英語と歩んできた人生...For Lifelong English(3)
表紙写真1991年1月慶應藤沢キャンパス・インテンシブ英語の鈴木クラス。移籍後初年度は暗中模索、10年分の年を取って白髪が目立ち始めました。学生さんたちの笑顔とモチベーションはいつも活力を与えてくれました。
はじめに
「英語と歩んできた人生...For Lifelong English」(1)(2)の続き(3)です。
博士論文執筆も佳境に入り最終稿を仕上げにかかった1977年11月頃、さて、来年はどうしようか考えなければなりません。アメリカに残るか、日本に帰るか。日本に戻るって言ってもそんな簡単ではありません。同年夏のある日、ジョージタウン大学を訪れていた某大学の教授二人が案内をしていた筆者についてヒソヒソた話していたのを聞いてしまいました。「いや、日本では使い物にならんでしょうな。」これが初めてではありません。面と向かって「君のような日本人が居るなんて恥ずかしい!」と言われたこともあります。
恐らく筆者の物腰が日本では規格外であったということなのでしょう。アメリカに長くい滞在した方の多くが経験されたと思いますが、表層的な日本的特徴こそ短期に削ぎ落しても、コアの特徴、すなわち、価値観は、削ぎ落すどころか、自らのアイデンティティーとして保ち、かえって磨かれるていく場合が多くあるのです。筆者自身も表層的な物腰こそ変われどもコアの価値観は日本に居る時と同じか、潜在的には更に強く意識していたように思います。
ま、それはともかく、アメリカでの留学生活が刻一刻と終わりに近づきつつありました。では続きの(3)を。
慶応義塾大学経済学部教員時代、発信型英語教育導入への苦闘
Ph.D.を取得した時点で筆者にはまた2通りの道が開けました。一つはアメリカにとどまることです。博士論文副査Charles Kreidler先生(英語音韻論)の推薦でBrown UniversityとUniversity of Hawaii, Hiloで日本語と言語学を教えないかとのお誘いをいただいておりました。もう一つは日本に帰国することです。10年間のアメリカ留学体験から日本の英語教育改革の一端を担いたいという思いです。思い悩んだ末後者を選択しました。
そんな折に母校慶應義塾大学経済学部で英語教員を公募しているとの情報を得て応募しました。博士論文のfinal draftを仕上げ提出した1977年11月頃のことです。なんとめでたく合格・採用ということになり、1978年2月に論文のdefenseを終えてPh.D.を取得し、その4月から赴任することになりました。
旧態依然とした訳読中心、俗称語学と言われた英語授業
発信型英語授業をしてやるぞと意気込んでいたものの、英語1(読解/英文和訳)、英語Ⅱ(作文/和文英訳)、英語Ⅲ(読解)という3種の通年、週1コマ90分の授業をすることが大枠で決められていました。許される範囲で授業内容を発信型に変える以外に方法はありません。
まず、TOEFLというテストがあることを伝えることから始めました。訳読ではなく直接英語で読み、考え、討論し、書けなければとても歯が立たないテストであることを筆者自身の体験を踏まえて説明しました。「エグイ」と言われながらも英語で学生さんはよく付いてきてくれました。授業が終わると何人かの学生さんがアメリカ留学について聞きにきました。
学生さんの目が輝いていたのを覚えています。アドバイスをし、推薦状を書くなどして1989年までの10年間の経済学部赴任中、かなり多くの学生さんをアメリカのトップbusiness schoolsに送り出しました。毎年約10名、100名以上居たと思います。国際センター事業の一環として日吉キャンパスをTOEFLテスト試験会場として利用できるように交渉したのもこの時です。
日吉キャンパスのフランス語、ドイツ語、中国語の先生方、三田キャンパスの若手経済学者との交友を広め、色々な考えに接することができました。日吉キャンパスのフランス語とドイツ語の若手の先生方中心の「20世紀芸術研究会」サークルに参加いたしました。同会は、後にノーベル文学賞を受賞することになるOctavio Paz氏をお迎えし講演・懇談会を開催しました。圧巻でした。
「待てば海路の日和あり」、湘南藤沢キャンパス(SFC)、プロジェクト発信型英語授業導入
しかしながら、伝統のある学部の方針を変えて制度化することの難しさを肌で感じていたところ、1990年に慶應義塾125周年を記念して「問題発見・解決」をモットーに湘南藤沢キャンパス(SFC)が開設されることになり、SFC総合政策学部初代学部長加藤寛先生より移籍のお誘いがあったので即決しました。加藤先生も経済学部に在籍されていたものの一度もお話ししたことはありませんでした。でも、先生の研究会に筆者の英語の授業を履修した学生さんがおりましたので間接的に話を聞かれていたものと推察します。
移籍後先生は私に会う度に「鈴木さん、英語が苦手な学生ができるようしてください。」と言われました。
英語の専任教員は筆者を含め8名(日本人5名/外国人3名)でしたが、筆者と田中茂範氏、後に赴任してきた霜崎實氏とジョージ・ドウ氏が加わった4名で、全学生対象のTOEFL IPTテストの結果(全学生平均約520点)、Division A(TOEFLスコア〜450)の学生を担当し、後のSFCロジェクト発信型英語プログラム(Project-based English Program)の前身となるACE Programを立ち上げました。[5]
半期制週2コマの一コマの下図Workshopモジュールで英語力をブラッシュアップ、Projectで自分の関心事についてプロジェクトを興し、researchして成果を発表します。既に1991年ごろからインターネットを使い、英語でインタビューしたり、アンケート(questionnaires)を取ったり積極的に取り組んでいました。その過程で自らの英語力に限界を感じ、Workshopでのブラッシュアップに磨きが掛かります。最初のセメスターが終わる頃には全員が英語でdiscussionできるようになります。1993年に入学したコンピュータ好きの3名の学生は、Mosaicというアプリを使い、筆者の「英語」と「言語と伝達」の授業のHome Page(現ウエブサイト)を作成するプロジェクトを立ち上げ、全履修者がそこにアクセスできるようにしてくれました。卒業後はネット関係の会社を立ち上げたり、大手電気メーカーに就職し2000年問題に取り組んだり、今でも連絡を取り合っています。
2000年以降は、ACEプログラムは、Division AのみならずDivision B(TOEFL 450~)も入れ、下図のような英語全履修者対象のSFC Englishに成長しました。
筆者は、この頃から大学レベルだけではなく幼児から社会人(現役者、引退者)までのLifelongモデルを考え、それぞれのレベルに合ったプロジェクト発信型英語モデルの開発と実践を行いました。ちょうどN H K教育番組「英語であそぼ」の監修(2001~2011)の依頼を受け、それがきっかけになりました。日本と海外の小学校、中学校、高等学校、大学、大学院の先生方とも共同研究ができ、また、ネットを介してonline上での交流が評価され、COE(Center of Excellence)「次世代メディアと知的」のe-learningの研究の一部として以下の図式で“Keio SFC e-Learning in Action”と称する研究(理論・実践)に着手しました。
SFC英語授業関係の主要テキスト、報告書、基礎研究
成果の詳細は以下の通りです。
『英語教育グランドデザイン:慶應義塾大学湘南藤沢キャンパスの挑戦』
『言語コミュニケーションの諸相:理論的考察から言語教育まで』
『プロジェクト発信型英語:Do Your Own Project in English 書き込み型テキストVolume 1』『同Volume 2』SFC時代に開発したActivating College Englishの最新改良版)
(4)に続く
お知らせ: For Lifelong English 生涯英語活動のススメ(Official Site)もご覧ください
[5] SFC必修科目「外国語」は、英語、フランス語、ドイツ語、スペイン語、中国語、朝鮮語、アラビア語、マレイ・インドネシア語などのうち一つを選択することになっており、英語履修者は全体の5割程度であったと記憶しています。