【短編小説】少女は宴の夜に死ぬ/東の国の章(後編)
10 鶏卵
搬贄官の男はまずは使者としての役割を果たすと、輸送の準備を整えに灑国の王都へ戻っていった。
村に残されたギュリは、迎えがくるまで帝都に旅立つ用意をして待つことになる。
とはいえ犠妃を帝都に送るという一大行事の準備は村を挙げて行われたので、かえって本人のギュリはやることがなかった。
衣裳の試着以外には呼び出されることもなく、ギュリは普段とそう変わらない雑事をこなす。
(やりたいことなんか普段からないんだから、最後にやりたいこともないんだよね)
庭に面した板の間で、ギュリは天日干しを終えた梅染めの布を市場で売れるようにきれいに巻いていた。
ギュリが染めた薄紅色の布は、職人が染めたものに比べれば見劣りする。それでも麻布のさらりとした手触りはこれからの夏の季節に合うから、悪くはない値段で売れるだろうとギュリは思った。
外を見てみると、庭では妹が鶏たちに餌をあげている。鶏たちは妹が撒いた餌を、熱心につつく。それはかつての幼いギュリが、牛の世話をしていたのに似ていた。
しかしギュリの母亡き後に父が若い後妻に産ませた妹は、ギュリと違って愛らしい表情をする子供だった。
「ねえさま。にわとりさんは、なんでもたべてえらいねえ」
ギュリよりも十歳ほど年下の妹は、籾殻を混ぜた餌を鶏に与えながらギュリに話しかけた。ギュリから見える妹の背中は小さくて、自分も十年前は同じ大きさだったとはとても思えない。
「そうだね。好き嫌いがないのは偉いよね。私も籾殻食べてみようかな」
あまり妹を可愛いと感じたことがないギュリは、染めた布を巻きながら気のない返事をした。
だが妹は話しかけたはなから自分の言ったことを忘れたらしく、二人の会話は成立しなかった。
「じゃあにわとりさん、たまごをもらうね」
鶏が餌を食べている隙に、妹は庭の鶏小屋から卵を拾う。
妹は鶏を可愛がっていたが、対価を得ることも忘れてはいなかった。
11 別れの夜
やがて搬贄官の男から文が届き、ギュリが帝都に送られる日取りは正式に決まった。
ギュリを帝都に輸送する馬車が到着し出発することになる日の前日は、母屋に家族全員が集まっていつもよりも豪華な食事をした。
妹が世話をしていた鶏も二羽ほど縊り殺され、茹で卵と一緒に食卓に並ぶ。
韮や生姜などの薬味を入れた味噌を詰め、鍋で蒸した鶏肉は、父の後妻が作ってくれためったに食べられないごちそうだ。
その正月よりも豪華な食卓に、ギュリの弟たちは普段以上に熱心に食事に夢中になった。
「にわとりって、うまいんだな。俺これ、毎日食べたい」
「俺も食べたい。姉様だけじゃなくて兄様も出世したら、毎日食べれるかな」
状況を理解しているのかしていないのか、弟たちは身も蓋もない願いを口にしながら鶏肉にかぶりついていた。
「たまごもおいしいけど、おにくもおいしいんだね」
普段鶏に餌をやっている妹も、とても可愛がっていたはずの存在の肉をあっさりと食べる。
(確かに、久々に食べたけど鶏肉は美味しい)
ギュリは弟妹ほど露骨ではないにしろ、蒸した鶏を手づかみでよく食べた。
中に詰められた麦味噌のコクのあるしょっぱさは淡泊な味わいの鶏肉を風味豊かに味付けし、じっくりと蒸したことで繊維もやわらかくなっている。
味噌に刻み入っている韮はほんのりと甘く、すりおろした生姜の辛みで後味良く食べることのできる仕上がりだ。
家族の人数で分けるとあまり量はなかったが、蒸した鶏肉はギュリの住む土地では最上級のご馳走だった。
この料理を作った父の後妻は、ギュリからは遠い席で子供たちのために茹で卵をむいていた。それはギュリがこの先一生なることのない、母親の姿だった。
他方、兄は別れの食事のわりに神妙さに欠ける弟妹達の様子が多少は気になったのか、鶏肉の中の味噌を白米に載せつつも注意を促した。
「これがギュリと食べる最後の夕飯なんだからな。よく考えて食べるんだぞ」
ギュリに待っている未来を一番よく理解している兄は、この食事が本当のところは重い意味を持っていることを知っている。
長兄の妹への一応の配慮に、家長である父も言葉をつけたす。
「うん。そうだな。明日はギュリが大帝様のもとへ旅立つ、とてもありがたい日だ」
父はあくまで、帝国への感謝を強調した。
しかし父や兄がいくら食事を意義深いものにしようとしたところで、弟妹はただご馳走を食べることしか頭になかった。
何よりギュリ自身が別れの意味をあまり深く考えられていないのだから、それは当然のことだろう。
(もしかすると、お祝いのご馳走のために殺された鶏が、一番私のこれからを考えさせてくれるのかも)
骨についた肉の欠片を食べながら、ギュリは鶏の一生について考えた。
神の宴のために殺され食べられる未来が待つギュリにとって、鶏の死はそう遠いものではない。
鶏肉はギュリを満腹にはできない量しかなかったが、命は奪われるためにあるという教訓は与えくれていた。
12 花の冠を被って
それから寝て夜が明けたとき、ギュリは帝都に輸送される当日を迎えた。夕焼けのように雲が赤い朝だった。
朝早くから来てくれた叔母に手伝ってもらいながら、ギュリは化粧をして正装に着替えた。
離れの部屋に準備した鏡台の前に座り、白粉を塗って眉墨がひく。頬と額には紅で丸を描き、くちびるも口紅で赤く塗る。
用意された衣裳は本来ならば王族の女性が婚礼に着る華衣と呼ばれるもので、緋色の絹に牡丹や蓮の花や実の文様が色鮮やかな糸で縫われていた。
特に背面に施された花鳥紋の刺繍は非常に細やかで、背の高いギュリの後ろ姿を優美に飾った。白い付け袖がつけられた幅広の袖は長く、緋色と藍色の二枚を重ね着した裳の裾は金色の刺繍で縁取られている。
(微妙な身分の私がこんな偉い人みたいな服を着ても許されるんだから、犠妃になるってすごいことだね)
手鏡に映る自分の顔を、ギュリはかえって冷静な気持ちで眺めた。くせのないギュリの端正な容貌は、豪華な衣裳を着ればそれなりに立派にはなった。
房付の布を巻いて垂らした儀礼用の簪で三つ編みに結った髪を髷としてまとめ、頭上に色とりどりの造花で飾られた花冠を被った晴れ姿は、手間をかけただけあって美しい。
だが同時に装いがあまりにも華やかすぎるので、ギュリは自分が道化であるかのような気分にもなった。
(どこから借りてきたのかあんまり聞いてなかったけど、この髪につけた布ひとつで私が染めた布の何十倍もの価値があるんだろうな)
ギュリは鏡を覗きながら、簪に巻いた真珠や珊瑚が縫い止められた布を指でいじった。
滑らかな絹の衣は肌触りは良い反面、下着から何重にもきつく重ねて着ているためにとても動きづらい。
(もう、あんなに日が高い)
ギュリは部屋の円窓から、空を見上げた。
朝早くから準備をしていたはずだったが、全てを身に着けたときにはもう正午に近い頃合いになっている。
慣れない服装に落ち着かない気持ちでいると、部屋を出ていた叔母が膳を持って戻ってきた。
「まだ迎えの時間までは少しあるから、一口くらいは食べるかい?」
「もらうよ。ありがとう」
空腹を感じていたわけではなかったが、ギュリは叔母がよそった粥を食べた。せっかく塗った口紅がとれてしまわないように、普段よりも小さな匙でゆっくりと口に運んだ。
帝国の迎えの馬車が到着したと兄が知らせたのは、ギュリが粥を食べ終え器が空になったころのことだった。
13 箱の中で
「ギュリ。搬贄官様が来てくださったが、準備はできてるか」
「うん、兄様。あとは、靴を履くだけだよ」
兄に呼ばれたギュリは、白地の足袋に赤い唐鞋を履き、外に出る。
空は白色の雲にうっすらと覆われた明るい曇天だった。ギュリは兄と一緒に、茅葺の門をくぐった。
(これで私はもう、この家に戻ってくることはない)
言うほどたいした感慨もなかったが、ギュリは我が家に別れを告げた。
門から農地へと延びる小道の両脇には、ギュリを見送りにやって来た人々が並んでいた。ギュリの家族や親戚も、あまり話したことのない牛の世話係の使用人の男もいた。近隣の住民も、ギュリの同性の友人や父親の知り合いなど、親交のある人たちのほとんどは集まっている。
ギュリを帝国へと運ぶ馬車はその道の先に止まっており、ギュリと一緒に輸送される貢物を載せた荷台や護衛の騎馬が後ろに続く。
兄の先導に従い、ギュリは背筋を伸ばしてゆっくりと迎えの馬車へと歩いた。
「遠いところへ行っても、達者でな」
「大帝様のもとで、お幸せに」
見送る人々は皆、ギュリに別れの言葉をかけた。
ギュリが犠妃として死ぬことを、わかっているのかどうか怪しい言葉もあった。
ギュリはほとんど無意識のうちに、見送る人びとに何かを言って、微笑んだつもりの顔で進んだ。
父に、弟妹に、友人に。あまりに大勢の人が目の前にいるので、目には映っても一人一人はよく見えなかった。自分がどんな言葉で一生の別れをすませているのかも、わからなかった。
(でもきっと、これくらいの雰囲気が私にはちょうどよいはず)
かすかにだけ感じられる人々の親愛を、ギュリは受け取って返して、安心して通り過ぎていく。
やがてギュリは広い農道に出て、立派な屋根と格子に覆われた、二頭立ての馬車の前に着いた。
最後まで側にいた兄と別れれば、目の前にはあの金髪に浅黒い肌の搬贄官の男が立っている。
男はギュリに近づくと花冠に触れ、化粧や衣服を隅々まで眺めた。
「これはこの地方の花嫁衣裳かな。君の奥ゆかしい美しさに、良く似合ってるよ」
ギュリだけに向けられたその言葉は役人にしては甘く、まるで口説いているかのようにくだけていた。
「お褒めいただき、光栄に存じます」
初対面の際に思ったより地味だと言われたことを思い出しながらも、ギュリは素直に微笑んでみせた。
男は着飾らせれば化けるはずだという自分の見立てが正しかったことに、満足している様子だった。
「君が犠妃として捧げられる宴は、きっと素敵なものになるだろうね」
選んだ果実の品質を確かめるようにそっと丁寧に、男は今度はギュリの髪を撫でた。
男は嘘を嘘だと隠さず、優しくギュリを大切にするふりをする。嘘の裏の本心は、わからない。
見送る人びとは何も言わずに、ギュリが供物として帝国の手に渡るのを拍手をして見ていた。
(何であれ、認めてもらえたなら良かったのかな)
ギュリは男の態度は好きではなかったが、自分の立場は受け入れていた。
改めて見ると搬贄官の男の瞳は夏の夜空のように深く紫がかった藍色で、ギュリは思わずその顔をじっと見つめた。
この男の瞳はいったいどこまで自分に関わっているのだろうと、ふとした疑問がギュリの口をついてでる。
「その宴には、あなたもいらっしゃるんですか?」
「いや、宴に僕はいないね」
ギュリが自発的に問いかけたことに意外そうな反応を見せて、男は説明を続けた。
「帝都の皇城では、一人の料理人が君を待っている。肉を割いて烹ることをもって飲食を奉上し、至高の神である大帝に仕える庖厨官という役職の男だよ」
男が話しているのはどうやら、ギュリを殺して料理する役目を持った人物のことだった。
ギュリの人生は近いうちに終わるのだが、その日を迎えるにはまだいくつかの出会いと段取りが必要であるらしい。
「皇城に到着した後は、その料理人の男が尊い食材として君の面倒を見る。だから僕が搬贄官として担当するのは、君を帝都に運ぶところまで。ある意味では君を迎えに来た今日が、一番重要な仕事かもね」
自分が責任を持っている範囲を明らかにして、男は優しげにギュリに微笑んだ。
「私ごときに、恐れ多いことにございます」
ギュリは袖を手重ねてお辞儀をして、男に再びお礼を言った。
後宮で料理人に世話をされるという今後はあまり想像がつかなかったが、帝都に着けば搬贄官である男の役割が終わることはよくわかった。
そして男は犠妃の少女を輸送するという自分の務めに従い、馬車の簾を上げてギュリを中へと手招きをする。
「皆との別れも済んだみたいだし、そろそろ馬車に乗ろうか」
「かしこまりました」
ギュリは用意されていた踏み台を使って、馬車に乗り込んだ。
男の手によって簾が下ろされると、ほどなくして馬車は動き出した。
馬車は幾何学模様を作る形に組まれた格子がはめ込まれた小さな窓がついていたので、覗けば田畑や山々の風景が流れていくのをわずかに見ることができた。
座席にはギュリに着せられた衣裳と同じくらいに立派な布地を使った座布団が敷かれ、強めの香によって馬の匂いは隠されている。
けれども座ってみると、思っていたよりもずっと馬車の内側は狭くて天井も低かった。
(こうして運ばれていると、箱に梱包されてた物みたいだな。いや、みたいじゃくて、そうなのか)
速度を上げていく馬車に揺られ、ギュリは酔わないように目を閉じた。
上等な座布団がひいてあったとしても、揺れがまったくなくなるわけではない。
着慣れない衣裳の息苦しさに馬車の狭さが加わり、ギュリは自分の身体が小さくなったかのような、奇妙な気分になった。
(後宮で私を待つ庖厨官が、私を殺して肉を割く。彼が料理を捧げる至高の神である大帝が、割かれた私の肉を食べる)
ギュリは香の匂いのする空気を深く吸い込み、搬贄官の男がした説明を頭の中で繰り返した。
整然と定められた帝国の規律と仕組みは、犠妃となった人間が置かれた血なまぐさい現実を覆い隠す。
料理人が仕えているのは至高の神ということになっているが、人間を食べるくらいだからもしかすると化け物に近いのかもしれない。
実際のところギュリはどのように死ぬのか。一人で想像したところで正解は見えず、ギュリがその答えを得るのは死後のことである。
ギュリは空想が得意ではないし、好きではない。
だが帝国への道のりは長く、狭い馬車に押し込められたギュリには時間が山ほどある。振り返るべき思い出も少ないギュリは、この先に待つものを考える他にすることがなかった。
やがて空は西から雨雲に変わり、ざあざあと雨が降り始める。
雨が農地に水たまりをつくっていくのを見て、衣裳が濡れなくて良かったとギュリは馬車の中で思った。
14 宮殿の料理人
大嘉帝国の帝都は、大陸の東の果てに位置する灑国から西に四千里ほど離れた場所にある。四千里は、普通に移動すれば何十日もかかる距離である。
だが帝国は馬の扱いに長けており、また替え馬や食料を用意した宿駅も完全に整備された旅路だったので、ギュリが乗る馬車は思っていたよりもずっと早くに帝都に到着した。
(帝国は灑国よりずっと大きいとは聞いてたけど、こんなにも栄えてる国だったんだ)
ギュリは馬車の窓から、巨大な建造物が立ち並ぶ帝都の大通りを覗く。
帝都は頑丈に築かれた城壁に囲まれた四角形の都市で、東西南北の各面にそれぞれ三つの楼閣のついた門が開かれている。
ギュリの乗る馬車は、そのうちの一つを通って都の南にある皇城に向かっていた。
何層にも重なる屋根を持った鐘楼に、頂に金色の飾りのついたまっ白な円塔など、帝都には天高くそびえ立つ建物がいくつもひしめき合っている。
通りを行き来する人々の数も信じられないほど多く、灑国の民と大きく変わらない風貌の者たちもいれば、搬贄官の男と同じように浅黒い肌の者や、逆にギュリよりもずっと肌の白い者もいた。
また都の中央には運河によって海と繋がった巨大な人工の湖があって、湖面にはたくさんの商船が浮かび、湖岸にはあらゆる種類の店が軒を連ねている。
(これが世界の半分を支配しいる国の豊かさなんだね)
帝都に来るまでの街道は整備されていて泊まる場所の心配はなかったけれども、過ぎゆく景色のほとんどは赤土の大地だった。
進んだ先に突如として現れた壮大な光景を、ギュリは半ば夢のような気分で見つめた。旅した時間が短すぎたためにわかっていなかった帝国の巨大さは、帝都に来ただけで自然と実感することができた。
やがてギュリの乗る馬車は、黄金に輝く瑠璃瓦の屋根で覆われた皇城にたどり着く。衛兵たちによって厳重に守られた門をくぐって敷地内を移動し、しばらくしたところで馬車は止まった。
「お疲れさま。これで旅は終わりだね」
搬贄官の男が簾を持ち上げて顔を見せ、手を取ってギュリを馬車から降ろす。
ギュリが正装に合わせて履いた唐鞋でこれから自分が死ぬことになる場所に降り立つと、男は歓迎の言葉を述べた。
「大嘉帝国の皇城ヘようこそ、チェ・ギュリ殿。ここは饗花宮。犠妃である君が宴の日を迎えるまで過ごすところだよ」
男が饗花宮と呼んだその建物は澄んだ池に囲まれた形で建った大きな居館で、その名の通り花のように美しい赤や緑の彩色が施してあった。
目の前の色のあまりの鮮やかさに呆気にとられたギュリが屋根の上まで見上げていると、建物の中から一つの人影が現れる。
男はその影を指さし、その者の名前をギュリに紹介した。
「そしてあの男が庖厨官のルェイビン。君を肉として捌いて大帝に捧げる料理人のね」
端的に語られた男の言葉が、ギュリに与えられた出会いの意味を説明する。
やる気がなさそうな足どりでこちらに歩いてきたのは、大柄で仏頂面の青年だった。
「庖厨官のルェイビンだ。よく来たな」
ルェイビンというらしい青年は不機嫌そうな態度で自分の名前を名乗り、ギュリに雑なあいさつをした。
大陸中央の民らしい頑強な風貌から発せられる声は大型の獣のように低く、ギュリの村に毎年来た帝国の行政官と同じように他人を威圧する雰囲気を持っている。
「チェ・ギュリです。よろしくお願いいたします」
ギュリは袖を合わせてお辞儀をしつつ、神に仕える料理人であるルェイビンを観察した。
(この人が、私を殺すんだ)
ルェイビンは黒い髪をきつく結い、鍛えられた身体に鴉青色に染めた長袍を着て、大きな壁のようにギュリの前に立ち塞がっていた。
顔は顎や頬骨がしっかりとした男らしさがあり、切れ長の一重まぶたの奥の瞳の色も髪と同じように黒い。
ルェイビンは何も言わず、面倒くさげな表情でギュリを見下ろしていた。素手で楽に人を殺せるだろう大男にじろじろと眺められ、ギュリは自分がかよわくて小さい生き物なのだと実感した。
やがてギュリを皇城の後宮に輸送するという役目を終えた搬贄官の男が、ルェイビンとは違う朗らかな声で沈黙を破った。
「僕はもう戻るから、この残りの貢物はついでに倉に入れとくよ」
男はギュリと共に皇城に運ばれてきた荷台から、ギュリの故郷の名産品である人参を一つ手に取ってルェイビンに見せた。
「ああ、頼んだ。目録は後で確認する」
ルェイビンはギュリから目を離し、返事をした。
どうやら搬贄官の男とルェイビンは、それなりに親交がある仕事仲間であるらしかった。
男は荷台に繋がれた馬を引いて去りながら、振り返ってギュリに別れを告げた。
「それじゃ、よい最後の日々を」
「はい。選ばれた幸せを噛みしめます」
内実はどうであれ優しげな彫りの深い横顔で、男はギュリに微笑みかけていた。
ギュリは短い日々を過ごした異国の男の後ろ姿に、お礼を言った。
(そういえば、この人の名前は聞いた覚えがなかったな)
彼について知っているのが肩書きだけであることを、ギュリは最後に思い出す。しかしもう会うことはないとわかっていたので、名前を尋ねようとは考えない。
貢物を載せた荷台と共に護衛の一団もその場を去ると、今度は居館から女官たちが現れた。
淡い青色の衣を着た十人くらいの年若い女官たちは、金の取っ手のついた両開きの扉を大きく開け、頭を下げてギュリを迎える。
ルェイビンは、女官たちを一瞥もすることなく居館の中に進んだ。
そうした次第でギュリも、その後ろに慌てて続く。
父や兄とは比べものにならないほど広い背中の後ろ姿で、ルェイビンは歩きながらギュリに語り出した。
「お前も知っている通り、犠妃は大帝に娶られた妃であると同時に、大帝に捧げられた供物でもある存在だ。だからこの饗花宮も妃であるお前の居館でもあり、食材であるお前を一時的に貯蔵する場所でもある」
およそ建物の華やかさな装飾には似合わない直接的な言葉で、ルェイビンは饗花宮という場所がギュリにとってどんな意味を持っているのかについて話す。
扉をくぐった先にまず最初にあったのは、春の花が咲き誇る中庭を一望できる檐廊だった。
中庭の中央には紅い花が咲く海棠の木が、四隅には白い花が咲く梨の木が植えられ、地面には黒く焼かれた磚が綺麗に敷き詰められている。
紅白の花と黒色の磚の対比が効いたその中庭は、一枚の絵のように美しく完成された空間だった。
しかしルェイビンが立ち止まらないので、ギュリは花々の姿や香りは後で堪能することにして、案内人を追って先へ向かった。
「庖厨官の仕事はここで食材を管理し、最後は料理にすることだ。神である大帝は宮帳にいるから、この饗花宮に来ることはない」
どの説明も話し慣れた事柄であるらしく、ルェイビンは必要な情報だけを手短に伝えていく。
「お前が大帝に召されるのは七日後。お前が最後の夕餉を食べ終えて眠るときまで、俺は庖厨官としてこの饗花宮の妃であるお前の世話をする」
ルェイビンはまったく意気込みを感じさせない態度で、奉仕すると同時に管理するという一見矛盾した仕事について語った。
「そしてあなたは私を殺して、大帝に捧げるために割いて烹るんですよね」
その隣に追いついたギュリは、省略された先を補う形でルェイビンに確認した。
「……そうだ。俺はお前を殺し、その肉を料理する」
ルェイビンはわずかに顔色を変えて、ギュリの言葉に答えた。しかしその表情がどんな感情を表しているのか、ギュリにはわからなかった。
やがて檐廊の途中でルェイビンは立ち止まり、菱花の透かし彫りが施された戸に手をかけながら左右を指を指した。
「ここがお前の寝室で、この廊下の右の突き当りが浴場。左が食堂だ。着替えや湯浴みについては、さっきの女官たちが面倒を見てくれる」
ルェイビンは部屋の配置を説明してから、戸を開けギュリを中に入れた。
そこは大理石の床に赤い絨毯が敷かれた広々とした部屋で、天蓋から紗絹の垂れた寝台が置かれた豪奢な寝室だった。
壁に設けられた丸い窓からは外の池を見ることができて、差し込む陽光は金銀や硝子で装飾された柱を明るく照らしている。
また部屋の中心にはよく磨かれた木製の机と揃いの椅子があり、八角形の天板の上には揚げた米のお菓子や饅頭、蜜柑や芒果などが盛られた器が載っていた。
ギュリが来る頃合いを見計らっていたように、器の隣に添えられた茶器にはちょうどよい温度に冷めたお茶が淹れられている。
食べ物の載った机の前に立って腕を組むと、ルェイビンはやっとまともにギュリの方を見た。
「ここに置いてあるものは自由に食べていいし、朝夕の食事もお前の好きな時間に用意する。食べたいものがあれば俺に言え。俺はたいていの料理はそれなりに作れる」
ルェイビンが働く意欲に欠けた姿勢であるのは、現れたときからずっと変わらない。
しかし料理の腕にはやはりそれなりの誇りがあるのか、食事の用意について話しているときだけは声に自慢げな響きがあった。
(この人はやる気はないけど、自信はあるんだね)
ぶっきらぼうな大男がかすかに見せた得意顔に、ギュリは心の中で微笑んだ。とはいえ世界の半分を治める大帝に料理を捧げるという大役を果たしているのだから、ルェイビンはおそらく本当に料理が上手いのだろう。
「あと他に、最後にしたいことがあれば要望を聞く」
食事の話題がおわると、ルェイビンは元通りの不機嫌そうな表情に戻り、ギュリに死を迎えるにあたっての希望を尋ねた。
ギュリはそれまで説明を聞いてばかりで、自分が何か聞かれるとは思っていなかったので、一瞬、返答につまった。
犠妃に選ばれてから今日まで、最後にしたいことについて考える機会は何度もあった。
だがいくら考えても、ギュリは願いや期待を実りのない人生のどこかで捨てていた。この饗花宮にいれば衣食住はすべて満たされるらしいのだから、なおさらわざわざしたいことは見つからない。
それでも、何も言わないのは有意義ではない気がしたので、ギュリは近頃気になっていたことから考えてみて答えた。
「そうですね……。しいて言うなら私は、あなたがどんなふうに生き物を屠るのかが見てみたいですね」
自分よりも高い位置にあるルェイビンの顔を、ギュリは真っ直ぐに見上げる。学んで覚えた帝国の言葉を話すギュリの声は、妙にはっきりと響いていた。
自分の身にこれから起きることについては、わからない方がいいのかもしれない。しかし馬車の中で一人考えていた結果、ギュリは犠妃としての死に方について知りたくなっていた。
ギュリの要望は少々想定外のものだったのか、ルェイビンは少し変な顔をした。だが自分の予定を考えた様子を見せた後、ルェイビンは渋々といった様子で頷いた。
「わかった。それならこの饗花宮の裏にある屠殺場を六日後に使うから、その時にはお前を呼んで見せてやる」
「ありがとうございます。庖厨官殿」
願いを聞いてもらえたギュリは、花の刺繍が施された白い付け袖を合わせてお礼を言った。
(多分、この人は私の言うことは立場上だいたい聞いてくれるんだ)
次第にルェイビンの頑強な外見に対する恐れを忘れながら、ギュリは思った。
屠殺を見ることを許可されて微笑むギュリを、ルェイビンは不思議そうな目でしばし見下ろしていた。
そのうち女官の一人がやってきてルェイビンに代わってお茶を勧めてくれたので、ギュリは揚げ菓子と共に頂いた。
15 肉を割く
饗花宮にやってきてから数日間、ギュリは至高の神である大帝の妃として、何不自由のない暮らしを送った。
食べ物も、衣服も、何もかもがギュリの生きてきた灑国よりも素晴らしく豊かで、求め続けても尽きて無くなってしまうことはない。
ギュリの故郷は奪われる側だったが、帝国は奪う側である。奪ったもの出来上がっている帝国の後宮では物を食べることも気軽で、飽きて食べ残すことも許されていた。
ルェイビンの話によればギュリは死んで料理になって初めて大帝の元に召されるのであり、生きてる間に自分を娶った者の顔を見ることはないらしかった。
しかしギュリは最初から自分は貢物として帝都に運ばれたのだとわかっていたので、神である大帝の姿を生きて見る機会がないことをおかしいとは思わなかった。
人にとっても物は物でしかないのだから、神である大帝にとっては妃であるギュリもなおさら物でしかないのだ。
(でも私は物の中でも、大切にされている方の物なんだろうけど)
そして妃としてかしずかれて六日目に、ギュリはルェイビンが牛を屠殺する姿を見た。
ギュリの住んでいた土地では牛は労働力として飼われた家畜であったため、食用に殺すところを見るのは初めてのことだった。
屠殺場の土間の隅に用意された椅子に、ギュリは座る。そこは格子越しに入る日光と風がほどよい、薄暗くて涼しい場所だった。
ルェイビンは牛に赤い布を被せてやって来た。ギュリが知っている赤毛のものとは違う黒毛の、とてもおとなしい仔牛だ。
家畜の前に立つルェイビンは仏頂面の大男であることには変わりはないが、普段よりもどこか優しげで、使命感を帯びているようにも見える。
「じゃあ始めるぞ」
「どうぞ、お願いします」
話しかける声はぞんざいだったが、ギュリはこれから起こること考えて姿勢を正した。
神に仕える料理人が牛を屠るのだから、それは日常的に行われている屠殺とは違うはずである。いずれルェイビンに殺される犠妃であるギュリにとっては、その死を見ることは自分に訪れる死を直視することでもあった。
ルェイビンはまず赤い布でそのまま牛を目隠しして、用意してあった桶の水を柄杓で土間に撒いた。
厄除けにも似たその行為の次は、ルェイビンはギュリにはわからない言葉で二、三言ほど何かをつぶやいた。どうも本人も意味をよくわかっていなさそうな、伝統的な決まり文句のようだ。
こうして事前の儀式が終わると、ルェイビンは部屋に置かれた大机から縄を手に取って牛の脚を縛り、強く引いた。
目隠しをされたままの小さな仔牛は、ルェイビンの力に引っ張られてよろける。
その後、ギュリがそのときがいつなのかと考える暇もなく、ルェイビンは引き寄せた仔牛の眉間に、左手に持った先の尖った大槌を振り下ろした。
鈍い音をたてて仔牛の頭がかち割れ、血が溢れて地面を濡らす。
ルェイビンは牛から目隠しを外し、見開かれたままの目を覗いた。
そして牛が息絶えたことを確認すると脚の縄を外して、再び何かをつぶやいて弔った。
淡々とした低く響くルェイビンの声は冷たく聞こえたが、合理化された手順の中に残っているということは何かしらの想いが込められているのだろうとギュリは思った。
屠った後には解体が行われ、ルェイビンはぴくりとも動かなくなった牛を仰向けにして、その喉を庖丁で掻き切った。頭を割ったときよりも多くの血が流れて、地面には血だまりが作られる。
こうして血抜きが終わると、ルェイビンは服を脱がせるように牛の皮を剥いだ。
すべて剥がれれば、次は腹部を割いて内臓を取り出す作業が始まる。
(生きてて痛いのは多分、一瞬みたいで良かった)
ギュリは濃い血の臭いのする空気を吸い込み、自分の未来でもある切り開かれた牛のあばら骨や臓物を、妙に安心した気持ちで眺めた。
牛を殺して肉を割くのだから当然、血は流れている。
しかしルェイビンは牛を食べるために割いているのだから、庖丁で捌く切り口は不純なものを遠ざけていた。ルェイビンが行ってるのは完成された技であり、清らかで美しい食材を生み出す営みだった。
普通に考えれば、いくら手順が清潔に洗練されていたとしても、牛と同じように殺されるのは嫌な死に方なのかもしれない。
しかし他者に全てを任せれば何も悩むことなく終わるのだと思うと、牛のように殺されるのもそう悪い死に方ではない気もしてくる。
ギュリはこれまでの自分の人生が最高に幸福でもなかったが、最低な不幸でもなかったことを知っている。犠妃として過ごした数日間の暮らしが簡単に手に入るものではないことも知っているし、この世にはもっとひどい死に方が他にたくさんあることも知っている。
だから自分が得てきた幸運の代償として、今目にしている死はそう重いものではないとギュリは思った。
ギュリが犠妃としての死について考えているうちに、ルェイビンは手際よく仔牛の臓物を腹から出して壺に納め、首を断って四肢を切り離していた。
肉と骨を切断するその音は、歯切れがよく心地の良いものだった。
ルェイビンの背中は広く、その左手に握られた庖丁の刃は長い。
それは牛の形をしたものから何か別の物を引き出すような、不思議な光景だった。
やがて、ルェイビンは全ての処理を終える。ルェイビンは切り出した薄紅色の肉を大机に並べると、ギュリの方を見て尋ねた。
「これで、気が済んだか」
「はい。あなたの仕事のことが、少しわかりました」
はねた血のついたルェイビンの顔と服を見ながら、ギュリは答える。
離れた場所で椅子に座るギュリの華美な衣裳は、まったく汚れてはいなかった。
ルェイビンはギュリの返事を何も言わずに聞くと、最初に牛に被せてきた赤い布で大机の上の肉を再び覆った。
その表情は神に仕えて命を奪う業を倦んでいるようにも、あるいは矜持を持っているようにも見えた。
16 収奪と対価
大帝に召される日の前夜。
ギュリの最後の食事は、ルェイビンが牛を屠るのを見た翌日のことだった。
中庭に咲く海棠や梨の紅白の花が闇夜に浮かぶ澄んだ三日月の夜に、ギュリは食堂へと続く檐廊を歩く。
人生の締めくくりを彩る衣裳は、五色の紐で飾った黒色の宵衣を女官たちに着せてもらった。
紅色で縁取られた大帯と、白い裏地との対比が美しい衣だ。編んだ髪は金色の簪でまとめて、玉を散りばめた布を垂らした。
ギュリの細い身体によく映える、夜の暗さに溶け込むようなその装いを、最後にふさわしいものとしてギュリは気に入っていた。
中庭を囲む檐廊を巡って食堂の前に着くと、淡い青色の服を着た女官が流水や魚が彫られた扉を開ける。
「どうぞ、準備は済んでおります」
饗花宮の食堂は大宴会ができそうなほどに広く、無数の蝋燭が揺れる燭台の光によって照らされた室内は天井も壁も朱や金箔で装飾されている。
ギュリが女官の案内に従ってその食堂の中に設けられた自分の席の椅子に座れば、そこにはギュリが思い描いていた最上を超える最上のご馳走が用意されていた。
(妃どころか、王様が食べる食事みたい)
食堂の中央に置かれた大きな円卓に用意された豪勢な料理に、贅沢に多少は慣れたはずのギュリも思わず驚く。
円卓の上で輝く銀製の器には、苦菜の和え物に筍のあんかけなどの旬の野菜の料理や、味をつけて焼いたり腸詰めにしたりした様々な肉料理など、数えきれないほどの品々が盛りつけられている。
さらに奥に置かれた鍋の中で湯気をあげている具入りの湯は澄んだものと白濁したものの二つが用意され、脇に添えられた盒によそわれた米飯も赤飯と白飯の両方があった。
そのどれもが手が込んでいて、彩りよく美味しそうだったので、ギュリはかえって食べるのがもったいない気がして一つ一つをまじまじと見る。
そうしてギュリがじっと料理を見ていると、普段通りに鴉青色の胡服を着たルェイビンが部屋に入ってきて、向かいに座った。円卓の天板は広かったが、体格が良いルェイビンがいると急に場所が狭くなったような気がした。
ルェイビンは無言のまま卓の上の杯に酒尊から杓で酒を注いで、大きな手でギュリに渡した。透明に満たされた杯の中身は、梨の花の香りがほんのりとついた、甘く熟成された味の酒だった。
もらった酒を飲んでもルェイビンが黙っていたので、ギュリは食べ始める前にまず話しかけた。
「これを全部、あなたが作ってくれたんですか?」
「だいたいはそうだ。お前のために作った料理だからな。好きに食べろ」
ルェイビンは突き放した態度で、ギュリをもてなす。しかしそのやる気のない姿勢とは裏腹に、目の前にある繊細な献立の数々はルェイビンの料理人としての生真面目さをよく表していた。
そうしたルェイビンの奇妙な二面性に心の中で微笑みつつ、ギュリは箸を手に取る。
「最後まで丁寧に、ありがとうございます。それじゃ、いただきますね」
ギュリはまず前菜らしい手前の品物から、にんにくの漬け物を選んで食べた。酢醤油と砂糖に漬け込まれ輪切りにされたにんにくの、甘酸っぱい風味と歯ざわりを味わう。
そして昨日まで出されていた異国の料理とはどこかが違うその味付けに、ギュリはルェイビンがわざわざギュリのために作ったと強調した意味を理解した。
「もしかしてこれ、私の国の献立ですか」
箸を持ったまま顔を上げて、ギュリはルェイビンの方を見た。
ルェイビンは、卓上の鍋の中身を杓でかき混ぜつつ頷いた。
「死ぬ前に食べるのはやはり故郷の味がいいだろうと思って、この日に出す料理はお前たちの土地のものにしている」
征服された国から運ばれてきた犠妃への配慮らしいもてなしについて、ルェイビンは言葉少なく語る。
自分の国ではない土地の料理でこれだけのご馳走を用意できるとは、ルェイビンはやはり優れた腕の料理人なのだとギュリは思った。
(いろいろ気を遣ってくれてるみたいだし、心して食べさせてもらおう)
ギュリは自分の故郷の料理だとわかったうえで、改めてよく卓の上の品々を見た。ところがルェイビンの料理はあまりに繊細に手間がかけられていたので、ギュリが見たことがある品は少なかった。
考えた末にギュリは二品目に、薄く食べやすい大きさに作られた野菜入りの丸餅を選んだ。
ギュリが見知っているものとは雰囲気が違うが、生地の色からギュリの実家で宴会が行われるときに叔母が作っていた料理と同じものだと思われた。
薄い黄色に何枚も焼かれたその餅は、赤い糸唐辛子で綺麗にあしらって銀製の皿に盛りつけられてる。ギュリはそのうちの一つを小皿にとって、焼きたてのまま頬張った。
すると胡麻油を使って焼かれた表面の香ばしさ、しっとりと焼けた中の生地の熱さが口の中に広がる。
(やっぱりこれはあの緑豆の丸餅だ。具に挽き肉が増えてるけど)
熱々の生地から感じられる緑豆の甘みと、中に入っている白菜や韮の食感を楽しみながら、ギュリはこれまで食べてきたものとの違いを感じた。
生地と一緒に焼かれた挽き肉の肉汁が溢れる旨味は今日まで知らなかった美味しさで、ギュリが故国から遠い都にいることを確かめさせる。
(そういえば昔、この丸餅を使用人の少年と分けて食べたことがあったような気がする)
ギュリは醤油をつけて二枚目の丸餅を食べて、さらに幼いころに一緒にいた少年のことを思い出した。
それは遠い昔の、鈍い痛みのような記憶である。
もう名前を忘れてしまったその少年は、緑豆の丸餅が何枚も食べることができる人が羨ましいと言っていた。
少年は使用人としてよく働き、そして緑豆の丸餅を存分に食べる機会のないまま、ある冬に死んでしまった。
大人たちが残してくれた宴のご馳走の欠片が、あの日のギュリと少年が食べることのできたものだった。
しかし今のギュリの目の前には、緑豆の丸餅だけではない素晴らしい料理があった。
ギュリは最初からわかっていた以上に、死んでしまった少年よりも多くのものを得ていた。
「この肉は、昨日屠った仔牛ですか」
胡麻塩がふりかけられた串焼きの肉を一本手に取って、ギュリはその肉の焼き色を見る。
「ああ。この茹でた肉もそうだ」
ルェイビンはその隣の器に盛られた茹でた牛肉の塊を、庖丁で食べやすい大きさに切り分けていた。
(実際に殺されたところを見た後で食べるのは、ちょっと変な気分かな)
屠殺場で見た赤い布を被せられた牛の姿を思い出しながら、ギュリは肉を竹串から外して箸で食べる。
串焼きは太めの甘い葱と肉が、交互に香りよく炙られているものだった。
平たく切って叩かれた仔牛の肉は柔らかく、醤油も何もつけなくても十分なほどに塩がつけられており、肉そのものの味やおいしさがしっかりと引き出されていた。
ギュリは牛や鶏などの他の生き物に対して、愛情を持って接したことがなかった。また愛情を持つにしろ持たないにしろ、家畜が家畜であることは変わらないように感じていた。
鶏は餌をもらう代わりにその肉と卵を人間に提供し、ギュリは後宮でもてなされる代わりに屠られて食べられる。
ギュリの妹は、自分が餌をやっている鶏を可愛がっているつもりのようだった。だが一方で鶏は、自分に餌を与える人間のことを何だと思っていたのだろうかと、ギュリはふと振り返る。
自分を食べる大帝が何者であるのかを、ギュリは知らない。大帝が神でも化け物でも、ギュリはただ支配された国の民として従うだけである。
この世には食べられるために殺される牛もいれば、死ぬまで働かされる牛もいる。
だから例え相手が化け物であったとしても、奪われ続ける人生よりは、対価が身体であったとしても何かを与えられる人生の方がずっと恵まれているはずだと、ギュリは投げやりな結論を下す。
(せっかく切ってもらったんだし、次はこの茹でた肉をもらおうか)
ギュリは串焼きの肉をにんにくの漬け物と一緒にして米飯に載せて食べ終えると、小鉢に入っていた青海苔と大根の和え物で口の中をさっぱりさせた。
そして出汁の味が上品に感じられる若布入りの清湯を一口飲んで落ち着いたところで、ルェイビンが薄く切って花弁のように並べた茹で肉の皿に箸をのばす。
綺麗な照りのある淡紅色の肉をよく眺めてから口に入れ、ギュリは舌で全体でその柔らかさを味わった。
(ん。こっちのお肉は、ほんのり甘い)
脂身がほどよくついた部位の牛肉はとろけるような肉質で、噛まなくても口の中でほどけていく。串焼きと違って下味がついていないため、添えられている赤い味噌を少しだけつけると旨味が増した。
こうしてギュリがしゃべることも忘れて食事を続けていると、ルェイビンは太い腕を組んで比較的優しげな声で様子を伺ってきた。
「味はどうだ。故郷を思い出すか」
「すごく美味しいですよ。今までこんな料理、今まで食べたことないくらいに」
ギュリは一旦箸を置いて杯を手にして微笑み、ルェイビンが期待するものとは逆であろう答えを言った。
そして遠い過去を思い出したことは伏せたまま、杯の中の酒を飲んで酔う。
燭台の灯りが照らす円卓にはまだ、細切りの生肉や腸詰めなど、肉料理だけでも手をつけていないものがたくさんあった。
それは絶対に食べきれないほどの量で、ギュリは間違いなく心行くまで腹を満たすことができるだろう。
(この人は明日、私を殺して料理する。でも私は多分、この人のおかげで満足できる食事ができた)
想いを口にはしなかったが、ギュリは感謝を込めてルェイビンの黒い瞳を見つめた。
するとルェイビンは怪訝そうな顔をして、ギュリを見つめ返す。ルェイビンがギュリよりもずっと身体が大きいのは、お互いが椅子に座っていても変わらない。
酔ったギュリはそのルェイビンの姿が妙に面白い気がして、さらに笑みをこぼした。
この饗花宮で犠妃としてルェイビンにもてなされてはじめて、ギュリは満腹という言葉の意味を知った。
故郷にいるときは、死にたい理由もないが、生きたい理由もないという気持ちで、生きてきた。
だが満たされた気持ちを知った今、ギュリはきっともう死んでも構わないほど幸せだという思いで、明日屠られる運命を受け入れていた。
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