ミンギルとテウォン 3
13 壮行会
軍隊に入ることを決めたミンギルとテウォンはめでたく頭の上からつま先までの身体検査に通って、すぐに北に移動して羅南の兵営に入営することが決まった。
羅南は清津の近くにある街で、かつて日本軍が軍事拠点を置いていた場所であるとテウォンはミンギルに教えくれる。
やがてファン家の屋敷には二人と同じように軍に入ることが決まった村の若い男たちが集められて、出発の前日の夜には壮行会と称して普段よりもずっと豪華な食事が振る舞われた。
庭の中心で火にかけられた大きな両手鍋にはぶつ切りの鱖魚や長ネギ、大根、春菊などがコチュジャンを使った汁で甘辛く煮込まれていて、縁側には色とりどりの具が巻かれた海苔巻きや緑豆の匂いが香ばしく焼けたピンデトクなどが載った小盤が並ぶ。
開け放たれた屋敷の戸や窓にはすべて明かりが灯っていて、料理や集まった人を橙色に照らしていた。
「はい。おかわりは自由だよ」
これまではファン家のために料理を作っていた下女もあっさりと忠誠を誓う先を新しい国に替えて、兵士になる若者たちのためにお椀に魚と野菜を煮込んだチゲをすくって入れている。
「軍に行くって決めただけでもう、こんなに偉くなれるんだな」
これまでは匂いをかぐことしかできなかった、飯と漬物で終わらない小綺麗な料理をまじまじと見つめて、ミンギルは自分の立場が変わったことを明るく実感する。
一方で改めて真面目に今後のことを考えだしているテウォンは、厚遇の代償を多少気にしていた。
「その分大変なこともあるかもしれんけど、ちゃんと頑張らんとな」
テウォンはネギと牛肉を交互に刺した串焼きを二本取って、そのうちの一本をミンギルに渡す。
「今日みたいに肉がもらえるならまあ、頑張れるだろ」
考えの浅いミンギルは、テウォンの手から串焼きを取ると、何も迷わずにさっそくかぶりついた。
ほどよく焼き目のついた牛肉とネギはまだ温かく、歯をたてると砂糖醤油で作られた甘じょっぱいタレと肉汁が絡んで脂身と赤身がほどけていく。
肉と肉の間に挟まっているネギも、旨味を吸ってやわらかくなって、香ばしく焼けた牛肉の味を引き立てていた。
(肉ってこんなに旨いものなのか)
生まれて初めて食べるご馳走の味に、ミンギルはすぐに貪るように一本を食べ終える。
次の料理を取るついでに室内に目を向けると、部屋の上座では村での徴兵を取り仕切っている軍人の男と、百姓の中でもそれなりに人望があるらしい年配の男がいて、焼酎を飲みながら政治か何かの話をしていた。
勉強熱心なテウォンも、喧騒の中で軍人の男と年配の男の会話に聞き耳をたてて、串焼きをゆっくりと食べている様子である。
(他の人の話を聞いとるテウォンの邪魔しちゃ悪いし、おれはチゲでも食べてよう)
そう判断したミンギルは、火にかけられた鍋の前の列に並んだ。
周囲で談笑している者のほとんどは同じ村の百姓であり面識はあるはずだったが、顔に見覚えはあっても名前はわからないのでミンギルは黙っている。
火にかけられた鍋の近くは、暖かいというより暑かった。
やがて列が進み、いつもは厨房にいる下女がミンギルの前に現れる。
玉杓子で鍋をかき混ぜている下女は、ミンギルを小馬鹿にした態度は崩さなかったが、これまでのよしみがなくはないと微笑みかけた。
「あんたは身体が大きいから、大盛りだね」
下女は玉杓子を深々と沈めると、魚の切り身や大根でいっぱいにした汁をお椀に入れる。
汁をこぼさないように注意して、ミンギルは素朴な木製の椀によそわれたチゲを受け取った。
「そりゃ、どうも」
ミンギルがお礼を言うと、下女は意外そうに目を丸くした。
「あんた、そんな声だったの」
どうやら下女は、ミンギルの声を聞いたことがないようだった。言われてみると確かに、いつも彼女と話していたのはテウォンだったから、ミンギルは言葉を交わしたことがなかったかもしれない。
(でも、もうこれで話すことはないよな)
特に反応を返さないままミンギルは、椀を持って下女から離れた。
ミンギルが彼女の名前を覚えていないように、きっと彼女もミンギルの名前を覚えていないはずで、お互いに記憶に残す必要はない。
それからミンギルはやはりテウォンがいるところに戻って、まずはチゲの辛みのある匂いを楽しんだ。
社交性もあるテウォンは今度は他の百姓の男と話していたが、お互いよそ事をしていてもテウォンの隣がミンギルにとって一番安心する場所である。
(こんなに色がすごい料理って、初めてじゃないか)
ミンギルは輪切りの唐辛子の入った熱々のチゲの汁に浸かった、野菜や魚の切り身をじっくりと見た。長ネギの緑が真っ赤な汁の色に映えて彩りよく、湯気だけでも辛さを感じるほどに匂いが強い。
これまでミンギルが食べてきたチゲは豆腐が入った味噌の味の茶色いものばかりであり、蕃椒醤を使った色鮮やかなものを食べるのは初めてであった。
ミンギルは舌を火傷しないようにゆっくりと冷ましながら、木匙でまず魚の切り身をすくって食べた。生まれてはじめて人の食べる物を口にする獣のように、手付きは自然と慎重になる。
そして赤い汁の染みた魚の白身を、ミンギルはおそるおそる口に入れた。
(美味い、けど辛い)
ほどよい硬さの白身の淡白な風味を味わった瞬間に、後から来るじりじりとした辛さにミンギルは思わず瞬きをした。
それは今日まで食べてきたものにはなかった強い刺激で、汁や具の熱さもあいまってぼんやりとした味しか知らない舌が混乱する。
しかし食べ続けられないほど辛いというわけではなく、唐辛子の辛さとまろやかで香ばしい甘みが混ざった蕃椒醤の風味がくせになる。
(具だけじゃなくて味もたくさんで、豪華なチゲだ)
チゲにはすり下ろしたニンニクにごま油など、蕃椒醤の他にも様々な薬味や調味料が使われていて、ミンギルにはわからない複雑な味を作り出していた。
ミンギルは辛さに耐えて木匙で汁を飲みつつ、熱く煮えた具も頬張った。
鱖魚の白身は小骨も少なく、味付けのおかげか生臭さも感じず食べやすい。
大根や長ネギもやわらかく煮込まれつつも、しゃきしゃきとしたほどよい歯ざわりを残していて、汁に溶け込んだ野菜の旨味がチゲ全体に深みを与えていた。
(こんなに美味いものが作れる人だったんだな。あの人たち)
ミンギルは新しい料理を運んだり空になった皿を下げたりしている厨房の使用人だった人々を見て、最後になってやっと初めて尊敬を覚える。
その気付きは今まで与えられてきた食事が家畜の餌のようにおざなりなものだったことを意味していたが、ミンギルはご馳走の品々の素晴らしさにその点についての怒りは忘れていた。
(辛いから合間に海苔巻きが食べたくなるが、ここで我慢した後で甘い餅をもらってもきっと美味い)
食べる順番について考えながら、ミンギルは舌やくちびるをぴりぴりさせて食べ進めた。考えることは得意ではないはずだけれども、食事に関しては不思議とちょっとした知恵が回る。
やがて一杯の椀を食べ終えるころには、ミンギルの身体は熱く、薄っすらと汗をかいていた。
「最初からもう、顔が赤くなっとるな」
視界から外れたところから、聞き慣れた親しげな声が話しかける。
声がした方を見下ろすと、赤くなったミンギルの頬を茶化して笑うテウォンがいた。
ミンギルがチゲに夢中になっているうちに、テウォンは他の人との会話を終えて、両手に白濁した農酒が注がれた杯を持って立っている。
「甘い菓子も良いけど、酒も飲んでみたかった」
ちょうどよいときにちょうどよい具合にいるテウォンから一杯の農酒をもらって、ミンギルはチゲの辛さの残った口で一気に飲んだ。
香ばしく甘酸っぱい農酒で味は唐辛子の辛みに晒されてきたのどを潤して、ミンギルは尽きることのない食欲で動いて今度は海苔巻きに手にとった。
急な変革を目の当たりにした百姓たちの困惑や不安はありつつも、明るくにぎやかな宴の夜は遅くまで続く。
料理の量は十分にあったので、他の人と取り合うということはなかった。
好きな料理を好きなだけ手にとって、やがてミンギルとテウォンは満腹という感覚を生まれてはじめて本当の意味で知った。
14 鳥竿を越えて
そして翌日の早朝、ミンギルとテウォンは荷台に幌の屋根がついた貨物自動車に乗せられて、他の百姓の男たちとともに羅南へ向かった。
鉄製の荷台に人を何十人も積んで、手入れが行き届いているわけでもない林道を揺れながら走行する貨物自動車の乗り心地は決して良いものではなく、ファン家が使っていた手袋をはめて正装した運転手のいる黒塗りの高級車の優雅な見た目の雰囲気とはまるで違っている。
しかし運ばれているのは自動車に乗るのが初めての者ばかりであるので、皆笑顔で浮かれていた。
「この調子なら、羅南にもすぐだな」
「徴兵ってのも、そう悪くはなさそうだ」
排気音もガスの臭いも気にせず、若い男たちは漠然とした期待感に胸をはずませる。
ミンギルも例にもれずにはしゃいで隣のテウォンの薄い肩を抱き、まだ夜のほの暗さを残した青空の下に広がる森林から頭を覗かせる、木製の鳥の飾りのついた何本かの竿を指差した。
「見ろよ、鳥竿がもうあんなに小さい」
鳥竿は村の入り口に立てられる魔除けの境界標で、人面を模った木彫りの柱の長栍とともに村を病いや災いから守っている。
その鳥竿の先端が遠く小さく見えるということは、ミンギルとテウォンはそれだけ村から離れたということである。
村の周辺以外に出かける機会がまったくなかった二人は、自動車に乗ったことだけではなく、ファン家の屋敷に歩いて半日で戻れる範囲よりも遠くに行くことも初めてだった。
だから大勢が乗るには狭い荷台でミンギルと身体を寄せ合って座るテウォンも、小柄で車の外が見にくいなりに、ミンギルの指差した方を見ようと懸命に隙間を探していた。
「ああ。俺たちは裏山の上からでも見たことがない、ずっと先の方へ行くんだ」
テウォンはミンギルや他の百姓に比べると控えめで落ち着いていたが、それでも声は楽しげに上ずって、小さな顔は夢を見るような微笑みを浮かべている。
「まだ見たことがない、ずっと先の方」
おうむ返しにテウォンの言葉を繰り返して、ミンギルは遠ざかる鳥竿が見える後方ではなく、貨物自動車が進んでいく山々がそびえる前方を見つめた。
初夏の風が詰め込まれた若い男たちの頬を撫でて、朝の新緑の爽やかな香りが排気ガスの匂いを流す。
ミンギルとテウォンが歩いたら何時間もかかる道を、貨物自動車はエンジンの振動とタイヤの走行音とともに景色を飛ばして進んでいた。
木漏れ日が美しい谷あいの林道の風景や、原生林に抱かれた静かな湖を沿って進む国道を、荷台に乗せられた男たちは楽しんだ。
やがて自動車特有の揺れと臭いによって男たちの何人かは吐き気を覚え、ミンギルもテウォンの背中をさすることになるのだが、それはまだもう少し先のことだった。
15 咸興駅発の汽車
天候に恵まれた貨物自動車による移動は順調に進んで、ミンギルとテウォンのいる集団は午前中のうちにまずは咸興市に到着する。
咸鏡南道で一番に栄えている都市である咸興市には、二人が見たこともないようなレンガ造りの洋風の建物やコンクリート製の数階建てのビルなどがあって、田舎からやって来た男たちはきょろきょろとあたりを見回しながら荷台を降りた。
ミンギルも車に酔って青ざめたテウォンの手を引いて、他の男たちに続く。
駅の車寄せには軍用の貨物自動車だけでなく普通の乗用車や馬車も止まっていて、通行人は新しい兵士になる若者たちを曖昧な笑顔で見守っていた。
そして全員が車を降りたところで、徴兵された田舎者を取りまとめる軍人の男は、彼らをはぐれないように集めて声をかけた。
「ここで清津方面行きの列車に乗り換える」
はっきりとした発声でそう告げた彼の背後にはアーチ型のガラス窓が美しい平屋の西洋建築の咸興駅の駅舎があって、都会の景色を堪能する暇もなく男たちは今度は列車の方に誘導される。
見上げるほどに天井が高く装飾が華やかな駅舎の中を通って鉄製の屋根のついたホームに入ると、線路には黒い塗料が塗られた木造の客車を堂々と連ねた機関車が止まっていた。
「何がどうなっとるのかわからん乗り物が、都会にはあるんだな」
「そうだな。もしかするとこの次は、空も飛べるのかもしれん」
ぽかんと口を開けてミンギルが汽車の長さを眺めていると、テウォンは青い顔で無理をして軽口を叩いた。
テウォンが言うには空を飛ぶ飛行機という乗り物はすでにあって、軍隊でも使われているが、それに乗るのはおそらく非常に難しいとのことだった。
まとめ役の軍人の男とその部下は、乗り込むことを忘れて生まれて初めての鉄道に見惚れている田舎の男たちを急かした。
「お前たちが乗るのは、二号車と三号車だ。入り口は前にも後ろにもあるから、分散して乗れ」
あちこちで、同じ威圧的な命令でも村にいた人々とは話し方が違う軍人たちの声が響く。
ミンギルとテウォンは与えられた指示に従って、列車に乗り込んだ。
開け放たれた引き戸の入り口から車両に入ると、中は四方が窓に囲まれた開放的な造りになっているものの、貨物自動車の荷台と同じように田舎の男たちで混み合っていた。しかし通路を中心に左右二席ずつ、四列に並んだ座席の数は十分に人が座る余裕があったので、ミンギルは窓際に、テウォンは通路側に着席する。
座席の上を見ると網でできた荷物棚があったが、二人には特に置く荷物はない。
上げ下げ式の小窓をさっそく開けて、ミンギルは青ざめた顔をしたテウォンの様子を見た。
「窓側の方が風が入るけど、いいのか?」
「途中で寝るかもしれんから、こっちでいい」
座席の背もたれに身体を預けて、テウォンは軽く目を閉じる。
木製の座席は眠たくなるほど座り心地がよいというわけではなかったが、貨物自動車の荷台よりも足は伸ばせるし広々としているのは確かである。
元気だけが有り余っているミンギルと違って、テウォンは慣れない自動車による移動に疲れ切っていた。
(相当、気分悪そうにしとったもんな)
しばらくの間はそっと静かにしておこうと決めたミンギルは、黙って窓枠から外を覗いた。
外の地面には何本もの線路が並んでいて、他の列車もちらほらと止まっている。
汽車の煙突から上がる黒煙の焦げた臭いの混じった空気を、ミンギルはあえて深く吸って吐いた。
やがて車両の力強い震えが大きくなり、制服を着た駅員が入り口に金具をかけて閉めた。
空高く鳴る汽笛の音に蒸気や煙が出る音が重なったところで、汽車はゆっくりと動き出した。
悠々とした汽車の出発に、周囲の若い男たちは再びはしゃいで拍手をしていたし、ミンギルも流れが加速していく景色の様子に強く高揚感を覚えていた。
しかし見知らぬ土地を知らぬまま出発するのは、良い思い出のない故郷を去るときの開放感とは違う物悲しさがあって、ミンギルの心にも情緒がないなりの感傷を残す。
隣を見てみると、テウォンも同じことを感じているのか、ただ目を開けて黙っていた。
一定の調子を保った汽車の揺れは、貨物自動車のそれよりも心地よく、人の心を落ち着かせる。
窓から見える風景も目新しい都会の町並みからすぐに見慣れた農村に変わって、車内も徐々に誰かの囁くような話し声と寝息しか聞こえないようになり、ゆるやかに静かになっていった。
16 入営
途中でいくつかの駅で停車しながら列車は北に向かって進み、ミンギルとテウォンのいる一行は日が沈む前には羅南に到着する。一眠りしたテウォンは、咸興を発ったときよりも大分顔色が良くなっていた。
軍都である羅南は、王朝時代から栄えた古都である咸興とは違った活気に満ちていて、工場らしき建物の煙突から上がる煙も力強く見える。
「三列に並んで、順番に後について歩いてこい」
汽車から降りた先は徒歩での移動になるようで、田舎から運ばれてきた男たちは羅南駅の洒落たうろこ屋根の駅舎を後にして、これから上官になるのであろう軍人たちに引率されて兵営へと歩き出した。
集められたのは学校教育に縁のない者たちばかりであるので、整列して歩くのも皆不慣れな様子で、ミンギルとテウォンもどのような速さで歩けばいいのかわからない。
(まあでも、方向が合っとれば別に良いだろ)
ミンギルは順番に後からついて歩くというよりも、これまでと同じようにただ何も考えずにテウォンの隣を歩いた。
広々と舗装された道路には歩く人や建物の影が伸びて、道の脇に並ぶ電柱と電柱を結ぶ黒い電線は赤い夕焼けの空を横切っている。
見慣れないの近代風の夕方の情景に、ミンギルとテウォンは自分たちが生まれ育った山奥の村から遠く離れたところまで来たことを深く実感していた。
漢字の看板を掲げた様々な建物を見つめ、テウォンはミンギルに訪れた土地について持っている知識を話した。
「羅南は昔はもっと鄙びた寒村だったが、植民地時代に日帝が国境を守る軍事拠点として発展させたらしい。一時期は日本人の商工人も多かったそうだが、もうほとんど帰国しとるみたいだな」
「金持ちが去って、立派な街だけが残っとるわけか」
ミンギルは電柱や街灯にわざと触りながら歩いて、柱に描かれた読めない文字を指
でこする。
想像力のないミンギルは会ったことも見たこともない日本人という特定の人々に強い感情を持つことはできず、奴婢のように扱われてきた自分たちとは違う富を持った人々の一部として日本人を捉えた。
民族や政治のことはよくわからないミンギルであっても、自分たちが犠牲を強いている人々に対して無関心で思い遣りのない恵まれた人々への怒りなら理解できる。
だから羅南の街を作った日本人が街を去ることになった話を聞いても、ミンギルは朝鮮人としてではなく、貧しい身分に生まれた者として喜びを覚えていた。
やがて田舎から来た若い男たちの列は、軍人たちの誘導の下、立派な石造りの門がある塀に囲まれた敷地に入った。
そこがミンギルとテウォンがしばらくいることになる、兵営という場所だった。
田畑とも庭とも違うどこまでも広い敷地に西洋風の建物が点在するその場所には、軍服を着た様々な年代の男たちが何十人も歩いていて、建物の中にいるであろう人も合わせたらミンギルにはとても現実感のない人数である。
「手帳や支給品を渡すから、まずはここで待て」
妻壁に時計のついたレンガ造りの建物の前には丸眼鏡の軍人が待っていて、男たちに大きな態度で声をかけていた。
その指示に従って、ミンギルとテウォンも前の男と適度な距離を保って待つ。
列はゆっくりと進んで、ミンギルとテウォンが建物に入るころには日が沈んで空は暗くなっていた。
しかし兵営にはあちこちに電灯があって橙色に光っていたので、中も外も昼間ほどではなくても明るい。
石造りの段差を上がって入り口に入ったところには木製の天板の大きな机が置いてあり、ここまで誘導してきた者とはまた別の軍人が何人か座って淡々とした表情でこちらを見ていた。
「名前は?」
何枚もの書類を机の上に広げて読みながら、中心に座る軍人がつっけんどんに質問をする。
まずは手前に立っているテウォンが、物怖じすることなくはきはきと名乗った。
「ハ・テウォンです」
書類を前にしている男は、並んでいる文字に鉛筆で何か印をつけながら隣の人物に話しかけた。
「ハ・テウォン……これだな。大河の河に、安泰の泰と、遠方の遠。服の大きさは小号だ」
「河泰遠、ですね」
万年筆を持った隣の青年は、慣れた手付きで小さな手帳に文字を書き込みテウォンに手渡した。
「この手帳は絶対に無くさないように、常に携帯すること」
そして青年はさらに、机の下に置いてあるいくつかの木箱のうちの一つから包みを取り出し、それもまたテウォンに差し出す。
「それと宿舎に案内されたら、そこでこの軍服に着替えるように」
「はい。ありがとうございます」
テウォンは深々とお辞儀をして包みを受け取り、簡単な手続きを済ませた者たちの列に並んだところで、ミンギルの方を振り返って様子を見た。
視線を交わしたミンギルは小さく頷き、テウォンと同じように手帳と軍服の入った包みを受け取った。
ミンギルの手帳には「林岷吉」と記入されており、どうやらそれがミンギルの名前を漢字で記した文字であるようだった。
(どこから出てきた漢字なのか知らんが、まあこれくらいは頑張って覚える価値がありそうだ)
生まれたときから与えられていたものなのか、それとも事務的な手続きの中で誰かが適当につけたものなのか。目の前にあるものがどちらなのかわからないミンギルは、達筆な文字で書かれた自分の名前を無感動に見つめた。
ミンギルとテウォンは手帳や軍服以外の支給品もいくつか受け取った後、他の男も含めて五人ほどの班でまとめられ、また別の建物の部屋に案内される。
書類を使った手続きが行われた場所から少し離れたところには、白い漆喰壁の館舎が空き地を取り囲むようにいくつも並んでいて、ミンギルは自分がどこの何番目の建物へ歩いているのかよくわからない。
そうした状況を改善する内容ではないものの、班を先導する年下に見えるわりに態度のでかい指導役の兵士は、後ろにいるミンギルたちに場所の説明をしていた。
「営庭に集合と言われたら、この広場にすぐに来ること。遅れたら罰則があるからな。そしてこっちの建物が、今日からお前たちが寝起きする宿舎だ」
偉そうな口ぶりの兵士が立ち止まって、いくつか並んだうちの一つの館舎を指をさす。
街中の商店と同じように日本人が建てたのであろうその建物は、夜の薄闇に浮かび上がる真っ白な漆喰の壁に薄緑色の窓枠が映える様子が、上品な印象を与える優美な外観をしていた。
牛小屋の隣にあった狭く小汚い使用人部屋とはあまりにも違うように見える新しい居場所に、ミンギルは思わず息を呑んだ。
(おれたちはこれから、こんなに立派なところで寝起きできるのか)
手前にいるテウォンもミンギルと同様、夢見るような瞳で館舎を見つめている。
雨避けの庇のついた出入り口をくぐって宿舎に入れば、中には電灯に照らされた木張りの廊下が左右に伸びていて、正面にはまっすぐに二階につながる折り返し階段があった。
ミンギルとテウォンのいる班はすたすたと歩く指導役の兵士に従って移動し、一階の廊下の突き当りにある広い部屋に通された。
上げ下げ窓がいくつも設けられたその部屋は、天井も高く開放的な造りで、きちんと折りたたまれた毛布と枕が置かれた木製の寝台がいくつも並んでいた。
また腰掛けるのにも丁度よい高さのある寝台が整列して接している壁には、木でできた簡素な一段の棚がついていて、物を上に置いたり、下に引かっけたりできるようになっている。
指導役の兵士は入ってきた順番に班の男たちを寝台の前に一人ずつ立たせて、支給品を棚に置かせた。
「お前たちは今日からしばらくその寝台を使うことになるから、きちんと毎日清潔を保たなければならない。朝起きた後は毛布を畳んで、ゴミもないように掃除しろ。乱れたままなら、それも罰則だ」
それから兵士はしばらくの間、くどくどと長々しく宿舎での生活の注意事項を述べていた。
ミンギルは多少は、兵士の話を聞く努力をしてみた。しかしやはりほとんどの内容が頭に入ってこないので、テウォンに頼るしかないと改めて決意する。
「……この後は、すぐに軍服に着替えること。着替え終わったら、食事や風呂の説明をする」
最後にこれからすぐにやるべき指示を与えて、兵士は班の男たちに返事をさせて一旦部屋の外に出た。
テウォンはミンギルが最初から最後まで話を聞いていないものだと考えていて、兵士の指示を繰り返した。
「今から、もらった服に着替えるんだぞ」
「ああ。それだけは聞いとった」
最後の指示だけを耳に入れていたミンギルは、すぐに巾着状の包みを開いて服を出した。
中に入っていたのはまったくの新品ではなくとも小綺麗な芥子色の軍服で、見慣れない西洋風の下着や靴下も入っている。
それらの新しい時代の雰囲気をまとった支給品に目を輝かせ、男たちは着古した服を脱いで、ところどころは見様見真似な方法で、与えられた軍装を身に着けだした。
ミンギルとテウォンも、お互い不自然なところがないか確認しながら、軍服に袖を通した。
村で行われた身体検査の際に髪を切って風呂にも入っていたので、支給された軍服に着替えると、いよいよ本当にこれまでの奴婢に近い使用人だった人間とはまったく別の存在に生まれ変わる心地がする。
「これで、おかしいところはないよな」
上衣のボタンを留め、革靴の紐を結んで、ミンギルは立ち上がった。
いつも丈が足りなかった野良着と違って、しっかりと大きめの寸法で仕立ててある軍服は、ミンギルの大柄な身体にも過不足なく合っていた。
先に着終わっていたテウォンは、目を丸くしてミンギルを見つめた。
「いやもう、誰かわからんくらいに似合っとる」
からかっているわけでもなく、ほんとうに称賛の意味で、テウォンはミンギルを褒めていた。
テウォンのあまりの驚きぶりに、ミンギルは照れて髪が短くなった頭をかいた。
「さすがに、そこまでじゃないだろ」
「じゃあ、こっちで見てみろよ」
謙遜するミンギルの手を引いて、テウォンは上げ下げ窓の近くに寄った。
夜のガラス窓には、軍服を着た凛々しい顔立ちの精悍な青年が映っていて、ミンギルは思わず姿勢を正した。
ガラス窓に映る青年がミンギルが動いた通りに動くので、ミンギルは自分が思ったよりも見た目が良い男であることを知った。
周りにいる他の男を見回しても、ミンギルほど逞しく軍服を着こなせている者はいない。
「やっぱり、軍隊に入って良かったなよな。おれたち」
満足気に頷いて、ミンギルは隣に立っているテウォンに微笑みかける。
体格の良いミンギルほどではないにしても、テウォンも軍服は似合っていて、髪を切って小綺麗になることでより知的で賢そうに見えていた。
「服は綺麗で格好良いし、立派な寝台も一人一つある。ここまではもう、間違いなく大正解だ」
テウォンはほっとした様子で、ミンギルよりも控えめな笑みを浮かべた。
夢のような生活と引き換えに払う代償について心配しているから、テウォンの喜びはミンギルよりも小さいのかもしれない。
しかし軍服が誰よりも似合ったことで万能感を得たミンギルは、どんなことだってやりこなしてみせる気持ちでいる。
こうしてミンギルとテウォンは一九五〇年の初夏に、朝鮮人民軍の兵士になった。
17 新兵の朝
それから始まった新兵としての日々は、思ったよりも地味なところと期待通りに楽しいところの両方があった。
まず木製の寝台と毛布は、真っ当な人の生活らしい寝床で足を伸ばして広々と寝れたけれども、通気性の良さや柔らかさという点では藁を敷き詰めた箱床の方が快適であったところもあった。
(それにずっとテウォンと二人で寝とったから、一人はなかなか落ち着かん)
すぐ隣の寝台にはテウォンがいて規則正しい寝息をたてていても、温もりは遠く肌寂しい。
ミンギルも寝付きが良い方であるため眠れないわけではないが、どうにも違和感があるのは確かであった。
朝は、使用人として働いていたときと変わらない早朝に起こされた。時間になると起床ラッパが鳴るのだが、そのときにはもう着替えまで済ませて身支度を整えていないと叱られるため、皆もう少し早くに起きていた。
「ミンギル、朝だぞ」
「今、起きる……」
ミンギルも、テウォンに起こしてもらって起床時間に間に合わせていた。これまでの生活と変わらない時間であるため、起きれないことはなかったが、いつか好きなときに寝て好きなときに起きる生活を送りたいと毎朝思った。
着替えが終わったら、毛布を畳んで軽くゴミを拾ってから、朝食を食べに食堂へ行く。
ミンギルは元々食べることが好きであったが、軍隊に入ってからはより一層食事が楽しみになっていた。
食堂は宿舎とは別に建てられた大きな建物にあって、広い部屋に何十人も並んで一斉に食事をとることになる。
まず班ごとに金属の籠にまとめられた食器を棚から出して、各々の食器をトレイに載せて配膳口の前の列に並ぶ。
配膳口の向こうの厨房には調理当番や配膳当番の兵士がいて、愛想が良いわけでも悪いわけでもなく、粛々と器に料理を盛り付けた。
食事の内容は、麦飯に季節の野菜が入った汁物、漬物、蒸したジャガイモ、そして肉か魚、もしくは卵の料理が一品と、かつて屋敷で与えられていたものよりもずっと品数が多い献立である。
しかも一日に必ず三食は食べることができるため、昼食があるとは限らなかった使用人時代から比べると、ずっと恵まれた食生活であった。
(今日のおかずは、何だろう)
ミンギルは以前にはなかった期待感に胸を膨らませて、厨房の中を覗く。
見てみると、配膳口にいる配膳係がアルミ製の皿の上に載せているのは、大きな鉄板で何枚も焼かれている厚切りのハムであった。
軍隊の献立は洋式化が進んでいて、ハムやソーセージ、スクランブルエッグなど、田舎ではまったく見ることがない品が用意されることもある。
(ハムは丸くて、綺麗だ)
ミンギルは軽快な音を立ててこんがりと焼かれているハムの薄紅色を、幼児のようにじっと見つめた。
できれば隣にいるテウォンと今日も充実している献立について話して喜びを分かち合いたかったけれども、軍隊の食堂は無駄話ができる雰囲気ではないので、配膳係に皿にハムと付け合せのじゃがいもを載せてもらったお礼だけを言った。
それから旬の野草や山菜が入った味噌汁と、麦飯を椀に盛ってもらう。
麦飯は建前上はおかわりが可能なことになっていたが、少なくとも新兵の場合は一杯で食事が終わる。
また上役を怒らせると飯を抜かれるという罰則を与えられることもあるらしいが、ミンギルとテウォンは今のところそうした扱いを受けたことはなかった。
ひと通り料理を受け取ったミンギルとテウォンは、班ごとに指定されている机の席についた。
ミンギルとテウォンのいる班には他にあと三人ほどの同じ年頃の男がいて、テウォンとはそれなりに打ち解けているようであっても、ミンギルはほとんど言葉を交わしたことがなかった。
やがて班員が全員揃って席についたところで、食前の挨拶をして食事が始まる。
「祖国の土と人が育てた食物の恵みに感謝し、すべて残さずいただきます」
ミンギルはテウォンや他の兵士と合わせて声を出し、スプーンを手に取った。
そして食べる前にまず幸せを噛みしめるように、アルミの食器に盛り付けられた品々を見つめる。
多めに盛られた麦飯に湯気の匂いが香ばしい味噌汁、ジャガイモと共に二枚盛り付けられた厚切りのハム、そして醤油味のキュウリの漬物が、今日の朝食であった。
(温かくて量が多くて、最高だ)
ミンギルは食事を前にすると、その他一切のことを忘れそうになった。
しかし机も何もなかった以前と違って、今は食事作法というものを気にする必要があるので、正面に座るテウォンの真似をしてまず汁物をスプーンですくった。
心が落ち着く薄茶の味噌汁の熱々ではないものの眠気を覚ます温かさで、ほんのりとしょっぱい、香り豊かな風味がゆっくりと口の中に広がる。
(具の山菜もほろ苦くて、でもそれが美味い気がする)
ミンギルは二、三口味わったところで、今度は麦飯をすくって食べた。
米が六割、麦が四割の割合で大麦を混ぜて炊かれた麦飯は、それまで食べていた雑穀米よりは甘くやわらかく、しかし歯ごたえはあるので満腹感がある。
そして麦飯を頬張ったままスプーンを箸に持ち替え、厚切りのハムを口にする。
引き締まった肉質のハムは弾力のある食感で、塩気を帯びた旨味で飯がよく進んだ。
付け合せの蒸したジャガイモと一緒に食べても、ハムの油が芋に染みてまろやかになって美味である。
品数の増えた献立の中で、かつては唯一のおかずだった漬物は、今ではさっぱりと味覚を変える役割を果たす存在になっていた。
正面を見てみると、以前はおかずが足りず余った米飯をミンギルに寄越していたテウォンも、人並みの量を食べている。
(ここでは、全員が同じものを着て、同じものを食べて、同じことをしとる)
ミンギルはテウォン以外にも何十人もいる、同じ立場の男たちを軽く見回した。
顔や体格は違ってもまったく同一の軍服を着て、あまり喋らず粛々と食事をする若い男たちは、百姓の集団とは何かが違っている。
村にいたときはまったく同じ暮らしをしていたのはミンギルとテウォンだけで、その他の人々は服や寝床、食べるものなど、あらゆるもので区別されていた。
しかし今は、ミンギルとテウォンは二人まとめて捨て置かれた存在ではなく、大勢の中の一部である二人である。
良い暮らしができるのは嬉しかったものの、ミンギルはテウォンと二人だけで過ごしていた時間が懐かしい気もしたし、皆がまったく同じような存在として生きる軍隊の生活はどこか異様な気もした。
だがミンギルは漠然とした違和感をはっきりとした言葉にしようとは思わず、すぐに忘れて目の前の食べ物のことだけを考えた。
ほどよく焦げ目のついたハムの塩気は、空腹を満たしてもなお食欲をそそる。
(いつかハムを何枚も、食べられるだけ食べれたら良いな)
肉を毎日食べたいと夢見ていた日々が過去になれば、ミンギルはより大きな願いを抱く。
はじまりはささやかでも、最後はどこまで欲深くなるのか。ミンギルにはまだ、自分がどういう人間なのかはっきりとはわからなかった。
18 訓練
朝食が終われば、各自で食器を洗ったり、洗面所で洗顔や歯磨きを済ませたりする時間があって、それから洗濯と掃除もすることになる。
新兵は古参兵の洗濯等を任されることもあり仕事は多かったが、ただ基本的には自分たちの生活に関係することが中心であったので、ミンギルはそれほど嫌な気持ちにはならなかった。
(他人が住む家や食べる物のために働いとったときに比べれば、全然やれる方だろう)
そして物干場に洗濯した服や下着を干し、机や床を拭いたり掃いたりして掃除を済ませてやっと、朝礼があって訓練が始まる。
その日は白兵戦の訓練であったので、銃剣に近い大きさの模造刀を手にして、ミンギルの班が含まれた新兵たちは営庭に集まり準備運動をして待った。
銃や銃剣は一人一挺ずつ貸与され、手入れや管理は厳しく教えられている。
しかし営庭では初夏の風が薫る青空が綺麗な天候に自然と新兵たちは笑みをこぼし、これから人を殺す練習を始めるにしてはのどかな雰囲気が流れていた。
「これを使って、今日は何を教えてもらえるんだろうな」
「前回は、銃を持って走る時間が長かったからな」
模造刀を手にミンギルが待ち切れない様子でつぶやくと、テウォンが肩をすくめてわざとらしく困った顔をした。
体格が良く元々身体を動かすのが得意なミンギルは実技はすべて良い成績を収めていたが、小柄なテウォンは射撃はそれなりでも重い小銃を持って走り続けるのは苦手なようであった。
「でもテウォンも、順番に数えれば良い方におるだろ。難しい勉強はやっぱり、一番覚えるのが早いし」
長い時間がとってあるわけではないものの、朝鮮人民軍の初年兵教育には国を想う気持ちを育て、兵士としての心づもりを持たせるための思想や教養の講義もある。
そうした座学では、ミンギルはテウォンに頼るしかない。
しかしそれ以外ではほとんど苦労していないミンギルは、少しだけ勝ち誇った顔をしてテウォンを励ました。
最初は皆平等な存在として朝鮮人民軍という軍隊に入ったけれども、何ができて何ができないかによって格付けはされて、ありがたいことにミンギルはかなり良い方に、テウォンはそれなりによい方にいた。
やがて教官が歩いてくるのが見えると、新兵たちは緊張感を思い出して整列し、気をつけから敬礼の姿勢をとって挨拶して迎えた。
最初は軍隊らしい仕草に不慣れな集団だったが、今はだんだんと自然になっている。
人が良さそうな中年男性であっても眼光は鋭い教官は、何かしらの間違いはないかと生徒を一瞥したが、特に問題はなかったようで本題を進めた。
「今日は銃を使わず、素手や銃剣をナイフとして使って戦う訓練を行う」
教官は腕を組み、若干乗り気ではないようにも聞こえる落ち着いた声で話す。
銃剣の扱いを教えると言いながら、教官自身は手ぶらだった。
教官はざっと生徒を見渡して、周囲の男たちよりも頭一つ分以上は大きいミンギルに目を留めた。
「じゃあリム同務。最初の見本の相手役になってもらうから、こちらに」
腕を組んだまま立っている教官が、ミンギルを名字で指名する。
同務というのは同等か格下の相手に使う敬称で、自分より目上の人物には同志を使う。
「はい、わかりました」
何があるのかはわからないものの、ミンギルは選ばれたことを喜んで前に出た。
直立から姿勢を変えられない周囲の男たちはただ前を向いていて、テウォンだけがミンギルを応援する視線を送ってくれていた。
(相手役ってことは、おれはこれからこの人に倒されるってことか?)
ミンギルは指示されたとおりに、模造刀を持ったまま教官の前に立った。
目の前の教官は中肉中背で特別に体を鍛えているという雰囲気はなく、目つきの鋭さ以外には強さを感じない。
ミンギルがじっと見つめていると、教官は組んでいた腕を解いて、口を開いた。
「リム同務は背が高く男前で、なかなか立派な身体をしているが」
息抜きの雑談という調子で、教官はミンギルの体格を褒める。
おだてられれば図にのるミンギルは、教官の言葉に気をよくして頬を緩めた。
だがその瞬間、教官は一瞬で距離を詰めてミンギルの模造刀を持った腕を両手で掴んだ。
間髪を入れずに、小さな蹴りでミンギルの足元を払って、掴んだ腕を引っ張って捻り、ミンギルを地面に叩きつける。
そして倒れたミンギルをうつ伏せにして馬乗りになり、もう片方の手も捻りあげて模造刀を奪って喉元に突きつければ、完全な教官の勝利であった。
「隙をつけば若くはない私でもこうして、簡単に倒すことができる」
勝ち誇るわけでもなく、淡々と教官は事実を述べる。
強く打った背中にしびれを感じながら、ミンギルは地面しか見ることのできない目を白黒させた。
ぎりぎり触れてはないけれども、喉元に模造刀の圧迫感を感じる。
教官は強く抑えているわけではなさそうなのに、ミンギルは縄か何かで縛られたように身体を動かすことができなかった。
周りで見ていた他の新兵たちは一瞬息を飲んで、それから鮮やかな教官の一撃に拍手を送る。
(今、何が起きたんだ?)
突然の出来事にミンギルが唖然としていると、教官は拘束を解いてミンギルを立たせた。
そして説明を求めるミンギルに目配せをして模造刀を返し、今度はゆっくりと動いて不意打ちで仕掛けた攻撃を再現する。
「腕を二箇所で握って上手く力を使えば、てこの原理で小さな力でも相手を倒すことができる。肩や肘を支点にして、相手の身体に大きな力を伝えるわけだ」
教官はどこを握ったのか生徒に見せながら、ミンギルに先程と同じように倒されることを求める。
ミンギルは恥ずかしさを感じながらも、見本役としての役割を果たしつつ教官の動きを観察した。
(蹴りで足元を崩して、倒しやすくしとったのか)
座学については物覚えが悪いミンギルであったが、目で見た人の動きについては、すぐに真似をして身体に記憶させることができる。
だから教官に仕掛けられた攻撃を理解したミンギルは、すぐに身体を動かしたくなってそわそわとした態度をとった。
教官は再度ミンギルを組み伏せ、拘束を解いて立たせた。
そして負かされた悔しさよりもやる気が勝るミンギルの顔を見て、やられ役をやらせた生徒に今度は見せ場を与えることを決める。
「じゃあ、せっかくだからリム同務と、チャン同務あたりでやってみるか」
模造刀を返さずもてあそびながら、教官はミンギルの次に実技の成績の良い新兵を呼んだ。
「はい」
「やります」
教官に呼ばれた青年とミンギルは、はっきりとした声で勢い良く返事をした。
模造刀を手にした青年は少し緊張した顔で前に出て、敗北という形で有意義な経験を積んだばかりのミンギルに対峙する。
教官とミンギルは向き合ったときと違うのは、相手の青年はこれから自分が何をされるのかを知って警戒しているということだった。
(それにこいつは、古武術の経験者だ)
手痛くやられたばかりのミンギルは、相手を軽んじることなく構えの姿勢をとった。
見る側にとっては一瞬でも、やっている本人たちにとっては短くはない時間を見つめ合い、ミンギルは一歩を踏み出して青年との距離を縮めた。
その際にわざと大きな足音をたてることで、青年を一瞬ひるませる。
そして後は腕を掴んで一連の動きを真似すれば、今度はミンギルが模造刀を奪って相手を組み伏せていた。
強張った青年の腕を捻りあげ、喉元にナイフを突きつけながら、ミンギルは考えるよりも先に身体が動いた結果に至る心地の良さに浸った。
ミンギルに組み敷かれた青年は、抵抗しようとする気配を見せたが、やがてあきらめて脱力する。
それから周囲の新兵が二度目の拍手をした音で、ミンギルは我に返って青年の身体から離れた。
青年は服についた土を払いながら立ち上がり、負けを認めた表情でミンギルを見る。
自分も砂埃に汚れていることに気づいたミンギルは、慌てて背中や腹部についた汚れをはたいて落とした。
教官はミンギルの想像以上の手際の良さに感心した様子で、軽い拍手をして立ち上がった二人を迎えた。
「リム同務は技を覚えるのが早いし、チャン同務も技をかけられる側の感覚がよくわかっただろうから、少し練習すればすぐにコツを掴めるだろう」
両方の能力をさっぱりと認めて評価し、教官は二人を列に戻した。
元の場所に移動するミンギルがテウォンに笑顔を向けると、テウォンも称賛の眼差しで微笑み返す。
前に出ていた二人が下がると、教官は見本は見本として気を引くきっかけにして終わらせて、これから全体で行う訓練について話した。
「ただ全員が最初からこれをやるのは無理だから、まずはもう少し基本的なことから始める」
理屈を知らなければ身体を動かせない者に向けた教官の説明を聞き流しながら、ミンギルは自分の優秀さを改めて実感して息をついた。
(やっぱりおれは、軍隊に向いとる)
軍隊に入ってからのミンギルは、寒村で農事に携わって生きてきたときにはなかった、自分の価値がどんどん高まっていく高揚感を覚えていた。
暮らしが良くなること以上に、元々持っていた能力が磨かれることが嬉しく、ミンギルは軍隊を自分を育ててくれる場所として認識する。
訓練が終わって戦場に立ったとき、自分がどんなことができるのか、ミンギルは楽しみにしていた。
19 異邦人
一日の訓練が終わると、ミンギルとテウォンは他の班員とともに洗濯物を取り入れるために物干場へと歩いた。
午後になって広がった雲の隙間から陽の光が見え隠れする、夕暮れに差し掛かった頃合いで、風がどことなく生暖かいのが夏の始まりを告げている。
(列車の窓からしか見てないけど、ここは海に近い土地なんだよな)
ミンギルは車窓から見た海を思い出しながら、空を見上げて故郷との空気の違いを感じる。
海は裏山から見えていた湖よりもずっと広大で果てがなく、風の匂いも色も違っていた。
まだ知らない土地の四季の変化を味わうように、ミンギルは深く息を吸う。
そして再び地上に視線を戻したそのとき、ミンギルは司令部へとつながる渡り廊下を歩いてくる何人かの人影を見つけた。
それは高級士官らしい仕立ての良い軍服を着た集団で、髪や肌の色が違う者も何人か混ざっている。
(おれたちとは顔が違うが、あれはどこの人なんだろう)
少し離れているとはいえ、顔の判別はつく距離であるので、彼らの白い顔は彫りが深く鼻が高いことがわかる。
初めて見る種類の人々に、ミンギルはテウォンに訊ねることも忘れて目を丸くして見つめた。
やがてテウォンや他の班員も彼らの存在に気づき、その軍服の立派さを見て立ち止まりお辞儀をしたので、ミンギルも少し遅れて頭を下げる。
頭を上げるタイミングを見計らいながら様子を伺うと、頭を下げている兵卒に気づいた彼らは、気さくな雰囲気で手をふっていた。
親しげだがどことなくこちらを見下した態度は、ミンギルの知る同胞の朝鮮人の高級士官にはないものである。
やがて見知らぬ偉い人々が通り過ぎたところで、身分の低い兵卒はまた再び歩き出す。
階級による区別はときどき気に入らないこともあったが、使用人だったころと違って出世できる可能性もあるからミンギルは我慢していた。
「あの人たちは、どこから来とるんだろう?」
軽く後ろを振り返りながら、ミンギルはテウォンに訊いた。
「あれは多分、ソビエトの人だな」
「ソビエト……」
何かで耳にしたような気はするけれども、ぴんとはこない国名を、ミンギルは曖昧な調子で繰り返す。
テウォンはミンギルの無知を咎めることなく、何度も同じことを教えることに慣れきった表情で説明を続けた。
「朝鮮よりも北にある、この国と同じ共産主義の国だよ。国土が広いから、白人もいるし朝鮮人もいる」
先程いた見慣れない顔立ちの士官は隣の国にいる白人であると、テウォンの話を聞いてやっとミンギルは理解する。
しかしなぜ異国の白人が、ミンギルのいる兵営を我が物顔で歩くことになるのかはわからない。
「そのソビエトの人は、ここで何を?」
ミンギルが首を傾げると、テウォンは少し歩みを緩め、政治に詳しくなくてもわかる例を探して話してくれた。
「これから南朝鮮と戦争をするときに使う武器のこととか、いろいろ支援してくれとるんだよ。多分今日の朝食べたハムも、ソビエトが送ってくれたものじゃないか」
低いところからテウォンがミンギルを見上げて、ちゃんと話が通じているかどうかを伺う。
言われてみると確かにハムの味には異国の雰囲気があるので、ミンギルはそこでやっと納得することができた。
「ハムは美味いから、じゃあソビエトも良い国だな」
満ち足りた朝食のことを思い出し、ミンギルは笑顔でテウォンに頷く。
ソビエトの軍人たちに好印象を持ったわけではなかったが、美味しい食べ物をくれる国ならミンギルは無条件で信じることができた。
20 京城陥落の報せ
ミンギルとテウォンが軍隊に入り、二ヶ月ほど過ぎた六月の末。
朝食後に普段よりも物々しい集会が開かれて、兵営にいるすべての者が司令官の講話を真剣に聞いた。
司令官がそこで話したのは、六月二十五日に国境を越えた朝鮮人民軍の第一軍団と第二軍団が、南朝鮮の支配下にあった京城の奪還に成功したということだった。
南朝鮮に入った共和国の軍隊は、京城の次は漢江を越えて水原に到達することを目指し、最終的には国家を総動員して朝鮮全土を取り戻すはずだと、司令官は講話を続ける。
つまり朝鮮を代表する正式な国家である共和国と、米帝の手先である南朝鮮の傀儡政権との戦争が、本格的に始まったのである。
長い話を真面目に最初から最後まで聞くことができないミンギルは、その司令官の講話を多めに見積もって三分の一ほどしか理解しなかったが、周囲の動揺と興奮にさすがに何か大きなことが始まっていることを感じ取った。
「戦争って、いろいろ唐突なんだな」
「だって攻撃の時期は直前まで秘匿しとかんと、相手に態勢を整える準備期間を与えることになるだろ」
軍隊に身を置いていても寝耳に水だった華々しい報せにミンギルが小声で驚くと、テウォンは以前よりもさらに難しくなった内容の言葉で返した。
国境で起きていることのすべてを知っていたわけではなくても、テウォンの驚きはミンギルよりも小さいようである。
一方で現実の戦場で起きていることはまだ遠い他人事で、テウォンは本当の兵士としての覚悟をまだ持っているわけではなく、それはミンギルも同じだった。
しかし戦争に従事する者としての実感がない一方で、軍隊に入ってから特に苦労していないミンギルは、自信を持って戦場に赴くその日を待っていた。
(おれとテウォンなら、きっと戦場でも上手くやれるはずだからな)
かつてはテウォンの語る未来を漠然と信じていたミンギルは、今は兵士としての自分の能力も信じている。
自分が戦場で活躍することを、ミンギルは心から疑っていなかった。
21 消灯前
いつもよりも長い集会から始まった一日は、訓練をするにもどこか落ち着きがなく、そわそわと浮き立った雰囲気のまま過ぎる。
夕食を食べて風呂にも入り、やるべき雑事もすべて終わらせた夜の、消灯ラッパが鳴るまでの短い談笑の時間も、話題はもちろん国境で始まった戦争の初勝利のことだった。
就寝を控えて肌着と下穿きだけになった新兵たちが、ベッドに腰掛けて興奮した様子で話し続けている隅で、その会話に入る気のないミンギルは壁にもたれてうとうとしていた。
一ヶ月半ほど過ごしてみても、ミンギルはテウォン以外の班員の名前もあまり覚えておらず、必要最低限のやりとり以外は言葉を交わさない。
しかし今日は皆あまりにも盛り上がっているので、半分は寝ていていても会話の内容が嫌でも耳に入ってきた。
「それにしても三日で京城陥落って、米帝に支援されているはずなのに、南朝鮮は思ったよりも弱くないか?」
「それは俺も思った」
お調子者のお喋りな男がまくしたてると、よく人の意見に同意しているような気がする人物が、ここでもやはり同意している。
二人とも米帝と南朝鮮を馬鹿にしているわけではなく、誇張があったとしてもあまりにも呆気がない敵の敗北に困惑しているようだった。
「前線に今おるのは支那の国共内戦で戦争を経験した朝鮮人の兵士らしいから、大戦に勝ってからしばらく何もなかった米帝と南朝鮮より強いのかもしれんな」
物知りな発言をするのはやはり、テウォンだった。テウォンはミンギルと違って、他の班員とも普通によく話している。
「そうなると俺らの出番が来る前に、戦争が終わるってこともありえるぞ」
テウォンの話を受けてお調子者は、残念そうに声の調子を落とす。彼はミンギルと同じように、それなりに軍隊での出世に期待を持っているようだった。
楽観的なのか悲観的なのかわからないお調子者の見通しに、口を挟んだのは不平家で後ろ向きな男である。
「でも、どうだろう。朝鮮が無事統一されても、僕たちはよく知らない国でやってる戦争に連れてかれて死ぬことになるのかも」
不平家は不平家なので、運良く今の戦争を回避したとしても結局戦場で死ぬのではないかと不平を並べた。
「外国っていうのもあるか。朝鮮のためならともかく、外国の戦争はちょっとなあ」
もうすでに半分戦争が終わった気になって、お調子者は外国での戦争のことを考えている。
「僕らと違っていつも余裕そうなミンギルは、どう思ってるのかな」
突然誰かが――テウォンでもなく、お調子者でもなく、同意する男でもないのでおそらく不平家が、じめじめと僻みっぽくミンギルに意見を求めてきた。
こちらはまったく名前を覚えていないのに、向こうからは嫌味っぽく名前を呼ばれる居心地の悪さに、ミンギルはすっかり眠気が覚めて目を開ける。
周囲を見渡すと他の班員たちは、めったに口を開かないミンギルが何を話すのかを期待して見つめていて、テウォンは何かを言わなくてはいけないミンギルをただ見守っていた。
「そうだな……」
ミンギルはつなぎ言葉で時間を稼ぎながら、流し聞きしていた会話の内容を思い出す。
問われているのが米帝の弱さについてなのか、自軍の強さについてなのか、それとも自分たちが行く戦場についてなのか。呼びかけの意図がわからなかったミンギルは、とりあえず自分が意見を言える事柄について考えを述べた。
「外国の食べ物を食べられるなら、おれは外国にも行ってみたい」
ソビエトという異国から送られているらしいハムやウィンナーの味が、ミンギルは好きである。
だから朝鮮にはない、異国の味覚を知ることができるなら、おそらく戦争でもなければ外国に行く機会はないだろうから、行ったほうが得なのではないか、という考えがあった。
他の班員たちは、ミンギルのミンギルの意見を興味深いが本心ではないごまかしとして適当に受け止める。
しかしテウォンだけは、ミンギルの言葉に驚いていた。
「ミンギルは、外国に行きたいのか」
テウォンは珍しく狼狽えた様子で、声を上ずらせてミンギルの方を見た。
どうやらテウォンは生まれ育った村から脱出するところまでは心から歓迎しても、話す言葉も食べ物もすべてが違う外国に旅立ちたいとは、まったく思っていないようだった。
(逆にテウォンは、外国に行きたいとは思わんのか)
テウォンがミンギルの言葉に驚いたように、ミンギルもテウォンの反応に驚いていた。
お互いにできることは違っても、願うことや目指すものは同じだと信じてきたから、ミンギルの好奇心がテウォンには理解できないものだったらしいことに動揺する。
もしも今いる場所がミンギルとテウォンしかいない使用人部屋なら、ミンギルは外国でもどこでもテウォンのいる場所にいると答えたはずだった。
しかし集団生活では他にいる人物が喋り始めるので、ミンギルが何も言えないまま、話題は移り変わる。
「ところでテウォンとミンギルって、どういう関係なんだ? いつも二人でいるけど、親戚か何かか?」
改めて見ると意外と顔は大人っぽいお調子者が、怪訝そうな表情で身を乗り出す。
「俺もそれはちょっと、気になってた」
穏やかな佇まいで微笑む同意する男が、お調子者の疑問にも同意する。
陰気そうな雰囲気の不平家も、無言で頷いてミンギルとテウォンの方に視線を向けていた。
他の班員たちの反応から考えると、ミンギルとテウォンの関係は不可解でどこかおかしいものとして捉えられているようだった。
しかしテウォン以外とはほとんど人間関係を築いてこなかったミンギルは、自分たちが変だと思われる理由にまったく心当たりがない。
テウォンもミンギルと同様、班員たちが何を不思議に思っているのか把握できてないらしく、戸惑った表情でごく軽い説明だけを述べた。
「どうって、同じ屋敷で一緒に使用人として働いとっただけだよな」
二人の常識を確かめるようにテウォンがミンギルの方を向いて、ミンギルは無言で頷く。
他の班員たちは腑に落ちない様子で、特にお調子者はさらに情報を引き出そうと口を開きかけていたが、消灯ラッパが鳴ったのでそこで話は終わった。
(もう眠いから、ラッパで話が終わってくれて良かった)
電灯を消して、夏用の薄手の掛け布団に潜り込むときにはもう、ミンギルはテウォンと外国についての考えが大きくずれたことを綺麗さっぱり忘れていた。
22 部隊の編成
京城を奪還した共和国の軍隊は七月には漢江を渡河して南進し、南朝鮮が臨時政府を置いた水原を陥落させて烏山や大田を次々に占領していった。
支配する土地が広がれば、その管理をする人員も必要になり、ミンギルとテウォンのいる班は初年兵教育を二ヶ月で終えて部隊に編成され、まずは後方に送られることになる。
その初めての任地が占領したばかりの京城に決まると、班員全員が喜んだ。
「京城に行ったら、ものすごい美人に会いたいなあ」
「俺もそう思う」
「でも僕たちみたいな田舎者に構うのは、何かの裏がある女だけかもよ」
昼食後に洗い場で食器を洗いながら他の三人が大都会での出会いを期待している横で、色事には興味がないミンギルはテウォンに訊ねる。
「京城って、王様がいたところだよな。なんか名物ってあるのか?」
「昔の王様も食べてた料理なら、雪濃湯が有名だな。雪みたいに白くて濃い、牛骨を煮込んだスープだ」
テウォンは見たことも食べたこともない、他の土地の名物についてもミンギルの疑問に答えた。
「人生で一回くらいは、食べてみたいな。そういうの」
肉なら何でも好きなミンギルは、蛇口から流れる水がたまっていくアルミの器を見ながら乏しい想像力を総動員し、牛骨の入った雪濃湯を思い浮かべ唾を飲む。
「今ではわりと食堂で扱われてる料理みたいだから、意外と普通に食べれるんじゃないか」
テウォンはその料理が意外と庶民的な献立になっているらしいことを明かして、洗い終わったアルミの皿を乾いた布で拭いて籠に入れた。
◆
それから数日後、ミンギルとテウォンのいる新兵の集団は営庭に集められ、各班に下士官が入って分隊として編成された。
分隊はそれぞれ十人前後で、分隊が三個で小隊、小隊が三個で中隊、中隊が三個で大隊となり、さらに大きな単位として連隊、旅団、師団、軍団があるらしい。
あまりにも大きすぎる軍隊という組織の大きさに、ミンギルは山の麓に立ったつもりで周りで班を作っている人間を見回した。
湿度のある曇天の空は雨が降り出してもおかしくない暗さだったが、ゆるく整列して集まる新兵たちの表情はほどほどに明るい。
他人に興味がないミンギルは、未だに残りの班員の名前をわかっていなかったが、さすがにもうそろそろあと一人くらいは覚えなければいけないのかもしれないと思ってテウォンに話しかけた。
「これから来る人たちは、おれたちから見てどういう立場になるんだ?」
「この班が分隊になるから、今から増える下士官の人は分隊長と副分隊長になるはずだ」
テウォンは他の三人の班員が話している何かの話題に耳を傾けていたようだったが、ミンギルの質問にはすぐに答えた。
その直後に、ミンギルとテウォンのいる班に、一人の男が近づいてくる。
おそらく年齢は二十代後半くらいであろう、ミンギルよりもやや小柄だが、細身で手足が長いので逆に背は高く感じられる、姿勢の良い男だった。
芥子色の軍服は襟章の星の数以外新兵と変わらないはずであるのに、彼が着ていると将校のものと同じくらい上等に見える。
軍帽を被ればどんな男でもそれなりに格好がつくという事実を差し引いても、つばの下から覗く日焼けした顔は凛として整っており、美男とはこういう人に使う言葉なのだろうとわからされる。
だがその不遜さの見え隠れする瞳には独特の暗い光が宿っていて、表情には得体の知れない雰囲気があるので、どうやら善良な人格者ではないようだった。
「はじめまして、よろしくお願いします!」
無言で現れた男を前にして、三人と二人の新兵たちは慌てて敬礼をして挨拶する。
男は冷静に値踏みをするような眼差しで、新しい部下たちを一人ずつ見た。
端正な顔立ちをしていること以外、まったく人に好かれる要素がなさそうな男である。
しかし気だるげな男の瞳と目があったとき、ミンギルは不思議と親近感を覚えた。
(おれは多分、この人のこと嫌いじゃないな。嘘っぽくないから)
真面目に物事を考えるのが苦手なミンギルは、説教臭さを感じない人物が自分たちの上官になることに安心感を覚えていた。
しかしそっと隣に視線を向けてみると、考え方が常に優等生であるテウォンは、男の斜に構えた態度に不安を覚えているようだった。
やがて五人分の顔を最後まで確認した男は、面倒くさそうに口を開いた。
「この分隊の分隊長を務める、カン・ジョンソだ。よろしく」
決して声が大きいわけではないのに妙にはっきりと響く低い声で、男は自分の名前を名乗った。
新兵たちは普通ではない雰囲気を持った上官が自分の名前の次に何を話すのか、気になってじっと見つめていた。
だがジョンソは黙ったままで、気づけば隣にいたもう一人の青年が話し始めていた。
「副分隊長の、ユン・ホウンです。よろしくお願いします。私たちの分隊が所属する軍団はこれから京城へ行き、そこで……」
体格にも顔にもこれと言って記憶に残るところのない青年は、丁寧な言葉づかいで必要事項であろうことを話していた。
副分隊長という役職に就いているらしい青年の存在感は、分隊長のジョンソの印象の強さによってより薄くなっていて、その腰の低い態度だけが唯一の個性になっている。
事務的な内容には興味がないミンギルは、副分隊長の話を聞くのはテウォンに任せて、後ろで黙っているジョンソの様子を伺った。
ジョンソが本当に無口なのか、それとも面倒くさいから黙っているだけなのかはわからない。
しかしどこか違うところをよそ見して考え事をしているジョンソの表情を見る限り、ジョンソもまたミンギルと同じように副分隊長の話を聞いていないようであった。
(この人がおれたちの分隊長の、カン・ジョンソ)
ミンギルはそのとき驚くほど自然に、ジョンソの名前を覚えた。ジョンソの佇まいは他の人とはまったく違って、ミンギルは彼に興味を持っていた。
おそらくミンギルが、テウォン以外の人間の名前を心に留めたのは生まれて初めてのことである。
自分の不誠実さを隠さないジョンソの誠実さを、ミンギルは好ましく思っている。だからその日のミンギルはテウォンに何も訊ねることなく、ただジョンソの不誠実さが部下に損をさせないものであることを願った。
ミンギルは自分の知性を信じていない。
しかし誠実さも不誠実さも誰に向けられているかが問題であって、最終的に自分の得になるなら他者がどちら側であっても構わないことは本能で理解していた。
23 出陣式
部隊の編成は七月中には終わり、月末には編成完結式と出陣式が行われた。
特別な式と言っても普段から行われている集会とやることは変わらず、ミンギルは次から次へと続く偉い人の話に眠たくなってしまう。
しかし音楽隊の伴奏に合わせて出席者全員で軍歌を歌うときには、さすがに気分が盛り上がった。
梅雨明けのからりと晴れた青空に藍紅色旗がはためき、調子の良く伸びるラッパの音や軽快に弾む太鼓の音が響きわたる。
やや長めの前奏が終わるのを待ってから、男たちは不慣れな歌声で軍歌を歌った。
我らは鋼のように屈強な朝鮮人民軍
正義と平和のために戦う勇猛果敢な戦士
不義の元首を打ち倒し
祖国の完全な独立と勝利を手に入れよう
この曲は「人民軍行進曲」という曲名で、延安にいた朝鮮人の音楽家がソビエトの歌を編曲して朝鮮人民軍の軍歌にしたものであると、ミンギルは以前にテウォンに教えてもらった。
ミンギルの歌声は伸びが悪く、周囲の歌声に溶け合うことなくかき消される性質のものだった。
だが歌詞を覚えたつもりはなかったものの、歌が始まってみると意外と歌えている自分にミンギルは驚く。
(頭では忘れとっても、どこかでは覚えとるのかも)
ミンギルは自分は物覚えが悪いと言っても、身体の動きで覚えることはむしろ得意であるので、思ったよりも物事を記憶していることもあった。
列の手前にはテウォンがいて、声変わりを終えても少年らしさを残した声で歌っているのが聞こえる。
そのまたさらに前方の方には、おそらく真面目に歌ってはいないであろうジョンソの後ろ姿があって、それ以外の人間はミンギルにとってその他の大多数でしかない。
しかしそれでもミンギルは、軍歌を歌ってる間はかすかな連帯感を感じていた。
(正義と平和のためっていうのは、よくわからんけど)
歌詞の内容を頭にぼんやりと思い浮かべて、ミンギルは戦争のことを考え直す。
ミンギルは故郷で自分たちを支配していた金持ちの地主の家が嫌いだったが、今思うと彼らを殺したいほど憎んでいたわけでもなかった。
そのため、同じような不平等が南朝鮮にあるのだとしても、その不平等を強いる人々を殺すのが絶対の正義だと言い切れるほど強い気持ちを持つことはできない。
だが戦争が始まったなら話は別で、人を殺しても構わないと偉い人が大義名分を作って許可を出してくれるなら、自分は嫌いな種類の人間の命を迷わず奪うことができるとミンギルは確信していた。
ミンギルは馬鹿なりに社会的規範の遵守しようとしているだけであって、優しさから人命を尊重しているわけではない。
殺したいほど憎くはなくても、殺せたら心がすっきりするはずだというのがミンギルの本音である。
だから理由さえ与えてもらえれば、暴力を振るうことに躊躇はなかった。
向こうには向こうの大義名分があり、相手を打ちのめすことに失敗すれば当然、今度は自分の命が奪われることも、理屈の上ではわかっている。死ぬ危険性を代償に、ミンギルは気晴らしの機会を手に入れたのだ。
そう考えてミンギルは、殺すか、殺されるかという賭けの規則を素直に受け入れる。
(難しいことは、テウォンが考えてくれとるから)
自分よりも綺麗に響くテウォンの歌声に耳を傾けて、ミンギルはテウォンについて行けば間違いないのだと安心して青空を見上げた。
式典が終わった後は、これから出征する兵士全員にソビエトから送られてきたお菓子が配られた。
配る人の説明によると小さな板状のそれはチョコレートという名前のお菓子であるらしく、見知らぬ記号のような文字が書かれた包装紙を解くと、艷やかな濃い茶色のかたまりが入っている。
(味噌みたいな色をした、お菓子なんだな)
ミンギルは目を丸くして、つやつやと硬いチョコレートを手のひらに載せて指でつついて匂いをかいだ。お菓子だと思うには不可解な深く複雑なその匂いは、どちらかと言うと発酵食品を想起させるものだった。
周りを見てみるとその場で食べる雰囲気だったので、ミンギルは貴重なものだと思ってそっとかじった。
外からは金属のように硬く見えたチョコレートは、歯を立ててみると案外もろく崩れ、滑らかに舌の上で溶けていく。
そして口の中いっぱいに優しい甘さが広がるのに、どこか香ばしさやほろ苦さも感じさせる不思議な味に、ミンギルは思わず夢見心地になった。
(薬菓の蜂蜜の甘さとは違う、知らん甘さだな)
ミンギルはゆっくりとその欠片を舐めながら、異国の菓子の上品な風味を堪能する。
少しずつ食べようと考えていたのに、気づけばミンギルは二口目や三口目を食べていて、手元には包装用の銀紙だけが残る。
ミンギルはどうせ忘れてどこかにやってしまうかもしれないけれども、銀紙を大切に畳んで、鞄のポケットの中に入れた。甘い匂いだけでも、楽しむためである。
やがてチョコレートを食べ終えたミンギルが前に向き直ると、手前に立っていたテウォンが振り返って、手を差し出した。
「割って食べてみたけど、そこまで好きじゃなかったから」
テウォンから手渡されたのは、三分の一ほど減ったチョコレートを、銀紙で包み直したものだった。
甘いものが好まないテウォンは、やはりチョコレートもそれほど気に入らなかったようである。
「仕方がないな。いらんのなら、もらっといてやるよ」
本当は最初から期待していたが、ミンギルはわざと恩着せがましく笑う。
それからもらったことを忘れないように念じてから、ミンギルはチョコレートを空の銀紙が入っているのと同じポケットにしまった。
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