カナシミをブラック労働させている私は魅力的?|『インサイド・ヘッド』
インサイド・へッド2が公開され、早々に観に行った。
私は「ピクサーの中で何が好き?」と聞かれれば「インサイド・ヘッド!」と即答できるくらいこの作品が好きだ。
見に行った翌日に、1作目のインサイド・ヘッドを自宅で見るくらい、何度も見たいと思う映画だ。
具体的なあらすじは割愛するが、私はこの映画に救われた。
ネガティブで、人に対する警戒心が大きく社会が苦手。そんな私が「人生っていいな」と思えた映画なのだ。
1、2を通して思ったことを書き連ねる。
悲しみの扱い方
初めて「カナシミ」を見たとき、私かよ!と突っ込んだ。
明るい人間になれたらなぁと思ったことは数えきれない。
一作目の公開から数年経ち、あらすじを忘れてしまった状態で2作目を見た時、心配ってなんで存在するの?心配のおかげで起きてるいいことなんもないじゃん??と思った。
私はじゃあヨロコビちゃんを体現した人がいたとして、好きかと言えば嫌いだ。
なんでもポジティブに捉えて、リーダー!澄んだ心!みたいな人素敵だと思うけど苦手。
ヨロコビ中心のインサイド・ヘッドワールド、多分人間の深みは喜び以外が作ってると信じている。
この映画の中には、勇気や、仲間や、葛藤からの分かち合いなど、たくさんのキラキラしたものが登場する。
通常のキラキラした映画は、時に『自分とは別世界である』と捉えることがある。
しかし、これは誰しもが持っている"感情"が主人公だ。つまり、私の中でも同じことが起こっていると言える。
目の前で起こっているキラキラを、直視できた。
何より、自分を好きになるし、何というか、愛おしく思うことができるような気がする。
自分の中にもあんな"感情"たちが住んでいて、作用しあっている。
それも、私なりの作用の仕方があって、それが"わたし"なんだ。
"喜び"が渓谷の底で、忘れ去られた思い出を見つけたシーンが好きだった。
面白くもないからっぽな人生さ、なんて毒づくこともあるけど、きっと楽しかったシーンは今までの人生で沢山あって、笑顔でいた時間は数え切れないほど蓄積されてるんだと思うと、たとえその記憶が忘れ去られているものであったとしても『私って幸せなのかも』と思った。
感情って物質だから
実は、『インサイド・ヘッド2』において、「感情に左右される自己イメージの変化は本当の自分らしさではない」というメッセージが特に心を楽にした。
この映画の終わりに、「ライリーらしさを決めるのは私たちの役目じゃない」と心配が言うセリフがあった。
うまく立ち回らないといけないと「シンパイ」が空回りしてネガティブになっていくライリー。感情たちが総動員で「いいひと」のライリーを取り戻そうとする。
「優しさ、姑息さなど、抱く色々な感情の全てが自分らしさであり、無理にハッピーでいる必要はない」という意味が込められているシーンだ。
しかし、裏テーマとして、「その場の感情だけがあなたらしさではない」というメッセージにも聞こえた。
感情に振り回されることは往往にしてある。
良い作用をもたらすしんどさもあれば、訳もわからずしんどくなることがある。
急に落ち込んで過去の自分を責め、自分はなんて情けない人生を歩んでいるんだと寝られなくなったことはないだろうか。
自分らしさは、あなたの今までの全ての感情で作られるものであり、一時の感情に揺れてる気持ちは自分らしさではない。
うまく立ち回るため、戦略的に「シンパイ」が頭の中で動き回る。良いことを考えなきゃ!と「シアワセ」が悪夢から目覚めさせてくれる。
感情の揺れ動きは、自分が考えたことというよりは、まさにこのヨロコビたちのように、感情の物質が戦略的に流れてるのだ。
つまり、あくまで感情は物質でしかなく、コントロールできるものなのだ。
今のわたしの感情が自分の意思であり全てだと思いがちだ。
例えば仕事で落ち込み「私はダメな人間だ」と思うとき、世界から切り離されたような気持ちになる。
そのとき、①②どちらの考え方をしてもいいのだ。
①無理に「私はダメじゃなんかじゃない!」と笑う必要はない。自分はバネになって行動に移せるタイプだ。
②これは焦りの気持ちによる一時期の気の迷いなのであり、本当の私ではない。切り替えよう。
一般の動物には感情ってない訳なので、感情があることの方が珍しい。
彼女らが感情のボタンをピッと押すように、気持ちがパッと変わることがなんと多いことか。
映画の終わりに、「何も起きてないことを考えないで、あなたはこの椅子に座ってお茶でも飲んでて、ここは私に任せて!」
ということも話していた。
寝られない夜は、自分でこれを言い聞かせ、お茶飲んでてもらおうと思う。
自分って、最高なのかも。そんなことを思える映画だ。私にとって大切な作品だと思う。