ミンギルとテウォン 2
2 春の農事
春分も過ぎて寒さが緩み、山の麓がケナリの花の黄色に覆われれば、北東の高原にも遅い春がやってくる。
渡り鳥も北上する春らしく、やわらかな青色に晴れた気持ちがよい青空の下で、おそらく十三歳くらいになったミンギルはまめだらけの手で鍬を握って、褐色の大地に下ろしていた。
使い込まれた柄の鍬は重く、鈍い光を放つ刃は地面に突き刺さって土を砕く。
ミンギルはまだ幼い少年として扱われる年齢にしては大柄で力も強く、薄汚れた顔も精悍で男前と言えなくもない大人びた少年に育っていて、与えられた古い野良着の丈も足りていなかった。
周囲に広がる田畑には、ミンギルと同じように土を耕す野良着姿の百姓が点々と作業をしていて、さらには手綱を握られて犂を引く牛も三頭ほどいた。
寒冷で霜が降りている期間が長い土地での稲作であるので、育てるのは冷害に強い赤米で、栽培法も苗を育ててから田植えする方法ではなく、田畑に直接籾種を播いて育てる方法が選ばれている。
土を耕して堆肥をまくのは、冬の間に凍って固くなった田畑を、籾種を播くことができる状態にするためで、田起こしが終われば代かきがあり、代かきが終われば播種と農事には終わりがなかった。
(牛は力が強いから、大きな犂を引っ張るだけで土を耕せるから良いよな)
少し離れたところにいる牛のゆっくりとした動きを横目で追いながら、ミンギルは冷たい土の匂いのする空気を吸って、ため息をついた。
見渡す限りの土地や物は地主のファン家の持ち物で、ミンギル自身またも彼らの所有物の一つである使用人だった。
他人の土地で他人の食べ物のために働くことは、ミンギルにとってまったく面白いことではない。
しかし草を喰む牛のように好きなように食事をする自由すら認められていない奴婢であるミンギルは、主人から餌をもらうために働く必要があった。
そうして黙ってミンギルが粛々と鍬を下ろしていると、同じように農作業をしている者たちのうちの一人である小柄な少年がこちらにやってきた。
やせた腕で堆肥の入った桶と柄杓を持ち、泥や土埃に汚れていても、利発そうな丸い瞳が輝くその少年は、ミンギルと同様にファン家の使用人として働いているテウォンである。
テウォンは桶に柄杓を突っ込んで、ミンギルに話しかけた。
「ここはまだ、堆肥をまいとらんかったよな」
「ああ、多分そうだ」
鍬を下ろす手を止め、あやふやな記憶でミンギルが頷くと、テウォンは手際よく均等に柄杓で黒く湿り気のある堆肥をまいた。
「じゃあこれくらい、まいとけば良いか。軽く耕して混ぜたら、次は北側に進めって助役の人が言っとったからな。あっちは石が多いから、それも取り除けって」
物覚えの良いテウォンは、必要な連絡事項をミンギルにわかりやすく伝えてくれる。
テウォンと違って頭が悪いミンギルは、忘れてしまいそうな気がしていたが、そのときはまたきっとテウォンが教えてくれると信じて返事をした。
「わかった。北側で、石は取り除くんだな」
鍬を握り直して、ミンギルは軽く笑った。その笑顔は、テウォン以外にあまり向けることはないものである。
ミンギルに何ができて何ができないかをよくわかっているテウォンは、気さくに微笑み返してまた別の場所に向かった。
テウォンがミンギルの代わりに頭で考えてくれる代わりに、ミンギルはテウォンが苦手な力仕事をこなす。
二人はそうやって、足りないものを補い合って生きていた。
(だからおれは、テウォンのことだけ、よくわかっとれば良いんだ)
ミンギルは貧しい感性しか持っていないからこそはっきりと、自分に必要なものと不必要なものを切り分けた。
田畑での労働に従事するミンギルの周囲には、若いものから年寄りまで、村から駆り出されてきた百姓が何人もいた。
後から誰かにファン家の主人に告げ口されると困るので、表面上は皆真面目に働いている。
そうやって波風を立てないように生きる無個性な者しかいないので、ミンギルにとってテウォン以外の人間はだいたいその他大勢でしかなかった。
田畑の褐色と四月の青空の間で、固い地面の感触を嫌々味わいながら、ミンギルは一応は食べて眠ることができる一日の終りを待っていた。
与えられるのはやわらかい米ではない雑穀で、また次の日には同じ労働が待っているとわかっていても、食べて空腹を満たして、テウォンと二人で眠ることは好きだった。
鍬が土を掘り起こす音に時折牛の鳴き声が混じり、ほのかに暖かい空はゆっくりと午前から午後へと色を変えていく。
遠い世界では朝鮮の土地を支配する日帝がどこかの大国と戦争をしているらしいとテウォンがときどき教えてくれたが、ミンギルがいる閉ざされた田舎の狭い世界は、良くも悪くも変わらない平穏を保っていた。
3 終わらない一日
ファン家の田畑の作業が終わると、百姓たちは自分の土地や家に戻っていき、ミンギルとテウォンは連れてきた牛と一緒にファン家の屋敷に帰った。
ファン家の屋敷は北風をしのぐ裏山と水を汲むことができる川の間の、理想的な立地条件の場所に建っていた。
上部に瓦で覆いをつけた玉石張りの高い塀に囲まれた屋敷は、主人の棟とその奥方の棟に分かれ、内庭を囲んだ伝統的な造りになっている。
美しく組まれた軒や柱の木材が黒く引き締まった色合いの瓦葺きの屋根を支えつつ、石灰を混ぜた真っ白な壁が明るい印象を与えるその外観は、一枚の絵のように整っていた。
軒下の木枠に韓紙が貼られた開き戸の向こうには、オンドルで冬も暖かな小部屋がいくつもあって、青磁の壺が飾られた飾り棚や真鍮の飾りのついた重厚な箪笥、抽斗のついた漆塗りの文机などの落ち着きのある家具が設えられている。
しかしオンドルで暖められた床に敷いた程よい薄さの布団の寝心地も、開け放たれた窓から入る澄み切った風の香りも、使用人部屋で寝起きし主屋にはほとんど入らないミンギルとテウォンには縁のないものだった。
ミンギルとテウォンはまず牛小屋に牛を戻してから、使った農具をきれいに拭いてから物置に返した。
「あとで見られて怒られんように、土が残ってないかちゃんと見とけよ」
「ああ」
以前に主人に怒られたときのことをテウォンに言われて思い出して、ミンギルはもう一度農具を先まで確認してから戸を閉める。
それから西日が作る長く伸びた影を踏み、テウォンが戸口の閂をかけたところでちょうど、炊事場の方から籠を手にした女が現れた。
白い上衣に藍色の裳を着たミンギルとテウォンよりもずっと年上のその女は、ファン家で働いている女中であった。
「そこの大きいのと、小さいの」
明らかに小馬鹿にした口調でふんぞり返って立ち、女中はミンギルとテウォンを呼びつけた。
やや肥満気味の顔に浮かべた笑みが憎たらしいその女中は、ファン家の食事を作っている自分が一番上等な使用人だと思い込んでいて、農作業や家畜の世話をして働くミンギルとテウォンを見下している。
(また、この女があれこれ言いに来た)
思い遣りの欠片もない女中の態度に、ミンギルは反感を抱いていた。
しかし実際に彼女はミンギルとテウォンよりもファン家の奥方や主人に気に入られていたので、できる抗議はせいぜい返事をしないことくらいであった。
ミンギルがただ黙って女中をにらんでいる一方で、テウォンは年上の女性と話すのにふさわしい言葉遣いで受け答える。
「今日は何のご用ですか、ウンギョンさん」
損得の勘定がきちんとできるテウォンは、波風を立てない対応をとる。
だがミンギルは自分も人の名前を覚えれないのにも関わらず、相手が名前を呼ばないのだからこちらも糞女などと呼び返せば良いと考えていた。
ミンギルの無愛想さは気にせず、女中はテウォンの丁寧な返事に気を良くして、意地が悪い笑みを深めた。
「今からちょっと、山蒜を採ってきてよ。醤油漬けにして明日の朝食に出す予定だったんだけど、用意するの忘れてたから」
「今からだと、日が沈むまであまり時間がないですけど……」
やわらかに赤みを帯びてきた空を見上げ、テウォンがやんわりと不本意そうな態度をとる。
女中はそのテウォンの表情にまったく配慮を見せることなく、手にしていた籠を強引に押し付けた。
「でもソヨン様が食べたいって言っていたからね。頼んだよ」
ソヨンと言うのは、ファン家の主人の娘の名前である。
主人の威を借りてぴしゃりと会話を終わらせた女中は、ミンギルとテウォンに断る隙をまったく与えずに立ち去った。
紐で肩に掛けられるようになっている柳の籠を手に、テウォンは短いため息をつく。
ミンギルは肩をすくめたテウォンの小さな頭に、自分の身体に触れるのと同じくらいの気軽さで手を置いた。
「また、やることが増えちゃったな」
「俺たちには、俺たちの仕事を押し付けることができる相手がおらんから」
冗談っぽく笑って、テウォンはミンギルの気遣いに応えた。
「でもその代わりに俺たちは、二人で仕事を分け合える」
テウォンは二人の間の合言葉のようになっているやりとりを交わすことで、やや声も明るくなって顔を上げる。
与えられた命令に従うしかない二人は、日が暮れる前に帰れるように急いで裏山に向かった。
4 山蒜を探して
屋敷のすぐそばにある裏山は行くのには時間はかからないが、山蒜が育つ場所を見つけて採るのは簡単ではない。
ミンギルとテウォンはオンドルに使う薪にするために切り倒された木の切り株が並ぶ山の端を抜けて、芽吹き伸びていくカラマツの新緑が夕日に美しく輝く山道を登っていた。
甘く澄んだ空気は清々しくて香りもよく、こなさなければならない仕事が無ければおそらくもっと春の景色を楽しむことができる。
古くなった落ち葉が何層にも重なった斜面をある程度上がったところで、ミンギルは木陰に群生している草を適当に指さしてテウォンに訊ねた。
「なあテウォン。これって山蒜か?」
「いや、よく似とるけど毒草だ。食べれば人が死ぬ」
山菜を見分ける知識があるテウォンは草の近くに屈み込み、青々とした葉の根元を手で触れて確認する。
ミンギルはテウォンの手元を覗き込み、何でも良いから持って帰ってしまえという考えで、身も蓋もないことを口にした。
「じゃあこれを山蒜だって言って持っていけば、あの屋敷のやつらを殺せるのか」
その提案は冗談つもりなのか、それとも多少は本気なのか。それはミンギル本人もわからなかったが、テウォンは真面目に実現の可能性について考えていた。
「ウンギョンさんが気づくから無理だな。あの人はちゃんと山菜の見分けができとる人だよ」
テウォンはそう言って、山菜採りは本来女性の役割であることが多く、山菜を採る娘に恋をする男を歌った有名な歌もあることをミンギルに教える。
青々とした野原に春の風が吹き
山菜採りの娘が丘の上へ行く
きれいな山菜を探す娘の手首は
細くてとても可愛らしい
まだ声が変わりきっていないテウォンの微かに澄んだ歌声が、夕暮れが近い山の中で寂しく響く。
(あの女中はもちろん、屋敷の女たちは全然可愛くないんだが、女ってそんなに良いものなんだろうか)
同じ山菜採りをしていても、自分たちのような二人の男児だと何も感慨を感じてもらえないのに、女子なら可愛くて牧歌的だと歌にしてもらえるのがずるいとミンギルは思う。
やがて鼻歌を歌い終えたテウォンは、毒草から手を離して立ち上がり、崖のような急勾配を挟んだ、山道の脇の斜面を指さした。
「これじゃなくて、あそこに生えとるのが山蒜だな」
テウォンの指が指し示した方には、細く長い葉の草がまばらに育っている。
取りやすい場所に生えた山蒜は人間がほとんど採り尽くしてしまったので、今は急な斜面や崖でしか見つけることができない。
「何もやり返せんのは面白くないけど、ちゃんと採らんと帰れんならしょうがない」
ミンギルは野良着の袖をまくると、木の根や岩を器用に伝って登って、山蒜が生えているところに近づいた。図体が大きいわりにミンギルの動きは俊敏で、頭の回転の遅さと反比例して身体能力は高い。
そしてミンギルは、焦げ茶の地面から青々と生えた山蒜の、葉が細くなっている根本に指をかけ千切って肩に掛けた籠に放り込んだ。
登った先の場所は山道からそれなりの高さがあったが、高所に慣れているミンギルに恐れはなかった。
「根は残して、採りすぎるなよ。来年も生えてもらわんと困るから」
「ああ、わかった」
ミンギルほど身体を動かすのが得意ではないテウォンは、下の山道からミンギルを見上げて指示を出した。
千切れた手元の草の青臭い匂いを感じながら、ミンギルは返事をする。
何も考えずに手を動かし、すぐに言われた通りに適量の山菜を採って終えたミンギルは、来たときと同じように軽々と崖を下りた。
テウォンのように物事を学ぶことに興味がないミンギルは、何もすることがないときには逆立ちなどをして暇を潰しているので、身体を動かすことには自信がある。
「山登りとか崖登りの競争があったら、きっとミンギルが一番だ」
「そういうのがあれば確かに、おれも勝てる気がするんだけどな」
毎回感心してくれるテウォンに、ミンギルは自慢気に頷いた。
籠の中には、数人の食卓分の新鮮で香りの良い匂い山蒜が収まっている。
細い葉の緑が鮮やかな山蒜は、味噌和えにしたり醤油漬けにしたりして食べると、ほのかに爽やかな辛みがあって美味しいらしいのだが、ミンギルとテウォンは採らされても食べる機会はなかった。
無事に頼まれた食材を手に入れた二人は、来た道を引き返す。
しばらく山道を下り、木々が少ない開けた場所に入ると、村の外れの幹線道路の向こうにある湖に、ちょうど夕日が映っているのが見渡せた。
空は朱色から紫色になだらかに色を変えて頭上に広がり、金色に光る太陽が山々に囲まれた湖の水面に映って近づいていく様子は、教養のないミンギルにも郷愁か何かを感じさせる。
(おれはこの土地の自然は好きだ。嫌いなのは、無駄に威張っとるやつらだけ)
ミンギルとテウォンは言葉を交わすことなく自然に同じように足を止めて、しばらくその景色を楽しむことにした。
夕日を眩しさにミンギルが目をすがめて視線を落とすと、湖のほど近くの野原に小さな人影が何人分かあるのを見つけた。
薄暗く離れているからよく見えなかったが、彼らはパジやチョゴリなどの朝鮮服ではなく都会らしく洗練された洋服を着ていて、男女で一緒になって夕日を楽しんでいるようだった。
「どこに泊まっとるのか知らんが、あれは湖に来た、いわゆる観光客ってやつか」
テウォンもその集団に気づいていて、ぽつりと呟いた。
村の人間以外と会う機会がないミンギルとテウォンでも、近くの湖のほとりが行楽地として人気であることは知っている。
湖の近くで異性交際する男女の様子は、古い時代の生活を送り続ける村の住民たちとはまったく違っていて、道を隔ててすぐ隣にある場所なのにほとんど別の世界のように見えた。
世界がどんな時局であったとしても、人生を謳歌する人々はいるところにはいるらしい。
「おれたちにはこの土地しかないのに、わざわざ余所からここに来て夕日見てられるやつらもいるんだな」
自分に許された文化とはあまりにも遠いものを見るとき、ミンギルは悔しいというよりも呆気にとられる。
だがテウォンはミンギルと違って、社会の不平等をはっきりと見つめていた。
「あそこにいるのは皆、俺たちよりもずっと金持ちで恵まれた生まれの人間だ」
夕日に照らされたテウォンの幼さの残る横顔が、大人びた表情で話し続ける。
「でも今このときは、俺たちは山の上からやつらを見下ろしとる」
自虐的に微笑みつつも、テウォンは力強く勝ち誇った。
地位や財産という面では下層に置かれていても、物理的に高い場所に登れば上層の人々を見下ろすことができるのだというテウォンの頓知に、ミンギルはより高い場所から物を見せてもらったような気分になった。
「確かにそう考えると、胸がすっとする」
「だろう? それにあちこちでやっとる戦争がもうすぐ終わるから、そうなったらこの国ももっと俺たちが暮らしやすい国になるはずなんだ」
ミンギルは手で目の上に庇を作って、もう一度余所者を見ることでテウォンに同意する。
高所からの眺めによる万能感と、夕日の美しさによる高揚感で声も明るくなったテウォンは、さらに話を広げた。
ここではないどこかで戦争をやっているくらいの知識しかないミンギルは、何も考えないままテウォンの言葉を全面的に信じた。
「政治のことはわからんけど、頭の良いお前がそう言うなら将来を楽しみにしとるよ」
ミンギルが笑顔でテウォンの方を向くと、少々話しすぎたと感じたらしいテウォンは、気恥ずかしげにはにかんだ。
「俺の知っとることも『書堂の犬も三年で風流をたしなむ』っていうやつだから、ちゃんとはわかっとるかどうか怪しいけどな」
学校で本を音読している声を毎日聞いていれば、犬でも詩の一つくらいは諳んじることができるようになるという意味のことわざを、テウォンは謙遜の意味でよく使う。
だが同じ場所にいても何も覚えられない者もいるのだから、やはりテウォンは賢いのだとミンギルは安心した。
夕日の中で一瞬見つめ合ってから、再びミンギルとテウォンは山道を下り始める。
まだ沈みゆく太陽が湖の水面に触れていないのを見る限り、日が落ちて完全に暗くなる前には屋敷に戻れるはずだった。
5 主家の娘
刻一刻と薄暗く木の影が濃くなっていく裏山を降りた二人は、屋敷に戻ってまず厨房に山蒜の入った籠を渡し、夕飯の冷や飯の入った椀をもらってから、門の出入り口付近にある牛小屋の隣の使用人部屋に戻ろうとした。
「春でもまだ、日が落ちた後は冷えるな」
「あの牛小屋の竈で、この飯を温められたら良いんだが」
ミンギルはほどほどに盛られた赤い雑穀米に白菜の漬物が載った木椀を両手で持って白い息をつき、テウォンも同じものを手に横を歩いた。
牛小屋には冬に牛の餌を煮るための竈があるが、ミンギルとテウォンの食事を温めるための薪はない。
しかし余り物の冷たい飯であっても、ある程度は十分な量を毎日食べることができるのは、この国ではおそらくそれなりに幸せな部類なのだと二人は何となく理解している。
粗末でも味わいがまったくないわけでもない夕食を与えられ、今度こそ二人の一日は終わろうとしていた。
だがちょうど二人が内庭の端を歩いていたそのとき、古めかしい屋敷には似つかわしくない低く唸るような自動車のエンジン音が、門の外から聞こえた。
「奥様たちが帰ってきた」
主家の娘であるソヨンとその母の帰宅に、テウォンが椀を軒下に置き、慌てて瓦葺きの屋根の載った門の方へ走る。
(おれはあいつらのために走りたくはないが)
わざわざ急ぎたくはなかったけれども、ミンギルもテウォンの後をついて門に向かった。
屋敷にいるときには、門を開け閉めするのも二人の役割だった。
やがて扉の隙間から漏れた車のヘッドライトの光が地面に白い光の筋を作り出し、門の前で車が止まる音がする。
それから運転手が下りて後部座席のドアを開ける気配がして、屋敷の方に声をかける。
「奥様とソヨン様のお帰りだ」
その呼びかけに応えて、ミンギルとテウォンは扉の前に二人で並び、それぞれ片方づつの木製の開き戸の金具を引いた。
「おかえりなさいませ。奥様、ソヨン様」
二人で声を揃えて出迎えの挨拶をして、深々と頭を下げてお辞儀をする。
白い民服を着た運転手が脇に立つ、停車した黒塗りのセダンから降りてくるのは、品よく洒落た装いの母と娘であった。
親子というよりは姉妹のようにも見える彼女たちが着ているチマチョゴリは、戦時中であるため華美ではないが、衿元を結び紐ではなく金色のボタンで留めた今めかしいものである。
また服だけではなく顔も、田畑や野山で働く人間と違って清潔で綺麗で、二人ともとりたてて美人というわけではないのに様になっていた。
(おれはこの二人も嫌いだけど、それでも頭は下げなきゃいけない)
ミンギルは渋々お辞儀をしながら、長く垂れ下がった前髪越しに親子の様子を伺った。
特に恨む理由は無くても、ミンギルは自分より恵まれた人々のことが嫌いだった。
今年で十三歳になるらしいソヨンは、ほんの数歩先にいるミンギルとテウォンの方をちらとも見ずに、可愛らしく無神経な横顔で門を横切り玄関に向かう。
ソヨンは華奢で小柄だが健康そうな顔色をした少女で、表情にはいつもどこかに勝ち誇った雰囲気があった。
悠々と歩く足元も西洋風の革靴と靴下であり、王朝時代で時が止まったような辺境の世界の中で、彼女が特別であることを示している。
「本当に今日は、良い買い物ができて良かったです」
三つ編みにして結った髪を揺らし、大きな紙袋を両手で抱えたソヨンは、母親に礼儀正しい言葉遣いで話しかけた。
紙袋に百貨店の判子が押されているところを見ると、どうやら親子は隣町の咸興市で買い物をして帰ってきたようである。
咸興市は工業で栄えている港町で、ミンギルは見たことがないが、レンガ造りの大きな駅もある都会らしかった。
既婚者らしい色合いの服を着ていても立ち姿が若い母親は、声を弾ませる娘に鼻につく上品さで微笑みかける。
「慰問袋以外のものを百貨店で買えるのは、久々だものね。お父様に、お礼を言わないといけないわ」
明るい会話を交わしながら、母と娘は流れるようにミンギルとテウォンの前を通り過ぎて、別の使用人が待つ玄関の向こうへと消えた。
親子の姿が見えなくなると、ミンギルとテウォンはお辞儀をやめて夕飯の盛られた椀を再び手にした。
門の外でも運転手がもう一度また車に乗り、車庫に車を入れに行っていた。
そして何事もなかったかのように、二人は自分たちの食事の話に戻って続ける。
「今日は、漬物がちゃんとあるから良かった」
「おれは漬物なくても飯が食えるけど、お前は味がないって言うもんな」
心底ほっとした顔で椀を覗き込むテウォンを、ミンギルは茶化した。
やがて屋敷の中からは、声の大きい父親の楽しげな話し声と、母娘のはっきりと聞き取れない程度の笑い声が聞こえてくる。
それはミンギルとテウォンが知らない家族の一家団欒のやりとりで、彼らが幸せであればあるほど、ミンギルは彼らが嫌いになった。
煌々と明かりの灯った、満ち足りた雰囲気のある屋敷に背を向けて、二人は暗く夜闇と一体化した使用人部屋に入る。
隣の牛小屋では二頭の牛が横臥して、低く唸るようないびきをかいて眠っていたが、それは幸せな家族の話し声よりもずっと落ち着くものだった。
6 お祝いのお菓子
春が過ぎ、田畑に播いた籾種から芽が出て育つと、青稲が眩しい夏になる。
それほど暑くはならない土地であるが、日差しの強さは感じるようになった八月の半ばに、日帝の始めた戦争が終わった。
ミンギルとテウォンの生まれ育った朝鮮は、結局どのような国名になったのかはわからないが、解放独立の日を迎えたことになった。
連合国の勝利と日本の敗戦が伝えられた八月十五日は半信半疑で戸惑っていた人々も、翌日には長い植民地時代の終わりを確信して喜びだす。
戦争はもうすぐ終わるとテウォンから何度も聞いていたので、ミンギルは玉音放送というものがラジオで流れたと聞いてもそれほど驚かなかった。
ただ日帝の敗戦をきっかけに村全体が浮かれた雰囲気になり、特にファン家が率先して解放独立を祝い始めたのには首を傾げた。
ファン家の当主は宴の余興で使うために蔵にしまってある太鼓をわざわざ出してきて、独立万歳と歌って村人に貸し出していた。
ファン家以外の村人は、お祭り騒ぎに参加する者もいれば、喜びながらもやや距離をとって静かに祝う者もいる。
嫌いな人々がはしゃいでる輪の中に入りたくはないミンギルは後者で、畑で雑草を抜きながら、庭に太極旗を掲げた棒を立てたファン家の屋敷をただ冷めた気持ちで眺めていた。
(この国が日帝に支配されてたからって、別にあいつらがそこまで苦労していたわけじゃないだろう)
他国に侵略され植民地となっていた祖国を想う気持ちが、ミンギルにまったくないわけではない。
しかしミンギルは、自分の主であるファン家が、日帝の支配下において何か犠牲を強いられているのを見聞きした覚えはなかった。
使用人のミンギルからは、ファン家の人々は裕福で満ち足りた幸せな生活を送っているように見えていた。
また村から出たことがないミンギルは日本人に会ったことがなく、ミンギルに命令するのは常にファン家かファン家に気に入られている人物であったので、自分たちが日本のせいでひどい目にあっているという実感はない。
テウォンも同じように考えていたようで、しぶとそうな雑草を引き抜き籠に放り投げて呟いた。
「俺はあの人たちが、あそこまで愛国者だとは思ってなかった」
より政治や歴史を理解しているテウォンは、村中のいたるところに増えていく即席の太極旗には敬意を払いつつも、冷めた目をしている。
しかし何にせよ、日帝の敗北がめでたいことには違いないので、ミンギルとテウォンは将来に期待していた。
祖国から独裁者が去って幸福な時代がやって来るのなら、自分たちもきっと奴婢のような立場から解放されるのだと信じて、二人は待っていた。
独立を祝う雰囲気が一番強まったある夜には、ファン家の厨房ではつややかな白米が釜いっぱいに炊かれ、その釜の蓋では何枚もの緑豆の丸餅が焼かれた。
また竈の火にかけられた大きな鍋では、具を詰めた鶏肉が煮込まれる。
そうして出来上がったご馳走は、使用人たちにも分けられるはずであった。
だからミンギルとテウォンの二人も、一体どんなに美味しいものが食べられるのだろうと想像を膨らませながら、厨房にその日の夕食をもらいに行った。
「あの、今晩の夕食をお願いします」
肉や魚が焼ける香ばしい匂いのする勝手口から顔を覗かせ、テウォンが二人分の食器を厨房に差し出す。
厨房を切り盛りしていた下女は、その食器を受け取り、鉢にいつもと同じ赤米を盛り付け漬物を載せた。
「えっと、あんたたちはこれと薬菓だね」
下女は紙に包まれた小さな菓子らしきものを二つ添えて、二人に飯を盛った食器を返す。
厨房で様々なご馳走が作られても、末端の使用人であるミンギルとテウォンに分配されるのは、その一部のほんのすこしだけであるらしかった。
「……ありがとうございます」
思っていたものとは違う夕食の内容に、テウォンが戸惑いを隠しつつもお礼を言う。
それからミンギルとテウォンは、たったこれだけという気持ち半分と、でもいつもとは違うお祝いのお菓子があるという気持ち半分で、裏庭の隅に腰を下ろして夕食を食べ始めた。
内庭で鳴り響く太鼓や笛の音や、招かれた客人の楽しげな話し声が聞こえる裏庭は、まったく静かなときとは違う落ち着きがあった。
「まあでもいつもよりは炊きたてで、飯の量が多いみたいだな」
「漬物に入っとる野菜の種類も、多いようだし」
ミンギルが手秤で飯の量を量って、テウォンが漬物に使われている野菜の色を数える。
元々が夏も涼しい土地であるので、夜風は野良着しか着ていない二人には少々肌寒く、星の輝きを隠す月明かりは煌々と冷たく見えた。
何とか普段よりも良いところを探しながら、いつも通りの主食を終えたミンギルとテウォンは、厨房でもらった紙の包みをほどいた。
かすかに油の染みた薄紙の中には、つやつやと蜂蜜に覆われたきつね色の薬菓が一つずつある。
菊形の型で綺麗に形作られた可愛らしい菓子は、ちょうど手のひらに載る大きさだけれども適度な重みがあり、真ん中には白い松の実が何粒がついてこんがりと揚がった生地の色を引き立てていた。
「見ろよ、きらきら光るぞ」
薬菓を月明かりに当てて、ミンギルは表面の蜂蜜が光るのを楽しんだ。
「ああ。食べ物じゃないみたいに綺麗だ」
テウォンはミンギルよりも冷静に、地面に座ったまま手のひらの上の薬菓を見つめていた。
まだほんのりと温かく、蜂蜜の匂いがする薬菓に食欲をそそられたミンギルは、適当なところで見るのをやめて、そのお祝いのお菓子にかぶりついた。
しっとりとした生地が崩れて、中までしっかりと染みた蜂蜜の甘さにミンギルの頬が緩む。
外側は香ばしく揚がって松の実と共に歯ざわりよく仕上がっていても、中は黄色く柔らかく、優しく口の中でほどける食感を楽しむことができる。
ほのかに感じる生地に入った生姜や桂皮の香りも味に深みを与えており、ミンギルは今まで経験したことのない美味しさに目の覚めるような気持ちになった。
「たったこれだけだと思っとったけど、十分に甘くて美味しい」
ミンギルは薬菓を大事そうに両手で持って、二口目からは大切にじっくりと食べることにした。
しかしテウォンは一口食べた後も表情を崩さずに、無感動な様子で飲み込んでミンギルの言葉に応えた。
「そりゃまあ、蜂蜜より薬菓が甘いって言うからな」
そして包み紙に包み直して、テウォンはミンギルが食べ終えた器の中に食べかけの薬菓の包みを入れた。
「俺はいらないから、お前にやるよ」
「いいのか?」
テウォンの申し出に、ミンギルは美味しいものをより多く食べることができる喜びを隠さずに顔を上げる。
その一方で。何もかもがミンギルとは正反対の淡々とした態度で、テウォンは頷いた。
「ああ。俺はやっぱり、塩辛いものの方が好きだ。だから代わりにまた今度、漬物を多めに分けてくれ」
甘い菓子よりも塩辛い漬物の方が良いと話すテウォンの表情は、相方に美味しいものを譲ってあげたかったなどという殊勝な感情に基づくものではなく、本当に甘いものの美味しさがわからないという怪訝そうな顔をしていた。
だから遠慮はまったくせずに、ミンギルは二つ目の薬菓が入った器を自分の方に引き寄せた。
「ありがとう。じゃあおれはこのお菓子を二つ、食べさせてもらう」
テウォンから食べ物を譲ってもらうのは、ミンギルにとって常日頃良くあることだった。
飯粒を噛んだときのほのかな甘さが好きなミンギルは、おかずなしでもいくらでも炊いた飯を食べることができるが、味の薄いものが苦手なテウォンは塩辛い漬物なしでは飯を食べることができない。
だからテウォンが残した飯を食べるのは、いつもミンギルだった。
身体の大きさも、得意不得意も何もかもが正反対のミンギルとテウォンは、食べ物の味の趣味も正反対なのである。
(テウォンがくれる食べ物のおかげで、おれはさらに大きくなれたわけだけど)
ミンギルはほんの小さな、しかし食感は十分に楽しめる大きさの一口で、慎重に薬菓を食べた。
小さな欠片でも薬菓は甘く、ミンギルはそのときだけはファン家の人間への不満を忘れる。
ミンギルは蜂蜜で作って蜂蜜よりも甘い、目の前の薬菓のこと以外は何も、考えていなかった。
だがその隣ではテウォンが膝を抱えて座り、俯いて月明かりに照らされた地面を見つめて、ミンギルの代わりに何か難しいことを考えていた。
「薬菓は元々王族や貴族が食べとったお菓子だから、俺たちが食べられるのは幸せなことのはずなんだが」
奴婢に近い自分たちが、ただひとつだけの薬菓を食べることを許された意味を問いつつ、テウォンは一人星の見えない夜空を背負って俯く。
しかしミンギルにとっては何も疑問はなく、薬菓が美味しいということだけが、その一口を味わっている間の答えであり真実だった。
7 秋夕
収穫を終えた秋に先祖に感謝をする秋夕は、朝鮮において人々が最も大事にする日であり、日帝の支配が終わってから初めて迎える一九四五年の秋夕はより感慨の深いものになる。
とは言えそれは、祀る先祖と集まる家族がいる者に限った話であり、終戦後も結局使用人と働かされ続けているミンギルとテウォンにとっては、それほど心躍るものにはならない。
ファン家ではソウルの学校に通っている長男の漢昇も戻ってきて、朝には屋敷の敷地内にある祀堂で先祖の礼を迎える茶礼が行われた。
生きている人が住んでいるものと同じ一軒の建物である祀堂には、四代の先祖が祀られている。
茶礼の朝には祀堂の祭壇に、収穫した新米を炊いた飯に蒸した鶏、大根の漬物に初物の栗など、様々な食べ物が盛り付けられた真鍮製の祭器が並んだ膳が用意された。
新米を収穫したのも、栗を拾ったのもミンギルとテウォンであるが、祀堂でそれらを得るのはファン家の先祖であり、膝をついてお辞儀をして捧げるのはその子孫である男たちだけであった。
「今の俺たちは死んでも誰も祀ってくれないし、祀るべき先祖もおらんのに、他人の先祖とその子孫のために働いとる」
解放独立から一ヶ月たっても訪れない変化に苛立ちを隠して、テウォンは裏庭で毬栗を木靴を履いた足で踏んだ。
「お前が死んだらおれが祀るし、おれが死んだらお前が祀ってくれると思うけど、二人とも死んだら確かに誰も祀ってくれないな」
漠然とではあるものの不平等は理解しているミンギルは、テウォンが踏んだ毬栗から栗の実を取り出して籠にまとめる。誤って栗の実ごと割ってしまうので、ミンギルが毬栗を踏む側になることはなかった。
連綿と続く族譜から外れた存在であるミンギルとテウォンは、血縁を前提にした祖国の信仰を心から信じることができない。
しかし信じていなくとも、裕福な人々が持っている楽しげな時間は欲しかった。
「先祖がわからん俺たちが信じられるのは、山にいる山神霊くらいか」
テウォンはそう言って、紅葉でところどころが黄色くなった山を見つめた。
山神霊は虎に従えた老人の姿をしているという神で、山と村の守護者として敬われている。
「確かにおれも、何かに祈るなら山神霊だ」
ミンギルはほとんど信心深い気分になることはなかったが、漠然と神として思い浮かべることになるのは山神霊だった。
四季を通して山の恵みと田畑の実りを見守る山神霊は、村に住む人々にとってもっとも身近な神である。
だが山神霊は祈れば願いが叶うという類の神ではないので、それから一年後、二年後の秋夕も、ミンギルとテウォンはファン家の使用人として過ごした。
日本人が去れば幸せになれるはずだという人々の期待は裏切られ、解放独立の日からの朝鮮は苦難続きであるとテウォンはミンギルに時折教えた。
連合軍の占領による強制拠出や水害の発生を原因とする混乱によって食料が不足し、疫病が流行してかえって植民地時代より大勢の人が死ぬ。
しかし幸か不幸か、ファン家が支配する村は食料不足や流行り病の影響を受けにくい場所にあったので、ミンギルとテウォンの生活に変化はなかった。
8 新しい旗
日本を打ち負かしたアメリカとソビエトによって分割されて支配された朝鮮半島は、結局一つの国になることができず、南に大韓民国、北に朝鮮民主主義人民共和国という名前の国が一九四八年に建国された。
ミンギルとテウォンが住む咸鏡南道は東北にあるので当然、朝鮮民主主義人民共和国に属することになる。
新しい建国記念日となった九月九日には誰かが手作りした国旗が村中に配られたので、ミンギルとテウォンが住む使用人部屋にすぐ近い門にも旗が掲げられた。
「この国の旗って、あんなふうだったか?」
一日の仕事が終わった夕方、屋敷の門のあたりを通りかかったミンギルは、以前よりも控えめに掲げられた新しい旗を見て首を傾げる。
夕日に照らされてはためいている今日の旗は上下が青い赤地に星が描かれているが、三年前の夏に見かけた旗はうろ覚えだがもっと白っぽかったような気がしていた。
その変化が何を意味するのか、学のないミンギルは何もわからない。
一方でいろいろなことをきちんと見聞きしているテウォンは、新しい国についても詳しいので、赤と青の旗の保つ意味をミンギルに教えた。
「あれは紅藍五角星旗だ。赤は人民の不屈の心を、星は共産主義を目指す未来を、白い円と線は朝鮮民族が一つであることを、上下の青は社会主義の勝利による平和を表しとる」
テウォンの話は難しい言葉が多く、ミンギルには説明されていることの半分も理解できなかった。
しかし新しい国旗について話すテウォンの丸い瞳がきらきらと光っているように見えたので、きっと良いものに変わったんだろうと信じてミンギルは尋ねた。
「昔は、何か違う柄が描いてあったよな」
「以前に使われていた太極旗は王朝時代に考えられたものだから、打倒するべき帝国主義の象徴で敵の旗だ。俺たちの未来は社会主義と、その先の共産主義にある」
テウォンは新しい国旗の意味について語っていたときよりも、元々声が高い本人としては低く抑えた声でミンギルの疑問に答える。以前と使う旗が違うことは、あまり話してはいけないことであるようだった。
頭に内容が入ってこなくても、テウォンが生き生きと喋っている様子を見るのが好きなミンギルは、質問を変えて話を続けた。
「そのシャカイシュギとか、キョウサンシュギっていうのは?」
これらの言葉の意味は、以前にも何度か聞いたことがある気がするのだが、ミンギルは毎回も忘れてしまっていた。
しかしテウォンは嫌な顔を一つせずにむしろ楽しげな様子で、話が終わらないうちに屋敷の裏口についてしまわないように歩を緩めた。
「社会主義っていうのは、何にもしてないのに威張っとる地主みたいなやつらを倒して、俺たちみたいにちゃんと働いて暮らしとる労働者で自由で平等で公正な国を作ろうって考え方のことだ。土地とか、財産とか、いろんなものを皆で分け合って、貧富の差を無くそうっていうのが共産主義。新しくできた朝鮮民主主義人民共和国は、そういう思想で作られた国だ」
雑木林を照らす夕日のまぶしさに頭をぼんやりとさせながらテウォンの話に耳を傾けて、ミンギルは「俺たちみたい」という言葉の前後だけ何となくわかったような気がして瞬きをする。
「ってことは、新しい国はおれたちのための国なのか」
珍しく政治を理解できたと思ったミンギルは、思わず足を止めてテウォンの方を見た。
ミンギルは意図せずして、テウォンの歩く道を塞いで見下ろす形になる。
背の低いテウォンは、大柄なミンギルを親しみをもって見上げて、利発そうな表情で笑った。
「そうだ。だからそのうち俺たちももっと真新しい服を着て、たくさんのおかずと一緒に飯を食べながら、のんびりと田んぼを耕しながら牛や鶏の世話をして生きていけるようになる。この土地は旧態依然としとるからなかなか変わらんかもしれんけど、朝鮮労働党がそういう国を作るんだ」
テウォンはミンギルにもよくわかるように楽しげな言葉を並べたが、最後は硬い政治の話になる。
結局誰がそういう国を作ってくれるのかはぴんとこなかったが、ミンギルは楽観的にテウォンの笑顔を信じた。
これまでもずっと信じて待っていたはずで、その日は未だに来ていなかったが、ミンギルはより難しい言葉を使うようになったテウォンの声が明るいことは感じ取っていた。
「じゃあきっとそのときには、薬菓もたくさん食べれるな」
「ああ。きっと一個だけじゃなくて、皿に山盛りだ。でも俺はそんなに甘いものはいらんから、お前に譲る」
昔のことでも食べ物についてだけはしっかり思い出してにやつくミンギルを、テウォンは軽く小突いて歩かせる。
小動物がじゃれるようなテウォンの一突きはまったく痛くはなく、ミンギルはむしろ心地の良いこそばゆさを感じた。
このやりとりも、もしかするともうすでに何度か交わしたものなのかもしれないが、テウォンの笑顔が幸せそうに見えたので、ミンギルは安心してその日のこともそのうち忘れた。
9 まだ早い朝に
新しい国の旗がはためいた日から二年後、つまり解放独立の日から五年後の春。
その頃にはミンギルとテウォンは少年ではなく、青年と呼ばれる年齢になっていた。
テウォンは小さいまま、ミンギルはより大きくなって、二人が並んだ姿はますます不釣り合いになる。
身長が六尺近くもあって肩幅も広く腕も太いミンギルと、棒切れのように細い手足で五尺にも満たない背丈のテウォンでは、年齢は同じでも大人と子供ほど大きさが違う。
だから使用人部屋の隅にある藁を入れた木製の箱床を使う就寝時に、ミンギルがテウォンを抱えるような形で眠ることは、睡眠に使える場所の狭さを考えれば自然なことだった。
「もう朝だから、そろそろ起きんと」
心地の良い匂いのする藁にもぐりこみ、身体を屈めて眠っていたミンギルは、テウォンの声で重いまぶたを半分開けた。
藁の上には薄い布団と筵があるだけであっても箱床の中は通気性も良い温もりがあり、オンドルのない冬も極稀に暑い夜がある夏も、意外と快適に眠ることができている。
だからこそその心地よさから離れて外に出ていくことは非常に困難で、ミンギルは毎朝不機嫌になった。
「まだ暗いんだから、朝じゃない」
ミンギルは湯たんぽのように温かくなっているテウォンを無意識のうちに腕の中に引き止めて、もごもごとつぶやいて再び目を閉じる。
痩せっぽちのテウォンは別に触り心地が良いわけではないのだが、そばにいると温かくて丁度良かった。
テウォンはミンギルの腕から逃れようと身体を捩って、第一声よりも大きな声を出してミンギルに起床を促した。
「暗くてもちょっとは明るくなっとるから朝だろ。起きて、牛たちの世話をしてやらないと」
「……確かにあのおじいさんも、牛の世話はちゃんとしろって言ってた」
牛の話をされて、ミンギルは嫌々テウォンから腕を離して身体を起こした。
五月になって大分日が昇る時間が早くなったとはいえ、ミンギルとテウォンが起きなければならない時間は早い。
そのため戸の隙間から見える地面に光は差さず、空気も冷たく暗かった。
「お前はいろんなことを忘れとるのに、あのおじいさんのことだけは覚えとるよな」
一足先に箱床から抜け出たテウォンが、服についた藁を払って軽く身支度を整える。
ミンギルはまだ頭は半分眠ったまま、箱床の中から隣の牛小屋の方を見た。
「わからんけど、あの人は大事なことを言っとった気がするから」
二人とも名前も覚えていなかったが、使用人の仕事を教えてくれた老人は、親のいないミンギルとテウォンにとって唯一心から信頼できた大人だった。
だから老人の存在は数少ない子供の頃の良い思い出として、忘れっぽいミンギルの記憶にも留まっている。
(あのおじいさんに比べれば、おれたちは恵まれとるのかもしれない。だけど……)
ミンギルはしわがくっきりと刻まれた老人の物悲しげな横顔を思い出してから、古い箱床が狭くなるくらいには大きく成長した身体で立ち上がった。
側にいるテウォンはミンギルと違って小柄でも、あの老人のような諦めた目はしておらず、未来に希望を持つために十分な知識を持っている。
しかしそれでも二人は、人民のための国家というふれこみの新しい国が出来てしばらくたってからも、使用人部屋で寝起きする立場から抜け出す機会を与えられていなかった。
10 婚礼の準備
テウォンとミンギルはまず牛に水や餌をやって、牛小屋の掃除を済ませてから、厨房で緑豆入りの粥を朝食としてもらった。
それから昼前は畑に出て、胡瓜の本葉を間引いて、株元に藁を敷く農作業を行う。
畑仕事が終われば、午後は屋敷の掃除と修繕を任された。
「ソヨン様の婚礼が近いんだから、屋根も壁も門も全部綺麗にするんだよ。記念写真を完璧に撮るためにも、半端な仕事じゃ許されないからね」
相変わらず威張り腐っている下女は、ミンギルとテウォンに大雑把な指示だけを与えて厨房に戻る。
自分たちには縁遠い話であるため二人は深くは知らないが、しきたり通りの婚礼の儀式というのは花嫁の家で行われるものらしい。
近日中に娘のソヨンが隣村に住む名家の男と結婚するということで、ファン家の屋敷は慌ただしくも浮ついた雰囲気になっていた。
ミンギルとテウォンが立ち入らない母屋の一室には真っ白な蓮花の花が刺繍された紅色の闊衣や鍍金の龍簪が用意されて、蔵では儀式用の食器や調度品の点検が行われる。
衣装箱から出される衣装も、布で磨かれる漆塗りの器も、すべてが花嫁のために美しいはずである。
だが娘の婚礼というめでたい節目を迎える一家の幸福も、最も下位に置かれた使用人にとっては仕事が増える厄介事でしかない。
(結婚って、何がそんなに大事なんだろうか)
薄く雲がかかった白っぽい青空の下で屋根に登り、ミンギルは細長い木の板を手にして瓦の列のずれを揃えている。
反対側の屋根からもテウォンが同じ作業をしている音がするが、屋敷の屋根の上では大声で無駄口を叩くこともできず、ミンギルはつまらない気持ちでいた。
(おれは今より幸せになってみたいとは思っとるけど、女と結婚したいと思ったことはない)
ミンギルは手で瓦の具合を確認しながら、上から順に板で瓦を突き上げる。
育ての親の老人とテウォン以外から優しくされた記憶のないミンギルは、異性にまったく良い思い出がなかった。
ミンギルとテウォンは一人の男として育てられておらず、家畜のように殖やされることもない奴婢として扱われてきたので、男らしさや女らしさというものがわからない。
男女のあり方をいうものを、誰も二人には教えなかった。
だからミンギルには男として異性を好きになることもなく、結婚を望むこともない。
(確かにあの二人は、幸せそうだが)
一列分の瓦の作業をして屋根を一段分下るついでに、ミンギルは塀の向こうの雑木林の影で歓談する、ソヨンと婚約者の姿にちらりと目をやる。
赤と黄色のチマチョゴリを着たソヨンは華やかな顔立ちの可憐な十八歳になっていて、その婚約者である灰色の外套を着た男も細面だが背は高くそれなりの美男であった。
ソヨンも婚約者も穏やかな笑顔で、声は聞こえなくてもお互いに楽しんでいるのがわかる話をしている。
二人は屋敷から離れたところにいたが、視力があり見晴らしの良い高い場所にいるミンギルには、二人の表情がよく見えた。
その様子に何となく苛立ったミンギルは、すぐに二人から目を離して、先程よりも少々強い調子で黒い瓦の縁を木の板で叩いた。
すると薄く曇った空には、瓦の音が高らかに響く。
そのすがすがしい音にミンギルは、ささやかな怒りをいったん忘れた。
11 来訪者
明かりのない使用人部屋で眠りについて一日が終わればまた、すぐに朝が来て働くことになる。
そうして人生で何回目かもあまりわからない春が終わり、だんだんと日差しの眩しい夏に移り変わる狭間の季節が来た。
初々しい新緑の色も深くなり、青葉がそよぐようになった初夏のその日も、ミンギルとテウォンは厨房の下女にグミの木の実を採ることを頼まれ、裏山に入っていた。
グミの木々はゆるやかで日当たりの良い山の斜面に生えていて、あちこちに伸びた枝の葉の隙間からは、茎のついた赤く細長い実が揺れている。
「グミの木には棘があるから、気をつけろよ。あと熟した実はやわらかいから、潰さないように優しくな」
テウォンは低いところの実を茎ごともぎって籠に入れながら、ミンギルに話しかけた。
そのすぐ横で腕を伸ばし、ミンギルは高い場所の実を採っている。
頭ではきちんと覚えていなくても、ミンギルの手は自然と鋭い棘を避けていた。
しかしテウォンの細くて器用そうな指と違って、太く力強いミンギルの手は、四つ目に採ったグミの実を潰す。
鮮やかに赤い皮が弾けて、小さくやわらかい実からは果汁が滲み出てミンギルの手を汚した。
「潰れたら今ここで、食べれば良いだろ」
そう言ってミンギルは、むしろ食べるために潰したつもりで、潰れた果実を口に運ぶ。
ミンギルはほんのりとつめたく甘酸っぱい果実の風味を種ごと味わい、指についた果汁を舐めて爽やかな香りも楽しんだ。
その様子を見たテウォンは、まだ熟す前の緑色の果実を手にした。
「じゃあおれは、潰れないけどこれを食べる。完熟前のちょっと硬くて、苦みが残っとる実が好きだから」
ミンギルからするとまったく美味しそうには見えない青く硬い実を、テウォンは笑顔で手のひらに載せる。
そして果実を一呑みにはせず、大事そうに齧っていた。
(普通に不味い味なんじゃないのか、それは)
ミンギルは硬くて苦いほうが美味しいというテウォンの味覚がわからず、不思議に思う。
しかし青い実を齧るテウォンの小さな顔が満足げだったので、本当に美味しいのかもしれないと思って、自分も一つとって食べたみた。
(うん。やっぱり美味くはないな)
硬い果肉を歯で砕いた瞬間に広がる渋みに、ミンギルは顔をしかめる。
自分を真似たミンギルの失敗を見たテウォンは、声を出さずに笑っていた。
こうしてその場で食べても困らないものの収穫のときには、仕事も楽しいことがあった。
いくつかのグミの実を食べた二人は、屋敷に持って帰る分を採るために再び籠を手にして木々に向き合おうとした。
だがそのとき、テウォンは目の端にいつもとは違うものを見た気がして、木々に背を向けて山から見下ろせる湖の方を振り返った。
梅雨入り前の晴れ間の太陽の下で、湖は鏡のように周囲の緑豊かな風景を映している。
そしてその湖を眺めるように、岸辺には大人数の人間が立っていた。
彼らはなぜか皆似た芥子色の洋服のようなものを着ていたので、何らかの目的がある集団であると遠くからでもわかるほど目立っていた。
風景を楽しんでいるようではあるが、遊びに来たという雰囲気でもなく、これまで見てきた余所者とはまったく違っている。
「湖の方に、いつもと違う人たちがおるな」
ミンギルは目を凝らして、岸辺にいる人々の様子を伺った。
しかし注意深く見たところで、彼らが何であるのかはわからない。
「あれは観光客じゃなくて、共和国の軍隊だな。何の用なんだろうか」
隣のテウォンも事情を把握しているわけではなく、不思議そうにミンギルと同じ方向を眺めていた。
テウォンに言われてもう一度見てみれば、確かに芥子色の服の集団は自国の軍隊に見えた。
「こんな何にもないところに、ご苦労なことだな」
物知りのテウォンが何もわからないのなら自分が考えても仕方がないと、ミンギルはグミの木々の方を向く。
ただテウォンが妙に真面目な顔で遠くにいる軍隊を見つめているので、何かの異変が近づいていることは感じ取っていた。
12 主が去る日
グミの実を採り終えたミンギルとテウォンが裏山を降りて村に戻ってみると、湖のほとりにいた芥子色の服の着た軍人らしき者たちは、ちょうど五、六人ほどになってファン家の屋敷の前の道を歩いていた。
彼らが着ている軍服はファン家の長男が近くの高等学校に通っていたときに着ていた学生服に形は似ていて、何人かはミンギルが知る木製の猟銃とは違う黒光りする長銃を手にしている。
テウォンが足を止めて、何か挨拶をしようと口を開いたので、ミンギルもその半歩後ろで立ち止まった。
しかし向こうもミンギルとテウォンの存在に気づいていたので、まず声を発したのは軍人たちの中でも一番手前にいた中年の男だった。
「ちょっと尋ねるが、ここがファン・ヤンウンの屋敷か?」
神経質そうな顔をした男は、玉石張りの塀の向こうにある、ミンギルとテウォンが屋根を直したばかりのファン家の屋敷を指さしながら尋ねた。
ファン・ヤンウンとは、ファン家の当主の名前である。
男たちの態度はそれほど高圧的ではなく、親切そうに微笑んではいたが、テウォンの後ろにいるミンギルに対しては皆、薄っすらと警戒の眼差しを向けていた。
(大方、おれのことをファン家の用心棒か何かだと思っとるんだろう)
ミンギルは黙ったまま、相手を挑発しないように視線を泳がせる。
使用人のわりに立派な大男に成長したミンギルは、最近は屋敷でも軽んじられるよりも怖がられることの方が多かった。
自分では何も変わったつもりはなく、何かをした覚えはないのに距離を置かれることは不思議だったが、強そうな男として扱われることはミンギルにとって嫌なことではない。
(おれもテウォンも、殴られずにすむなら良いことだ)
テウォンを庇って代わりに殴られることもあった、ぼんやりとしか覚えていない子供のころのことを思い出し、それが過去の出来事であることにミンギルは一人満足気に頷く。
半歩先にいるテウォンは、自分よりは大きいが、ミンギルよりは小さい軍人の男を見上げて、問いに受け答えていた。
「はい、そうです。私たちは、この屋敷で働く使用人でございます」
テウォンの言葉遣いはミンギルと話しているときとも、屋敷にいるときとも違う、緊張したものだった。
軍人の男はテウォンのかしこまった物言いに失笑をしつつ、二人にさらに話しかけた。
「我々は、ヤンウンに用があるんだ。ここに呼んできてくれないか」
男が頼んできた内容に、テウォンはミンギルと顔を見合わせつつ頷いた。
「はい。かしこまりました」
普通の客人なら、屋敷の中に入って客間で話せば良いはずである。なぜ外に呼び出さなければならないのかと、二人は不思議に思う。
だが敵でもない自国の軍人の頼みを断る理由もなかったので、ミンギルとテウォンはグミの実を厨房に渡すついでに、どこからかやって来た軍人たちが当主のヤンウンを呼んでいることを屋敷の使用人に話した。
そしてテウォンとミンギルは、屋敷の門に戻った。
「あなた方のことを伝えておいたので、もうすぐここに来ると思います」
「どうもありがとう。それじゃここで、待たせてもらうよ」
テウォンから屋敷の反応を聞いた軍人は、子供に話しかけるようにお礼を言って、連れてきた五、六人の兵士たちを門の前に整列させた。
兵士たちの実際の年齢はわからないが、同じ軍服を着て軍帽を被り、神妙な表情で並んでいる様子はミンギルやテウォンよりもずっと年上に見えた。
それから次は何をするべきかと、ミンギルはテウォンの様子を伺った。
開けっ放しにした門のすぐ内側にテウォンは立っていたので、ミンギルも同じように門の内側に移動した。
(そうか。おれたちは門の開け閉めを任されているんだから、ここにいれば良いのか)
ミンギルはテウォンと並んで、軍人たちとともに当主のヤンウンが来るのを待った。
季節はちょうど、初夏の高原の澄んだ空気が青空を背景にして建つファン家の屋敷を包む、一番気持ちが良いときである。
だから木製の柱に支えられた黒い瓦の屋根と、白い紙を貼って仕上げた壁は、ミンギルとテウォンが手入れをしたばかりというのもあって一層清らかに見えていた。
しばらくすると、ひげを綺麗に伸ばして髷を結い、きちんと外套を着た正装のヤンウンが、主屋の格子戸を開けて戸惑いながら出てくる。
屋敷の中には心配そうな表情で父親の後ろ姿を見つめる長女のソヨンとその母がいて、彼女たちの側には屋敷の中で働く使用人が控えていた。
ミンギルやテウォンに対しては支配者の立場でいるファン家の人々も、新しい共和国の軍隊の前では顔色を伺わなくてはならないようである。
庭を横切って門まで歩いてきた初老のヤンウンは、外にいる軍人たちと挨拶を交わしてお互いに名乗ってから、おずおずと訊ねた。
「あの、私どもの屋敷に一体何のご用事でしょうか」
開け放たれた門の外には新しい武器を持った軍人がいて、中には古めかしい両班の生活を守る一族の当主の老人がいる様子は、何かの間違いのように見える。
しかし軍人は見間違いではなく確かにそこにおり、屋敷の中にいる者たちにも十分に聞こえる声の大きさでヤンウンの問いに答えた。
「この建物と土地は、我々朝鮮人民軍が使わせてもらうことになった。ファン家の人々は、早急にここを立ち退いてほしい」
話を聞くとどうやら軍人の男は、村を支配する地主であるファン家を排除するためにやって来たようだった。
つまり彼はミンギルとテウォンが長い間待ち続けていた、公正で平等な新しい国への変化を促すためにやって来た人物であるらしい。
しかしあまりにも唐突で急な来訪であったので、ミンギルとテウォンはすぐには喜ぶことはできなかった。
(ファン家が立ち退くって、どういうことなんだ?)
ミンギルは軍人たちがファン家に何を求めているのかわからずテウォンの方を見たが、テウォンもまだ状況を飲み込めていない様子で見つめ返してきた。
何が起きているのかわかっていないのはヤンウンも一緒であるようで、間の抜けた声で男に聞き返した。
「はい? どういうことでしょう?」
田舎の地主として時が止まったような生活を送っていたヤンウンは、ミンギルやテウォン以上に時流に乗り遅れていて、危機感を抱くのが遅い。
都会ならもっと早くに訪れたはずの変化が僻地の山奥に届いた今日を、ヤンウンは何の備えもなく迎えていた。
男は年季の入った門柱が瓦葺きの屋根を支える名家らしい門をくぐって、庭にいるヤンウンに歩み寄って答える。
「このあたりで兵士を集めたり、管理したりするのにお前の屋敷を使うということだ。米帝の侵略から国を守るために、大事なことだろう?」
三、四十代だと思われる男はヤンウンより若いはずだったが、その話し方に儒教らしい年長者への尊敬の念はない。
「はあ、米帝と……」
まったく納得していない様子のヤンウンは、新しい敵であるらしい国の名前を繰り返す。
男が前方に移動したので、ミンギルはそっとテウォンに近づいて、小声で訊ねた。
「どこかとまた戦争があるのか?」
共和国の軍隊の目的はわからなくても、米帝という国については知っていることがあるらしく、テウォンはミンギルを少し屈ませて耳打ちする。
「日本を打ち負かした米帝、つまりアメリカ合衆国は、南朝鮮を不当に支配して南北の統一を妨げとる国だ。米帝の傀儡政権による圧政に抵抗しとる同胞もおるから、彼らを助けるためにも戦争で南朝鮮の国土を取り戻すべきだって意見も多い」
「……とにかく、米帝が悪いんだな」
テウォンの説明は、ミンギルには半分もわからなかった。だが朝鮮の土地を奪おうとする国があるらしいことはミンギルにも理解できたので、敵を倒すための戦いには疑問を抱かない。
朝鮮を救う戦争のために、ファン家が犠牲を払うならそれはミンギルにとっては良い報せである。
屋敷の方を見てみると、軍人の男に対応している父親の後ろ姿に不安を覚えたのか、ソヨンは母親に引き止められながらも革靴を履いて庭に降りてきていた。
丈長のチマを可憐に揺らしながら父親の前に立っている軍人の男に駆け寄り、ソヨンは甲高い声で名乗った。
「あの、私はヤンウンの長女のソヨンです」
娘を下がらせようとする父を無視して、ソヨンは男に話しかけた。
男は見目の良いソヨンの顔と、ヤンウンの冴えない顔を見比べて不思議そうな顔をして、それから屋敷の中から顔を出している母親の顔を見て頷いた。
「名前は聞いていたが、美人なお嬢さんだ」
お世辞ではなく、ある程度は本音で、男はソヨンの容姿に感心している。
男の反応に自分の女性としての魅力を利用するべきだと気づいたソヨンは、よりか弱いふりをしようと名前を告げたときと表情を変えた。
長年使用人として彼女の無関心な冷たさを見てきたミンギルはあまり心動かされなかったが、ソヨン本人は自分の美しさには他人の行動を変えるだけの価値があると信じていた。
「私はもうすぐ、婚約者とこの家で婚礼を挙げることになっているんです」
袖に手を隠して顔の近くで合わせて、ソヨンは上目遣いで軍装の男を見つめる。
ソヨンは自分に与えられていたはずの幸福な未来を壊さないでほしいと、庇護欲をくすぐり伝えようとしていた。
しかし男の反応は、ソヨンの期待に反して思ったよりも素っ気のないものだった。
「……それで?」
男は首を傾げて、ソヨンの結婚と自分の仕事の間に何の関係あるのかわからないという顔をした。男はソヨンが美人であることは認めていたが、それ以上には何も感じていないようだった。
(そう簡単に、絆されたら困る)
願っていた通りの事の次第に、ミンギルはほっとした気持ちになって、庭に立つソヨンと男のやりとりを見守る。
生まれてから今日まで他人にぞんざいに扱われたことがないらしいソヨンは、きょとんとした様子で言葉を続けた。
「だからあなた方に家を使われてしまうと、私がここで婚礼が挙げられなくて困るのですが……」
予想が甘かったソヨンの言葉は、段々とたどたどしいものになっていく。
単にソヨンが自分と自分の家族の財産を維持しようとしてただけだとわかった男は、ソヨンと向き合うことを止めて言い捨てた。
「なるほど。それなら隣の村に空き家があるのを見かけたから、そこに住んで婚礼を挙げれば良いだろう」
実家で行われる華やかな婚礼に夢を見ていた若い娘に対して、男の提案はひどく残酷な内容だった。
隣の村に空き家があったとして、それはこの何人もの使用人が働くファン家の屋敷のような立派なものではありえないし、そもそも一家の家や土地が失われれば結婚が成立するかどうかも怪しい。
だからソヨンは反論を重ねようと口を開きかけていたが、兵士たちが屋敷の前に並ぶ状況の危うさにやっと気づいたヤンウンが、慌てて恭順の姿勢を見せた。
「では、いつまでにここを去れば良いでしょうか」
「できるだけ、すぐに」
男は立ち退きを急かしていたが、無理な期限は言わなかった。
そのわずかな温情をかけられたヤンウンは情けない笑みを浮かべ、へこへことお辞儀をした。
「かしこまりました。これから荷物をまとめます」
空気を読んで黙ってはいるものの、まだ何か言いたげな顔をしたソヨンを連れて、ヤンウンは屋敷の中へと足早に去っていった。
最低限の衣食住と引き換えに物心ついたころから働かされていたミンギルは、一家に直接の恨みはなくても、その不幸に同情はしなかった。
ミンギルよりは良い立場にいるはずの屋敷の中にいる使用人たちもまた、誰も家を奪われる主人を助けようとはしない。
その様子を、軍人の男と男の連れてきた兵士たちはあまり興味が無さそうに見ていた。
軍の男たちは、ソヨンやヤンウンから屋敷と土地以外のものを奪うこともできたはずだった。
しかし彼らはヤンウンに荷物をまとめることを許し、ヤンウンが家族を連れてどこへ逃げたとしても問題視しない素振りも見せていた。
それはファン家に待つ未来が、どう転んでも暗く苦しいものであると男たちが知っていたからである。
昨日までは何もかもが自分の思い通りになるはずだと信じていたソヨンも、今日からは力に屈して踏みにじられることを知る。
だがミンギルはファン家がどこまで転落することになるのかあまり具体的に想像できなかったので、ただ素直に気に入らない主がいなくなることを喜んだ。
「やっぱりテウォンの言っていた通り、新しい国っていうのはおれたちみたいな人間のための国なんだな」
ミンギルは笑顔でそっとテウォンの頭上に呟いたが、それは言うほど小さい声にはならなかった。
テウォンはミンギルよりは物事をわかっているので、少々複雑な表情を見せたが、それでもずっと待っていた変化が現実に起きたことには微笑んだ。
「ああ。きっともう、誰も俺たちを蔑ろにすることはないんだ」
先程までよりもさらに清々しく見える五月晴れの空の下で、テウォンはもうすぐ主が去ることになった古めかしい屋敷をすっきりした表情で見つめている。
その二人の呑気な会話が聞こえていたのか、庭に立っていた軍人の男は振り向くとミンギルとテウォンに話しかけた。
「この屋敷の使用人だったなら、彼らが去れば君たちの仕事はなくなるな」
「はい。この屋敷の人々のために働くことは、もうありません」
テウォンは慌ててかしこまって丁寧な言葉づかいになって、男の問いに受け答える。
隣のミンギルはただ黙って、テウォンにやりとりのすべてをまかせていた。
男はミンギルとテウォンを交互に見て、特に体格の良いミンギルを興味深げに見つめて、新しい選択肢を与えた。
「それなら朝鮮人民軍に入って、共和国のために働く気はないか」
ある一家から住まいを奪ったばかりの人物が言うのだから、その提案は命令に近いものであったのかもしれない。
だがやっと低い身分から解放されそうで明るい気分になっていたミンギルとテウォンは、自分たちの着ているぼろぼろに擦り切れた野良着と、兵士たちが着ている軍服の折り目の正しさを見比べて、自然とその気になった。
(こんなに立派な服を着とるんだから、きっと食べとるものも立派なんだろう)
ミンギルは勝手な想像で兵士たちの生活を思い浮かべて、それ以上のことは何も考えなかった。
一瞬は躊躇っていたテウォンも、すぐに細かいことには目をつむって、進む道を決めた表情でミンギルの方を向く。
ミンギルは何も言わずに、目配せと頷きでテウォンに合意して、答えを伝えることを任せた。
男の方に一歩歩み出たテウォンは、はっきりした声で男が提示した選択肢を選んだ。
「あります。軍に入ってみたいです」
声変わりを終えても少年らしさが残る、テウォンの澄んだ声が彼ら以外誰も話さない庭に響く。
それがミンギルとテウォンが生まれて初めて自分で選んで決めることができた、人生の決断だった。
ミンギルとテウォンはそのとき、軍隊が本来何を目的にした組織であるかは忘れて、新しい環境での自分たちの幸せを疑うことなく信じていた。
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