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【短編小説】毒りんごを食べない白雪姫(中編)

強大な帝国の皇女として生まれたギジェルミーナは、誰よりも美しい王冠を戴くことができる王になりたかった。
しかし帝国では女は王位につけないことを、ギジェルミーナは知っていた。

屈折した欲望を抱えたまま、ギジェルミーナは隣国の国王イェレに嫁ぐ。
イェレは国内の政変によって長年幽閉された結果、精神退行してしまった青年で、よく癇癪を起こすがギジェルミーナには素直な好意を見せた。

なぜかギジェルミーナに幼子のような信頼を寄せるイェレを前にして、ギジェルミーナは自分は王にはなれなくても、王を支配する存在になれるのかもしれないと期待する。

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9 語られる過去

 その後は高位の聖職者が登壇し、婚礼の儀式は粛々と進められて終わる。

 イェレは終始、落ち着きがなかった。
 しかしグラユール王国の人々はイェレが普通ではないことは十分に把握しているようで、よく出来た段取りが問題を隠してごまかした。

 調べを変えたパイプオルガンの音を後にして、ギジェルミーナはイェレの手を引き、大聖堂を退出する。
 儀式の後には食事会があると聞いていたので、ギジェルミーナはそのつもりで家臣たちの案内によって城の奥へと向かった。

 謁見室や応接間がある棟のエントランスには、重厚な装飾が施された壁に由緒がありそうな絵画がいくつも飾られていて、それらは二階へとつながる優雅な弧を描く階段からも鑑賞しやすいように配置されている。

「私は一度着替えてから、大広間に向かいますね」

 ギジェルミーナは一旦別れようと思って、イェレに話しかけた。
 しかしイェレはもうすでに眠そうな顔をしていて、ギジェルミーナの肩に寄りかかった。

「なんかぼく、つかれちゃった」

 今にも寝てしまいそうな様子で目を閉じかけて、イェレは力のない声でささやく。

「でも食事会は」

 ギジェルミーナは食事をそれなりに楽しみにしていたので、一日の終わりを迎えているイェレの様子に慌てた。

 どうするべきか悩んでいると、階段を一人の青年が降りてきた。
 質素な高襟の上着サイオを着た、さっぱりとした顔立ちの茶髪の青年である。

「大広間には陛下と王妃様は欠席すると伝えたから、大丈夫です。寝室の準備もいたしましたので、陛下はこのままお連れします」

 青年はギジェルミーナとイェレの状況をすでに理解していて、歯切れよく対応する。
 イェレよりも少し年上のその青年は、他の家臣よりも重要な役割を持っているとギジェルミーナは理解した。

「お前の名は?」

「ヘルベンです。陛下の近侍です」

 新しい夫に接しているときと振る舞いを変え、ギジェルミーナが威厳を持って尋ねると、ヘルベンと名乗った青年は深々とお辞儀をして答えた。そしてよく慣れた様子で、イェレを抱えあげて階段を上がる。

「そうなると私の夕食は、どうなるんだ」

 その後を追いながら、ギジェルミーナは自分にとっては大事なことについて問いかけた。流れで食事会は欠席になってしまったようだが、ご馳走は食べなければ気がすまない。
 するとヘルベンは、イェレには真面目に仕えていても、ギジェルミーナについては少々面倒臭がっていることを隠さず振り返った。

「王妃様の分のお食事は部屋に運ぶように厨房にも言っておきましたから、ご安心ください」

 言葉遣いは丁寧だったが、ヘルベンはギジェルミーナを食い意地のはった人物だと認識しているようである。
 ギジェルミーナはヘルベンの態度が気に入らなかったが、仕方がないので頷いた。

「それなら、まあいい」

 一応はご馳走を食べられると聞いたので、ギジェルミーナは文句を言わなかった。馬鹿にされるのは嫌だったが、物欲が強いことは否定できない。

(国王が欠席で、よそ者の王妃だけがいるのも変だからな……。それはそうと、この男からはもう少し事情を聞いておこうか)

 国王の寝室はエントランスの階段を上がって少し歩いたところにあり、ギジェルミーナはヘルベンにまだ用があったのでついて行った。
 薄青い繻子織サテンの壁紙が綺麗な寝室には、広々としたベットや開き戸付きのキャビネットなどの、金具と白いエナメルのコントラストが美しい調度品が置かれている。

「では陛下、寝る前にお召し物を替えましょう」

 ヘルベンは半分寝たような状態のイェレを立たせて、てきぱきと儀礼用の服を脱がせて就寝用のガウンを着せる。
 その見知らぬ日常を、ギジェルミーナは壁際で腕を組んで後ろから観察した。

 やがてイェレはヘルベンの手でベッドに寝かされると、ギジェルミーナの名前を呼んだ。

「あれ、ギジェルミーナは?」

「私はここです」

 ギジェルミーナはベッドのそばに立ち、イェレの頭を撫でる。
 眠気に抗いながらも、イェレは悲しそうにギジェルミーナを見上げて見つめた。

「ごめんね。せっかくギジェルミーナとあえたのに、ねむくなっちゃって」

 その顔が本当に残念そうなので、イェレは本当にギジェルミーナに会いたかったことがよくわかる。

 ギジェルミーナはかつて幼い頃に一度イェレと会っているらしいのだが、そのときのことはまったく記憶にない。
 だからイェレにとって自分が特別な理由は、考えても少しも見当がつかない。しかしギジェルミーナはイェレが嫌いなわけではないので、期待に応えて優しい王妃らしく接した。

「これからたくさん、会えますから」

「そっか。そうだね……。じゃあ、おやすみなさい」

 ギジェルミーナが思いやりのある言葉をかけるとイェレは納得したようで、シーツを被って綺麗な青い目を閉じる。やがてそのうち、寝息が聞こえた。

「イェレ国王は、よく寝るお方なんだな」

 無事にイェレが眠りに落ちたのを見届け、ギジェルミーナは部屋に置いてあったソファに腰掛けて、ちょうどよい固さの背もたれに身体を預ける。

 居座るギジェルミーナを前に、ヘルベンはイェレが起きないように小声で答えた。

「陛下はお疲れになりやすい体質ですので。でも今日は王妃様がいたので、比較的お加減も良く過ごされていたと思います」

 あれで普段よりは調子が良かったのかと、ギジェルミーナは今後が心配になる。

「でも、昔はもっと普通だったんだろう?」

「そうですね。この国で内戦が始まるまでは、陛下は母君を早くに亡くされてはいても健やかに成長されていました」

 ギジェルミーナはヘルベンが語るイェレの過去が気になりつつも、ソファの近くの丸テーブルの上に置かれたティーセットを一瞥した。
 おそらくイェレが寝る前に飲み物を欲しがったときのために、用意されたものだろう。

 その視線に気づいたヘルベンは、仕方がなさそうにカップを一つとってポットの中のお茶を注ぐ。

「すべてが変わってしまったのは、陛下のお父上である先王が崩御されたあの年。先王の二番目のお妃様が、自らの実子を王位につけるために一部の貴族を味方につけ、最初のお妃様のご子息であった陛下を幽閉してしまった十三年前のことでございます」

 ヘルベンはイェレが幽閉される原因となった内乱のきっかけに触れながら、ギジェルミーナにカップを渡した。
 銀のカップの中にはやわらかなリンデンの香りのするハーブティーが入っていて、眠る気のないギジェルミーナの眠りも誘う。

(最初の妃は確かイェレを産んですぐに若くして死んで、昔の愛人だった女が二番目の妃になって揉め事の種になったという話か)

 回りくどい話が苦手なギジェルミーナは、ほどよい温かさのお茶が冷めないうちに核心をついた。

「やはりイェレ国王がおかしいのは、幽閉されていたことが原因なんだな」

「はい。まだ六歳の王子だった陛下は、牢獄に繋がれ、粗末な食事以外は何も与えられずに育ちました。そんな状況で人が生きるには、正気を失うしかありません」

 ヘルベンは非常に抑制した言葉を選んで、イェレの受けた仕打ちについて語った。言葉で聞くだけでも十分に酷いのだが、実際に起きたことはきっとそれ以上に悲惨なのだろう。

「だが、殺されはしなかった」

 カップをテーブルに置いて、ギジェルミーナはベッドで眠っているイェレの方を見た。
 事の深刻さをわかっているからこそ、ギジェルミーナはイェレが生きていることが不思議だった。
 もしもギジェルミーナがイェレを幽閉した人物だったのなら、痛めつける前にイェレを殺していたはずだと思う。

 そうした素朴な疑問を抱いたギジェルミーナを、ヘルベンは一瞬だけにらんだ。その目には、不幸な子供よりも政治や自分の都合を優先させる権力者への憎しみが込められていた。

「二番目のお妃様は先王の寵愛を巡って最初のお妃様に大変嫉妬していらしたので、その息子を楽に死なせるよりも、と考えたのかもしれません。そういう感情で動く女性だったので、結局二番目のお妃様は対立していた軍閥貴族の勢力に敗北し、子どもたちとともに処刑されました」

 ヘルベンがやわらかい言葉を使って説明しても、それは美しい城や王都の様子からは想像しづらい血塗られた残酷な歴史だった。

「そうしてやっと陛下も牢獄から助け出され、本来継ぐはずだった王位を継ぎました。それが五年前のことです」

 他の誰かの死によって、イェレはやっと救われた。
 しかしそれで幸せに終わるわけがないので、ヘルベンは言葉を続ける。

「約八年間の幽閉生活によって陛下の心身は深く傷つけられましたが、お身体の問題は時間をかければ大分回復いたしました。笑うこともなければ泣くこともなかったころに比べれば、とてもお元気になったと思います。しかし奪われたものをすべて取り戻せたわけではなく、陛下のお心はまだ幼子のままです」

 ヘルベンは顔を曇らせ、目を伏せて立ち尽くした。

 内容の陰惨さはさておき、ギジェルミーナは得られた情報には満足する。

「なるほど。状況はよくわかった」

 もらったお茶を飲み干し、ギジェルミーナは自分の立ち位置についてよく考えた。

 イェレが過酷な子供時代を過ごしていたことは理解したのだが、元々は部外者であるギジェルミーナにとってはそれはまだ他人事でしかなく、過度に同情するのもどうも違う気がする。
 だからあえてギジェルミーナは、少々距離を置いた態度をとった。

「大変痛ましい話だったが、済んだ過去のことだ。きっとこれからは、もっと幸せな未来があるはずだろう」

 ギジェルミーナは爽やかに夫の心の問題について考えることをやめ、強大な世界帝国からやって来た王妃らしく尊大に微笑む。

 その強引さに、ヘルベンはただ黙って頷いた。

「では私は、大広間で行われている食事会の様子を見に行きますので」

 ヘルベンはお辞儀をすると、部屋を出ていった。

 気づくと、ギジェルミーナはイェレと寝室に二人っきりになっていた。

(婚礼の日に寝室で夫婦が二人になったら、本当ならもっとこう……)

 ギジェルミーナはソファから立ち上がり、仰向けに寝ているイェレの顔を見た。

 皇女として育ったギジェルミーナには、それほど人の寝顔を見た経験はない。それでも普通に眠っていればイェレはごく普通の青年に見え、穏やかな表情は悲惨な過去を感じさせなかった。

 ハーブティーには入眠作用があったらしく、ギジェルミーナは少々の眠気を感じてイェレの隣に横になる。
 薄絹のカーテンの付いたベットは人が三、四人は横になれそうなほど大きなものだったので、ギジェルミーナはイェレに密接しなくても寝転ぶことができた。

 豪奢な花嫁衣装がベッドの上に広がり、イェレの被るシーツにふれる。

(だけど私は好きになれそうな気がする。このすべてを奪われ続けた可哀想な国王を)

 口づけも愛撫もない、ただ側にいるだけの時間の中で、ギジェルミーナは目を閉じた。

 だがイェレと同じように、本当に寝てしまうことはなかった。
 ギジェルミーナには祖国にいる長兄への手紙を書いて、従者のカミロに持たせて送る必要がある。

 また後で部屋に届くことになっている食事のことを、ギジェルミーナは忘れていなかった。

10 新しい朝

 翌朝ギジェルミーナは、自分の寝室のベッドで目覚めた。

(そういえばもう、グラユール王国にいるんだった)

 イェレの寝室を出た後は手紙を書いて祖国に送り、ご馳走をお腹いっぱいに食べて早めに寝た次の日の朝は、初めての場所でも気持ち良く起きることができた。

 ベッドの上で背伸びをして立ち上がり、朝日が差し込む窓から景色を覗いてみる。
 そこからほど近くに見える山岳と城下町が陽光に照らされていく様子は美しく、ギジェルミーナはこれからの季節の移り変わりが楽しみになった。

 そして侍女を呼んで着替えようと考えたそのとき、ドアの外から物音が聞こえた。何かが落ちて転がったような、そんな音だった。

(朝から一体何なんだ)

 ギジェルミーナは部屋を出て、様子を見ようと思った。
 しかしギジェルミーナがドアノブを回すよりも先に、外から勢いよくドアが開く。

「ギジェルミーナ、ここにいた」

 入ってきたのは寝間着のガウンを着たままのイェレで、イェレはギジェルミーナを見るなり抱きついた。

「え、何。何かあった?」

 いきなりの抱擁に、ギジェルミーナは動揺した。

 イェレは行動は子供っぽくても背丈は十分に大人なので、抱きしめられればそれなりに圧迫感がある。

 開いたままのドアから廊下の様子をうかがうと、床にはおそらくイェレがぶつかって落としたのであろう花瓶が転がっていて、その横には侍女の一人がいて申し訳なさそうにこちらを見ていた。

(とりあえず、花瓶が割れてなくて良かった)

 侍女に適当に目配せをして、ギジェルミーナはそっとドアを閉めた。イェレに抱きつかれている姿を見られるのは、まだ何となく気恥ずかしい気がする。

 イェレはしっかりと抱いてギジェルミーナがそこにいることを確認すると、真っ直ぐに顔を覗き込んだ。

「ちゃんとやくそくしたのに、どうしてどこかにいっちゃうの。ぼくのこと、きらいになった?」

 そう尋ねたイェレの青い瞳は、涙で潤んでいた。

 ギジェルミーナは何もしないなら二人でいても意味はないと思って自分の寝室で寝たのだが、どうもそれはイェレにとってはとても不安な出来事だったらしい。
 そのことに気づいたギジェルミーナは、慌てて嘘にならない程度の好意を伝えた。

「いや、好きです。多分」

 そう答えると、イェレは泣きそうな顔のまま、ギジェルミーナをもう一度抱きしめる。

「じゃあずっと、そばにいて」

「はい。そうします」

 半ば問答無用の形で、ギジェルミーナはイェレの要求を受け入れ、その細い身体を抱きしめかえす。

(となると私は、これからは一人じゃ寝られないのか)

 ギジェルミーナは一人で好きなときに寝て起きるのが好きだったので、その機会が失われたのが残念だった。
 しかしイェレがあまりにも自分を好きでいてくれるので、それくらいのことは我慢してあげるべきだと思った。

 ◆

 その後ギジェルミーナは、侍女を呼んで着替えを済ませ、朝食をとった。

 朝食はイェレの寝室の隣の部屋に並べられ、二人は食卓を挟んで向かい合う。

「それでは、いただきます」

 ギジェルミーナは簡単に祈りをすませて、ナイフとフォークを手にとった。

 レースで縁取られたクロスのかかったテーブルの上の陶磁器には、焼きたての白パンにじゃがいものパンケーキ、穴あきのチーズ、生ハム、ゆで卵にアプリコットなど、丁寧に仕上げられた料理が盛り付けられている。

(この料理は知らないな)

 ギジェルミーナはまず見慣れない料理だったので、こんがりとした黄金色が綺麗なじゃがいものパンケーキにナイフを入れた。平たく丸い形に固めて焼いた細切りのじゃがいもは軽快な音をたててフォークに刺さり、口の中に運ばれる。

 するとまずかりかりに焼けた部分に染み込んだ豊かなバターの香りが舌の上に広がって、その中からほくほくと甘いじゃがいもが姿を現しほどけていった。

(すごく単純な料理なのに、美味しいなこれは)

 ギジェルミーナはその素朴だが良い匂いのする朝食を前にして、ここに来るまでの朝の慌ただしさを忘れて夢中になった。

 丸い白パンはやわらくちぎれてほの温かく、ゆで卵は絶妙な半熟。
 野性味のある赤色をした生ハムはしっかりとしたしょっぱさが食欲をそそり、新鮮な牛乳で作られたであろうチーズはまろやかな味がした。

(きっと牧畜が盛んな山の国だから、まず牛が良いんだな)

 素材の良さが引き出された品々に感心しつつ、まんべんなく味わって食べる。
 昨晩も満腹になるまでご馳走を食べたギジェルミーナであるが、朝になればもうお腹はすいていた。

 しかしふと見てみると、イェレはギジェルミーナと違ってまったく朝食に手をつけていなかった。
 その様子を見て、給仕をしている侍女がおそるおそる声をかけた。

「食べやすいように、お切りいたしましょうか」

 侍女の視線は、まだ一度も握られていないイェレのナイフに向けられている。
 しかしイェレは寝起きで不機嫌であるらしく、むくれ面で拒絶した。

「あさごはん、たべたいきぶんじゃない」

「だけど何か一口だけでも、お召し上がりになられた方が……」

 侍女は食い下がり、薄く切ってあるチーズを小皿に載せて勧めた。
 それが気に入らなかったのか、イェレは牛乳が入っている杯を手にとり投げようとする。

「いらないって、いってるでしょ」

 そう怒ったイェレは、駄々をこねる子供の顔をしている。
 せっかくの朝食を台無しにされては困ると、ギジェルミーナは急いで立ち上がった。

「陛下、このパンがすごく美味しいですよ」

 ギジェルミーナは自分の皿に残っていた白パンをちぎり、身を乗り出してイェレに差し出した。
 癇癪を起こしているイェレをじっと見つめて、にっこりと微笑む。

 そうしてやっとイェレは機嫌を少しは直したらしく、仕方がなさそうにギジェルミーナが手にするパンに顔を近づけた。

「じゃあ、ちょっとだけね」

 イェレは小さく口を開けて、ギジェルミーナが手にしているパンにかぶりつく。二口目以降もそのまま食べ進めたので、イェレのくちびるはギジェルミーナの指にふれた。

(侍女じゃなくて私が相手だと、大分態度が違うみたいだ)

 小鳥がついばむようにパンを食べるイェレの相手をして、ギジェルミーナは親鳥のような気分になる。

 難を逃れた侍女は、ほっとした顔をしてギジェルミーナにお辞儀をした。
 事情を察するとギジェルミーナは、これからイェレの面倒をたくさん見なければならないようだった。

11 謁見室での政務

 イェレが王としての職務を問題なく果たせる状態ではないので、ギジェルミーナが政治に関わる機会は思った以上に多い。

「私もこれまで同様に補佐を続けますが、今後は王妃様が陛下を支えていくことになります。よろしいですか?」

「オルキデア帝国の皇女として、私も少しは政治を学んできた。だからまあ、何とかなるだろう」

 謁見室での政務が始まる婚礼の儀式から数日後の午前中に、ヘルベンがイェレの部屋の前の廊下でギジェルミーナに確認する。

 ギジェルミーナは特に根拠はないが楽観的に、胸を張って答えた。自分が政治に携わることに不安はなく、むしろ普通の妃以上に権力を握れることを楽しみにしている。

「それは心強いですね」

 ヘルベンはギジェルミーナの自信家ぶりに苦笑して、内心では馬鹿にしているような表情をする。
 顔が正直な男だと、ギジェルミーナは思った。

 やがてイェレの準備が出来たらしく、部屋の扉が内側から開く。

「ギジェルミーナがいる。だからきょうは、おしごともうれしい」

 そう言って部屋から出てくるなりギジェルミーナの手を握ってきたイェレは、儀礼用の衣装に比べれば質素な黒いラシャの外衣ルッコを着ているが、国王らしく白銀の王冠を被っていた。

「はい、陛下。私は謁見室でも、喜んで陛下をお支えします」

 ギジェルミーナはイェレの白く細い、しかし確かに大人のものである手を握り返す。イェレの黒い服とお揃いになるように、ギジェルミーナもまた黒いドレスを選んで着ていた。

 そして二人は謁見室に移動し、イェレは深緋のベルベットの張られた金色の玉座に座って、ギジェルミーナはその横の玉座よりも飾りは少ないが立派な椅子に腰掛けた。
 謁見室は網状細工の丸天井が優美な広々とした部屋で、壁は白く大きな窓があるので昼間は明るい。

「まずはユルハイネン聖国との国境近くの都市に住んでいる領主の報告です」

「わかった。会おう」

 横に控えているヘルベンがこれから謁見にやって来る人物について説明をしたので、ギジェルミーナは頷く。何をどう理解しているのかわからないが、イェレもこくりと首を縦にふった。

 やがて開かれた扉をくぐり、石の床に敷かれた絨毯の上を歩いてやってきたのは、古びた礼服を着た小太りの中年の男だった。
 男はイェレとギジェルミーナに跪き、がさついた声で挨拶をはじめる。

「国王陛下と王妃様におかれましては、ますますご清栄のこととお喜び申し上げ……」

 男の挨拶はまわりくどく長かったので、イェレは早速集中力を切らして眠そうな顔になる。
 ギジェルミーナも意味のない言葉を最後まで聞けるほど悠長な性格ではないので、半ば挨拶を打ち切る形で質問をした。

「で、国境はどうなんだ」

「はい。ユルハイネン聖国は近年不作続きで、流民がこちらの領土に大量にやって来ています。中には匪賊の類もいて、非常に危険です」

 頬づえをついたギジェルミーナが声をかけると、男は緊張した面持ちで慌てて本題に入った。

「そのため国境の警備隊を増員する許可と予算を頂ければ、と考えている次第です」

 男はギジェルミーナとイェレに深々とお辞儀をして、領主として希望を伝える。

 ユルハイネン聖国は、ギジェルミーナの祖国であるオルキデア帝国が長年戦争をしている大国であるが、ただ国土が広いだけで強国というわけでもない。
 戦争でも不利な状況に置かれ、そのうえ不作が続いているとなると、逃げ出す民が多いことも納得できた。

「なるほど。流民か」

 ギジェルミーナは領主の願いよりも、その前提にある状況に関心を持った。

 グラユール王国はユルハイネン聖国と直接戦をしているわけではないが、ユルハイネン聖国の敵であるオルキデア帝国から皇女を王妃に迎えて関係を深めている。
 だから流民の流入も単なる流入ではなく、戦争と関わる事象として考える必要があるのかもしれなかった。

 しかしイェレはそうした事情を理解できるはずはなく、ギジェルミーナの服の袖を引っ張り無垢な顔をして尋ねる。

「これはうなずいてよいこと? だめなこと?」

 イェレは判断のすべてを、ギジェルミーナに任せている。
 何もわからない人間に頼られるというのは気持ちが良く、ギジェルミーナは優しい声で答えた。

「この国に敵が入ってこないようにするためのことですから、良いことだと思います。『許可する。仔細は追って決定する』とお伝えするのはどうでしょうか」

 隣国との関係が緊張しているなら、国境の防衛に力を入れるのは間違いではない。具体的にどれくらいの予算を割くかは財務に詳しいものに決めさせるとしても、承認するべきである。
 そう考えたギジェルミーナが大雑把に対応を提案すると、イェレは何の疑いもなく従順な返事をする。

「うん。わかった」

 素直に頷いたイェレは、ギジェルミーナの服から手を離し、領主の男の方を向いて澄んだ声で受け答えた。

「きょかする。しさいはおってけっていする」

 他者の言った言葉を繰り返すイェレは、自分が何について話しているのかわかっていない。
 イェレは傀儡の王であり、ギジェルミーナは操る側にいる。ギジェルミーナはイェレの損になることをするつもりはなかったが、その関係には多少の罪悪感と快感が伴った。

 領主の男も、自分の目の前で行われていることの意味をよくわかっているようだった。
 しかしそれでも男はさらに深々とお辞儀をして絨毯の上で跪き、くどくどしいお礼の言葉を述べる。 

「ご適切な判断をしてくださり、誠にありがとうございます。国王陛下と王妃様の治世は必ず素晴らしいものになり、我々臣下は限りない幸せを生きることでしょう」

 ギジェルミーナは領主の男が薄く禿げた頭を下げているのを一瞥して、それから隣のイェレをじっと眺めた。
 黒瑪瑙オニキスを使った白銀の王冠を被り上等な生地の外衣ルッコを着たイェレの横顔は絵画のように整っていて、黙っていれば賢そうな大人の国王に見える。

(ときどき忘れそうになるが、イェレもアルデフォンソ兄上と同じように王なんだ)

 一人では何もできない存在であったとしても、イェレはギジェルミーナよりも美しく、ギジェルミーナは持っていない王冠を被っている。
 その事実を直視すると、かつて兄に対して抱いた、より多くのものを与えられた存在への嫉妬を思い出すところもあった。

 しかしイェレは王冠を与えられてはいても、王冠だけでは釣り合わないほど多くのものを奪われていることを、ギジェルミーナは知っている。だからその嫉妬や殺意のことはすぐに忘れて、ギジェルミーナはイェレの弱さを愛した。

(たとえ私よりも偉い王様だとしても、イェレは可哀想で可愛くて、私を好きだと言ってくれるから)

 ギジェルミーナがイェレの横顔を見つめていると、視線に気づいたイェレがこちらを向く。そしてイェレは、ギジェルミーナの言った通りに振る舞ったことを、褒めてもらいたそうに微笑んだ。
 その純真な好意を得る立場にいられることに、ギジェルミーナは満足していた。

12 幼い日の想い

 それからギジェルミーナはイェレの代わりに政治に携わりながら、グラユール王国の王妃として過ごした。

 太陽が燦然と輝く晩夏から果実が熟す秋、そして木の葉が落ち山々が凍る冬へと、季節は移り変わる。

 嫁ぎ先での生活にすっかり慣れたギジェルミーナのもとには、従者のカミロが時折長兄アルデフォンソが書いた書簡を届けていた。

「兄上たちは、お変わりなく過ごしているか?」

「はい。お二人ともお元気です」

 夜に到着したカミロを、ギジェルミーナは暖炉の火が暖かな応接間の長椅子で迎えた。
 カミロは実のところはギジェルミーナがそれほど兄たちの現状に興味がないことを知っており、また特別話すべきこともないようなので、返答はあたりさわりのないものになる。

「そうか。返事は明日までに書くから、今日はゆっくり休め。夜食も用意させよう」

 遠く旅をしてきた従者を労り、ギジェルミーナは金の筒に入った書簡を受け取った。

「はい。ありがとうございます」

 カミロはギジェルミーナに書簡を渡すと、侍女に食堂へと案内されて出ていった。

(すぐに返事を書かないと、アルデフォンソ兄上がうるさいからな)

 ギジェルミーナは自分は夕食をすませていたので、筒から書簡を取り出した。
 そして燭台で明かりをとったテーブルの上で書簡を広げたところで、部屋にイェレが入ってくる。

「おきゃくさまのようじは、おわった?」

「はい。もう終わりました」

 一人でいるとすぐにイェレがやって来ることに、ギジェルミーナは慣れていた。
 長椅子に座るギジェルミーナの方に駆け寄って、イェレは開かれた書簡を覗き込む。

「このおてがみには、なにがかいてあるの」

 イェレは文字がわからないわけではないが、難しい文章は理解できない。
 そのイェレにもわかるように、ギジェルミーナはざっと内容に目を通し、内容をかいつまんで伝える。

「ユルハイネン聖国とオルキデア帝国の戦争についての話ですね。グラユール王国にもユルハイネン聖国の間者がいるかもしれないから、注意しろと書いてあります」

 グラユール王国はオルキデア帝国とユルハイネン聖国に挟まれた小国だが、要衝の地を治めている。
 そのためギジェルミーナの長兄アルデフォンソはオルキデア帝国とユルハイネン聖国との戦争で、内乱から王権を安定させたばかりのグラユール王国がユルハイネン聖国に利用されることを警戒していた。

 こうした事情を噛み砕いてイェレに話したつもりだったが、イェレにはわからない言葉があるようだった。

「かんじゃ……?」

 イェレはギジェルミーナの隣に座り、じっと書簡の文字を見て、理解できずに困った表情をする。
 当たり前のように使う言葉につまづかれたギジェルミーナは、少し考えてから説明した。

「間者っていうのは、国の秘密を奪ったり悪さをしたりするために、正体を隠して忍び込む者のことです」

 ギジェルミーナが解説をすると、イェレは話が少しはわかった様子で、ギジェルミーナの顔を不安げに見つめる。

「なんだか、こわいひとたちだね。でもギジェルミーナがちゃんとしてくれるから、そのわるいひとたちはやっつけられるんだよね」

「はい。誰も悪さができないように、皆に注意させます。だから私たちは、楽しい謝肉祭のことを考えましょう」

 説明をするのが面倒になったギジェルミーナは、書簡を筒にしまってイェレには見えないようにした。

 凍れる冬が終わり雪どけが始まる季節に、人々は謝肉祭で春の到来を願う。謝肉祭の時期には城でもいくつかの催しものがあると、ギジェルミーナは聞いている。
 その謝肉祭の話題になると、イェレは笑顔になってギジェルミーナに身体を寄せた。

「うん。しゃにくさいのごちそうを、いっしょにたべれるのたのしみ」

 単純な思考しかできないイェレは、ギジェルミーナの期待通りに書簡のことを忘れて謝肉祭のことを考えてくれる。
 しかし振る舞いは幼くても、イェレは本当に幼いわけではない。だから寄りかかられれば重いし、華奢でもその身体は大人の男性のものだった。

(なんだかすごく、妙な気分だ)

 ギジェルミーナは恋をしたことがないので、イェレを異性として愛しているかどうかがわからない。親しく可愛がった弟や妹もおらず、また自分自身もあまり誰かに甘える性分ではなかったので、母や姉のようになることもできない。

 それでもイェレの身体のぬくもりを感じると胸が切なくなるこの気持ちは、支配欲だけではないような気がしている。
 そうやってギジェルミーナが自分の想いに名前を付けられないでいると、イェレはそっとギジェルミーナの頬に手を重ねて、静かにささやいた。

「ぼくはむかし、おかあさまもおとうさまもしんじゃって、くらくてつめたいところにとじこめられていたとき、ギジェルミーナのことをずっとかんがえていたんだ」

「私のことを?」

 遠い昔からの想いを唐突に打ち明けられ、ギジェルミーナは思わず驚いて聞き返す。

 なぜイェレが自分に好意を抱いてくれているのか、その理由をギジェルミーナは知らなかった。
 思い返せば最初に婚礼の日に会ったときにも、理由に近い何かを言っていたような気はする。しかしイェレに聞いてわかる答えが返ってくるとは思っていなかったので、ギジェルミーナは特に何も自分からは尋ねなかった。

 しかしイェレは思ったよりも幽閉されていた昔のことを覚えていて、自分の気持ちも伝えられるようである。
 幻ではないことを確かめるように、イェレは両手でギジェルミーナの頬をぺたぺたと触れた。

「いまはひとりぼっちだけど、ぼくにはいちどだけあったおんなのこが、こんやくしゃのギジェルミーナがいるって。ギジェルミーナとけっこんするから、ぼくはひとりじゃないって、そうおもってた」

 部屋は暖炉でよく暖められていて、ギジェルミーナの頬を覆うのに十分に大きいイェレの手は、少し熱いほどに温かい。
 話を聞いてみると、両親が死んだ上に幽閉されて本当に孤独になってしまった幼いイェレは、婚約者だったギジェルミーナを家族だと思って生きてきたらしかった。

 それはイェレが過酷な境遇に置かれていたがゆえの思い込みで、そうでもしなければ耐えられないほど孤独な牢獄に幼い少年が閉じ込められてた事実は、考えれば考えるほどに重い。

(この過去に見合ったものを、私は差し出せるのだろうか)

 ギジェルミーナが反応に困っていると、イェレはそっと言葉を続けた。

「ぼくもギジェルミーナもちいさいとき、ふたりでてをつないでやくそくしたから。けっこんしたら、それからずっといっしょだって」

 嘘を知らない澄んだ声で、イェレがささやく。

 ギジェルミーナはここまで言われてもやはり、婚約が決まった昔にイェレと会ったことは思い出せなかった。

(私がイェレのことを忘れて、普通に兄に嫉妬したり美味しいもの食べたりして生きていた間、イェレはずっと一人で私のことを考えていてくれたのか)

 申し訳無さと嬉しさが入り混じったような不思議な気持ちで、ギジェルミーナは澄んだ水色の瞳で真っ直ぐにこちらを向くイェレを見る。

 一つの長椅子の上で、ギジェルミーナとイェレは恋人のように寄り添い合っていた。王冠も玉座もなく、普通に夜着を着て二人でいれば、格式張った立場は忘れる。

 暖炉と燭台の光が作る影の中で、イェレの顔は妙に大人びて見えた。

 その一瞬がどうしようもなく儚いもののように感じられて、ギジェルミーナはそっとイェレのくちびるに口づけをする。
 婚礼の日にしたイェレからの口づけとは違う、短いが落ち着いた口づけだ。

 そしてギジェルミーナは初めての自分からの口づけを終え、自分が言える最大限の誠意をイェレに伝えた。

「大切に想ってもらえて、嬉しいです。私もその分、きっとあなたを大切にします」

 幼いころに手をつないだことを覚えていないギジェルミーナは、自分の頬にふれているイェレの手に自らの手を重ねて今このときに手をつなぐ。

 イェレの世界のすべてがギジェルミーナであったとしても、ギジェルミーナのすべてがイェレになることは絶対にない。
 その釣り合うことのない想いの重さと軽さを、ギジェルミーナは自覚している。しかしだからこそ、ギジェルミーナはイェレを慈しむべきなのだと誓う。

 口づけされたイェレは少しだけ照れた顔をしてから、優しく手を握り返した。

「ギジェルミーナはちゃんと、ぼくをだいじにしてくれてるよ」

 イェレの小さなつぶやきが、暖まった部屋にとけるように響く。

 真っ当に大事にできている自信はなかったが、せっかく肯定してもらえたのだから遠慮せずに赦されようとギジェルミーナは思う。

 ぱちぱちと薪が焼ける暖炉の音を聞きながら、ギジェルミーナはもう一度口づけをした。

13 謝肉祭と屠殺

 寝室の窓から見える山々にはまだ雪が厚く積もっているものの、山裾の森や平地の空気はやわらかくなった晩冬に、謝肉祭の季節がやってきた。

「はやくはやく、はじまっちゃうよ」

「今、行きますから」

 階下から響くイェレの声に急かされたギジェルミーナは、厚手のドレスを着てゆるやかな弧を描く階段を駆け下りる。
 グラユール王国の謝肉祭では、家畜を屠りご馳走を食べることで冬の終わりを祝う習わしがあるようで、王都の城の中庭でも羊の解体が行われるらしい。

「ほら、こっちだよ」

 階段を降りたエントランスには外套を着たイェレが待っていて、ギジェルミーナを外へと手招きする。

「王と王妃が来てないのに、勝手に始めることはないですけどね」

 イェレの隣には近侍のヘルベンが厚着をして控え、苦笑して主の催促に付け加える。

「だが王が呼べば、王妃の私は急がなきゃいけない」

 ギジェルミーナは手にしていた毛皮のストールを羽織って、ヘルベンに冗談めかして言い返した。

 それから後からついてきた侍女も入れて数人で、エントランスを出て城の中庭へと出る。
 黒い石畳が敷かれた中庭は普段は城で働いている見物人たちで賑わっていて、そうではない貴賓のためには簡易的な幕が張られた風よけ付きの席がいくつか設けてあった。

「国王陛下と王妃様がいらっしゃった」

 主君たちが来たことに気づいた下働きの男が声を上げると、貴賓席の貴族も含めて皆お辞儀をする。
 ギジェルミーナとイェレは堂々とその歓迎に応えて、中庭に入った。

 曇り空の午後の空気は冬の終わりとは言っても冷たく、ギジェルミーナはストールをきつく巻き直す。庭の隅にはまだ、雪かきで集められた雪が残っていた。

 イェレの方は寒さにも負けずに今は元気で、先客を遠慮させながら王のために空けられた壇上の席に上がる。

「ぼくはここで、ギジェルミーナはこっちだよ」

「はい。私はここですね」

 指し示されたイェレの隣の椅子に座って、ギジェルミーナは中庭を見下ろした。高さのある壇上の席からは、中庭全体がよく見える。
 祭りの見物のために集まった人々は円を作るように集まっていて、羊はその空いている中心で屠られるのだと思われた。

 二人が着席すると、ほどなくして丸々と太った羊を連れた屠殺人が城門の方からやって来る。
 城で働く人々は歓声を上げて羊と屠殺人を迎え、イェレもギジェルミーナに話しかけた。

「おおきくて、たくさんのひとがたべれそうなひつじだね」

 中庭の中央に引っ張られていく羊を、イェレは中庭に来たときとは少々雰囲気が違う思慮深そうな眼差しで追っている。

「そうですね。たくさんの料理ができそうです」

 さっさと温かい羊の煮込み料理が食べたい気持ちで、ギジェルミーナは頷いた。
 そんな会話をしているうちに、屠殺人は作業台に道具を広げて、準備を終えて立っている。
 羊も城の若い使用人たちが抑え込んでいて、弱々しい鳴き声が時折聞こえていた。

「国王陛下万歳、王妃様万歳」

 とってつけたように、屠殺人はイェレとギジェルミーナを称える挨拶をした。そしてそのまま、一年の安寧を願う言葉を続ける。

「新しい年もまた、飢えることなく肉を食べ続けられることを願って」

 屠殺人は短い祈りの言葉を済ませると、庖丁を手にしてまず羊ののどを切って息の根を止めた。とても手際の良い、鮮やかな行為だった。
 それから羊は逆さまに吊り下げられて、放血される。石畳は黒いので、血の赤はそれほど目立なかった。

 血抜きが終われば四肢の先端が関節から外され、皮が剥ぎ取られていく。人々のざわめきの中でも、屠殺人は落ち着いて自分の仕事をしていた。

 やがて中庭に吊り下げられた羊を見ながら、イェレは神妙な顔でぽつりとつぶやいた。

「ぼくはね、ひつじのにくがいちばんすきなんだ。でもしんじゃうのは、かわいそうかも」

 イェレの口から死ぬという言葉を聞くのは少し胸がざわつく。
 だがそれはそれとして、ギジェルミーナは家畜が死ぬのを見てもそれほど同情できない性分だった。

「陛下はお優しいですね」

 軽快な音とともに皮が剥がされ、薄紅色の肉を晒していく羊を眺めながら、ギジェルミーナはやんわりとイェレに反駁する。
 イェレは、ギジェルミーナの言葉をそのまま受け取って微笑んだ。

「やさしいこになってほしいって、ははうえがいってたから」

 ギジェルミーナの発言の意図を、イェレはまったく理解しない。
 しかしイェレの側に控えていたヘルベンは、ギジェルミーナの人間性を見抜いてささやいた。

「王妃様は羊が殺されても、何も感じないお方ですからね」

「そうだな。もしもそれが自分の羊なら、少しは可哀想だと思うはずだが」

 ギジェルミーナはヘルベンの問いに、嘘をつかずに小声で答える。ギジェルミーナは情のない人間ではないが、誰に対しても情があるわけでもない。

(だけどここにも大勢いるだろう? 羊の死に何も感じない者たちが)

 ギジェルミーナは、羊の屠殺を楽しげに見ている中庭の人々を見渡す。

 屠殺人はちょうど皮を剥ぎ終わり、腹部を切り開いて内蔵を取り出していた。冷たい風が血の匂いを運び、濃くなまぐさい色が灰色の雪と対になる。

 ギジェルミーナは屠殺の様子をしばらく見ていたが、そのうちに飽きて空を見上げた。
 灰色の薄雲に覆われた空は冷たく、綺麗な景色とは言えない。しかしそのつまらない眺めの中で、城の敷地を越えた街の方からいくつかの煙が上っているのをギジェルミーナは見つけた。

「あの煙は……」

 故郷でも見た濃くくすんだ黒い煙のすじを、ギジェルミーナは目で上まで追う。

「あれはええっと。なんだっけ」

 ギジェルミーナにつられてイェレもその煙を見たが、答えは持ち合わせてはない。
 その正体について答えたのは、ヘルベンだった。

「あれは謝肉祭を祝って、街で人形を焼いてる煙です。罪を着せた大きな藁の人形を」

 ヘルベンが羊の屠殺とは別の、もう一つの謝肉祭の催しについて語る。

「それは、私の祖国でも行われている」

 毎年宮殿の窓から見えていた煙と、今見えている黒煙を重ねながら、ギジェルミーナはつぶやいた。
 藁の人形を焼く謝肉祭の催しは、ギジェルミーナの故郷でも盛んである。

(確か、そうだ。昔見たあの藁の人形は、布でできた王冠をつけていた)

 それからギジェルミーナは以前に一度、宮殿から抜け出して見た帝都の街の謝肉祭で見た光景を思い出す。

 幼いころにはその意味を理解してなかったが、街の人々が笑顔で燃やしていたのは確かに王を模した人形だった。赤い炎に覆われて黒く焦げていったのは、王冠を被った王の姿だった。
 古い支配者を燃やすことで物事は逆転し、人々は新しい季節を迎えるのだ。

(王を殺したいのは、よくあることなのか)

 時折抱く衝動の普遍性に気づき、ギジェルミーナは安心すると同時に、自分が特別ではなくなったような気がした。
 しかしだからこそ、イェレが不幸であることも納得する。兄アルデフォンソのように絶対的な支配者であるのも王であるが、燃やされる藁の人形のように傷つけられるのも王であると、ギジェルミーナは理解した。

「ギジェルミーナ。もう、おかしをもらうじかんだよ」

 物思いにふけるギジェルミーナに、イェレが澄んだ瞳で顔を覗き込む。
 気づけば羊の解体は終わり枝肉は大鍋の中へと運ばれ、祭りの見物客には揚げ菓子が配られていた。

「これはギジェルミーナにあげる」

 イェレは自分がもらった揚げ菓子を一つ、ギジェルミーナに渡した。丸い小さな、小麦でできたお菓子である。

「ありがとうございます。とても素敵なお菓子ですね」

 こんがりときつね色に揚がった菓子を手に、ギジェルミーナはお礼を言う。

 揚げ菓子はほんのりと甘く、空の煙も薄れていた。

 中庭には熱々に茹で上がったじゃがいもや温められたワインなども運ばれてきて、祭りは一層にぎやかになって夜まで続いた。

14 農民たちの反乱

 例年通りなら謝肉祭は一週間続いて終わり、日常が戻るはずだった。

 しかしその年のグラユール王国は例年と同じではなかったらしく、ギジェルミーナは祭り明けの眠りをドアのノックによって妨げられる。

(夜明け前に、一体何だ)

 ギジェルミーナは安らかな寝顔で眠っているイェレを起こさないように毛布をのけて起き上がり、ベッド脇にかけてあった上着を不機嫌に羽織った。

 窓の外はまだ暗くて何も見えず、よほどの急用でなければ人を起こさない時間に思える。
 完全には目を覚ませない暗闇の中、内履きを何とか見つけてドアへと移動して開ければ、外にはヘルベンが立っていた。

「王妃様。伝令からの急ぎの報せです。大変なことが起きました」

 ヘルベンは深刻そうな顔色で、いつもとは違う早口だった。普段はきちんと着ている黒い高襟の上着サイオも、今日はボタンが留まっていないところがある。
 その焦った様子からただ事ではないとわかったギジェルミーナは、小声でヘルベンに指示をした。

「わかった。イェレが眠っているから、隣の部屋に」

 音を立てないようにそっと外の廊下に出て、ギジェルミーナは隣の部屋を開ける。
 ヘルベンは黙って頷き、ギジェルミーナに従って隣室に入った。そこは寝室と同じように、明かりの消えた暗い部屋だった。

 寝癖のついた髪を手ぐしで直し、ギジェルミーナは改めてヘルベンに向き合う。

 ドアを閉めて振り返るとヘルベンはまた、切羽詰まった様子で話し出した。

「謝肉祭中の国境沿いの農村で重税に抵抗する反乱が起こり、千人単位で人が集まっていると報告が来ています。彼らは都市を襲って領主を焼き殺し、今後は王都へ進軍すると言っているそうです」

 そのまま続くヘルベンの報告を、ギジェルミーナはじっと聞いた。
 突然で理解できないことばかりであったが、ヘルベンの顔色の悪さを見れば事態の危うさだけはすぐに実感できる。

(あ、そうか。殺された領主とは、あの以前に謁見室で会った中年の男か)

 ヘルベンが挙げた名前に聞き覚えがあったギジェルミーナは、それが誰であるかに気づいて暗い気持ちになった。
 その土地で行われた謝肉祭では、人形ではなく本物の支配者が焼き殺され、上と下の立場が反転していた。

「いやだが、なぜそんな大規模な反乱が起こるんだ」

 ギジェルミーナは誰に責任があるのかを掴めないまま、とりあえずヘルベンを問いただす。
 反逆者たちの勢いが強いことはわかったが、そうした事態を招いた原因はよくわからない。

 余所者のギジェルミーナよりは事情がよく見えているヘルベンは、反乱の背景についても的確に情報をまとめた。

「ユルハイネン聖国から流民が流入しているという話がありましたが、その一部に扇動者が混ざっており、都市に住む貴族に対する農民たちの憎しみを煽ったようです」

 流民が争いの種を作ったというのはよく考えてみれば予見できてもよかったはずの事情で、説明されればギジェルミーナも深く納得した。

(アルデフォンソ兄上が気をつけろって言っていたのは、こういうことだったのか)

 ユルハイネン聖国から間者が来ていないか注意しろという祖国の兄の忠告を思い出し、ギジェルミーナはもっと真剣に対処しておけば良かったと後悔する。

「では、反逆者たちを操る者の目的は……」

「おそらくオルキデア帝国寄りの王権を排除し、ユルハイネン聖国にとって都合のよい存在に王をすげ替えることでしょう」

 夜明け前の暗闇の中で、ヘルベンは静かに答えた。

 ヘルベンが言わなくても、ユルハイネン聖国の狙いはギジェルミーナにも見えていた。

 オルキデア帝国とユルハイネン聖国の戦争は長年続き、その影響は周辺国にも及んでいる。ユルハイネン聖国はグラユール王国をオルキデア帝国の影響下から外すことで、戦況が有利になることを期待しているのだろう。
 北のユルハイネン聖国は歴史の古い大国だが、南のオルキデア帝国に比べると貧しく弱い。だからこうして小手先の策略でごまかすのだと、ギジェルミーナは思う。

 だいたいのことを把握したところで、ギジェルミーナは長椅子に座り頬づえをついた。

「グラユールの軍は、扇動された民に対処できるのか」

 ギジェルミーナが率直に尋ねると、ヘルベンも正直に答える。

「反逆者は重税の免除を掲げてますから、交渉でごまかすことは可能かもしれません。しかし、武力で鎮圧するのは難しいです」

 ヘルベンは即答で、グラユール王国の軍隊はあまりに役に立たないと打ち明けた。しかしその答えはまったく希望がないわけではなく、現実的な解決策を指し示している。

 その提案に素直に従い、ギジェルミーナは声だけははっきりと響かせて指示を出した。

「ではまずは、最初に反逆者たちを迎え撃つことになる砦に兵を集めた上で、とりあえず交渉ができる人物を送り込め」

「かしこまりました」

 ヘルベンは震える声で頭を下げ、急いだ様子で部屋を後にする。王ではなく王妃が命令を出すことは、ギジェルミーナが嫁いでからのグラユール王国では珍しいことではなかった。

(これで何とかならないだろうか)

 段々と闇に慣れてきた目で、ギジェルミーナはドアを開けて出ていくヘルベンの後ろ姿を不安な気持ちで見送った。

 ギジェルミーナは現実は甘くはないことを多少は知っている。
 しかしその一方で、ギジェルミーナは世界で最も強大で豊かに栄えるオルキデア帝国の皇女として権力に守られて生きてきたので、ヘルベンほど深刻に危機感を抱けないところもあった。

 ギジェルミーナはイェレのように幽閉されたこともなければ、内戦を経験したこともない。グラユール王国で生まれ育った者に比べると、ギジェルミーナはどこか呑気で鷹揚だった。

 だからギジェルミーナにとっては、農民が領主を焼き殺したのもどこか遠い場所の話で、反逆者が王都に来ることはありえないし、反乱もそのうち勝手に終わる気もしている。
 それが根拠のない間違った見通しであったとしても、ギジェルミーナは心の底では楽観的に物事を捉えていた。


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名瀬口にぼし🍳
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