目標を下げたって前には進んでいるはず
仕事、うまく行かないこと多すぎ。
私の進めていた計画が頓挫しつつあることを報告する文章を打つ残業時間。「やっぱり私は何かを成し遂げることができないんだなぁ」と情けなくなっていた。
いや待て、こんなに辛いのに、計画通りにいかないからって「自分はダメだ」と思うのは流石に酷なのでは?
しかし私は、目標を下げることが苦手だ。あまりに妥協的な行為だと感じてしまう。会社からしたら、目標を下げてでもちゃんと成し遂げられれば問題ない。ただ、私の心の問題なのだ。
「期待を超える」ことがいい仕事だとされる社会。当初の計画通りに進める、という最低限のことしかしていないのに、さらに遅らせるなんて……。
例えば「起きれただけでえらい!」と自分を肯定するようなことは、風邪で体調を崩した時のような特殊なケースを除きあんまり好きではない。みんな当然のようにやっていることだし、それどころか何かしら頑張っているのに。
そう考えて仕事を背負い込み、なんとか当初のスケジュールに乗せるため周りへの指示もキツイものになっていく。
そんな時、ふと過去に出たマラソン大会の情景を思い出した。
数年前、ひょんなことからフルマラソンに参加した。ずっと文化部で過ごしてきた私は、走りに全く自信がない。
もともとリタイア前提で出場していたが、どうせならハーフまでは走り切りたいという思いはあった。そのような気持ちで走っているランナーはたくさんいるようで、20km地点を目指す大集団ができていた。
大集団の中には走りを止めてる人もいた。ちょっとずつでもいいから走ろうと思い、ふらふらしながら足を前に出した。
ふと後ろを振り返ると、走りを止めていた人は見えなくなっていた。こんなにゆっくり進んでいるのに、止まっている人に比べて距離ができていた。
「こんなど素人な私でも、前に進むことさえしていればこんな距離をすすめるんだ」と感じた。
格好がどうであれ、そして、どんなスピードであれ続けていれば無意識のうちに前進してることってあるんだなと思った経験だった。
つい最近、友人と一緒に河川敷でランニングをする機会があった。その人は走ることが苦手だと昔から言っていたが、最近体力づくりのために始めたのだという。
私はあのマラソン大会から定期的に走っていたので、ちょっと自信があった。スタートダッシュを決め、友人より大分前を走っていた。ゴールが見えそうになったところで体調を考慮して歩いていた。
その時、後ろから「おーい!」と声がした。まさかと思ったが、友人だった。彼女の一歩は、とても小さいものだった。一般的なランニングに比べてもずっとゆっくりなスピードだろう。ランニングフォームだってオリジナルだ。それなのに、歩いてる私を抜かし、どんどん背中が遠くなっていった。
きっと、仕事でもそういうことがあるのだと思う。
今回だって、こんな大きなプロジェクトに参加したのは初めてなのだ。そこで完璧を目指すのはフルマラソンで最初から完走を目指すようなもの。完璧を目指そうとしていること自体無謀とさえ思えてきた。
高い目標を達成しないと意味がないと思っていた。社内の評価の上ではそれが必要かもしれない。しかし自分自身の成長は、それとは別にある。うまく仕事を進められなかったとしても、その仕事にトライしているだけで前には進んでいるはず。
ちょっとずつでも走っていたら、気づいたら遠くまで来ているもの、なのだろう。
当初の目標にこだわり続けなくて大丈夫、ちゃんと変わってる。