魚を与えるのではなく、魚の釣り方を教えよ - 「援助する国 される国」を読んで
「魚を与えるのではなく、魚の釣り方を教えよ」
この言葉は元々は老子の言葉?らしく、つまりは、飢えている人に魚あげれば、一日は食べられるけれども、釣り方教えれば、一生食べることができるよね、という趣旨だそう。
自分が学生の頃、上記の言葉が「国際協力」や「途上国支援」の文脈で用いられることがありましたが(今はどうなんでしょう)、私は、この文脈で用いられるこの言葉があまり好きではないです。
というのも、この言葉には以下2つの驕りが含まれると思っており。
① 相手は釣り方を知らない、という驕り
その国や地域のことを一番理解しているのは(至極当たり前ですが)、 その国や地域に住み生活をしている現地の人です。
彼らは現地での「釣り方」を知っています。
何故ならその地でずっと「魚を釣って」生きてきたのだから、これも至極当たり前です。
(ここで言う「釣り方」とは、広く「生活を営む / より良くする知恵」の比喩です)
ただ、「釣り方」を知っていても、十分に釣ることが出来ない、「その土地特有の何かしらの理由」がある場合もあり、それは、政治・経済・外交・紛争・災害・文化・慣習・歴史・地理・宗教・環境...色々あるし、色々の組み合わせなのかと。
② 自分は「正しい釣り方」を知っている、という驕り
上述した「その土地特有の何かしらの理由」を無視して、外様の「正しい釣り方」を教えたところで、それは現場にマッチせず何の役にも立たない可能性があり、役に立たないならまだ良くて、迷惑になる場合の方が多いのでは。
良く批判されている1960~2000代にかけての欧米諸国のアフリカ支援などが良い例かと思います。
「自分は何も知らない」ことを自覚することが、非常に大事。
(そういう意味では、ビジネスは現地のニーズに合わなければ自然と淘汰されるわけで、現地や相手に対する理解(マーケットの理解)がされやすいのかな、と。やっぱ支援や援助の文脈じゃなくってビジネスで関わりたいな、と。)
個人的には「魚を与えるのではなく、魚の釣り方を教えよ」ではなく、
「腹が減ったら今ある魚を分けて食って、釣り方はお互いの知恵を出し合って一緒に考えよう」くらいのスタンスが、いいと思うなぁと。
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さておき、
「ルワンダ中央銀行総裁日記」で有名な服部正也氏の著作「援助する国される国ーアフリカが成長するために」を読みました。
服部正也氏は東京帝国大学法学部→日銀→米国留学(→のちに世界銀行副総裁)と言うスーパーエリートなのですが、まさに上記した、現地や相手に対する謙虚な姿勢と理解とを実践された方。
「自分の利益になることは、人類全体にとっても利益になると考えるのは自然ではあるが、それが正しくないことが多い。先進国の通説となっていることで、先進国には有利であるが、途上国にとっては不利、または有害なことも少なくない。(「援助する国 される国」p.25)」
として、外様の価値観や「釣り方」を押し付けずに、明晰な思考+徹底的な現場理解と尊重とで、施策を進めるところがカッコいい。
どの国・地域の人であっても、
・生存意欲
・発展意欲
・自存自立の精神
・合理性
この4つは必ず持ち合わせているとして、この4つに注力した施策を重要視されている。
特に合理性に関する話がシビれる。
ある人にとって合理的な行動は、その人が自分の置かれている環境の認識に基づいて、その人が望む目的を達成するために、その人が使える最良の手段を選ぶことである。したがって、その人が置かれている環境はどんなものか、その環境を、その人はどう認識しているか、その人の望む目的は何か、それを達成するためその人が利用できる手段としてはどんなものがあるのか、を知らなければ、その人の行動が合理的であったかどうかは判断できない(「援助する国 される国」p.50)。
とした上で、西欧人がアフリカ人は合理的でない、と彼らを下に見たりするう態度に異議を唱えています。
以下のエピソード部分、少し長いのですが面白い例なので引用します。
ルワンダにはバナナ畑が一面に広がっている。農林省のベルギー人顧問は、ルワンダ人は、一番肥沃な土地に外貨を稼ぐコーヒーを植えないで、ビールにするバナナを植えていると嘆いていた。
(・・中略・・)
(服部氏がルワンダ人に)ルワンダ人の食事について聞いたら、一番好きなのは豆類、次は芋類、次にバナナだとのことであった。それでは、一家を構えるために畑を開墾して、一番先に植えるのは何かと聞いたら、バナナ、次には芋、最後に豆を植えるとのことであった。なぜ嗜好の逆の順番に植えるのかと聞いたら、バナナは天候の変化や、病・虫・鳥害に強くどんな土地でも成育し、短時間で成長し、常に実が豊富になるからだ、芋は十分な大きさに成長するのにはバナナよりは時間がかかるが、季節に関係なく、成育すれば一年中何時でも収穫でき、天候に影響されない。これに比べ豆は収穫までの期間が長く、収穫量も少なく、年二回の雨季に植え付けしなければならないので、年に二回収穫され、しかも天候の変化や病・虫・鳥害に弱い。さらに、ルワンダの硬い土には豆、その他の一般作物はうまく成育しなので、バナナの落ち葉を土に鋤き込んで土地を改良してから、植えることが必要であり、また、若芽の頃は強い日射には弱いので、バナナの葉陰で保護しなければならないからだとのことであった。
(・・中略・・)
作物は当然嗜好の順に消費されるから、最後はバナナが過剰となるのでビールにするのである。
(・・中略・・)
アフリカでは、川や池の水は寄生虫が多く、マラリアや蚊や河盲症(オンコセルカ)のブヨが繁殖しているので、人家は水辺を避けて建てられ、清浄な水は家の女子供が遠く泉まで汲みに行かなければならない。泉から運んできた飲料水は溜めたままに放置すれば悪くなるばかりでなく、ブヨ等が発生するので、飲料水の保存方法としてビールにするのである(「援助する国 される国」p.51-52)
外様から見ると、外貨を稼げるコーヒーを植えずバナナを植えるルワンダ人は非合理に見えるけれども、実際は超合理的な判断の上に、行動をしているだけという。(ちなみに上記の話は、昔のルワンダの話で、現在のルワンダの話ではないのであしからず)。
明晰な思考+徹底的な現場理解と尊重とがカッコいい。
政治に関する話もシビれる。
「良い政治」とは、何よりも、政府が、国の安全と国内の治安を確保し、国民の生命、財産、自由を保全し、国民の生活向上を図るという政府の基本的役割を果たすことについて、国民の信頼と支持が得られていることである。良い政治かどうかは本来国民が決めるものであり、そのためには、つねに国民の支持を問うことと、民意にしたがって政権が平穏に交代する慣行が定着していることが必要である。
そのための制度は、国民が納得できるものであることが基本であり、必ずしも西欧的機構である必要はない。アフリカ諸国で、現職の大統領が、西欧的選挙で90%以上の得票で再選されながら、数ヶ月後には失脚し、国民に惜しまれることなく亡命する例が多いことを見ても、国民に馴染まない制度は、民意を問う制度としては不十分なものであることを示している。(「援助する国 される国」p.199-200)
「良い政治」には、その国の状況に合わせた色々な形がある。
現地の状況を無視して無理やり欧米的な「民主主義」を実現しようとしても、それが実情とマッチしていなければ役に立たないし時には害にもなりうる。
(ルワンダの60年代の騒乱・90年代の内乱発生の要因一つには「民主化」や「多党制の導入」圧力があったわけで)
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明晰な思考力を持ち、徹底的な現場理解と尊重とを重んじる服部さん、カッコいい。憧れます。