【短編小説】狼に餌付けされた赤ずきん(後編)
田舎に住む農民の少女ヴィヴィは、穏やかで素朴な生活を送っていた。
しかしある日隣国の軍が攻めてきて、ヴィヴィは避難先の領主の城で籠城戦に巻き込まれてしまう。
敵の兵糧攻めがもたらす飢餓の中でヴィヴィは苦しみ、大勢の人々の無惨な死を目撃する。
だが自分も彼らと同じように死ぬのだと覚悟したそのとき、敵将レオカディオの気まぐれによってヴィヴィは命を救われる。
8 温かな食事
その後また寝てしまったヴィヴィは、何かわからないけれども美味しそうな匂いに鼻をくすぐられて、同じ場所で目を覚ました。
(何の匂いだろう)
食欲をそそられて目を開けると、うっすらと覚悟していた通り、ヴィヴィを捕らえた男の白く美しい顔が見下ろしている。
「やっと、ちゃんと起きてくれたか」
戦場にいたときとは違う、鮮やかに赤い丈長の衣を着た男は、真っ白な陶器の器を手にしていた。
壁に小さく設けられた窓からは自然な光が差し込んでいたので、夜ではない時間のはずである。
ヴィヴィの頭の中に、男に言うべきことがいくつか思い浮かぶ。しかし空腹には勝てず、ヴィヴィは白い器をじっと見つめた。
「食べ物……」
気づけばヴィヴィは、かすれた声でつぶやいている。
すると男は意外そうに、器を持っていない方の手をヴィヴィの小さな額に置いて話しかけた。
「声は出せるんだな」
大きくてかたい大人の男性の手に触れられて、ヴィヴィは怖くなって押し黙る。
そうしたヴィヴィの反応を面白がるように、男はそのままヴィヴィの頬を撫でて、くちびるを指でなぞった。
「まずは、食事か」
男はそう言ってにっこりと微笑むと、ヴィヴィから手を離して器に添えられていた銀の匙を掴んだ。
器の中身は、どうやら羊の乳を使ったスープのようだった。
白い湯気をあげる温かなスープをすくった匙を、男がヴィヴィの前に差し出す。
久々に目にしたまともな食事に、ヴィヴィは考えるよりも先に口を開けて、匙の中のスープをすすった。
「急がず、ゆっくり食べろ」
男に促されるままに、ヴィヴィはほどよく冷めたスープを咀嚼し、熱された羊の乳の甘い匂いごと噛みしめる。
口あたりの優しい味のスープには、細かく刻まれたきのこや塩漬け肉が溶け込んでて、ヴィヴィがこれまで食べてきたものとは違う複雑な風味の香草か何かが入っている。
(どうしよう。すごく美味しい)
ゆっくりと時間をかけてスープを飲み込み、ヴィヴィは胃に温かいものが広がるのを感じた。
長い間飢えに耐えてきた身体が多幸感で満たされて、何も考えられなくなると同時に、さらなる満足がほしくなる。
一口だけではまったく足りず、逆に空腹感を覚えたヴィヴィは、小鳥が餌をねだるように再び口を開ける。
すると男はもったいぶって焦らしてスープを匙ですくい、二口目、三口目をヴィヴィに与えた。
身体を起こす力のないヴィヴィは、男に主導権を握られた形で、食事を続ける。
そうしたやりとりを繰り返し、男が手にしていた器は空になる。
ヴィヴィはまだ食べ足りないと思ったが、男は空の器を寝台の近くのテーブルに置いた。
「今日はこれくらいにしといた方がいいだろう。飢えた者が急に食べ過ぎると、胃けいれんで死ぬ」
男は涼やかな横顔で、ヴィヴィの生死に関わる事柄について語る。
どう考えても男はヴィヴィの人生を弄ぶ敵であり、憎むべき対象であるのだが、優しいと言えば優しかった。
男は椅子を一脚寝台の近くに寄せると、そこに座ってヴィヴィの顔をじろじろとのぞき込んだ。
「君の名前は?」
「……ヴィヴィ、です」
男に尋ねられて、ヴィヴィは声の出し方を思い出しながら答えた。あまり人と話したい気分ではなかったが、男の態度には人を従わせる何かがあった。
「ヴィヴィか。見たとおりの、可愛い名前だ」
所有権を確かめるようにそっと、男がヴィヴィの名前を呼ぶ。そこでやっと男は、自分の名前を名乗った。
「俺はレオカディオ。オルキデア帝国の将軍だ。一応、王家の血も引いている」
肩書きや血筋について語るのは、それでヴィヴィが安心すると考えているからだと思われた。
最初にヴィヴィが察した通り、レオカディオという男はオルキデア帝国の中でも身分が高い存在であるようだった。
レオカディオの高貴な雰囲気のある整った顔立ちをちらりと眺めて、ヴィヴィは改めて納得する。
「じゃあ王子様なんですね」
「王子と言うには、遠い親戚だが」
少し照れた表情で、レオカディオはヴィヴィの推察を訂正した。
(でもどうしてそんな人が、私なんかを助けたんだろう)
ヴィヴィはレオカディオの立場がわかっても、なぜレオカディオがヴィヴィを生かして介抱するのかが理解できずに不安だった。
だからヴィヴィは、言葉を選んでおそるおそる問いかけた。
「あなたは、私をどうしたいのでしょうか」
小さな顔の大きな瞳は戸惑いを隠せず、ヴィヴィはレオカディオと目を合わせられずにいる。
本質を探るヴィヴィの問いに、レオカディオは一瞬だけ考え込み、そしてまた口を開いた。
「そうだな。俺は君を……、まあしいて言うなら寵姫にしたい」
レオカディオの浅い反応は、ヴィヴィの不安を晴らすようなものではない。
聞き慣れない言葉に、ヴィヴィは問い直す。
「寵姫?」
「俺のお気に入りの女、ということだ」
レオカディオはヴィヴィの頭に手を伸ばし、今度はヴィヴィの赤いくせっ毛をかき混ぜて答えた。
それからしばらくの間、レオカディオの長い指はヴィヴィの髪で遊んでいた。
かつて髪を撫でてくれたテオの手とは違う、得体の知れない優しさがレオカディオにはある。
レオカディオはヴィヴィを家畜の仔羊に似た存在として扱っているようで、微妙に違う態度をとっていた。
愛玩という概念をヴィヴィが理解するのは、もう少し先のことであった。
9 鏡に映るのは
睡眠と食事をしっかりとって体力を回復したヴィヴィは、起きて歩けるようになると着替えのドレスを与えられた。
寝ている間に着せられていた寝間着も上等な絹でできたものだったが、新しいドレスも華やかで贅を尽くした、労働には向かない丈の長さの品だった。
(こんな感じで、着方は間違ってないかな)
銀の飾りボタンの付いた紺色のベルベット生地で仕立てられたドレスを着て、ヴィヴィは部屋に置かれていた大きな鏡の中を覗く。
農民の娘であるヴィヴィにとって、鏡は用途は理解できても不思議な存在だった。
流線状の金細工の枠が美しい鏡に映るヴィヴィの姿は、まともに肉がついて健康な姿を取り戻していると同時に、自分ではない誰かのように冷めた顔をしている。
(私はあの人が好きじゃない。でもあの人の言うことを聞く以外に、今の私にできることはないから)
ヴィヴィがいるのはどこかの知らない城の中で、庭を歩いている兵士も、部屋の掃除に来る召使いも、皆よそよそしい他人である。
冷たい石の壁に囲まれた部屋で一人鏡の前に立ち、ヴィヴィは深く息を吸って吐く。肌触り良くヴィヴィの身体をぴったりと包むドレスは、麻の服とは違いすぎて逆に気持ちが悪かった。
テーブルの上にはドレスと一緒にもらった金や銀の装身具がいくつか置かれていたが、身分が低いヴィヴィにはそれらをどこにどう身に付ければいいのかがわからない。
(すごく綺麗な品だとは思うけど)
細かな筆使いで花々が描かれた金の円環を手にして、他にすることもなくヴィヴィは深緑色の瞳でぼんやりとその輝きを見つめる。
そうしていると部屋の扉が前触れもなく開き、初めて見る顔の少年が現れてヴィヴィに話しかけてきた。
「それは耳に付けるんだ」
背が高くほっそりとした顔をした少年は、ヴィヴィが手にしている装身具を一瞥すると、部屋の中に入ってきて直接身に付ける手伝いを始める。
その硬質な響きの声を聞いて、ヴィヴィは少年が以前レオカディオと話していた人物であると気がついた。
「あなたは……」
一度だけ聞いた名前を思い出そうとして、ヴィヴィはじっと少年の顔を見た。しかし声を聞いたことはあっても、顔は見たことがなかったので、見つめたところでまったく名前は思い出せない。
少年はヴィヴィが会話を聞いていたことを知らないので、ヴィヴィが思い出せなくとも普通に名前を言った。
「僕はサムエル。お前がレオカディオ様の寵姫なら、僕は近習だ」
黒い高襟の服を着たサムエルはそう言って小さく微笑むと、慣れた手付きでヴィヴィの耳に円環状の飾りを付ける。
耳飾りもサムエルの手も冷たかったが、ヴィヴィはどんな態度で話しかければいいかわからず黙って立っていた。木細工の人形になった気持ちで、ヴィヴィはされるがままに金銀や宝石で飾り立てられる。
サムエルもしばらく何も言わなかったが、やがてすべての装身具を付け終えると、ヴィヴィの肩に手を置いて話しかけた。
「お前は、レオカディオ様が苦手か?」
答えづらい上に不躾な質問だと、ヴィヴィは思った。
何も言わずに鏡に映った顔を曇らせることが、その問いへのヴィヴィの答えである。
それは思い通りの反応だったのか、サムエルは淡々と話を続けた。
「そうだよな。あんな人と一緒にいたくはないよな」
そしてサムエルは鏡を通して、真っ直ぐに迷いのない瞳でヴィヴィを見つめた。
「だがレオカディオ様のことが苦手でも、さっさと好きになった方が得だぞ。せっかくお前も生き残ったんだ。この先楽しく暮らしたいだろ?」
簡単に奪われたり与えられたりする弱者であるヴィヴィの想いを、サムエルは理解していないわけではなかった。理解した上で、心を捨てろと助言をしていた。
サムエルの言葉は、合理的に考えれば正しいのかもしれない。
だが死んだ父や姉、そして自分を生かしてくれたテオのことを考えると、ヴィヴィはそのまま頷くことはできなかった。
「でもあの人は……」
ヴィヴィはレオカディオへの拒絶を口にしようとした。しかし支配される存在でしかないヴィヴィは、その先の言葉を続けられない。
「レオカディオ様は悪人かもしれないが、彼に気に入られるのは悪いことじゃない」
サムエルは身分は違ってもレオカディオと同じ側に立っているので、ヴィヴィの言えないこともはっきりと言った。
鏡に映るヴィヴィは、金の円環を耳に付け、首に宝石を連ねた飾りを下げて、胸元の開いたドレスを着て立っている。過剰な装飾はヴィヴィの幼さの残る美貌を引き出して、ある意味ではよく似合っていた。
(じゃあ私は、あの人にお礼を言うべきなの?)
そこには垢抜けない農民の少女であったヴィヴィは、どこにもいない。自分が希薄になったような感覚に、ヴィヴィは水に溺れたときと同様に息ができない気がして気持ちが悪くなる。
しかしサムエルはヴィヴィの苦悩に構うことなく、再び部屋の扉を開いて手招きした。
「準備ができたなら、出かけよう。レオカディオ様が待っている」
サムエルの指示に従って、ヴィヴィは慣れない踵の高い靴を履いて部屋を後にする。
外を歩くのは久々であるはずだったが気分は晴れず、ヴィヴィは罪の意識に囚われたまま意味のない思考を続けていた。
10 殺戮とご馳走と
(空が、まぶしい)
サムエルに連れられて城の中庭に出たヴィヴィは、よく晴れた冬の空を見上げて、着込んだ上着の袖を太陽の光に透かした。
ヴィヴィはレオカディオが、どこかで近くで待っているものだと思っていた。
しかしあたりにはヴィヴィを物珍しそうに眺める兵士しかおらず、サムエルはヴィヴィを庭に止めた馬車へと案内した。
「レオカディオ様は今、ヤスライネ城を攻めに行っている。もうすぐ落城するから、お前にもぜひ来てほしいそうだ」
内装は豪華だけれどもがらんと寒い客室にヴィヴィを乗せて、サムエルは行き先の説明をする。
ヤスライネ城はヴィヴィにとって、名前くらいしか聞いたことがない遠い場所であった。
(私はあの人の寵姫だから、あの人のいるところへと連れ回されるんだ)
見知らぬ場所から見知らぬ場所へと運ばれるヴィヴィは、きっともう人間ではなく物に近いのだろうと思う。
やがてサムエルが客室の扉を閉じると、鞭の音と馬のいななきが聞こえて馬車は走り出した。
茶色に枯れた草原が広がる景色が、金色の枠がはまった車窓の外を流れていく。
ヴィヴィは一人で客室で馬車の揺れに酔いながら、吐き気をこらえて馬車が再び止まるときを待った。
◆
朝に出発した馬車がヤスライネ城の近くに着いたのは、昼過ぎのことである。
ヴィヴィがふらつきながら馬車を降りると、そこは数多くの天幕が張られた宿営地の中だった。
城にいた兵士たちよりもさらに多くの武装した男たちが各々の仕事をしていて、ヴィヴィは無力な自分が場違いな気がして立ちすくむ。
しかしすぐにサムエルが現れて、ヴィヴィを先導した。
「レオカディオ様は、こっちで待っている」
背が高いと言うよりはひょろ長いサムエルの後ろ姿について行くと、丸太を組んだ簡易的な高楼があって、ヴィヴィはその上まで登らされた。
敵の城を包囲する自軍をよく見渡せるように建てられた高楼の最上部は、頭上には丈夫そうな紋章入りの布が張ってあって、天候の悪い日でも過ごしやすく作られている。
レオカディオはその中央に置かれた豪奢な革の長椅子に座って、ヴィヴィを待っていた。
「よく来てくれたね、ヴィヴィ。そのドレスも君に、よく似合っている」
黒鉄の鎖帷子を身に付け、長剣を佩いたレオカディオは、いつもにも増して威圧感のある美しさがある。
その軍事の統率者らしい風格に怯えて、ヴィヴィはレオカディオに視線を合わせずに目を伏せた。
「あなたが、ここに呼んだので」
「うん。とりあえずここに、おいで」
レオカディオは長椅子の自分のすぐ隣を軽く叩いて、ヴィヴィを招いた。
まったく近寄りたくはなかったが、他に選択肢もなく、ヴィヴィはレオカディオのすぐ側に座る。
長椅子の前には大きなテーブルが置いてあり、その上には食事の用意がしてあった。
淡黄色のソースを添えて綺麗に盛り付けられたザリガニに、色鮮やかな冬野菜のソテー、香ばしい鶏の丸焼きにハーブ入りの白いパンなど、そこにあるのは戦場とは思えないほど豪華なご馳走である。
主とその寵姫を二人っきりにするために、サムエルはもうどこかに行ってしまっていた。
レオカディオは真っ赤に茹で上がったザリガニを手で剥いて、その大ぶりな身をソースに浸して食べながら敵の城を見遣った。
「俺は今、あのヤスライネ城を包囲して兵糧攻めにしているから、あの城の者たちは飢えている」
常に勝者で有り続けるレオカディオは、淡々とどうでも良いことのように戦況を語る。
しかし「飢え」という言葉は、ヴィヴィの心臓を跳ねさせ、呼吸を乱した。
(この人はまた、人を苦しめて命を奪っているんだ)
青く晴れた空に映える灰色の城壁の姿が、ヴィヴィの脳裏に飢餓の記憶を蘇らせる。
ザリガニはまだ茹でたてであるらしく、冷たい空気に白い湯気が上がっていた。
その滋味のある匂いを鼻をくすぐられても、城の中の惨状について考えてしまうヴィヴィはその赤い身に手を伸ばすことはできない。
だがレオカディオは手についたソースを舌で舐めて、残酷な言葉を軽々と重ねた。
「だから飢餓に苦しむ者たちのいる城を眺めながら食べる食事は格別だろうと思って、君を呼んだんだ。本当に飢えて死にそうになった君なら、なおさらありがたみが増すだろ」
あっけらかんと何の罪悪感もなく、レオカディオはヴィヴィや飢餓に苦しむ人々を幾重の意味でも踏みにじる。
そのあまりの思いやりのなさに、ヴィヴィは頭が真っ白になった。
(この人は一体、何を言っているのだろう)
レオカディオほど他人の苦しみに鈍感な人間がいることを、ヴィヴィは信じられない。
しかしレオカディオは今度は金の杯に入った葡萄酒を飲み干して、またさらに口を開いた。
「俺は雨に濡れるのは嫌いだが、雨に濡れない場所で雨の音を聞くのは好きでね」
相槌もまったく言えないヴィヴィを相手に、レオカディオは何も気にせずに話し続ける。
穏やかに残酷なレオカディオの金色の瞳は、包囲された城をただの楽しみの対象として映していた。
「だから辛いことがたくさんある戦争も、安全な場所から見れば君も楽しめると思うんだ」
空の杯をテーブルに置くと、レオカディオはヴィヴィに曇りのない笑顔を向けた。
レオカディオはヴィヴィに親切にしているつもりのようだったが、それは決定的にずれて間違っている。
その優しさを受け入れることもできず、かと言って拒絶することできず、ヴィヴィは長椅子の上で身体を強張らせていた。
レオカディオはそうしたヴィヴィの緊張も都合よく捉えて、ヴィヴィの細い肩を抱き寄せる。
「遠慮せずに、君にもたくさん食べてほしい」
肌触りの良いドレスの生地ごとヴィヴィの身体を撫で、レオカディオは皿から小さなパンを一つ掴んでヴィヴィの口元に近づける。
それは手元の動物に餌をやるようなしぐさで、パンからは香草の良い匂いがした。
限度を超えたレオカディオの強引さに逆らえず、ヴィヴィは味がわからないまま微かにパンを食む。
ヴィヴィがパンの欠片を飲み込むのを見届けると、レオカディオはそっと優しげにささやいた。
「君はあのとき、すべてを失った不幸な女の子だった。でも今はこうして、食べきれないほどのご馳走があるんだから幸せだろ」
その言葉は流石に半分は冗談かもしれないが、もう半分は間違いなく本気であり、ヴィヴィはレオカディオの非道な愛情を噛み締めた。
オルキデア帝国の将軍として破壊と殺戮を生み出したレオカディオは、ヴィヴィを不幸にした張本人の大人である。
それにも関わらず、レオカディオはヴィヴィを幸せにしたつもりで微笑むのだ。
(こんな人に気に入られて、私はどうすればいいの)
圧倒的な非人道性を前にして、ヴィヴィは無力感に苛まれた。
レオカディオのたくましい腕の中で、ヴィヴィは真っ黒なオルキデア帝国の兵士の群れと寒々しい青空に囲まれた灰色の城を見つめる。
飢えて死ぬしかない人々の苦しみがわかるだけで、強者に生かされる弱者のヴィヴィには何もできることはなかった。
この先もきっとより惨い死や破壊を見せられるのだと想像して、ヴィヴィは目を潤ませる。
レオカディオはヴィヴィを、直接殴ったり蹴ったりはしない。
だが暴力ではなく甘く倫理に欠けた優しさで、レオカディオはヴィヴィの善良さを壊そうとする。
ヴィヴィは人の痛みや苦しみを感じようとしないレオカディオと同じものを見て、心を削られることを強要されていた。
(でも私は、テオに守ってもらったのに)
命をかけて自分を救おうとしてくれた幼馴染を思い出すのも申し訳なくて、ヴィヴィはくちびるを噛んだ。
権力者に弄ばれる存在である今の自分のどこに生きる価値があるのか、ヴィヴィにはわからなかった。
11 寵姫が心を捨てる理由
ヤスライネ城を落城させた後も、レオカディオの率いる軍は進軍を続け、彼らが去った後には夥しい数の死体が残された。
手足を切り取られた死体に、木に吊り下げられた死体。顔を焼かれた死体に、水に沈められた死体。
ヴィヴィはレオカディオに戦場から戦場へと連れ回され、様々な死体をその目で見る。
かつてのヴィヴィは、死体となった人々と同じように、虐げられて殺される側にいる人間であった。
しかし今やレオカディオの寵姫となったヴィヴィは、勝者たちとともに死と破壊を眺めている。
レオカディオの軍は兵糧も豊富で、天幕などの軍備も宮殿のように豪華だったので、凄惨な戦場とは対照的にヴィヴィの生活は恐ろしいほどに快適だった。
(だって戦場なのに、お風呂がある)
人の死にも慣れてきたある夜、天幕の中に置かれた木製の桶の中で、ヴィヴィは裸で温かな湯に浸かる。
白い薄布に囲まれた桶に注がれた湯は、外で沸かして風呂係の兵士が木のバケツで運んできたものだ。ヴィヴィはレオカディオの寵姫であるので、一番最初の綺麗な湯を使うことができる。
(匂いも姿も綺麗に変わったら、最後に私の何が残るんだろう)
ヴィヴィは石けんと言うらしい白い固体を湯に溶かして、できた泡で身体を洗った。淡く甘い匂いがする石けんの泡は、ヴィヴィの肌を美しくなめらかにする。
農民の娘に生まれたヴィヴィは、これまで人生で数えるほどしか風呂に入ったことがなかったが、最近は最低でも三日に一度は入っている。
村の生活では考えられない贅沢さに、ヴィヴィはオルキデア帝国の豊かさを実感した。
(遠い親戚でこれなら、本当のオルキデアの王子様たちはどれだけ豪華に生きているのかな)
薄布越しに差し込む蝋燭の灯りが、ヴィヴィの肉の少ない身体をかすかに照らす。
そうしたほの暗さの中で、丁寧に磨かれた桶の縁に寄りかかり、ヴィヴィは湯のぬくもりに包まれてまどろんだ。
死んだほうがましだと思うことも、あるにはあった。しかし無残に死んでゆく人々を見ると同時に、勝者の豊かさを享受してみると、死にたくはない気持ちの方が強まる。
殺されてしまった人々と違って、ヴィヴィは生きている。死にたくはないヴィヴィは、これからも生きなければならない。
そして無力なヴィヴィが今後生きていくためには、侵略者であるレオカディオに頼らなくてはならなかった。
(生きて、何かができるというわけじゃないけど)
薄闇の中で目を閉じて、ヴィヴィは自分にできることとできないことについて考える。
幼馴染や家族を奪ったレオカディオを、ヴィヴィは絶対に許せなかった。
しかし無学なヴィヴィには、レオカディオに復讐ができる器量はない。
運命に抗うことは選ばれた者にしかできず、そういう人間はきっと臆病で弱いヴィヴィとは違う。
どうせ駄目だとわかっているのなら、傷ついてまで抗う必要はあるとはヴィヴィは思えない。
だから死んだ人々に何かしらの報復を期待されているとしても、ヴィヴィは困るのだ。
(辛いのはもう、嫌だから)
濡れたヴィヴィの頬を、温かい何かが伝う。
それが涙なのか、それともただの湯なのかは、すべてを諦めようとしているヴィヴィにはわからなかった。
12 奇妙な愛
風呂から上がったヴィヴィは、用意されていた乾いた布で身体を拭き、明るい黄緑色の簡素なドレスを着た。
ちょうど身支度が整うころにはサムエルがやって来て、ヴィヴィをレオカディオのいる天幕へと連れて行く。
赤い布の垂らされた天幕の入り口に着くまで、サムエルはヴィヴィに何かを話していた。
ヴィヴィはサムエルの言葉を聞き流して、布をくぐって天幕の内側に入る。
天幕の中には草や花の模様が織られた絨毯が敷かれていて、燭台の光は弱く薄暗い。
レオカディオは隅に置かれた寝台に座っていて、日中は結んでいる黒髪を下ろし、亜麻色のガウンを着てくつろいだ様子でヴィヴィを呼んだ。
「おいで、ヴィヴィ」
「はい」
名前を呼ばれたヴィヴィが行くのは、レオカディオのいる寝台ではなく、そのすぐ近くに並べられた一回り小さな揃いの寝台である。
レオカディオは寝所ではヴィヴィに少々の距離を置き、同じ寝台を使わせることもしなかった。
(私が居心地が悪そうにしているのを、この人は飽きずに毎日見てる)
ちょうどよく収まる大きさの木の寝台に横たわり、ヴィヴィは肌触りの良い毛布にもぐって身体を丸める。
そして好きで見たいわけではないけれども、警戒は緩めずにレオカディオの意味もなく美しい顔をじっと見つめた。
レオカディオはいつものように大きな手を伸ばして、ヴィヴィのくせのついた赤髪を撫でる。
「明日は朝早くに用事があるから、早く寝よう」
髪から手を離すと、今度は毛布がずれないようにそっと押さえて、レオカディオは微笑んだ。
しかしその金色の瞳ににじむ感情は純粋な優しさではなく、冷たい悦びが宿っていることをヴィヴィはよく知っている。
「それじゃ、おやすみ。ヴィヴィ」
レオカディオは燭台の炎を吹き消すと、自分も寝台に横になった。
「……おやすみなさい」
お互いの表情がわからなくなった薄闇の中で、ヴィヴィは返事をして目を閉じる。
女が男に対して果たす役割を、ヴィヴィも知らないわけではない。
だからヴィヴィは、あえて寝所では遠ざかるレオカディオは、自分を馬鹿にして面白がっているのだと思った。
(この人にとって私は対等な人間じゃない別の動物だから、同じ寝台には寝かせないんだ)
毛布の中で諦めに近い怒りを感じて、ヴィヴィは手を握りしめる。
きっと未熟な果実が熟しても、食べずにただ腐るまで眺めるのが、何もかもを手にしているレオカディオの贅沢なのだ。
ヴィヴィは痛いのも苦しいのも嫌だった。
しかしレオカディオが同衾を求めないことにほっとして感謝している自分がいるのも嫌で、いっそ手荒くされた方が心から憎めて楽だったかもしれないと思う。
こうして計算ずくでヴィヴィの心の自由まで奪っていくことができるから、レオカディオは人を動かす戦争が得意なのだろう。
ヴィヴィのようなごく普通の少女には、少しも絆すことができない質の悪さが、彼にはある。
だからヴィヴィは眠りにつけるときを待ち望みながら、レオカディオと寝台を並べて寝るしかなかった。
13 甘くて美味しい
翌朝、ヴィヴィは甘い匂いに鼻をくすぐられて目覚めた。
それは焼きたての菓子の香りであるようだったが、まるですぐそこで誰かが竈で焼いていると思えるほどに濃く感じられる。
(一体、何なんだろう)
ヴィヴィは目を開け、温かい毛布から抜け出て身体を起こした。
そして朝の静かな明るさの中、天幕の中央に置かれた八角形のテーブルに、数え切れないほどの種類の菓子が載っているのを見る。
「……お菓子がたくさんある」
驚きで寝台から立ち上がれないまま、ヴィヴィはテーブルの上を凝視した。
りんごがみっしりと詰まったタルトにふんわりと膨らんだプラム入りのスフレ、輪切りのオレンジを乗せた黒いケーキに木苺や赤すぐりにシロップをかけたサラダなど、テーブルに並んだ皿や器には華やかで美しい菓子や甘味が盛り付けられている。
その唐突な夢のような光景にただ呆然としていると、背後の入り口からレオカディオの声がした。
「驚いてくれただろうか」
ヴィヴィが振り向くと、レオカディオは黒地に黒いビーズの飾りがきらめく 長衣に着替えて自慢げな表情で立っていた。
二人では絶対に食べきれないほどの量の菓子をこの場に用意させることができるのは、将軍として軍を率いているレオカディオの他にはいない。
「どうして、こんなに」
意味がわからないまま、ヴィヴィはレオカディオに動機を尋ねる。
レオカディオはテーブルの前に進み、長い指で皿から一切れのパイを手にとってヴィヴィに微笑みかけた。
「君は食が細いから、甘いものなら食べられるかと思って用意させたんだ」
問いかけに答えると、レオカディオはそのまま手にしたパイを一口食べた。
ヴィヴィがあまり食事をとらないのは食が細いからではなく、戦場で大勢の人の死を前にしては食べられるものも食べれないからである。
しかしレオカディオはそうしたヴィヴィの心の問題は無視をして、清々しいまでに自分勝手な思いやりを押し付けていた。
「ほら、食べてごらん」
レオカディオはパイを一切れ分平らげると、新しい一切れを手にしてヴィヴィに差し出した。
ヴィヴィが何も考えられないまま小さな手を開いて受け取ると、綺麗なきつね色に焼き上がったパイはまだ温かかった。
(だけど理由は何であれ、これは私のためのお菓子なんだ)
傲慢で相手の気持ちを理解しないレオカディオに、ヴィヴィは心を許すことはできない。
しかしレオカディオの愛情が真っ当なものではなくても、自分のために用意された食べ物は無駄にできない。
だからヴィヴィはこくりと無言で頷いて、自分の意思でパイを口に運んでかじった。
花びらの形に重ねられたパイの生地は、ヴィヴィの歯にふれるとさくさくと香ばしい音をたてて崩れて、中からアーモンドの粉で風味がつけられた温かいクリームがとろけ出す。
卵色のクリームは優しく舌を包むように甘く、パイ生地もまぶした砂糖がかりかりに焼けているので歯ざわりよく甘い。
(甘くて、美味しい)
農民であったころには絶対に口にすることはできない繊細な味わいに、ヴィヴィは身体が甘い味を求めるのを拒めず二口目をかじる。
身体に染み渡る砂糖の甘さは辛い記憶をかき消して、ヴィヴィの思考を鈍らせ心を依存させた。
ヴィヴィが権力に屈し、甘い匂いの中でパイを貪るのを見て、レオカディオは長いまつげに縁取られた目を満足気に細めた。
「俺の国の菓子は、美味いだろ」
粉糖がまぶされたビスキュイや真っ白なメレンゲが盛り合わせられた器をテーブルから掴み取り、レオカディオは長い足を組んでヴィヴィの隣に腰掛ける。
レオカディオは暴力に近い甘さと美味しさで、ヴィヴィの人生を捻じ曲げていく。
その力が取り返しのつかない破壊をもたらすものだとしても、ヴィヴィはもう飢えたくはないし、何も奪われたくはない。
だからヴィヴィは奪われる前に、自分に残されたものすべてを手放すことにした。
「はい。ありがとうございます、レオカディオ様」
ヴィヴィは生地のかけらを口につけたままたどたどしく微笑んで、以前からレオカディオに求められていた感謝の言葉を初めて口にした。
それはヴィヴィが自ら誇りを棄てて、レオカディオの寵姫であることを認めた証である。
(だって頑張ってもどうせ無駄なら、私は美味しいものを食べて生きたい)
ヴィヴィはテオや死んだ父や姉のことを考えたくなくて、神や聖女の偶像に似て端正だけれども、残忍な微笑みを浮かべているレオカディオの顔を崇めるように見つめた。
自分も菓子を食べながら、レオカディオはヴィヴィを面白そうに観察している。
自分は弱く、彼は強い。
そうした不平等だからこその愛を、ヴィヴィは受け入れることにした。
「私は甘いものが好きなので、嬉しいです」
気づけばヴィヴィは、媚びてねだるような声で話していて、自分からレオカディオの身体にすり寄っていた。
もしかすると拒絶し続けた方がレオカディオには飽きられず、結果的に長く大切にされるのかもしれないが、ヴィヴィにはもう何が正しいのかはわからない。
しかし何もわからないヴィヴィでも、見て見ぬ振りをして、破壊や殺戮から目を背けることはできた。
「やっと俺に、感謝してくれたね」
レオカディオは嬉しそうに笑って手についた粉糖を払うと、身を寄せるヴィヴィの細い腰を抱いた。
夜が朝を支配するように、レオカディオの漆黒の 長衣が、ヴィヴィの明るい黄緑色のドレスの上に重なる。
レオカディオの体躯はヴィヴィよりもずっと大きく力が強かったが、ヴィヴィの肩はもう震えてはいなかった。
「ここにあるものはすべて、好きなものを好きなだけ食べればいいからな」
優しく残酷な方法で慈しみ、レオカディオはそっとヴィヴィの耳元にそっと囁いた。
金や銀よりも価値があるかもしれない砂糖の甘く儚い贅沢さが、わずかな誇りの代償にヴィヴィに与えられたものだった。
そしてレオカディオは小さな菓子と同じようにヴィヴィのやせた頬を掴んで、ヴィヴィの口についたクリームを舐めて本当に甘い口づけをする。
(これで私は全部、この人のものなんだ)
ヴィヴィはレオカディオの手の冷たさとくちびるのぬくもりを感じながら、胸の奥に重いもの感じた。
戦場に置かれた朝日が差し込む天幕の中にいる、ヴィヴィに聞こえる音は不思議なほどに静かで、レオカディオの顔は近すぎてよく見えなかった。
その目の冴える明るさに目を瞬かせ、ヴィヴィはレオカディオの腕の中で祈った。
(せめて、皆を殺した男たちが全員、不幸に死んでくれますように)
略奪者たちの破滅を祈ることが、殺戮から目を背けたヴィヴィにできる唯一のことだった。
どこかの港町の領主はレオカディオが差し向けた軍勢に怯えて自害したと、兵士たちが話しているのをヴィヴィは聞いた。
強大な敵を前にしても、領主や王のような偉い人々は生きるか死ぬかを選ぶことができるし、金持ちの商人ならお金を使ってどこへでも逃げていける。
だがヴィヴィのような貧しく身分の低い人間は、どこで生きて死ぬかを決めることはできない。手足があってもより強い力で押さえつけられる存在であるヴィヴィは、自分の身体さえも自由に動かすことはできない。
だからヴィヴィは、侵略者たちが不幸になることを祈った。
かつて村にいたときは特別信心深いわけではなかったが、今は熱心に神に祈った。
しかし好きか嫌いかに関わらずレオカディオに頼る必要があるヴィヴィは、彼の死は願うことはできなかった。
(いなくなったら私が困るから、この人は死ななくてもいい)
ヴィヴィは目を閉じ、小さな手でレオカディオの服を握った。
憎み続けることを諦めて正直になってみるとおそらく、ヴィヴィはレオカディオに恋をしていた。
それは今はまだ、淡い恋である。
しかしヴィヴィが努力して恋を実らせ、永遠に愛されたとしても、レオカディオとヴィヴィの間にある不平等な力関係は変わらないと、それだけは最初からわかっている。
だから弱者は弱者らしく、与えられるものはすべてもらおうと決めて、ヴィヴィはレオカディオの身体を強く抱きしめ返した。
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