アメリカ留学を振り返って-Memorable Teachers (6-1) Georgetown University Ph.D. Program in Linguistics,9/1973~
写真 Georgetown Unversity 1976 (225Years of Georgetownより)
はじめに
「アメリカ留学を振り返って-Memorable Teachers 」(5-3)の続き(6-1)です。1968年より最終目標である何かしら好きな英語研究でPh.D.(博士号)取得することを最終目標にアメリカ各地を転々とした旅路も、やっとこの時点で目標に一直線で繋がる本道に入りました。
最初の4年は英米文学(English)、次の1年は英語教授法(Teaching English as a Second Language・TESL)、そして最後5年は言語学(Linguistics)における英語分析、手っ取り早く言えば英語学(English liguistics)です。
言語学では分析対象言語がとても重要です。同級生のアメリカ人は第一外国語を、留学生は自らの母語を選択するのが普通でした。当時のGeorgetownは、英語統語論、英語音韻論、英語意味論、古代・中世・近世・現代英語などのコースが充実していて、筆者が応募した理由はまさにそれでしたから逃げるわけには行きません。英語で真っ向勝負し初心貫徹だ!とばかりに意気込んで英語を選択しました。
それを聞いたポルトガル語の意味論分析でPh.D.を取ったばかりのアメリカ人先輩が曰く、"Oh, no! Are you crazy? These guys (professors) are all English specialists! They'll tear you apart! Don't do that!" (お前はクレイジーか?みんな英語の専門家だぞ、めちゃくちゃにされるぞ!やめとけ!) 巷のラジオからはプレスリーの"Fools rush in!"が流れていました。さあどうなることやら。ここからは1年づつを更に区切ってお届けします。
Hawaiiから一時帰国し年老いた両親に会い一夏を過ごす
1973年5月中旬にUniversity of Hawaiiの修士課程を修了後、そのまま次の滞在地Washington D.C.には直行せず、日本に一時帰国しました。高齢の両親が気がかりだったからです。UHで修士号を取れたとの報告に喜んだものの、またWashington D. C.に行くと知るや、悲しい表情を浮かべていました。これはきつかった。Georgetown University(以下、GU)に行ってもPh.D.を取れるかどうかも分かりませんし、よしんば取れたとしても何年先になるのか皆目見当もつきません。5年掛かるとして筆者は34歳、両親はそれぞれ78歳と74歳になってしまいます。心配させたくなかったので、そんな不安は胸のうちに留めて約3カ月間を両親と過ごしました。
東京で英語講師の職につくことになったUHの同級生数名も一緒でした。また、東京の英会話学校で講師をしていた親友のJack WilsonとPauline Takashibaにも会う為に東京と静岡を行き来して交流しました。
また、静岡の実家に彼らを招き、その時筆者が作ったハンバーガーは彼らの舌を唸らせました。近所の肉屋さんですき焼き用の肉を挽いてもらい、それを炭火で焼き、普通の食パンに挟んで間に合わせたのですが、これが旨くない訳がありません。
首都Washington D.C.に着く、下宿とオンキャンパス・ジョブを探す
そして8月中旬過ぎWashington D.C.に向け旅立ちました。Virginia州にあるWashington Dulles International Airportに着き、高温多湿のねっとりした大気の中、shuttle busでWashington D.C.(以後D.C.)に向かいました。Potomac河沿いの森に囲まれたfree wayを進むことしばらくして、前方にWashington Monumentの高い塔が視界に入ってきました。高層ビルが乱立する主要都市とは対照的に、D.C.の町並みはこの塔を除いてみな低層ビルでとても新鮮に思えました。
その日はWhite Houseの近くのDupont Circle地区の安宿に泊まりました。今や高級感を漂わせる商業地域ですが、当時は雑然とした一角で、8月下旬のD.C.の残暑は厳しく、地域全体が日向ぼっこでもしているかのように熱気に包まれていました。冷房が無い安宿の部屋は灼熱地獄と化し、宿泊者はフロントに繋がる石段辺りでヘタレるように座り込み、陽が沈むのを待つしかありません。通り過ぎる車の騒音と甲高い蝉の鳴き声だけが聞こえる中、筆者は急性ホームシックに襲われました。脳裏に浮かんだのは、日本でもHawaiiでもなく、San Francisco Bay Areaの友達とよく行ったHalf Moon Bayでした。冷たい波が陸地の熱風を打ち消すように押し寄せるあの美しい海岸線です。
翌日、Samsonite(*1)のスーツケースを手にGUに向かいました。
D.C.(*6)は、Southeast、Southwest、Northeast、Northwestの4つの区域から成ります。
Georgetownの街並みはNorthwestにある高級住宅地に立地し、GUはその一角を占めています。ということは生活費が高いということで、筆者の手持ち資金は1年間の授業料を差し引くと僅かしか残りません。それでも動ずることなくD.C.での生活の一歩を踏み出せたのは、渡米して5年間なんとかやってきたからでしょう。
先ずは落ち着く場所を探さなければなりません。取りあえず、大学が短期宿泊施設として用意したAlban Towersに宿泊し、Housing Officeにリストされている下宿を見て歩きました。その内の一つが大学の裏門を出て歩くこと15分のタウンハウスが並ぶBenton Streetの下宿です。かつては労働者階級の住宅であったようですが、高齢化し大学生が間借りしていました。
Mrs. Higginsという80歳近くの老婦人が独りで住んでいましたが、静かで綺麗で安く即決しました。1975年6月まで1年半をここで暮らすことになります。Mrs. Higginsは隣接するMaryland州で生まれ育ち、亡夫と結婚してこのタウンハウスに移り住みました。それ以来この界隈から一歩も出たことがなく、Californiaを外国と信じ切っていました。Mrs. Higginsを含めGU滞在中に出会った地域の方々については別稿で述べたいと思います。
さあ次は仕事探しです。下宿代と食費を稼がなければなりません。留学生用のF1 visaで許されるのはon-campus jobしかなかったので、UCSBでしたように学生寮のキャフェテリアで働くことにしました。月曜日から金曜日までの午前中は仕事、午後は勉強、夜は授業、週末は勉強に割けます。兎にも角にもこれで1年間糊口をしのぐことができるのです。1日の苦労は1日にて足れり、先のことはその時心配すれば良いのです。アメリカ生活で学んだ極意です。
当時のGeorgetown Universityの大学院言語学科の厳しさ
GUはカソリックのイエズス会派(Jesuits, The Society of Jesus)に属する大学です。ご存知のように、イエズス会は1534年にIgnatius de LoyolaとFrancisco Xabierらにより創設され、1540年に法王庁の承認を得ました。清貧、徳、従順をモットーに、Xabier自身日本や南米で布教活動をしました。布教とともに重要な活動として大学運営があり、ルネッサンスのヒューマニズム(humanism)とカソリック思想の真髄であるスコラ哲学を融合させ、リベラル・アーツ(liberal arts)の原形とされるカリキュラムの導入に力を入れました。ギリシャ、ラテンの言語、文学、思想のみならず、非ヨーロッパ諸言語、科学、芸術、特に口語文化(vernacular culture)に関心を向けて辞書を編纂したことでも知られています。Loyolaが死去する1556年には三大陸に74の大学のネットワークを作り、現在では中学校・高等学校が322校、そして、大学が172校も含まれます。アメリカにも27大学あり、最も古いのが1789年創立のGUです。日本では上智大学(Sophia University)などがあります。
このように、イエズス会は高等教育の運営を重要活動に位置付け、特に、世界の言語、文化、教育に関心を向けて来ました。布教先の地域の多くは文字文化が無かった為に、口語(vernacular)の辞書や文法書を作成しながら現地語を学んだと言われています。(*1)GUはその伝統を受け継ぎ、筆者がいた頃にはSchool of Language and Linguistics(SLL言語・言語学学部)と称する学部があり、その下に言語学学科(Department of Linguistics)と外国語学科(Spanish、French、German、Portuguese、Italian、Arabic、Chinese and Japanese Departments, etc.)が設置されていました。中心は言語学学科で、学部(B.S.)プログラムと大学院(M.S. Ph.D.)プログラムが設置され、多数の在籍者を抱える人気学部でした。
School of Languages and LinguisticsのほかにCollege of Arts and SciencesとSchool of Foreign Serviceの2学部があり、それらの専攻分野のカリキュラムにおける外国語科目の比重は高く、イエズス会の言語教育の伝統は各所に感じられました。日本で英語教育に携わることを目標にしていた筆者には、言語学(linguistics)と外国語教育を合体した当時のGUのカリキュラムは大変魅力的で、それがGUに来た要因でした。ですから、現在のGU公式サイトを見て、あの圧倒的な存在を誇ったSchool of Languages and Linguisticsを見つけることができず、大変驚いています。(*2)筆者が見落としたのでしょうか。
School of languages and Linguisticsはキャンパスから1ブロック離れたWalsh Building()に、学部本部と諸学科のOfficeと教室と研究室がありました。筆者は、早速、言語学学科長(Chair)のFrancis P. Dinneen(S.J.=Senior Jesuit)先生とappointmentを取り、一階にあるDepartment of Linguisticsの学科長Officeに赴きました。先生は、60代のアイリッシュ系神父で、黒い詰襟の制服に身を包み、ショートカットで白髪、小柄ながらも廊下に響き亘るバリトン・ボイスが印象的でした。
(6-2)に続く
(*1)アジア、アフリカ、アメリカ大陸の言語の辞書が残されています。日本語の辞書も作りました。Nippo JishoNippo Jisho Imagesより。
(*2)Universityはcollegesまたはschoolsから成る総称です。日本の学部はcollegeまたはschoolです。多くの大学に外国語学科(Department of Foreign Languages)とか言語学科(Department of Linguistics)がありますが、College of Arts and Sciencesなどに組み入れるものと思います。GUのように、School of Language and Linguisticsという独立学部として学部から大学院までのプログラムを設置しているのは稀でした。
(*3)2019年10月Alex Tucker氏撮影。