【短編小説】悪夢が見たい眠り姫
神聖な聖女として神殿の奥で育ったシェスティンは、神に祈ることに飽き、同じことを繰り返す毎日にうんざりしていた。
シェスティンが退屈を忘れることができるのは、幼馴染の騎士であるクルトと一緒にいるときだけである。クルトは敵国に家族を殺された、不幸な過去を持った青年だ。
クルトは聖女であるシェスティンに好意を抱いているようで、いつも騎士として幸せそうにシェスティンに仕えてくれる。
しかしシェスティンは不憫なクルトが好きなので、彼を幸せにさせないことにした。
1 信仰と貢ぎ物
「神に祝福され、永遠を与えられしあなたに、この供物を捧げます。あなたを通して、我々の祈りが神に届きますように」
祭壇を囲んで集まり並ぶ神官たちの祈りが、神の絵姿が描かれた礼拝室の高く広い天井に響く。
数多の金細工の燭台が吊り下げられた礼拝室の内部は、まるで金色の雨が降り注ぐように美しい。
その場所の信仰の対象として生まれた六歳の聖女シェスティンは、祭壇を見下ろす高い位置に置かれた椅子の上から、祈りに応えた。
「神に祝福され、永遠をあたえられし聖女であるわたしが、あなたたちの供物をうけとります。神の祝福が、あなたたちにもありますように」
いにしえから何万回と繰り返されてきた言葉を、シェスティンの未熟で甲高い声が紡ぐ。
金漆を塗った彫刻が端麗な木製の椅子は巨大であるので、シェスティンの短い足は地面に届かない。
神官たちが祈りを捧げ、シェスティンがそれに応えた通りに、赤い布が敷かれた祭壇の上には国中から集められた供物が捧げられていた。硬く焼かれたパンに、干した羊の肉、瑞々しい色をした青リンゴなど、供物の種類は様々でどの品も山のように盛られている。
その壮大な祭壇よりも目を引く美しさであるのが、聖女としての衣装を着せられたシェスティンの姿である。
シェスティンは長い絹のチュニックの上に、華麗な赤い花の文様が織り込まれた厚手のローブを纏い、胸元を宝石で留めて飾っていた。職人が長い月日をかけて仕立てたその服に見合うよう金色の髪は複雑な形に編まれ、あどけない顔には薄く化粧が施される。
周囲には黒衣を着た男の神官しかいないために、礼拝室の中央に座すシェスティンの可憐さは際立った。
贅を尽くした居場所に、恭しく仕える人々。豪華絢爛な服に、心の込められた貢物。
シェスティンは王と並んで尊い存在である聖女として、国で一番か二番に良い生活をしているはずである。
しかし神殿の外の人々の暮らしを見たことがないシェスティンは、その価値を大して理解してはいなかった。
(きのうも、きょうも、同じことばかりです)
あくびを噛み殺して決められた手順だけを守り、信じるべき神のことは考えない。
そんなシェスティンが神に最も愛されているとされる最高位の聖女であるのは、シェスティンがちょうど先代の聖女が死んだ年に誕生した王女だからでしかない。
シェスティンの生まれたユルハイネン聖国は大陸の北の凍土を統治しており、厳しい自然の下にある非常に信心深い国である。
人は毎朝毎晩に祈りを捧げ、神の教えを守って暮らす。
国家の中心には、王が住む城とは別に聖女が住む神殿があり、国中から集められる貢物も三割ほどは王都ではなく神殿のある土地に送られた。
王の城と同等以上の権威がある神殿の最奥で、聖女は永遠に穢れのない存在として、あらゆる危険から遠ざけられる。
そのためシェスティンは、ほとんど怪我も病気もしたことがない。
人に祈りを捧げられ、自分もまた祈りを捧げることだけが、痛みも苦しみも知ることがないシェスティンのすべてである。
(そしてあしたもきっと、同じことがつづきます)
どうしようもなく暇なシェスティンは、小さな赤い靴を履いた足をぶらつかせたい衝動に駆られたが、行儀が悪いのでしなかった。
毎日変わりのない日々を過ごすシェスティンには、いつも眠っているかのように考えることがない。
シェスティンが聖女としてこの神殿にやって来たのは、生まれてから数ヶ月後のことである。
赤子のままこの金色の椅子に置かれてから今日まで、シェスティンはほとんど神殿の中のことしか知らずに育った。年に幾度か行われる儀式で父親や兄弟に会うことはあっても、そこに肉親のぬくもりを感じたことはない。
「ここに贖いと慰めあり。我が穢れは清められ、神の御力はあなたに宿る」
低く心地良く響く声を重ね合わせて、神官たちがシェスティンを見上げる。
神官には若い男もいれば、年老いた男もいて、皆穏やかな表情をしていた。彼らは人一倍に信心深く、シェスティンを聖女として深く崇敬してくれている。
仕方がなくシェスティンも彼らと同じ表情をするのだが、きっと心の中まで同じにはなれなかった。
「神は聖なるわたしをむかえ、まことの糧をここにあたえたもう」
シェスティンは定められ、期待された通りに、神官の祈りに対応する言葉を思い出して述べる。
聖女として役目を果たすことを、楽しいと思ったことはない。だが祈ること以外に何も教えられたことがない幼いシェスティンには、選べるものは他になかった。
2 儀式の後
供物のための儀式を終えたシェスティンは、礼拝室の裏にある控室で儀礼用のローブを脱ぎ平服を着た。神殿は常に冬のような気候の土地に建てられているので、シェスティンは着替えても厚着である。
「クルトは、きょうはいないのですか」
灰色の毛皮でできた外衣のボタンを留めながら、シェスティンは近くにいた女官に尋ねた。
クルトというのは、シェスティンのお気に入りの騎士見習いの少年のことである。友と呼べる者が存在しないシェスティンは、暇があればいつもクルトを側に置いていた。
礼拝室にいた神官たちと同じ黒衣を着た女官は、儀礼用の衣装にしわができないようきちんと衣装棚に掛けながら答えた。
「彼は熱を出して、寝ています。昨日は剣の稽古でかなりしごかれたようですから」
シェスティンよりずっと年上の女官は、心配そうな口ぶりでクルトの姿が見えない理由を説明する。
しかしあまり身体が丈夫ではないクルトが寝込むのはよくあることなので、シェスティンは特に驚きはしなかった。
(かわいそうに。クルトはまた、なぐられたのですね)
留めたボタンを指でなぞっていじりながら、シェスティンはクルトのことを考えた。
クルトは神殿を守る騎士になるために集められた少年の一人で、大人の騎士たちの指導の下で仲間と共に厳しい訓練を受けている。その中で特に年少のクルトは、いつも叩かれたり打たれたりする側にいた。
だがシェスティンは、可哀想だからこそクルトのことを気に入っている。
「じゃあわたしは、クルトのところへいって、はやく治るようにいのってあげたいです」
顔を上げて女官を見上げ、シェスティンは殊勝な態度をとった。クルトが病人でもいいから会いたいだけなのだが、あくまで思い遣るふりをする。
案の定、女官は感心して微笑んだ。
「それはきっと、彼も喜ぶことでしょう」
神殿にいる大人は皆、シェスティンが聖女らしい言動をすることを喜ぶ。
シェスティンは子供だけれども、そのことをよくわかっていた。
「それなら、いってきます」
くるりと外衣を翻して、シェスティンは軽い足取りで控室を出た。
銀色のドーム屋根が美しい主聖堂を出てを向かう先は、クルトのいる騎士見習いのための宿舎である。
城壁で囲まれた神殿の敷地には、礼拝室がある中央の主聖堂の他に、シェスティンが住む館や書物が保管されている館など、さまざまな役割を持った建物があった。
シェスティンは走りたいのを我慢して、聖人たちの壁画が並ぶ回廊や、雪の降り積もった曇天の庭を歩く。
掃除をしている者も、家畜の世話をしている者も、すれ違うものは皆聖女であるシェスティンに頭を下げた。どんな役割を持った人間も、シェスティンには優しかった。
「シェスティン様が、今日も健やかでありますように」
「はい。すこやかでいます」
神殿にいる者は皆、シェスティンが健康に生きていることが、自分たちの幸福や平和につながるのだと信じて、敬意を払って平穏な生活を守ってくれる。
だからシェスティンも、すべての挨拶に微笑みを返した。
湖の中心に浮かぶ岩場の孤島に建てられた神殿は、本来聖女以外の女人が立ち入ることは許されない場所であり、シェスティンの身の回りの世話をする僅かな人数の女官以外は基本的に男しかいない。
そのため島全体に広がる神殿の敷地で働いているのは、どこを見ても男性ばかりである。
(でもわたしはどのおとこの人よりも、クルトがすきです)
シェスティンは誰にあってもクルトのことだけを考えて、先へ進む。やがて騎士見習いたちが住んでいる、石造りの宿舎が見えてきた。
3 少女と騎士
重く丈夫な木でできた扉を、シェスティンは両手で強く押して入る。中には薄暗く広い空間が広がっていて、いくつもの寝台が整然と並んでいた。
どの寝台でクルトが寝ているのかはわかっているので、迷うことなく空の寝台の横を通り過ぎる。
そしてシェスティンは、壁際に置かれた寝台の前に立った。分厚い毛布にくるまって眠っているのは銀色の髪のやせた少年で、それがクルトだった。
クルトは荒い息遣いで目を閉じていて、幸薄そうな顔は熱で赤かった。
起こすのは悪いかもしれないと思いつつ、シェスティンは来てしまったからには仕方がないと声をかける。
「クルト、だいじょうぶですか?」
大声を出したつもりはなかったけれども、他に誰もいない部屋ではシェスティンの声がよく響いた。
まるでシェスティンが何かの呪文を唱えたように、クルトの色の薄いまつ毛が震えて瞬きをする。
熱で潤んだ藍色の瞳に訪問者の姿を映すと、クルトはかすれた声でその名を呼んだ。
「シェスティンさま」
辛そうに緊張した顔で、クルトは覗き込むシェスティンを見上げる。
礼儀正しいクルトは、シェスティンが来たことに気がつくと、身体を起こそうとした。
だが上手く力が入らないようで、結局は横になったままである。
大人も使える大きさの寝台の上では、クルトはより一層子供に見えた。クルトはシェスティンより一つ年上のはずだったが、六歳のシェスティンよりも身体は小さくて細い。
「おれなんかのために、きてくれたんですか」
クルトは自信がなさそうな態度で、シェスティンに尋ねた。いつも傷つき臥せっているクルトは、謙虚というよりも自虐的である。
「だってクルトは、わたしのためにがんばってかわいそうな目にあってますよね」
小さな手でベッドの縁を握り、シェスティンはクルトを励ますつもりで目を輝かせた。
弱って辛そうにしているクルトの姿を見るのは後ろめたいけれども、心ときめくところもあるからこそシェスティンはここにいる。
「かわいそうではないです。先生たちは、おれをりっぱな騎士にするために、きびしくしてくださるんです」
クルトは仰向けに横たわったまま、目を閉じてやや心外そうに反論した。
起き上がれないほどに負かされることになっても、真面目なクルトが指導者や年長者を悪く言うことはない。実際にクルトの言う通り、神殿を守る騎士たちは信心深く職務に忠実なだけで、皆善良な者たちなのだろう。
だが自分を可哀想だと認めないからこそやはりクルトは可哀想なのだと、シェスティンは思った。
(だってどれだけかわいそうな目にあっても、クルトにはほかになにもないですから)
シェスティンは誰かに殴られた青あざを前髪で隠した、クルトの目元をじっと見つめた。
宿舎は頑丈で隙間風は入らない造りになっていたけれども、他に人がいないこともあり、空気は冷たく安らげる雰囲気はなかった。
伝え聞くところによると、クルトは南のオルキデア帝国との間で続いている戦争で家族を失った孤児で、彼自身も傷を負い瀕死でいたところを修道士に助けられ、この神殿にやって来たらしい。
敵兵がクルトの背に刻んだ傷跡を、シェスティンが実際に目にしたことはないが、それが深いものであったことは知っている。
シェスティンが聖女を務める神殿で治療を受けなければ、クルトは死んでしまっていたはずだった。だから自分の人生はシェスティンと神殿を守るために捧げなければいけないのだと、クルトは本気で信じていた。
(わたしは聖女だから、痛いきもちはわからないですけど)
病も怪我も、どんな些細な痛みも知ることがないように育てられたシェスティンには、痛めつけられたクルトの苦しみは想像できない。
シェスティンにとってはそれは当然のことで、後ろめたいものでもなかったが、それでもクルトを大切にしたい気持ちはある。
だからシェスティンはクルトのまめだらけの手をとって、そっと口づけをした。
するとクルトはシェスティンの行動に慌てて、手を毛布の中に引っ込めようとした。
「そんなこと、してくれなくても大丈夫です」
「いのることが、聖女のしごとですよ」
シェスティンはクルトの手を離さず、再び小さなくちびるを重ねる。冷えたシェスティンのくちびるには、熱を出したクルトの手は熱かった。
「神の恵み、あまねく満ち、くすしき御業をしめしたまえ」
ゆっくりとくちびるを離し、シェスティンは祈りの言葉をつぶやいた。
くちづけをしたいから祈ったのであって、祈るためにくちづけをしたのではないのだが、祈ってしまえばクルトは聖女であるシェスティンを信じるしかない。
「ありがとうございます。おれのしあわせは、シェスティンさまにあります」
深い畏敬の念を抱いた様子で、クルトはシェスティンに感謝を伝えた。
シェスティンはクルトに有難がられたいわけではない気がしたのだが、具体的に何をしてほしかったのかはわからない。
「おれはきっと、強くなりますから」
「はい。そうなるように、いのってます」
かたいクルトの手のひらが、白くやわらかいシェスティンの手を握る。
健気で一途なクルトの誓いに、シェスティンは微笑んだ。
別にシェスティンはクルトが弱いままでも構わないのだが、望まれているであろうことを言う。
聖女として祈り続ける退屈な日々の中で、クルトを愛でることだけが幼いシェスティンの楽しみである。
だから薄暗い宿舎の片隅でシェスティンは、再びクルトが眠りにつくまで祈るふりをして見つめていた。
4 平和の檻
昨日と変わらない今日を何千日も過ごし、やがてシェスティンは六歳の子供から十五歳の少女になった。
金色の髪はよりなめらかに伸び、灰青の瞳はより深く。細く小柄だが女性らしく成長したシェスティンには、あどけなさを残しつつも聖女らしくおごそかな美貌がある。
しかし大人の姿になってもやるべきことはそのままで、シェスティンは六歳のときと同じように神に祈り続ける日々を送っていた。
「神よ、我らは汝を称える。汝は貴き血をもって、信ずる者を救い給う」
神の姿を描いた金色の聖画を前にして、シェスティンは狭い祈祷室で一人蹲んでかじかんだ手を合わせた。そして昔よりも意味がわかるようになった祈りの言葉を、鈴の音に似た明るい声で唱える。
より多くの言葉を覚え、一人きりで祈る機会が増えたこと以外は、シェスティンは変化のない生活を送っている。
(だって祈る以外に、やることがありませんから)
小窓から差し込む淡い太陽の光は、冷えた石の床を暖めるには弱々しい。
だからシェスティンが着ている服は幼いときと同じ灰色の毛皮を使った外衣で、肌触りも何も変わらなかった。
「敵人は平伏し、神の民は喜ぶ。神は永久の平和を、我らに与え給う」
内容は理解できても、信じられるわけでもない言葉を、シェスティンはただ静止した視線を投げかける神の聖画に捧げる。
神の姿は濃い輪郭と鮮やかな色彩で描かれていて、全体を覆う金色の塗料が神々しい輝きを添えていた。
やがて定められただけの文章を言い終え、朝の祈りの時間を終えたシェスティンは、木の扉を押し開けて祈祷室を出た。
その先の回廊で立って待っているのは、もう騎士見習いではなく騎士になったクルトである。
「今日も俺たちのために祈ってくださり、ありがとうございます。シェスティン様」
何も疑うことを知らない、穏やかな微笑みを浮かべて、クルトは日課通りに行動しているシェスティンを迎えた。
十六歳になったクルトは、子供のころと違ってシェスティンより背が高く、黒いサーコートを着た姿もよく鍛えられて引き締まっていた。顔立ちも眼差しも男らしくなり、短く刈った銀色の髪には凛々しい藍色の瞳が映えて似合う。
「それが私の役目ですから」
シェスティンはごく自然に、クルトを隣に従えてわずかにイバラとアザミが茂る中庭に面した回廊を歩き出した。朝の祈りの後は、クルトと散歩をするのもまた、シェスティンの日課だった。
自分の意思ではなく、聖女の肩書があるから祈っているのだという返答は、謙遜ではなく純粋な本音である。
しかし立派な青年に成長しても純粋で疑うことを知らないクルトは、シェスティンが本心では神に対して無関心であることがわからない。
「だけど本当に俺は、シェスティン様に仕えることができて幸せです」
クルトはシェスティンを護衛する騎士として、真面目な顔をして隣を歩く。
「シェスティン様さえいれば、俺は救われますから」
そう言ってクルトは、シェスティンに重い敬意と愛情を向ける。
聖女であるシェスティンはどんな些細な傷も負ってはならない存在であるので、クルトは危険のほとんどない神殿にいてもシェスティンの騎士として生きるのだ。
こうしたやりとりを百回以上はしたような気がして、シェスティンは飽きる。
しかし同じ話を何回することになっても、シェスティンは自分のために生きてくれるクルトが好きだった。弱々しく涙ぐんでいる子供ではなくなってしまっても、忠誠心以外に何も持たないクルトが好きだった。
回廊を抜けた先に続く外の石段を上がり、神殿のバルコニーに二人で立ち入る。
神殿がある湖の中の孤島は緑の少ない岩場ばかりの土地で、船が出入りする入り江以外は切り立つ崖になっている。
バルコニーはその崖を上から見下ろす位置に作られていて、眼下にそびえる城壁は神殿の敷地全体を守るように島を囲んでいた。
敵から身を隠しながら攻撃するための胸壁の狭間に手をおいて、クルトは深い藍色の瞳に湖を映す。
「今日も湖が綺麗ですね」
「本当に、何もかもが昨日と同じです」
まぶしそうに瞬きをしているクルトとは対照的に、シェスティンは静かに毛皮の外衣の襟を抑えて湖を眺めていた。
岩崖に打ち寄せる波は穏やかで、湖は薄い晴天の光を映して白く向こう岸まで広がっている。
(ここからの眺めには、知っているものしかありません)
目の前の湖のように凪いだ気持ちで白い息をつき、シェスティンは色石で飾った革の靴で城壁の影を踏む。
時折吹く風は刺すように冷たいが、湖は年中なぜか凍ることなく孤島を囲んでいる。
神殿の紋章を掲げた船に乗る騎士が操舵の訓練を兼ねて網で魚を獲っているのも、黒い鳥の群れが視界を横切っていくのも、いつもと同じ湖の景色である。
「鳥もこの神殿とシェスティン様を、きっと守ってくれています」
クルトはその景色を、毎日飽きもせずに嬉しそうに見つめる。
聖女であるシェスティンと神にすべてを捧げることができる、この神殿での生活こそが最も大切な幸せなのだと、クルトは本気で思っているようだ。
一方でシェスティンは、クルトと違って見ている景色を好きになれないし、自分が幸せだとも思えない。
だがシェスティンはクルトが好きだから、彼の期待を裏切らないようにバルコニーからの眺めが好きなふりをした。
「きっと、そうなんでしょうね」
鳥を目で追い、シェスティンは微笑む。
シェスティンは神のことは信じてはいなかったが、自分の地位が人を動かすことは知っている。
だからシェスティンは寒くなって部屋の中に戻りたくなっても、クルトの楽しそうな横顔に付き合った。
5 一つの異変
変化のない日々が続く神殿の中で生きるシェスティンが珍しく変化を見つけたのは、供物が捧げられる儀式が礼拝室で行われたある日のことである。
シェスティンはいつもと同じように赤い花の文様のローブを纏い、今はちょうどよい大きさになった金色の椅子に座った。
高い位置に置かれた椅子から見下ろせば、黒と白のモザイク文様が美しい床に整列して立つ、変わらない顔ぶれの神官たちが見える。
シェスティンはその手前にある祭壇に積み上げられたパンや干し肉を見て、その高さが普段よりも低いことに気づいた。
(明らかに、供物が少ないような気がしますが)
山のようにあるはずの供物の量は減り、ささやかな盛り合わせのような様子で、祭壇上に載っている。
シェスティンは無言で、儀式に起きている異変に視線を注いだ。
理由を問うつもりはなかったが、自然と表情は奇異なものを見るときと同じになる。
すると神官のうちの年老いた一人が、シェスティンの前に進み出て説明を始めた。
「オルキデア帝国の軍が北上している影響で、一部の土地からは貢物が運べなくなっております。西の王都から派遣された軍が敵を後退させれば解決すると思われますので、シェスティン様は我が国の勝利をお祈りください」
老人の神官はしわだらけの顔をしっかりと上げ、妙にはきはきした態度で戦況について説明した。
神殿が建っているのは湖の中の孤島であるので、通常であれば供物となる食料は対岸で集められて船で運ばれる。
だがシェスティンが知らないうちに、敵であるオルキデア帝国が対岸で勢力を伸ばし、貢物が神殿へと運ばれる経路を分断していたらしい。
(そういえば、この国はずっと昔から戦争をしていたのでした)
日々の暮らしがあまりにも平穏で忘れていた事実を、シェスティンは老人の言葉によって思い出した。
クルトがこの神殿に来たのもオルキデア帝国との戦争があったからであり、自分とも無縁な話ではないはずなのだが、敵を見たことがないシェスティンには戦争が身近なものには思えない。
「かしこまりました。私は侵略者の死と、神の民である我々の勝利を祈りましょう」
敵を恐れるための知識に欠けたシェスティンは、冷静に聖女としてとるべき態度をとった。
燭台に光の下にいる神官たちの顔は概ね落ち着いた様子だったが、何人かは不安や怯えを隠しているようにも見える。
しかし神官たちが守る信仰が正しいのであれば、シェスティンが祈ればユルハイネン聖国が敵に負けることはないはずだった。
(だけどこの国が勝てば、また昨日までと同じ日々が続くってことですよね。それはちょっと、嫌かもしれません)
シェスティンは平和を好む優しい聖女ではない。だから戦争によって起きている異変が退屈な生活を打ち壊すことを内心期待したのだが、それは人に知られてはならない望みであった。
「では、始めましょう」
宝石付きの手袋をはめた手を上げて、シェスティンは儀式を開始する合図を出す。
そして神官たちは老いた者も若い者も手を合わせて、祈りの言葉と少なくなった供物をシェスティンと神に捧げた。
椅子に座って彼らを見下ろすシェスティンも神に戦勝を祈るために目を閉じたが、心の底では敵のオルキデア帝国の軍がこの神殿までやって来ることを願っている。
彼らが現実に戦場で何をしているのかをよく知らないからこそ、シェスティンは敵というものに会ってみたかった。
6 戦火の影
シェスティンの祈りが通じなかったのか、それとも通じたのか。
それから数週間の間にオルキデア帝国はユルハイネン聖国を順調に侵略し、前線は神殿に近づいた。
戦場から来た伝令のほのめかしたような説明をよく聞けば、どうやらオルキデア帝国の軍に神殿が包囲される可能性も出てきたらしく、シェスティンの周囲は物々しい雰囲気に包まれる。
危機を知った神殿の住民たちは敵の接近に備えて入り江に防塁を築き、魚を塩漬けにして供物が減った分を補う食料の備蓄を始めた。
騎士たちも各々の武器や船の具合を確かめて、より一層実践に近い訓練をする。
聖女として清らかに生き続けなければならないシェスティンを敵から守るため、人々が命をかけるときが徐々に近づきつつあった。
その特別な雰囲気の中でシェスティンは、湖上の船の上で他の騎士たちと剣の手合わせをしているクルトの姿を、戦勝祈願のために特別に上った円塔の階段の踊り場の窓から眺めていた。
薄雲から差す陽の光に照らされた湖面の上を、幾艘もの小船が進む。その船首に星を象った銀の飾りをつけた船の上では鎧を着た人影が弓で的を狙い、剣を振るう。
塔の窓から遠く小さな粒のような大きさでしか見えなくとも、異常に物がよく見えるシェスティンの灰青の瞳ならクルトがどこにいるのかがわかった。
(どんなに他に強い騎士がいても、私にはクルトが一番です)
クルトは両手持ちの大剣を握り、もう一人の剣を受けていた。さすがに表情までは見えなかったけれども、きっと真剣な眼差しをしているのだと想像する。
今まで見たことがないクルトが見えるのなら、戦争はやはり悪くはないものだとシェスティンは思った。
「熱心に外をご覧になっているのですね」
戻りが遅いことを気にした女官が、階段を上がって来てシェスティンに声をかける。
「騎士たちの訓練を見てるんです。彼らはこの神殿と私を守るために、これから戦ってくださるわけですから」
本当はクルトしか見ていなかったけれども、シェスティンは騎士たち全員を見ているふりをした。
すると根が素直な女官も、「そうですね」とシェスティンに倣って訓練中の騎士たちの船を窓から見つめた。
女官はシェスティンよりも年上だったけれども、戦争についての知識はそれほど持っているわけではなさそうだった。
(私の方も、戦術や戦略が理解できるわけではないですが)
窓の縁に白く細い指をかけて、シェスティンは騎士としてのクルトの役割について想いを馳せる。
風はないものの空気は冷たく、孤島は人が湖に落ちれば凍えて死ぬ気候であった。
(そう言えばこの冷たい湖では、死体が腐らず永遠に形が残ると聞いたことがあります)
シェスティンは、以前に神官たちから習った島の自然の話を思い出していた。
かつてこの地であった戦争でもやはり、騎士や神官たちが聖女を守るために死んでいて、その死体は湖の深い流れをそのまま漂い続けているらしい。
今回の戦でまた大勢の人間が戦って死んだとしても、勝てる保証はどこにもない。
ひょっとすると本当に、オルキデア帝国はユルハイネン聖国の信仰の中心であるこの神殿を征服してしまうのかもしれなかった。
しかしシェスティンは、書物でしか読んだことがないような死と破壊が近づいているとしても、敵を恐れる気持ちにはなれない。
シェスティンにとって怖いのは何も起きないことであり、何かが起きてくれればそれが何であっても良かった。
だからシェスティンは窓からクルトの姿をしばらく見て、飽きたらさっさと階段を下った。
7 雪のお菓子
それから祈祷を済ませて塔を降りたシェスティンは、日課の朝の散歩の代わりに、船上での訓練を終えたクルトをバルコニーに呼ぼうとした。
しかし急に雲が厚くなって雪も降り出してきたので、結局二人は図書棟の書斎で会った。
図書棟の書斎はかつてシェスティンが神官たちの授業を受けていた場所で、二つの机と教科書にしていた古い本が収められた本棚が置かれた狭い部屋である。
授業を受ける機会が減ってからは、シェスティンはクルトと会うためにその書斎をよく使っていた。
「今日は特別に、お菓子とお茶を用意してきたんです」
本来は本を読んだり文章を書いたりするためにあるはずの机の天板に、シェスティンは温かい金属製のポットや紙で包んだ菓子の入った籠を置いた。
「ここで二人で食べましょう」
シェスティンは自分とクルトのカップを並べて、ポットから爽やかな匂いのお茶を注ぐ。
向かいの席に座るクルトは、籠の中の菓子をじっと見つめていた。
「お菓子を見たのは、久しぶりです」
「最近は厨房も、食料を節約してますからね。これは私の部屋の戸棚に残っていた分です」
一つの菓子を籠から取り出し、シェスティンはその包み紙をといた。中に入っているのは真っ白な粉砂糖をまぶした、丸い雪の玉のような菓子である。
以前は食べる機会も種類も豊富にあったお菓子も、オルキデア帝国の侵略がひどくなってからは手にするのが難しいものになった。
シェスティンは特別に融通してもらっていた分まだ食べることができるが、聖女でなければ何も手元にはなかっただろう。
「確か、クルトの好物ですよね」
白く丸い菓子を手のひらに載せて、シェスティンはクルトに訓練を頑張っている褒美の気持ちで差し出した。
与えられたから持っているだけで、シェスティンは別にそう菓子が好きではないし、そもそも食べることにそれほど思い入れがない。
自分の手でクルトにお菓子をあげるのが楽しいのであって、砂糖の甘さにはそう興味はないのだ。
「はい。俺が好きなお菓子です」
精悍な顔にやわらかな表情を浮かべて手を伸ばし、クルトはシェスティンの細い手に載ったお菓子に触れようとした。
クルトが甘いものに目がなく、特にこの白く丸い菓子を好んでいることを、シェスティンは知っていた。菓子を食べることができる機会が減った今なら、クルトはより喜んで菓子を手にすると思った。
(美味しそうに菓子を食べるクルトは、それは可愛いですからね)
しかしシェスティンの期待に反してクルトは途中で遠慮した態度をとり、菓子には触れずにシェスティンの手を両手で包む。
そして名残惜しそうに笑顔を作って、クルトはシェスティンに優しい声で話しかけた。
「……だけど俺は、お茶だけにしておきます。戦争を控えた今、甘いものは貴重ですから、お菓子はシェスティン様だけでお召し上がりください」
そう言って菓子を譲るクルトの手は大きく温かいが、眼差しは哀愁を帯びてシェスティンに向けられている。
クルトはシェスティンが甘味や食事に執着がないことを知らずに、守るべき聖女から貴重な食料を奪ってはいけないと、戦争を目前にして自制していた。おそらく他の騎士を差し置いて自分だけが贅沢をすることはできないと、我慢しているところもあるのだろう。
(戦争があるというのは、こういうことなのですね)
好物を口にしないクルトを前にして、シェスティンは自分の置かれた状況が平和から遠ざかりつつあることを実感した。それはシェスティンにとっては意外で、現実がよくわかる結果だった。
だがシェスティンは必要以上には深く考えずに、クルトに勧められるままに、菓子をつまんだ。
「ありがとうございます。では、私だけでいただきます」
クルトの苦悩にはあえて気づかないふりをして、粉砂糖を落とさないように注意しながら、シェスティンは菓子を口の中に放り込む。
神殿のある島は年中寒く虫も少ないため、古い菓子もある程度は安心して食べることができた。
(普通に、甘いです)
アーモンドの香りをほのかに残して、丸く白い菓子はほろりともろく口の中でくずれる。
雪のようにほどけていくその甘さは、きっと一部の人間にだけ許された贅沢な味なのだと思われた。その価値を言葉で理解してはいても、シェスティンはそれを美味しいとは思わない。
だが菓子をよく味わって目をあげると、クルトが切なげな表情でこちらを見ていたので、シェスティンは満足する。
(これはこれで、悪くはありません)
クルトが切実に考えているのはおそらく、戦争でシェスティンが菓子を食べられなくなる日のことであり、自分が菓子を食べられないことではない。
それでも菓子が好きなクルトの前で、クルトの好きな菓子を食べるのは、シェスティンにとっては面白かった。
「クルトは偉いですね」
「何でしょうか。いきなり」
シェスティンはクルトを無意味に褒めて、菓子の代わりの褒美にする。
不安そうな顔でクルトは意図を尋ねたが、シェスティンは答えることなく二つ目の菓子を手にとった。
カップに入ったお茶からあがる湯気が温かな一方で、狭間飾り付きの窓の外では冷たく白い粉雪が地面に降り積もっている。
その雪を見ながらシェスティンは、雪と同じ色をした菓子の口溶けを味わった。
8 空っぽの祭壇
供物が減った日から数カ月後。
シェスティンはとうとう今度は、何の供物も載ってない祭壇を見ることになった。
戦況は悪くなる一方であり、湖上の島に建てられた神殿は敵の包囲により完全に孤立してしまった。敵に支配された対岸からは、一切何も送られてこなくなったのだ。
台を覆う布の赤さだけが際立つ空っぽの祭壇を前に、儀式を始めるために集まった神官たちはしばらく皆黙っていた。
シェスティンも自分が言うべき言葉を考えていたが、すぐには見つからなかった。
しばらくしてやっと、一人の壮年の神官が神妙な顔で口を開いた。
「この神殿は難攻不落。我々にもまだ勝機はあります。シェスティン様が健やかに生きてこの地にいる限り、敗北はありえません」
壮年の神官は勇ましい言葉でを周囲を鼓舞しようとしていたが、他の神官もさすがに暗い顔をした者の方が多かった。
シェスティンが聖女として健康に過ごしていれば幸福や平和が守られると、この期に及んでも本気で信じているのは、信仰深いというよりは現実が見えない者だろう。
(これから強大な敵と戦わなくてはならないのに、食料も武器も何もこの島に届かないのですから、不安になるのは当然でしょう)
冷めた他人事のような気持ちで、シェスティンは神官たちを高座から見下ろしていた。飢えの苦しみを知らないシェスティンには、状況の深刻さは理屈でしかわからない。
しかしシェスティンもまた勇気づけなければならない立場にいるので、本心は隠して取り繕う。
「神はときに、神の民の忠誠心を試されます。苦難が続く今こそ、我々は信心深くあらねばなりません。勝利が与えられるまで、我々は祈り、戦いましょう」
穏やかな態度を保ちながらも、シェスティンは考えた末に抗戦を唱えることにした。
それが道徳的に正しい道であると、シェスティン自身が信じているわけではない。だがシェスティンの知る神の言葉は結局、死ぬまで戦う結論しか導かない。
そしてその神の言葉を語る聖女であるシェスティンの選択は、自然と神殿全体の選択になる。
だから壮年の神官の言葉にはただ不安げな顔をしていた者たちも、シェスティンの言葉には従って、シェスティンの求めた通りに祈りを捧げた。
「あなたを通して、我々の祈りが神に届きますように」
低く調和した神官たちの声が、礼拝堂に響き部屋全体を包む。
聖女が清らかで穢れのない存在として生きて続ければ平和は保たれるのだと、彼らは嘘でも信じてシェスティンを守るしかない。
シェスティンの役割が聖女として神に祈ることであるように、彼らの役割は神官として神と聖女の力を信じることなのだ。
結局建前で成り立っている信仰の場の中で、シェスティンはむなしさを感じていた。
しかし祈りに背を向けて神殿を去ることは聖女には許されてはおらず、シェスティンは生きてその椅子に座り続けなければならなかった。
9 聖女が破滅を望む理由
対岸の戦場から何とかやって来た伝令の報告によれば、王都からの援軍は約束通りに送られてはいたらしい。ユルハイネン聖国の第二の中心である神殿を守るため、援軍には精鋭が集められていた。
しかしオルキデア帝国の軍隊も練度が高く、ユルハイネン聖国にはない優れた火薬兵器で武装していた。
そのため対岸の森で両国の軍が衝突し戦闘が始まった結果、ユルハイネン聖国の兵士たちはオルキデア帝国に完敗し散り散りになってしまったようである。
(ここではないどこかの戦争の結果がどうであれ、私のやるべきことが変わるわけではありませんが)
結局は儀式と祈祷で過ぎていく一日を終えて、シェスティンは自室で寝台の毛布にもぐった。
シェスティンの自室は白い石造りの居館の奥にあって、暖炉のぬくもりが行き届く広さの部屋には、細やかな彫刻の装飾が上品な木製のテーブルやチェストが配置されている。
そして壁にかかった小さな聖画の下に置かれた寝台の上には、藍色の布に金糸で神殿の紋章を刺繍した豪奢な覆いがかかっており、そこで眠る人物は神々しく見えるようになっているはずだった。
(いつも聖女らしい姿でいることが、私の務めですから)
程よい固さの枕に預けて目を閉じ、シェスティンは他人から見た自分の姿について考えながら眠りについた。
昨夜と同じ夜であるのなら、シェスティンはそのまま寝て朝を迎えるはずだった。
だがその夜は毎日過ごしてきた夜と違って、シェスティンが寝入ってしまう前に誰かが扉を叩いた。
それはためらいがちな、小さな音だった。
「そこにいるのは、どなたですか」
シェスティンはこれまで、眠りを妨げられたことがなかった。初めて経験する状況に、シェスティンは身体を起こして要件を尋ねた。
「俺です。クルトです。ここに来てはいけないのに、申し訳ありません」
返ってきたのは聞き間違えるはずのない、声変わりをしてからは毎日聞いているクルトの声である。
心のどこかで予見していた通りの人物の訪問に、シェスティンは胸元をリボンで結んだ白いガウンのまま寝台を抜け出て扉を開けた。
暗い廊下にいたクルトは普段と変わらない黒色のサーコートを着て、悲壮な顔をして立っていた。
シェスティンはクルトの深刻な表情を見て、戦況はいよいよ本当に絶望的なのだと理解した。
「どうしてわざわざ、私の部屋に来てくれたのですか?」
本来は男性は聖女であるシェスティンの寝室に立ち入ってはいけないのだが、シェスティンはそのことは何も言わずにクルトを部屋に通した。
「わかりません。もうすぐオルキデアと戦うことを考えていたら、急にシェスティン様に会いたくなったんです」
まるで子供の頃に戻ったように藍色の瞳を潤ませて、クルトは俯いたまま扉の近くに立ちすくむ。
「明日はまだ、きっと普通に会えます。でももうあと何回、生きてシェスティン様と過ごせるかわからないですから」
そう言ったクルトの瞳から、早くも一粒の涙が落ちる。
クルトの言う通り、明日はまだ二人で何事もなく会うことができるはずだった。
敵軍の攻撃により多少の変化があっても、昨日まではそうだった。
しかし近いうちに訪れるオルキデア帝国の攻撃によってそうした日々が終わることを恐れ、クルトは規則を破ってまでシェスティンの寝室に来たのだった。
(そんなに思い詰められるとちょっと、どきどきしてしまいますね)
戦火が迫りつつあるからこそ触れることができたクルトの弱さに、シェスティンは心をときめかせた。
しかしそうした夜の闇に急に孤独を感じる子供のようなクルトの感性が好きだからこそ、シェスティンはその好意を表には出さずに敵に怯えるふりをする。
「かつての平和が二度と戻らないほどに、敵は恐ろしく強いのですか」
シェスティンはわざと声を震わせて、弱々しくよろめいた。
するとクルトは慌てて、シェスティンを抱きとめて寝台に座らせる。
一瞬触れたクルトの腕は、力強くたくましかった。
そのままシェスティンがクルトの手を握って離さないでいると、クルトは床に跪いた。
「すみません。でも俺たちは、シェスティン様を絶対に死なせません。シェスティン様は生きてこの国のために、祈り続けるべきお方ですから」
クルトは涙をこらえ、凛々しい表情を作ってシェスティンに誓いをたてる。
騎士であるクルトがシェスティンを死なせないと誓うのは、クルト個人の忠誠心を示したものでもあり、ユルハイネン聖国全体の信仰に従った結果でもあった。
聖女であるシェスティンは、絶対に穢れてはならない尊い存在として、一切の傷も負わないように神殿で守られ続けてきた人間である。
信仰の教義ではとにかく聖女に傷をつける行為は否定されるため、敵に奪われる前に聖女の命を断つ、という選択肢は最初から存在はしない。
女官は自害したり逃走したりすることを多少は許されていても、聖女は死なずに神殿で生きる努力をすることが求められるし、騎士はそうなるように聖女を守らなくてはいけない。
だから騎士であるクルトは文字通り、全てを捧げて聖女であるシェスティンを守ってくれるはずだった。
「母さんや妹がオルキデアの連中になぶり殺しにされたとき、俺は痛くて怖くて床で震えてることしかできない子供でした」
クルトはシェスティンの手を握り返すと、決意を秘めた様子で、悲惨な過去を語り始める。
それは随分前から知っている話だったけれど、本人の口から聞くのは初めてだったのでシェスティンは嬉しかった。
だが自分の嗜虐的な趣向を知られたくはないため、沈痛な面持ちで黙り込む。
跪いているクルトの輪郭を暖炉の光が照らすのを、シェスティンはただ見つめていた。
「刃が人の肉を刻む音を、傷から流れる血の温さと冷たさを、俺は忘れません」
今までで一番辛そうに声を絞り出し、クルトは敵に襲われた経験を鮮明に述べる。
家族の情を知らずに育ったシェスティンには想像できないが、親や妹を目の前で殺されるのは普通の子供にとっては悲劇である。背中に深い傷を負いながら、死なずに生きていたのも相当な苦痛だったはずだ。
だからクルトはシェスティンを真剣に想っているからこそ、思い出すのも苦しい記憶を明かしてくれているのだろう。
(剣で斬られるのは、どれくらい痛かったのでしょうか)
シェスティンは同情ではなく、純粋な好奇心でクルトの受けた痛みを想像した。
武器によって与えられる苦痛の大きさに興味を持つほどに、シェスティンは痛みを知らずに育った。
怪我とも病ともほとんど無縁に、安らぎしかない生活を生きてきたシェスティンにとっては、暴力は退屈を忘れさせてくれる未知のものである。
この先にどんな未来があるとしても、シェスティンにはクルトの受けた痛みがわからないように、クルトにもシェスティンの倦んだ気持ちがわからないだろう。
クルトの藍色の瞳から、一筋の綺麗な涙が流れる。その涙をぬぐわず、クルトは震える両手でシェスティンの手をより強く握りしめる。
硬く大きな手の感触に、シェスティンの鼓動は高鳴った。
「でもだからこそ今の俺は、昔よりも強くて、誰かを守る力があるはずなんです。シェスティン様が俺を、救ってくださったから」
精一杯の声と表情で、クルトは男らしく振る舞っていた。
クルトがシェスティンに救われたと思っているのは、シェスティンが心優しい聖女のふりをしていたからである。そのため実際に優しいわけではないシェスティンは、自分の存在がクルトを救ったと言われてもぴんとこないところがあった。
だが自分にとっては檻のように煩わしかった退屈な日々が、クルトにとっては幸せで満ち足りた世界だったことはわかっている。
だからシェスティンはクルトの理想であり続けられるように、とびきりの儚い微笑みで偽った。
「はい。クルトは、とても強くなりましたね」
普段よりもより一層やわらかな声で、シェスティンはクルトの全てを肯定した。クルトの努力を認めたい気持ちは嘘ではなかったが、本当のところはもっと欲深い愛情を持っている。
その本音を抑制したシェスティンの言葉に、クルトはぽろぽろと涙を流して頷いた。
「シェスティン様が祈ってくだされば、俺は死んでも負けません」
そうつぶやいたクルトは、疑うことをまったく知らない瞳をしていた。
神に愛された聖女には特別な力があるのだと、敵の包囲を前にしてもクルトは本気で信じている。
頼りになりそうな青年に成長しても本質的なところは変わらないクルトが愛しくて、シェスティンは身体を震わせた。
(私に皆を幸せにする力なんてないと、私は知ってますけどね)
シェスティンが病も怪我もほとんど知らずに生きてきたのは、もしかするとやはり神に愛されてた聖女だからなのかもしれない。
しかし定められた通りに祈り続けてきたのにも関わらず平和が脅かされている今、シェスティンは自分に人々が救う力があるとは到底思えなかった。
もしも聖女が命を捨てて守る価値がない非力な存在であるのなら、クルトがシェスティンのために死ぬ必要はないはずである。
だからシェスティンは、クルトには死なずに生きていてほしいと願っていた。
生きて酷い目にあって、これからも可哀想な存在であり続けてほしかった。
その想いの綺麗なところだけを見せて、シェスティンは握られてない方の手でクルトの短く刈った銀髪の髪を撫でた。
「私はクルトに、死なないでほしいです」
「シェスティン様は、優しいですね」
素直で控えめなクルトは、シェスティンの真意を勘違いしたまま、これ以上は泣くまいと顔を伏せる。
シェスティンはそのほどよく硬い髪の感触を指で楽しみ、何もかも捧げて跪いているクルトを愛でた。
精悍な顎も、太い眉も、優しい目元も、クルトの全てがシェスティンの手の下にある。
(ですけどやはり、私のために死ぬクルトの姿も見てみたいですね。昔みたいに、瀕死でも生きてくれたらいいのですが)
シェスティンは聖女に仕える騎士として散るクルトの死に様を想像して、胸の奥が熱くなった。クルトのことが好きだからこそ、その死は甘美なものに思える。
そしてシェスティンはよりクルトを側に感じたいがために、そっと耳打ちするように顔を近づけてクルトにささやいた。
「私は祈って願うことしかできない、無力な聖女ですから」
その適当な受け答えは、クルトには自己犠牲的な意味に響くのかもしれない。
しかしシェスティンは、儚く端正な美しさで微笑みながらも、歪な願望を抱えていた。
「シェスティン様……」
クルトが消え入りそうな声でシェスティンの名前を呼んで、顔を上げる。
悲壮な覚悟を秘めた眼差しに射抜かれて、シェスティンは一瞬我を忘れた。
(そんな顔されたら、より好きになってしまいます)
シェスティンは湧き上がった衝動に従って、そのままクルトのくちびるに口づけをした。半分残っている理性は、死が近づきつある今なら多少強引でも許されるのだと冷静に計算している。
寒い夜の来訪者であるクルトのくちびるはほんのりと冷たく、暖炉で暖まっていたシェスティンには気持ちが良かった。
何事も相手の意思を優先してくれるクルトは、突然の口づけを受け入れて、目を閉じてシェスティンのか細い身体を抱きしめた。たどたどしくも、力強い抱擁だった。
勢いに任せてシェスティンは寝台に倒れてみたが、純朴なクルトが相手ではその先は存在はしない。しかしシェスティンはクルトの鍛えられた腕の中にいるだけで、十分に満足することができた。
(私と違ってたくさんの痛みを知ってる、可哀想なクルト)
シェスティンは暖炉の火に赤く照らされた天井を見上げながら、クルトの背中にあるはずの、まだ見たことがない傷跡を服越しになぞった。
クルトが声を押し殺して泣いているのは、優しく美しい聖女であるシェスティンが、戦争の犠牲となって無残に死ぬかもしれないことが辛いからである。
オルキデア帝国の軍がこの神殿に攻め込めば、クルトだけではなく自分の命も危ないことは、戦争を知らないシェスティンもさすがに理解していた。
しかしシェスティンはクルトと違って、敵に殺されることを恐れてはいない。
聖女として野蛮なものから遠ざけられて育ったシェスティンは、むしろ暴力を振るわれてみたいとさえ思っていた。
(このまま何も変わらない毎日を生きるよりも、知らないことを知って死にたいですから)
シェスティンは痛めつけられたことがないので、痛みがどういうものなのかを知りたかった。
苦痛も恐怖も懊悩も全部、今まで与えられなかったものに触れてみたかった。
孤島の神殿のしきたりを守って、運命に従順に生きてきたけれども、この狭く退屈な世界を敵が壊してくれるのならそれを歓迎したかった。
(だから私は、怖くはないです)
シェスティンはクルトの大きな身体のぬくもりに身体を預けて、敵に蹂躙される日のことを考えた。
もしも自分が敵に残酷な仕打ちを受けるのなら、シェスティンはその姿をクルトに見てほしい。逆にクルトが無慈悲な扱いを受けるのなら、シェスティンがその姿を必ず見たい。
シェスティンの願望は、そういう類のものだった。
やがて口づけを終えたシェスティンは、かよわく健気な言葉を選んで目を潤ませた。
「私を守っても、きっと生きてくださいね」
「はい、命を尽くします」
そう言ってクルトは、シェスティンの長い金の髪を大切そうに撫でた。
クルトの黒い衣と、シェスティンの白い衣が、やわらかな寝台の上で溶けるように重なる。
お互いにそれ以上は何も望まず、騎士と聖女は目を閉じ黙って抱き合っていた。
あとは火の燃える音だけが聞こえて、静寂さを引き立てた。
10 いずれ終わる土地の朝
包囲を続けていたオルキデア帝国はその後、対岸で攻め込むための船の準備を整え、神殿は数日以内に攻撃されるとの予測が立てられた。
神殿は食料も武器も不足しており、勝利は非常に遠い状況にあると騎士も神官も思っている。
しかし状況がどれほど切迫しても、聖女であるシェスティンの食事の量が減ることはなかった。
シェスティンは居館の食堂で、普段と同じように侍女が運んできた朝食を食べている。
食後には大きな儀式があるため、シェスティンは金地に緑の葉の刺繍が施された重いローブにビーズを連ねた首飾りを重ね、髪は宝石で縁取ったヘアネットでまとめて席についた。
「神よ、この食事を祝福してください。そして我々の命を支える、聖なる糧としてください」
古い聖人たちの絵が描かれた壁を背にして、シェスティンは手を合わせて食卓に祈る。
食堂は何十人も入れるほどに広いが、シェスティンと侍女しかそこにはおらず、木製のテーブルに載っているのもシェスティンの分の朝食だけである。
(他の方々が我慢してくれているおかげで私が食べることができるのですから、感謝をするべきなのでしょう)
シェスティンは祈り終えると、テーブルの上に置かれた金属の器の中を覗いた。中に入っているのは、たっぷりと盛られたミルク粥である。
ぐつぐつに白いミルクで煮込まれた麦粥は、中に干しぶどうや胡桃が混ぜられていて、見た目も豪華で甘い匂いがした。
(でも私は、別にミルク粥も好きではないのですよね)
たいした感動もなく、シェスティンはミルク粥に添えられているカップに入った牛乳をかけた。
食べやすく冷ますために冷たい牛乳を加えるのが、シェスティンの知っているミルク粥の食べ方である。
シェスティンはぬるすぎるのは苦手なので、ごく少量の牛乳をかけた。そしてまだ熱いところが残っているうちに、匙で粥を口に運んだ。
(やはり、美味しくはないです)
熱い粥と冷たい牛乳が混ざり、シェスティンの舌の上を通る。
噛めば麦はふるふるとやわらかく、シナモンで香り付けされたミルクは淡く甘い。
そして胡桃の歯ざわりと、ねっとりとした干しぶどうの濃い味が、ミルクの甘さに変化を添える。
シェスティンの食卓に置かれたミルク粥は、厨房の料理人が聖女のために心を込めて作ってくれた、そうした上質なものである。
だからそのミルク粥を美味しく食べることができないのは、すべてシェスティンの問題だった。
シェスティンは食べることが好きではなく、そもそも生きることが好きかどうかも怪しい。
それでも選ばれた聖女として供物を捧げられ何の苦労もせずに生きてきたシェスティンには、飢える民衆の苦しみも、死にゆく兵士の悲しみもわからない。
食事も服も住まいも、すべてを与えられすぎたシェスティンには、その幸福がわからない。
シェスティンは、苦しみのない苦しみの中にいた。
(だからきっと、過剰な不幸が羨ましくなって、クルトに惹かれるのでしょう)
粛々と器の中の粥を空にしながら、シェスティンはクルトのことを考えた。クルトは他の騎士たちとともに、シェスティンよりも粗末な朝食をとっているはずだった。
敵に家族を殺されて喪失を知ったクルトは、奪われることを恐れて強くあろうとした。
しかしシェスティンは与えられたことしかないので、奪われる弱者になりたいと思っている。
そしてその願いを実現できる破滅のときは、もうすぐそこまで近づきつつあった。
「もうそろそろ、終わりですね」
シェスティンは昨日と変わらない曇天を眺めて、侍女に話しかけた。
「はい、お粥は足りていましたでしょうか」
終わるのはシェスティンの食事だと考えた侍女は、ずれた質問を返す。
間違いを正すのも面倒で、シェスティンは頷いた。
「ええ、十分にありました」
そう言ってシェスティンは、最後の甘い一口を食べた。
黄金色の朝日が差す四葉飾りの窓の外では、風が音を立てて吹いている。
終末を願っていたシェスティンは、オルキデア帝国の攻撃によってすべてが破壊されるときが近づくごとに、逆に神の存在を信じられる気がしていた。
あまり好きではなかった世界も、そのうち滅びるとわかれば少しは好きになれる。
敵の兵士が目の前に現れたそのとき、シェスティンは殺されるのか、それとも死ぬよりもひどい仕打ちを受けるのか。今はまだ、考えてもわからない。
しかし何にせよ、退屈な日常はもうすぐ終わるのだとシェスティンは安心した。
敵は強大でこちらは弱いから、クルトもきっとシェスティンを守れないに違いないのだ。
↓次章
↓各章目次