなりました。当時のFremontは白人のコ ミュニティーでした。マイノリティーも住んでいましたが、いわゆる 「名誉白人」と呼ばれた日系人などでした。ここで親友夫婦は小さな 旅行会社を始めました。彼らの顧客は平均的な中産階級の白人で、経 営も順調でした。終戦直後から1950年代のEast Oaklandもそんな感 じではなかったのでしょうか。かくして平穏無事に1970年代後半か ら1980年代が過ぎていきました。

Fremont市の変化

1990年になると彼らの住むFremontの環境が一変しました。1970 年の後半からアメリカに渡ってきたベトナムなど東南アジアからの移 民の人たちの中で、ある程度生活にゆとりが出来た人たちが、 Fremontのような郊外の町に移り住んできました。続いて中国本土や インドからの移民の数も増えました。親友の家の裏に住んでいた白人 家族はインド人の医者の家族に家を売り出て行きました。それを機に 色々な文化摩擦が生じたのです。

親友の家族友人が集まって庭でバーベキューをしながらハンバーガ ーを焼いていると、隣のインド人の紳士がやって来て「聖なる牛を焼 く匂いを嗅ぎたくない」と苦情を言ったりしました。親友は「ここは アメリカだ」と言い返していましたが、回りには白人系の住人よりも インド系住人の方が数で勝っていたので説得力がありません。店の様 相も変わりました。それまではアメリカの中流階級の価値観で顧客に 対応すればよかったのですが、それでは通じなくなりました。東南ア ジアやインドでは値切るのが常識ですから、航空券を1ドルでも安く しようと値切るのです。かつての顧客は逆にチップを置いていったの ですから、そのギャップはあまりにも大きくてひたすらショックを感 じるのみであったと言います。 California全域で水不足などが深刻になりますます住みにくくなる と、中産階級の人たちがWashington州やArizona州に大移動を始めま した。

去った後には、農場に出稼ぎに来たメキシコ人や東南アジアか らの移民が住み着きました。かくしてかつてはマジョリティーであっ た白人は突如マイノリティーになりました。 1992年と1993年の夏、私は家族を連れてFremontに2週間ほど滞 在しました。増え始めたアジア人に対する露骨な嫌悪感が充満し、加 えて、ジャッパン・バッシングも酷くなり私たち家族もいやな思いを しました。California州は特に酷かったような気がします。親友はア ジア人に対して嫌悪感こそ持たなかったものの、周囲の変化について 行けずショックを受けて塞ぎ込んでいました。彼は突如東南アジアか どこかの見知らぬ国に放り出されたようなショックを感じたと後で告 白しています。Oaklandでアフリカ系アメリカ人と上手に順応した親 友でさえこの急激な変化にはてこずったようです。

(その2)に続きます。


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鈴木佑治
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