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心のばんそうこう考
『「なんか気になる」って重要なセンサーだからね!』と、メッセージを書いたところで思い出したのだけど、私は何かをするのに明確な理由が必要だと思っていた
ちゃんと説明できる理由がね
誰かを納得させる理由がね
だから、なんとかしてつじつまを合わせたり、立派な理由をこさえてきた
そうやって怖い自分を納得させたり、親に何か言われないようにしたり、世間に白い目で見られないようにしたりしてたんだ
うまくいかなかった時の言い訳を準備していた、とも言えるかもなぁ
ちゃんと考えてたけどダメだった
それなら仕方ない
これを自分のばんそうこうにしていたんだなぁ
「仕方なかった」って私にとってはばんそうこうだなぁ
傷を見えなくするための、応急処置のもの
あぁ、ホントだ
ばんそうこうだ
ばんそうこうで重要なのはどのタイミングで貼るか、だよね
傷を見たくないがために、すぐにペッと貼るのか
傷口を見て、消毒をして、処置を施してから貼るのか
このタイミングが、傷を癒すのか、化膿させるのかに大きく関わる
私にとって「仕方ないよね」は傷を見なくて済んで、痛みを最小限にしてくれるけど、癒えることもない、って感じだなぁ
あ!これはペッと貼ることを否定しているのではないの
ペッと瞬時に貼ることも必要で大事なことだもの
だって、そうしなかったら、私が壊れちゃうんだから
だけど「仕方ない」「仕方なかった」だけでは隠せない出来事が起こって、ばんそうこうをペっと貼って隠すだけではどうにもならなくて、やっと、やっと、少しずつ、傷を見る、ということに意識が向いたのだ
ひとりでやらなくてもいい、一緒に傷を見てもらって、処置を手伝ってもらってもいい、そんな許可も少しずつおりていったように思う
こんな方法があったのかぁ、知らなかったな、ということも多かった
明確な理由が必要だったのも、言い訳を準備していたのも、思いどおりにならなかったらペッとすぐに封じ込めたのも
傷つきたくない
傷ついた自分を見たくない
傷ついた自分を認めたくない
だったんだなぁ
今は誰かを納得させる理由よりも、自分を守るための言い訳よりも、自分の感覚と自分の選択がマッチしていることを大事にしたいと感じている
「なんかいい」「なんか気になる」「なんかやってみたい」を許せるようになってきている
「なんか」とか「なんとなく」を採用できるって、自分の感覚への信頼以外の何物でもない
自分の感覚への信頼と、傷ついたとしても大丈夫という信頼を積み重ねている最中なのだ
これは生きている間中、ずっと続くのだろう
自分はどんなばんそうこうを持っているか、どんな行為をばんそうこうにしているか、どんな言葉をばんそうこうにしているか、どのタイミングで使っているか、剥がすことはあるのか、どうだったら傷を確認できるのか、こうできたらもっといいかも!を振り返ってみる機会があってもいい
もしかしたら、もっといい処置があるのかもしれない
「今までのばんそうこうでは隠しきれない」「苦しい」と感じているなら、カウンセリングセッションがお役に立てることがあると思います
それでは本日も
”自分が一番の味方”な一日を♪
『 傷がついても
癒せる、治せる、味になる 』