【短編小説】少女は宴の夜に死ぬ/西の国の章(後編)
9 鎖と馬車
その可愛らしい容姿ゆえに惨殺されずに済んだシャーディヤの、牢獄での生活はそれなりには恵まれたものだった。
食事は毎日十分な量が与えられたし、毎日ではないにしろ風呂に入る機会もあり、衣服も定期的に清潔なものに着替えることができた。
寝台も王宮の物に比べれば質は落ちるが、十分によく寝れるものだった。
牢獄には破壊を免れた弦楽器を持ち込むこともできたので、冷たく重い鎖に繋がれた足の鎖と鉄格子さえなければ本当に悪くはない生活だっただろう。
やがて捕虜としての生活にもすっかり慣れたころに、シャーディヤの牢獄に一人の青年がやって来た。
「処刑された王の妃の、女奴隷のシャーディヤっていうのは君のことかな」
妙に嘘くさい微笑みに猫なで声を添えて、その青年はシャーディヤが入れられている檻の前に立っていた。
年齢はおそらく、シャーディヤよりも十は上だろう。
青年が着ているのは他の帝国の兵士と同じ、襟の立った丈の長い衣である。
しかし褐色の肌に彫りの深い顔立ちで髪が濃い金色なのは、どちらかというと砂漠の住民に近い風貌で、青年は帝国の周縁出身の人材の一人であるようだった。
「私がシャーディヤですが、何か御用でしょうか」
かつての王の妃だった奴隷として、シャーディヤは立ち上がって答えた。
青年はシャーディヤの、金色のまつげに縁取られた琥珀色の瞳や、白い肩をじろじろと見て頷いた。
「うん。噂通りの可愛い娘だね」
そして青年は鍵の束を懐から出し、シャーディヤの牢獄の錠を開けながら、来訪の理由を述べる。
「僕は大嘉帝国の搬贄官として、君を帝都にいる大帝に捧げるために、迎えに来たんだ」
青年はすらすらと、シャーディヤにも通じる言語を使って話す。
「搬贄官、とは?」
シャーディヤが唯一聞いたことがなかった単語に首をかしげると、青年は軽い調子で説明を加えた。
「平たく言うとまあ、いろんな土地から生贄になる少女を選んで運ぶ役職かな」
その説明があまりにも簡単すぎたので、シャーディヤはきっと青年は帝国に雇われた奴隷商人のような立場の人物なのだろうと、雰囲気や立ち振る舞いから推測した。
金属がこすれる音がして、青年の手によって鉄格子が開け放たれる。
そして青年はさらにより陰惨な、シャーディヤに訪れるこの先の運命の前提について語った。
「僕たちの国の君主である大帝は、万物を統べる神なんだ。至上の神である大帝の前では、人間も他の生き物と同じように食材になる。だから国の繁栄を祝うために、征服した土地の少女の肉を大帝が喰らう宴が、帝都の皇城で時折開かれる」
青年は本気で信じているのか単なる建前なのか、他国の人間からはわからない取り繕った表情をして、自国の信仰と風習について話す。
シャーディヤは開かれた鉄格子を前にして、外にいる青年の端整な微笑みを見つめた。
大嘉帝国は異教徒の国であるので、ベルカ朝やその周辺の国の信仰とはまったく違う宗教があることは、シャーディヤもわかってはいた。
だから神である王が人の肉を食べて国の繁栄を祝うという風習をすぐには呑み込むことができなくても、自分がこれからどのような扱いを受けるのかは、奴隷としての本能で理解して話の続きを聞く。
「大帝に捧げられた供物でもあり、娶られた花嫁でもある少女のことを、僕たちは犠妃って呼んで大切に扱っている」
青年は牢獄の中に入ってシャーディヤに無頓着に近づき、鉄格子のものとは別の鍵で足の枷を外した。
シャーディヤは、重くて疲れる足の枷を外してもらえたことには、素直に感謝した。
だが細くて長い青年の指は、死んだイスハークのものとは違って、シャーディヤを金貨や宝飾皿と同じただの物として扱っていた。
「君はその神聖な役目である犠妃に、めでたく選ばれたんだ」
青年は嘘つきの冷たい恋人のように、シャーディヤの耳にそっと髪をかけて囁く。
シャーディヤは侵略者によって国と愛する主人を奪われた上に、生贄として異教徒の神にその身体を捧げて喰われることを強いられていた。
神聖だとか花嫁だとか説明されても、それは普通に考えれば惨たらしく殺される存在でしかなく、すき好んでなりたいものではない。
しかしシャーディヤは奴隷として、かつての主人に王の妃になることを命じられたときと同じように、従順に必要最低限の言葉で与えられた役割を受け入れた。
「光栄なお役目、誠にありがとうございます。搬贄官殿」
シャーディヤの澄んだ声が、朗々と高く響く。
あっさりと承諾したシャーディヤを、青年は興味深そうに間近で見つめた。
「君もなかなか、話が早い女の子みたいだね。僕と来てくれるのかな、帝都に」
「はい。私はつつしんで、あなた方の望みに従います」
シャーディヤは昔に習った作法通りに、青年の足下に跪く。
顔を伏せ、牢獄の石の床を見ながら、シャーディヤは幼いころに母親に売られたときのことを思い出していた。
母親は、シャーディヤは可愛らしいから皆に大切にされるだろうと言って、可愛さを与えてくれた神様に感謝しなければならないと最後まで諭した。
犠妃とやらにシャーディヤを選んだ理由を青年は明言しなかったが、きっと自分は可愛さゆえに選ばれたのだろうと推し測る。
もしもシャーディヤが可愛らしい少女ではなかったのなら、もっと酷いところに売られて、悪人の主人の下で生き、侵略者からも価値のないものとして乱暴に扱われていたのだろう。
だからシャーディヤは、今日もまた与えられた運命に従えば幸せになれるはずで、幸せにしてくれる神様には感謝しなければならないと思った。
女奴隷として人を楽しませる方法を教えられて育ち、妃として王宮に送られた後に、今度は異教徒によって生贄に選ばれる。
少しずつ違う同じことを繰り返し、シャーディヤの人生は着実に終わりに向かっていた。
◆
青年は牢獄から外の天幕へとシャーディヤを連れ出すと、尊い供物であるらしい犠妃にふさわしい装いになるように着替えと装飾品を与えて、手ずから化粧を施した。
淡い浅緑の長衣を桃色の飾りが鮮やかな腰紐でまとめて着て、金箔で花が描かれた薄絹を被って薄く化粧をしたシャーディヤの姿は、王の妃であったころと同じように可愛らしかった。
本人が得意だと自負していた通り、青年の見立ては的確で、化粧の腕も確かだった。
あまりにもよく女性の服飾について知っているので、やはり彼はまともな男ではないのだとシャーディヤは思った。
そして青年は着飾らせたシャーディヤを立派な赤い馬車に乗せると、自分も別の馬車に乗り込んだ。
それらの馬車は大嘉帝国の都へ略奪した物や人を送る一団の一部で、戦争のために整えられた補給路を通って遥か遠い本拠地を目指していた。
旅支度の機会もなく、帝都という土地への旅は始まる。
シャーディヤは生まれ故郷から売られたことを除けば一度も旅をしたことがなかったので、地平線の彼方まで続く黄土を続く道を見て一人、しみじみと思いにふけった。
10 絨毯に雌羊を
ある土地には白い衣裳を着た花嫁を捕らえた羊に見立てて、赤い絨毯で包んで婚家に運ぶ風習があるという。
そこでは肉や毛皮が役立つ羊と同じように、花嫁も貴重な財産として扱われる。
シャーディヤもまた、羊であり花嫁だった。
ザバルガドを出発した帝国軍の一行は、砂漠を越え、山岳を越え、何十日にも及ぶ旅の末に大嘉帝国の帝都に辿り着く。
長い旅の中でシャーディヤは、ただ他の積荷と同じように馬車に揺られていた。
だから生まれた土地から遠く離れた異教徒の都に到着しても、実感というものはない。
建築物も人の集まりも何もかもが大きい帝都は華麗で活気のある都だったが、西の砂漠に栄えた円城都市ザバルガドの王宮で暮らしていたシャーディヤには、そうたいしたことはないものに見えた。
やがてシャーディヤが乗っている馬車は、都の中心にそびえ立つ皇城の敷地内に建つ、ある一つの豪奢な居館に到着して止まる。
旅の間も世話係を務めていた優男の青年は、藍色の衣で着飾ったシャーディヤをその居館の中庭まで案内した。
檐廊に囲まれた正方形の中庭には、秋を感じさせる風が吹き、四方に植えられた棗の木には赤い実がなっていた。
「ここは饗花宮。犠妃に選ばれた君は、大帝に捧げられるまでの最後の時間をこの居館で過ごすんだ」
青年は庭の中央に敷かれた黒い磚に立ち、二人がいる場所についてシャーディヤに教える。
その木々も花も整然と剪定されている中庭をシャーディヤが見回すと、華やかに彩色された檐廊の軒下に繋がる扉の一つから一人の男性が姿を現した。
「そして彼が、庖厨官のルェイビン。大帝の宴のために君を料理する、神に仕える料理人だよ」
青年はその男を指し示し、名前をシャーディヤに伝えた。
どんなに丁重に迎えられても、結局自分は食材として殺されるために異国に迎えられていることを、シャーディヤはよくわかっているつもりだった。
だからシャーディヤは料理人として現れたその男が、食材である自分の命を奪う人間であることを、説明を聞く前から直感で理解していた。
こうして石段を降りて、シャーディヤの前に立ったのは、鴉青色の服を着た大男だった。
きつく結った黒い髪に、冷たい雰囲気の切れ長の瞳。荒野の民らしい屈強そうな顔に浮かべた表情は硬く、長身で大柄な身体は引き締まっている。
ルェイビンと呼ばれたその男は、遥か頭上からシャーディヤを見下ろして、低い声で自分の名前を名乗った。
「庖厨官のルェイビンだ。お前が今回の犠妃か」
「はい。シャーディヤと申します」
逆光で影になったルェイビンの顔を、シャーディヤは子供のように見上げた。
小柄なシャーディヤからすると、大男のルェイビンは自分の倍くらいの背の高さがあるように感じられる。
一方、生贄の少女を帝都まで連れてくるまでだけが役目であるらしい青年は、シャーディヤをルェイビンに引き渡すとあっさりと別れを告げた。
「それじゃ後は、彼が君に優しくしてくれるはずだからね」
そう言って青年はシャーディヤの肩に軽く手を置くと、およそ優しくは見えないルェイビンに目配せをして立ち去った。
青年がいなくなると、中庭にいるのはシャーディヤとルェイビンの二人だけになる。
離れたところには女官たちが数人控えていたが、置物のような彼女たちはあまり数には入らない。
シャーディヤが押し黙っていると、ルェイビンは梯子もなしに棗の木の高いところに手を伸ばし、実をいくつか摘み取った。そして同時に、シャーディヤが招かれた居館の矛盾を抱えた役割について話し始める。
「この饗花宮は、お前を食材として管理する場所であると同時に、大帝の花嫁となるお前が貴人として暮らす場所でもある」
ルェイビンの話す言葉は、他の大嘉帝国の人間と同じように獣のように荒々しい響きを持ってはいるが、シャーディヤがまったくわからない言語ではなかった。
大きな手で何粒もの棗の実を握り、ルェイビンはシャーディヤに差し出した。
「お前が大帝に召されるのは七日後。俺はお前を殺して宴に捧げるその時まで、料理人としてこの饗花宮で食事を用意し、お前の面倒を見ることになっている」
果物の実を与えるという行為で立場を示し、ルェイビンは感情が見えない黒い瞳でシャーディヤを見つめた。
もてなすルェイビンは料理人であり、客人のシャーディヤは食材である。
ルェイビンははっきりと、自分が犠妃であるシャーディヤを殺す者であると述べていた。
死んで食される未来のために、シャーディヤはルェイビンに果実を与えられる。最後は殺して烹るために、ルェイビンはシャーディヤに食べさせて生かす。
このねじれた境遇に逆らう気のないシャーディヤは、ルェイビンの手にしている棗の実をその手で受け取った。
棗はルェイビンにとっては片手分でも、手の小さいシャーディヤにとっては両手でなければ持てない量だった。
「ありがとうございます。美味しそうな色の棗ですね」
みずみずしく赤い棗の実を両手に載せ、シャーディヤはお礼を言った。
だがまだ言うべきことは残っていたようで、ルェイビンは話し続けた。
「お前は大帝に捧げられる生贄であると同時に、この饗花宮の一時的な主でもある。だから食事以外でもお前が望むものがあれば、それを用意するのが庖厨官である俺の役目だ」
そう言ってルェイビンは面倒くさそうに腕を組み、シャーディヤに尋ねた。
「何か、欲しいものはあるか?」
どうやらルェイビンはたとえ偽装された関係であったとしても、奴隷であるシャーディヤを大帝の花嫁となる、尊い主人として扱ってくれるらしかった。
シャーディヤは人に命令されることはあっても、命令する機会はなかなか経験したことはなかったので、何を答えるべきなのか戸惑った。
「えっとじゃあ、将棋の盤と、相手が欲しいです」
小さな少女が、大きな男に命令する。
迷ったシャーディヤは、自分が一番楽しいと思ったものを望んだ。楽器に歌など、様々な芸を仕込まれたが、あえて選ぶなら将棋が好きな気がしていた。
「わかった。将棋だな」
今までのシャーディヤがそうであったように、ルェイビンは相手の言葉に従って頷いた。
幸いなことに、大嘉帝国にも将棋はあるらしかった。
シャーディヤが犠妃と呼ばれる異国の生贄に選ばれたのおそらく、姿が可愛かったからである。
しかしルェイビンがシャーディヤに従ってくれるのは、シャーディヤが可愛らしいからではなく、ただそれが自分の役職であるためであった。
殺す者と殺される者の、奇妙な主従関係は、十六年間奴隷として生きてきたシャーディヤが初めて知るものだった。
11 盤上遊戯
翌日、ルェイビンは本当に、将棋の盤と駒をシャーディヤの居室に持ってきた。
盤は粒金細工の飾りがはめ込まれた黒檀で、白い駒は象牙、赤い駒は紅玉で出来た、贅沢な一式である。
相手は将棋には心得があったらしくルェイビン自身で、食事の用意をする合間に来てくれた。
大嘉帝国においてルェイビンは、神に仕える料理人であると同時に、神の嫁ぐ少女の望みを叶えてくれる存在でもあった。
その神はシャーディヤの信じる神様とは違うけれども、シャーディヤは自分とルェイビンの関係そのものは受け入れた。
外の池がよく見える開けた窓のある部屋で、二人はお互いに向かい合って凝った木細工の椅子に座り、円卓に置かれた盤を挟んで駒を進めた。
しかしルェイビンはシャーディヤに比べれば劣った指し手であったので、勝利することは一度もなかった。
「王の死、です」
シャーディヤが澄んだ声で王手をかけると、ルェイビンは深くため息をついて盤面を見た。
「ああ、ないな。俺の負けだ」
多少は腕に自信があったのか、ルェイビンはそれなりに残念そうな顔をしていた。
そしてルェイビンは本当に感心した様子で、まじまじとシャーディヤを見つめた。
「これだけの将棋の才能を持っているのに、死ぬのはもったいないな」
そう言ったルェイビンの目には、無責任な同情が宿っていた。
殺すのはルェイビン自身であるのに、とシャーディヤは心の中でつぶやく。
だがシャーディヤは従順に育てられた奴隷であるので、なかなか気の利いた返しを言うことはできなかった。
「私が持つ技術の全ては、私を愛してくれる誰かのために習得したものです。だからその誰かがいなければ、もういいんです」
シャーディヤは敵陣の王の駒を手に取りながら、正直なところを答えた。
するとルェイビンは、特に負い目などは感じていなさそうな表情で、あっさりと頷いた。
「まあ、それもそうか」
ルェイビンは一切シャーディヤを気遣うことなくまた盤面を見て、対局の振り返りを始めた。
かしずいて望みを叶えるふりをしながらも、ルェイビンはいずれ死ぬシャーディヤをぞんざいに扱う。
その無神経さにシャーディヤは、自分が間違いなくこのルェイビンという男に殺されることを実感していた。
12 紅い花
生贄として殺されるまでの日々を、シャーディヤはルェイビンの作った食事を食べ、将棋を指して過ごす。
シャーディヤが神であるとされている大嘉帝国の大帝に対面するのは、どうやら死んで料理にされた後のことらしかった。
シャーディヤはかつては王の玩具であり、今は異教の神のための食材であった。
しかし可愛らしく健康であることが求められるという点においては、両者の間に違いはなかった。
奴隷のシャーディヤは手折られた花のような存在で、自分の命以外に捧げられるものを何も持ってはいない。
だから饗花宮で働く女官は、ザバルガドの王宮にいた女たちと同じように、毎日シャーディヤを清潔に洗って綺麗な服を着せた。
シャーディヤが人生を終える前日もまた、女官たちはそうする。
その日シャーディヤが衣裳部屋で着せられたのは、帝国が西の国のどこかから略奪してきたと思われる深緋の長衣だった。
袖も裾も長めにゆったりと仕立てられているものであり、上部から下部にまで施された刺繍は白金色で、緻密な花や蔦の文様が描かれている。
またさらに房と宝石の飾りのついた腰紐を結んでできるひだは美しく、艶のある落ち着いた色の生地は、シャーディヤの白い肌をなめらかにひき立てた。
淡い金髪は香水が振られて三つ編みに編んでまとめられ、その上には長衣と同じ深緋の薄絹と彫金のビーズを連ねた飾りが被せられる。
眉には眉墨が、口には口紅がひかれ、大人と子供の狭間にいる少女の可愛らしい顔は薄く上品に彩られた。
仕上げには、手足の爪が赤い染料で染められ、魔よけの意味を込めて左手の甲には花が描かれる。
それは生贄として死ぬ妃にふさわしい、神聖で華やかな装いだった。
だから夕食に呼びに居室に来たルェイビンは、着飾ったシャーディヤを見ると、しばらく沈黙した後に口を開いた。
「お前は本当に、可愛かったんだな」
まるで初めて対面したかのように、ルェイビンはシャーディヤを改めて上から見下ろしていた。
シャーディヤは、何を今さら、一体ルェイビンはこれまでどこをどう見ていたのだろうと思った。
だがシャーディヤは皮肉は教えられたことがない奴隷であるので、素直に褒め言葉を受け取り喜ぶふりをした。
「お褒めいただき、ありがとうございます。お食事の用意はどちらですか?」
「今日は特別だから、外の縁側に用意してある」
居室に呼びに来た目的を思い出したルェイビンは、扉の外にシャーディヤを連れ出す。
ルェイビン自身は普段通りの鴉青色の衣と袴を着ていて、後ろ姿は何度見てもたくましかった。
そしてシャーディヤはルェイビンの案内に静かに従って、他の部屋へと続く檐廊に出た。
13 祈りと食事
饗花宮は大きな池のある庭園に面した居館であり、窓からの眺望は日夜を問わず見応えがある。
ルェイビンがシャーディヤのための夕食を用意したのも、その庭園をよく見渡せる、垂花の飾りが彫られた軒の下の縁側だった。
「これが最後の夕食だから、今夜はお前の国の料理を作ってある」
堂々と味に自信がある口ぶりで妙な配慮を語り、ルェイビンは紫壇の円卓が置かれた縁側へとシャーディヤを招く。
実際、ルェイビンは重要な食の役職についているだけあって、これまで作ってくれた帝国の料理も非常に美味なのものばかりだった。
「あなたが作ったものならきっと、美味しいのでしょうね」
シャーディヤは料理に関しては素直に期待しつつ、床に敷かれた絨毯に片ひざを立てて坐った。
食卓は椅子に座って食べる大嘉帝国の形式とは違う、シャーディヤが慣れ親しんだ坐食の形にしつらえられていた。
夕日に輝く池の水面は欄干の向こうで静かに揺れていて、黄金色に色づいた柳の枝垂れた葉を鏡のように映している。
その秋の終わりの情景を背景に、吊り灯籠の淡い光に照らされた円卓に載っているのは、野菜に魚介、肉類に果物など、数えきれないほどの食材をふんだんに使った大皿の大ご馳走の数々だ。
「食器もお前の土地の趣味のものを使ってある。料理の量が足りなければまた持ってくるから、食べたいものを食べろ」
そう言ってルェイビンは、碧玉でできた杯に白く濁った蒸留酒を水で割って注ぎ、シャーディヤに渡した。
絶対に足りないわけがない量の料理が載せられているのは、ルェイビンが説明した通り、ザバルガドの王宮でも使っていたような象眼が施された青磁だった。
滅ぼした国の料理を配膳方法も含めて再現するのは、少し悪趣味でもあるなとシャーディヤは思った。
「いろいろとご配慮、ありがとうござます」
料理人であるルェイビンの妙なこだわりに感心しつつ、シャーディヤは水差しと綿布で手を清めて合わせる。
そして目を閉じて、シャーディヤは丁重に神様に祈りを捧げた。
「神の御名において、そして神の恩恵の上に。あなたが私たちに与えた食べ物と飲み物を祝福し、私たちをお救いください」
異教の地でも変わらず、シャーディヤの祈りは歌のように美しく響く。
こうして祈りを終えた後に、シャーディヤは食事を始めた。
レモンの果汁で和えた刻んだ生野菜に、綺麗に焦げ目をつけて焼けた肉団子、花のように綺麗に飾り切りされた果物など、卓上には様々な品が載っている。
これらの料理を作った料理人のルェイビンは、少し離れたところで胡坐をかいてほおづえをつき、シャーディヤの反応を伺っていた。
シャーディヤはまず、茄子の和え物やつぶして練ったひよこ豆などが載った前菜の皿から、香りよく色づいたピラフが詰められた貝殻を一つもらった。
細長く膨らんだムール貝の殻に、魚介の出汁で炊かれた挽き割り小麦のピラフをぎっしりと詰め、その上にふっくらと茹でた貝の身を載せた料理だ。
匙のように貝殻を口に含んで、中身を食べる。
するとシャーディヤの頬の中いっぱいに、ほんのりと味のついた挽き割り小麦のぷちぷちした食感と、肉厚の貝の身の旨味が広がった。
「……この貝の前菜は多分、私の国の料理人が作ったものよりも上手ですよ」
「そうか。他の料理も多分、美味いぞ」
この海の幸による完璧な調和をじっくりと味わい、シャーディヤはルェイビンに感想を伝える。
すると自分の料理が美味しいのは当然だとでも言いたげな様子で、ルェイビンは他の品も勧めた。
「では次は、このスープをいただきましょうか」
シャーディヤは二個目と三個目の貝を平らげると、さらに今度は青磁に映える白いスープを象牙の匙ですくって飲んだ。
それはさっぱりとした酸味のある発酵乳に刻んだ香草や玉葱を入れた爽やかな味のもので、口にするとより食欲がわく。
その刺激された気持ちに素直に従って、シャーディヤはぎっしりと皿に盛られた前菜を一品ずつ順番に食べた。
刻んで果汁で和えた胡瓜や葱などの生野菜は新鮮で色も味も濃く、練ったひよこ豆はなめらかで隠し味の胡麻のコクが効いている。
パイ生地で塩気のある山羊のチーズを巻いた細長い揚げ物も出来たてで、さくさくと歯触りがよく水割りの蒸留酒との相性が良い。
焼いた茄子と甘唐辛子をオリーブオイルで漬けた惣菜は、野菜の甘みが引き出されており優しい味は口休めに適していた。
また卓上には、前菜やスープの他に、肉料理や魚料理も載っていた。
食べやすい大きさに捏ねられた肉団子は食べごたえのある密度の挽き肉からあふれる風味豊かな肉汁が旨く、よく噛んで食べればふんだんに使われた香辛料の辛みがほどよく後に残る。
とうもろこしの粉で揚げたイワシは、そのまま食べてもピタパンと合わせても、こんがりと火の通った身のほろ苦さが美味しかった。
「本当に、たくさんの料理を作ってくれたんですね」
「それが俺の、仕事だからな」
シャーディヤが感心すると、ちゃんと話は聞いているらしいルェイビンが相づちをうつ。
少しずつでも食べきれないほどの品数の多さに、半ば全てを味わうことを諦めつつも、シャーディヤは食事を続けた。
およそ繊細さを感じさせない男であるルェイビンが、このような手の込んだ料理の数々を作ってきているという事実は、何回食事をしてもなかなか信じることができない。
ルェイビンが作る料理は、王に愛された奴隷として王と食事をともにし続けてきたシャーディヤから見ても、どれも素晴らしい出来のものばかりだった。
だがどれだけ料理の出来が良いものだとしても、美味しさを分かち合う大切な相手がいなければ、感じる味も違う。
今のシャーディヤには愛する主であったイスハークはおらず、側にいるのは無愛想なルェイビンだけである。
一緒に将棋を指しても、可愛いと言われても、丁寧な食事を作ってもらっても、シャーディヤはルェイビンに一度も好意を持ったことはなかった。
どんなに親切にしてもらったところで結局は、ルェイビンは料理人であり、シャーディヤは宴のための食材として異国にいる。
食材が料理人のことを好ましく思う必要はない。
だからシャーディヤにはまったく、ルェイビンを好きになる理由はなかった。
シャーディヤは奴隷なので、誰かを好きになるように命じられればその通りに好きになる。
だが主か誰かの命令がなければ、わざわざ人を好きになろうとは思わなかった。
「これは羊ですよね」
白いんげん豆と肉の煮物をバターで風味づけした米飯にかけて、シャーディヤはルェイビンに尋ねる。
「ああ。昨日屠った、仔羊の肉だ」
空になったシャーディヤの杯にまた酒を注ぎながら、ルェイビンは答えた。
真っ黒な土鍋で煮込んだぶつ切りの仔羊の肉と白いんげん豆はぐつぐつと音がするほどに熱々で、添えられた香草が赤茶をささやかな緑で彩っていた。
その鍋の前で深く息を吸い込めば、ターメリックの匂いがする湯気が鼻をくすぐる。
シャーディヤは成長を終える前に屠られた見知らぬ仔羊に、もうすぐ死ぬらしい自分の姿を重ねながら、まずは肉だけを食べてみた。
仔羊の肉は柔らかくて臭みがない緻密な肉質で、軽く噛んだだけでも肉の旨味と美味しさがしっかりと感じられた。
大きく育てばより多くの人の腹を満たせるところを途中で屠ったのだから、それは贅沢な味だった。
二口目に、香りのよい米飯と一緒に口に運ぶ。白いんげん豆はどれも上質な大粒で食べごたえがあり、羊肉の出し汁の染みた米はしっとりとして、深いこくがあって美味しかった。
また米飯に混ぜられた松の実も、食感が楽しめる食材だ。
「この豆と肉も、とても美味しいです」
「なら、よかった」
シャーディヤが料理を称賛すると、ルェイビンは頷いた。
胡坐をかいたままでも、ルェイビンはシャーディヤよりもずっと大柄で威圧感がある。
シャーディヤは別に、ルェイビンのことが特別に好きではなかった。
だが人生の最後に食べる夕食がとても美味しいものであることについては、シャーディヤはとてもルェイビンに感謝していた。
そしてまた、死ぬ前にルェイビンの料理を食べる機会を用意してくれた神様にも感謝していた。
国が滅ぼされ、イスハークが死に、シャーディヤにはほとんど失うものは残されていない。
そのためシャーディヤは特に未練もなく、死を受け入れることができた。
残るものを全てを本当に死んで手を離してしまえば、いよいよ本当にシャーディヤは喪失に怯えることはなくなる。
殺戮と破壊と略奪と。
ひどい現実を見てきたシャーディヤにとっては、明日殺されるくらいのことは些細なことだ。
だからシャーディヤは、たくさんの不幸を見せてくれた神様に感謝した。
帝国を支配する神であるらしい大帝は、別の神様を信じるシャーディヤにとっては化け物に等しい。
しかしそれでもシャーディヤは、異教の神に喰われる未来を受け入れた。国が滅んで異国に連れて来られても、奴隷として誰かに服従し続ける、神様が定めてくれたシャーディヤの人生のあり方は変わらなかった。
そしてシャーディヤは、死ぬ寸前でもまだ自分に可愛さが残されていることを神様に感謝する。
その幸運によって犠妃という役目に選ばれ、シャーディヤの人生は幸せなまま終わろうとしていた。
金色の髪に琥珀色の瞳、華奢で小柄な身体に白く端整な顔。この可愛さこそが、神様がシャーディヤに与えてくれた恩寵だった。
辺りを見渡せば日は沈んで庭園は暗闇に包まれ、池の水面は次第に星の光が見える夜空を映す。
暗い夜を迎えれば、吊り灯籠の光は明るさを増したように見えた。
そんな闇と光の中、シャーディヤが仔羊の肉の煮込み料理を引き続き食べていると、ルェイビンが言った。
「食後には紅茶と砂糖菓子が用意してあるから、食べ終わったら言え」
ルェイビンは思いやりのないの目をした男だが、食事に関しては細やかな気遣いがある。
「はい。ありがとうございます」
着実に満腹に近づきつつ、シャーディヤはルェイビンにお礼を言った。
土鍋でしっかりと温められた仔羊の肉は、少食なシャーディヤには半分も食べられないほどの量がある。
ルェイビンはシャーディヤをどのような品に料理するのか。
大帝は華奢なシャーディヤを果たして美味しいと思うのか。
神の花嫁である自分の食材としての価値を、シャーディヤは知らないし興味がない。
だがシャーディヤは、花嫁の比喩にもなる捕らえられた羊が、祭壇で首を斬られて死ぬ様子は知っていた。
死んだイスハークと違って、きっとルェイビンは迷うことなく即座にシャーディヤを殺してくれるはずだった。
だからこそシャーディヤにとっては、ルェイビンに殺されるのは、イスハークに刀を突き付けられたときのように心がときめくものではなかった。
シャーディヤがルェイビンのことを好きにはならないように、きっとルェイビンもシャーディヤのことを可愛くて愛しいとは思わないのだろう。
ルェイビンは料理人であり、シャーディヤは食材である。
だからルェイビンは仔羊と屠るのと同じように、あの大きな手でシャーディヤの肩を押さえて、最後は首を切り落とす。
多くのもの失ったシャーディヤの手と、庖丁を握るルェイビンの手が重なることはなく、死はためらいもなくもたらされる。
しかしそれこそが神様が与えてくれた救済であり祝福であるはずなので、シャーディヤは神様に感謝した。
シャーディヤは神様が定めた生き方に従って死ぬのだから、当然幸せになるはずなのだ。
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