ただ誰かが「そこで生活している」ことに、救われることがある。
どうも、西川タイジです。『さよならシティボーイ』を読んで頂いた方から、素敵な感想を頂きましたのでご紹介させてください。
『・シティと愛情編』に収録されている「インターネットでの争いについて(踊るのをやめてしまったサボテンに捧ぐ) 」についてなど。僕もうん、うんと頷きながら読ませて頂きました。こんなに書いて頂いて、本当にね…。嬉しいです…。
力作ですので、是非ごゆっくりお読みください。
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ただ誰かが「そこで生活している」ことに、救われることがある。その誰かが、たとえ私だけのために何かを綴ったわけでもなく、誰かを変えようと思って訴えたわけでもない、何気ない日常を身近に感じることで感じられる、「生の手応え」のようなものがある。
私が初めてすなばさんを知ったのは、『エンドロール』のなかだったけれど、現実とも物語とも捉えがたい「この文章は一体何なんだ」と思った記憶は、今も鮮明に覚えている。『さよならシティボーイ』は、その頃と体裁が違うので毛色は違うものの、あの「溶ける」ような独特の表現は随所に見え隠れしている。
思うに、これはすなばさんが恋愛などで「誰かを思って」言葉にしようとしたとき、自分が一人で見ている世界と、見方を変えているのかもしれない。自分に対して能動的だけれど、他者に対しては受動的、というか。
「僕と彼女」という小さな世界になったときのすばばさんの視点は、日々の営みをコツコツ積み上げて、自らに確かな実体を得ているような、骨の太さが消えてしまう。どこまでも形を変えて、光や液体のように柔く時間を流れていく不思議な存在になっているような気がする。
2つの異なる存在同士を、どうにかして1つにさせようとするとき、彼の場合は相手とのふれあいの中に高まった温度によって、その接合点が「溶ける」のだ。人によっては、自分の形を変えられないことで、お互いに擦れあって火花をちらしたり、傷つけたりする。しかし彼の感性においては違う。思いは自然現象のようにごくあたりまえに、世界や他者と少し混ざる。「やさしい」と一言で収めるには、乱暴すぎる。自分の軸になる感性がしなやかなのだ。日々を重層的に丁寧に扱っているから、きめが細かいのだ。
この自分と他者、世界との接合点をいったん「溶かす」感性は、批判において独特の輝きを放っているように思った。
かつて「かわいい」と愛されたサボテンが、インターネットの争いの中で、踊らなくなってしまった示唆に富んだTweetが紹介されている。彼の批判の面白いところは、最終的に「踊らなくなったサボテン」という事実のみに目を向けていることだと私は思う。理路整然と正義感をかざすのではなく、踊らなくなったサボテンの気持ちを代弁したりするようなこともせず、サボテンが置かれた状況にどんな言葉が溢れていたのかを、彼の視点で綴ることで、インターネットの争いへの批判を強調させる。
それは読み手に状況を想像させ、善悪の後ろ側にある「前提」を共有させる。その中で浮かび上がる、もう踊らないサボテン。その状況の中で、読み手が何を思うのかに、私もまた彼がTweetに感じた「泣き笑いのような心境」と同じ「泣き笑いのような心境」を追体験しているのだ。敢えて「批判」と前述したが、これは書き手の主張がないので、厳密には批判ではないのだ。ただしこんなにも痛烈に、状況を示唆し、読み手に「想い」を起こさせている。読み手は物思わないでいられない。
ああ、自分の今を誰かに想像させるのがうまいのだ。すなばさんという人が、生活しているのを私は読みながら「想像する」。誰かを思う姿を「想像する」。そのなかにまた、自分の生活とのささやかな関わり(例えば、私も今アイスコーヒー飲んでいる、とか、海行きたいな、とか)に、自分の視点から視えない奥行きを感じて、愛おしくなる。
すなばさんが年齢を重ね、本書の後半に行くにつれ、「思い」に関する描写から客観的な「情報」に関する文章に重きが変わっていく。情報量が増え淡々とした文体に変わっていくけれど、旅先で、風船に手紙を付けて飛ばしたら、木の枝に引っかけてしまうような大人は、こうして歳月を経て出来上がっていくのだ。
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書いてくれたのは川淵紀和さんです。本当にありがとうございます。
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