【短編小説】少女は宴の夜に死ぬ/北の国の章(後編)
10 天空と大地と
帝都に到着したその日の夜は、ルェイビンが用意した帝国の羊料理のご馳走をたらふく食べて、ラーストチカは寝た。
そして翌日、これまた豪華な鮑入りの白粥の朝食の時間があった後、ルェイビンは約束通りラーストチカを皇城の敷地に建てられた巨大な楼閣へと連れて行ってくれた。
そこは何層にも庇を重ねた八角形の楼閣で、頂部には青銅の飾りが付き、瓦葺の黒い屋根の四隅には鐘の形をした金色の鈴がそれぞれ揺れている、立派で華麗な造りの場所であった。
また各階の軒下には透かし彫りの格子状の欄干が巡らされ、外に出て眺めを楽しむことができるようになっている。
「こんなに高いところに立つのは初めてです」
「そうか。それは良かった」
冷たく凍った空の風に赤いドレスの袖をはためかせて、ラーストチカは欄干の縁を握り最上階から帝都を見下ろす。
ルェイビンはその後ろでただ立っていて、はしゃぐラーストチカを前に興味なさそうにしていた。
(だって人も家も、あんなに小さく見える)
同行者の無関心も寒さも気に留めず、ラーストチカは全てが玩具のように見える澄んだ青空の下の眺めを楽しんだ。
建物と建物の間を升目状に規則正しく延びる路に、大勢の人や馬車で賑わう大通りに建てられた鐘楼や寺院などの巨大建築、巨大な内港の池に浮かぶたくさんの商船など、楼閣からは帝都の全てが一望できる。
また正方形に都を囲む城壁の向こうには、ゆったりと赤土を流れてやがて帝都や皇城の内部へとつながる運河や、山頂を雪に覆われた雄大な山脈なども見えた。
(私はあの大勢の人の中の一人じゃなくて、空からそれをみることができる特別な一人なんだ)
街で蟻のように働いている人々の姿を、ラーストチカは不思議な万能感のある気持ちで見下ろした。
帝都の街に並ぶ巨大な建築の、そのどれよりも高くそびえる皇城の楼閣の上に立ち、ラーストチカは神や王になったかのような気分になった。
故郷ではいつも広すぎる大地から空を見ることしかできなかったラーストチカは、自分がそのいつも見上げていた天空に近い場所に立っていることに感動する。
最上階まで階段を上がるのには骨が折れたが、どんな苦労だって忘れられるくらいに一生で一番に素晴らしい眺めだとラーストチカは思った。
「私、最初にこの都を見たとき、これは巨人が作った場所なんだろうかと思ったんです」
欄干から身を乗り出したまま、ラーストチカは後ろにいるルェイビンに話しかけた。
この夢見がちなラーストチカの問いに、ルェイビンはとても現実的な答えを返してくれた。
「この国に巨人はいないが、おそらく建築技術はお前の国よりもずっと進んでいるからな。国土が広く豊かだから、集められる人や資材が豊富なのも間違いないだろう」
ラーストチカにとっては夢のように不思議な光景も、ルェイビンにとっては見慣れたあたり前の風景でしかない。二人は同じものを見ていながら、まったく別の景色を目に映している。
だからラーストチカは振り向いて、あえてさらに夢みたいなことを言ってみた。
「おとぎ話で塔に閉じ込められたお姫様の見る景色も、これくらい高くて遠い眺めなんだと思うとわくわくしませんか」
遥か高い青空を背に、ラーストチカはルェイビンに微笑みかける。
高い塔に閉じ込められた美しい姫君が白く大きな鳥の力を借りて魔女の呪いから抜け出す物語は、ラーストチカの故郷の子供がよく聞かされる物語だった。
「そう思うやつも、いるかもしれんな。だがお前は囚われの姫君なんかじゃなくて、望んでここに来たんだろ」
ルェイビンは突き放した表情で受け答えながら、ラーストチカが悲劇の姫君ではないことをやんわりと指摘する。ラーストチカが率先して喜んで公女の身代わりになっていることも、ルェイビンは見抜いていた。
「いいえ。私はこの国に、泣く泣くむりやり連れて来られたんです」
肯定はしたくないが普通に否定するのも格好悪いと思ったラーストチカは、わざと悲しそうな表情をしてみせる。
その滑稽さにルェイビンは、かすかに笑みをこぼした。
「お前は嘘ばかり言うな」
冷たく感心した様子で、ルェイビンが言い捨てる。ルェイビンは多分呆れて、ラーストチカを馬鹿にしていた。
どうせ話は通じないだろうと思ったが、ラーストチカはせっかくの機会なので自分の意見を述べてみた。
「真実や事実が、そんなに良いものなのでしょうか。私はどうでもいい現実に生きるくらいなら、夢の中に生きたいと、そう思います」
ラーストチカは手を後ろで組み、丁寧な言葉で想いを打ち明けた。
するとルェイビンは目を細めて、思ったよりも真面目になって顔でつぶやいた。
「そうか。俺はひどい悪夢よりは、つまらない現実を選びたいがな」
その声には、どこか諦めた響きがあった。
もしかするとルェイビンは何か辛い選択をしたことがあるのかもしれないと、ラーストチカは察する。
興味がないと言えば、嘘になる。
しかし自分がわかる答えが返ってくる気がしないので、ラーストチカは何も聞かなかった。
◆
ラーストチカは景色をたっぷり堪能してから、ルェイビンと二人で楼閣を降りた。
階段の最後の段を下り終えたのはちょうど正午のころで、朝食をしっかり食べたラーストチカも小腹がすいていた。
楼閣の周辺に設けられたちょっとした庭で、ラーストチカはルェイビンの方を向いた。
「軽く何かが食べたいですね。夕食が食べられなくなるのは嫌なので、量はそれほどなくていいんですが」
「要するに、軽食だな」
ラーストチカが遠慮なく食事の希望を伝えると、ルェイビンは嫌々承諾した。
そのルェイビンにまたさらに、ラーストチカは要求を突きつける。
「あとはついでに、あなたが料理をしているところが見てみたいです」
別にどうしても厨房が見たいというわけではなかったが、ルェイビンがきっとより嫌がってくれると思ってラーストチカは頼んだ。
ルェイビンはやはり顔をしかめたが、ラーストチカの頼みを断るということはなかった。
「わかった。じゃあ、ついて来い」
そっけない返事で答えて、ルェイビンは饗花宮の方へと歩き出す。
ラーストチカはその後ろを、言われた通りについて行った。
11 ある昔話
饗花宮につくと、ルェイビンは裏口に回ってラーストチカを厨房に入れた。
「ここがあなたの職場なのですね」
ラーストチカは料理をするためだけのその空間を、新鮮な気持ちで見回した。
饗花宮の厨房は居住部分とは別の火災の心配の少ない磚造の舎屋にあり、調理台や大窯が並んだ舎内は質素だが広々としている。
竈の前ではルェイビンの下役らしい少年が火の番をしながら芋の皮を剥いていたけれども、ルェイビンとラーストチカがやって来ると姿を消した。
ルェイビンは簡素な作業用らしき椅子を用意してラーストチカを座らせた。
そして生成りの木綿の前掛けをつけ、水瓶の水で手を洗って厨房に立つ。
「今から作るから、ここで待ってろ」
「はい、楽しみにしてますね」
ラーストチカは明るい声で返事をした。
調理台を挟んで見えるルェイビンの広い背中には妙な安心感があって、不思議と必要以上に格好良く見える。
まずルェイビンは竈の火で熱くなっている焜炉に、作り置きのスープを入れた鉄の小鍋と水を注いだ大鍋を置いて温めた。
そして鍋を温めている間に手際よく庖丁で葱と香菜を切って、にんにくをむいてすりおろす。
厨房には干し肉や玉葱などの様々な食材が吊るされたり瓶に入ったりして並んでいて、いつでもすぐに食事を用意できるように常に何かしら仕込んであるようだった。
(このいい匂いは多分、牛肉のスープかな)
ラーストチカは姫君らしく姿勢よく座りながら、ルェイビンが温めている小鍋から広がる匂いをかいでより一層期待して待った。
やがて大鍋に入れたお湯が沸くと、ルェイビンは小麦粉を練ったような生地をどこからか出してきてまな板に載せた。
そしてルェイビンはそのまな板を左手に、変った形に曲がった小刀を右手に持ち、生地を薄く削ぎ落として次々にお湯に投入した。
ルェイビンの握る小刀が滑らかに素早く生地を削いで麺にする様子に、料理に深い造詣があるわけではないラーストチカも思わず見惚れて目を奪われる。
(あれが彼の、料理をする姿)
吸い込まれるようにルェイビンを見つめて、ラーストチカは吐息をもらした。
小刀はまるで音楽を奏でるように気持ちの良い音を立てて、細長く削がれた白い生地は美しく宙を舞って煮えたぎる鍋に落ちる。
それはきっと長年の熟練がなければ出来ないであろう職人の技で、ラーストチカは自分も最後はそうやってルェイビンに料理されるのだと思うと妙に感動してしまった。
(私が死ぬときも、あの生地みたいに綺麗に切ってもらえるんだ)
生地から麺を削ぐルェイビンの姿は、いつまで眺めていても飽きなかった。
しかしラーストチカがうっとりしているうちにルェイビンは削ぐ作業を終えて、薄く細長い麺はすぐに茹で上がって手付きのざるに上げられた。
そしてルェイビンは茹で上がった生地を温まったスープに入れ、葱と香草を載せて器に移した。
「できたぞ」
ルェイビンは、湯気の立つ椀をラーストチカが座る椅子の前にある調理台に置いた。
黒い椀に入っているのは白濁した牛骨のスープに浸かった平たい麺で、その上には細切りの葱と香菜が緑の彩りと香りを添えている。
それはラーストチカがまったく知らない異国の料理だったが、見た目も香りも食欲をそそった。
「ありがとうございます。いただきます」
ラーストチカは笑顔で受け取って、箸と呼ばれる二本の金属の棒を手にした。ナイフとフォークで学んだテーブルマナーは、さっそく役に立っていなかった。
(この箸っていうものは、こう持つんだったかな……。まあ知らないものはしょうがないし、間違っていてもいいか)
開き直って堂々と適当に箸を手にしたラーストチカは、牛骨の出汁の匂いがもうすでに美味しい気がする湯気を吸い込み、麺を掴んで音を立ててすする。
するとつるりと茹で上がった熱々の麺が濃厚なスープを絡めて口の中に運ばれ、噛めば歯切れ良く小麦の風味をラーストチカに味わわせた。
(これはスヴェート公国には、全然なかった美味しさだ)
ラーストチカは文化の違いの感じながら、異国の料理を興味深く頂いた。
麺もスープも熱いので、ラーストチカは口の中を火傷しないように冷ましながら食べなければならなかった。
隠し味にスープに投入されたすりおろしたにんにくが味に深みを与える一方で、シャキシャキとした葱と香りの強い香菜が時折口をさっぱりさせる。また塩気のある生地の麺は縮れてしっかりとした食感があり、小麦の味はほのかに甘く優しい。
その厳選された素材の調和は一品で完成していて、他の何もなくても美味しかった。味わえば味わうほどに、ラーストチカはルェイビンが料理人として確かな腕を持っていることを理解した。
(スープを飲んでも、出汁の味が身体に染み渡る気がして美味しい)
ラーストチカはするすると麺を食べ終えると、牛の旨みの溶け込んだスープを飲み干して一息をついた。
「とても、満足しました」
胃に心地のよい温もりと重みが広がって、幸福感に包まれる。
やや味が濃い目の品だったが、ラーストチカが軽食として望んだ通りに多すぎず少なすぎないほどよい量だったので、飽きずに余すところなく完食することができた。
「そうか。他に欲しものがあれば、また言え」
ルェイビンはラーストチカの傍らに立って食器を下げながら、少し誇らしげに言った。ルェイビンは就労意欲が特別あるわけではなさそうだが、料理人としての実力への自負はそれなりにあるようだった。
しかしラーストチカはルェイビンに得意分野だけで勝負させようとは思わなかったので、食後には別のことを望んでみた。
「食べ物はこれで十分なので、何か面白い話をしてくれませんか」
ラーストチカがごく普通に無茶を振ると、ルェイビンは再び苦々しい顔に戻った。
だがそれでも庖厨官であるルェイビンは、犠妃であるラーストチカの頼みを断らなかった。
「……じゃあ、おとぎ話でいいか」
「はい。そういうのでお願いします」
おとぎ話こそ一番に好きなラーストチカが期待に目を輝かせると、ルェイビンはラーストチカの近くに置いてあった大きな木箱に座り、手短に、しかし丁寧に話し始めた。
「昔、雪が降る寒い国の城にたいそう美しい姫君がいた。姫君は城で働く屠殺人に恋していたが、身分違いの恋だから諦めて、他の国から招いた王子と結婚して平和に暮らしていた」
語られているのは、本当にどこかのおとぎ話だった。
ルェイビンの声は普段の声とは雰囲気が少々違って、どこか角のとれたやわらかさがあった。
恋や愛の話をルェイビンがしているのを聞くのは新鮮で、ラーストチカはほのかな甘酸っぱさを感じとる。
「しかしある日、その国の城に野蛮な敵国の軍隊が攻めてきた。敵兵の強さに王子も逃げだしたから、姫君の国は負けるしかなくなった」
ルェイビンは、必要最低限の概略だけを語る。
その急展開に驚きわくわくしながら、ラーストチカは耳を傾けた。
(これは、ひどい目にあうお姫様のお話なんだ)
物語が陰鬱な展開を見せても、ルェイビンは粛々と話していた。
それが返って、その姫君の置かれた状況の悲しさを際立たせた気がした。
「姫君は敵兵に殺されるくらいなら恋していた屠殺人に殺されたいと願い、屠殺人に自分の肉を捌いて料理するように頼んだ。そして屠殺人は姫君の願いを聞き届け、姫君を屠殺し美味しい品々に料理した……。この屠殺人というのが、俺の先祖だという話だ」
思ったよりも短く残酷な恋物語だったおとぎ話を終えて、ルェイビンは話し慣れていなさそうな様子で頭をかいた。
ラーストチカはすっかり心を奪われた気持ちで、その内容を心の内で反芻した。
(ルェイビンのご先祖様には、そんな由緒が)
自分とルェイビンもまたそのおとぎ話の一部になった気分になって、ラーストチカは恋をしていないのに恋したような心地になった。
ルェイビンは帝国を統べる大帝に仕える料理人である。
だから今話された物語はひとつのおとぎ話である一方で、実際にあった出来事が含まれている可能性が十分にあった。
「とても素敵なお話でした。その屠殺人も姫君のことを愛していたから、願い事を叶えてあげたのですね」
「いや、その男は自分の職務に忠実に、仕事をしただけだと思うが」
ラーストチカはこれまで以上に純真無垢な公女になりきって、自分が思ったことを言った。
だがルェイビンはおとぎ話の屠殺人と同じ立場にいる者として、夢も希望もなくあっさりとラーストチカの考察を否定する。
「それじゃあ、おとぎ話じゃなくて現実じゃないですか」
頬を膨らませ、ラーストチカは隣に座るルェイビンと距離を詰めて言い返した。
ラーストチカはきっとルェイビンは、自分を避けて冷たいことを言うのだと思った。
しかしルェイビンは側に寄って来たラーストチカを遠ざけることなく、先程まで小刀を握っていた硬い指で少女の頬に触れた。
「……おとぎ話なら俺は、お前と恋に落ちるんだろうが」
ルェイビンはラーストチカに視線を注いだまま、問いを打ち消すようにつぶやいた。
それは甘い言葉に聞こえるけれどもどこか乾いた響きで、ルェイビンの行動は彼の想いを反映していないことを語っている。
絶対にルェイビンは、ラーストチカのことを好きになることはないはずだった。ルェイビンはそういう、男女の情に欠けているように見えた。
しかしルェイビンはその時々で変わる主に仕える存在であるので、今は犠妃であるラーストチカの意志に全て従っていた。
ラーストチカはルェイビンの切れ長の黒い瞳を見つめ、好意ではなく、どちらかというと好奇心で答えた。
「では、試してみましょうか」
「お前がそれを望むなら」
ラーストチカが仮初の恋をしてみることを選ぶと、ルェイビンは無表情なままラーストチカの頬から首を撫でて、もう片方の手でその先の赤い袖を掴んだ。
主であるラーストチカが願えば、ルェイビンは絶対に拒まないし逆らわないのであった。
12 恋ではない何か
それからルェイビンはラーストチカを饗花宮の中にある寝室へ連れて行って、長い時間をかけて口づけをした。
結果的にルェイビンとの口づけは、先ほど食べた牛骨のスープの匂いがわずかに香るものになった。
ルェイビンはそう小柄でもないラーストチカを軽々と抱え上げ、綺麗に整えられた髪やドレスを気にも留めずに身体に触れる。
抱き上げられたラーストチカもまた白くなめらかな腕を伸ばして、ルェイビンの鍛えられた背中や首を指でなぞった。
甘苦い息苦しさの中で、体温と鼓動をより強く感じる。きつい抱擁にかき混ぜられ、今る場所もわからなくなりそうなのに、どこかに冷静な自分がいた。
(私は一応大帝に嫁ぐ妃のはずなんだけど、神様に捧げる供物に手を出してもこの人は困らないのかな)
ルェイビンの硬いくちびるに口を塞がれながら、ラーストチカは薄く目を開けてその青い瞳に男の姿を映した。
宴のその日まで大帝と接する機会はないとはいえ、ラーストチカは王の花嫁となる身なのに、その臣下の男と恋人同士のように睦み合っている。
あらためて考えてみると少しおかしな状況だとも思ったが、しかし途中でその行為を止める理由はなかった。
(だってそう、料理人は素材の味を確かめるものでもあるし)
強引に、ラーストチカは大雑把で雑な納得をする。
ルェイビンの腕はラーストチカとは別の生き物のように太く鍛えられていて、身体もラーストチカが知っている異性よりもずっと大きくて力強かった。
まるでおとぎ話の野獣との口づけのようだとも思ったが、魔法はとけることはなく、ルェイビンとラーストチカはそのままの姿でそこに在り続ける。
やがてルェイビンはくちびるを離して、火にかけた鍋の中身を見るときと同じ具合で、腕の中のラーストチカの反応を見た。
ぼんやりとしているような、冴えているような、ラーストチカははっきりしない気分のままでいる。
ラーストチカは自分とルェイビンのことではなく、遠い昔の姫君と屠殺人の物語のことを考えていた。
「さっきのお話。お姫様のことを愛していた屠殺人が殺すふりをして逃してあげたとか、そういう続きはありませんか?」
食むようにしてルェイビンの耳に口を近づけ、ラーストチカは小さな声でふと思いついたことを尋ねた。
するとルェイビンは大きな手でラーストチカの頭を掴んで撫でて、低い声でささやいた。
「それは、おとぎ話がすぎるだろう」
ルェイビンはラーストチカの望みには従ってくれるけれども、決して同意はしない。
最後は人が死んで終わる現実についてしか、ルェイビンは語る言葉を持たないのだ。
だがラーストチカは、死を望んだ姫君が生き延びてしまうような結末こそが、現実であるような気がしていた。
(恋した屠殺人に自分の肉を捌いてもらったお姫様の方が、よっぽどおとぎ話が過ぎると思うけど)
ラーストチカは心の中では言い返したが、声にはせずにルェイビンの腕の中で身体を丸めた。
結局のところ屠殺人に殺された姫君の物語はおとぎ話であり、本当の想いも、現実に起きたことかどうかも、誰にもわからなかった。
(私とルェイビンだって、全部説明できるわけじゃないからね)
ラーストチカは目を閉じ、かえって一人でいる気分になって、ルェイビンの身体の温もりに全てを預けた。
ただの戯れから始まったものだから、くちびるを重ね見つめ合ったとしても、ラーストチカとルェイビンの得たつながりは純粋な愛にはきっとならない。
しかし二人の間には、生殺与奪だけでは説明できない、特別な何かがあるはずだった。
13 結末への期待
ラーストチカはそれからの残りの日々を、ルェイビンに皇城の敷地を案内させたり、大嘉帝国の様々な話を聞いたりして過ごした。
またルェイビンの手が空いていないときには皇城内にある衣裳部屋での試着を女官に頼み、世界中から集められた服を着て装飾品を合わせた。
何十個もの宝石を手にとって見たラーストチカが、皇城には他にあといくつの宝石があるのか尋ねると、年若い女官は困った顔をしてこう答えた。
「兵士たちが奪ってきた財宝が多すぎて、どこに何がどれだけあるのか、私たちにもよくわからないのです」
ラーストチカが触れることができたのは、帝国が得た富のほんの一部でしかない。
皇城はそこで働く人間も迷ってしまうくらいに広く様々な建物があり、誰も数え切れないほどにたくさんの物がある。
だから七日間ではとても見きれないし、見ていても飽きなかった。
(死んだらもう、続きは見えない。でも別にもっと見たかったとか、知りたかったとかとは思わないかな。だって私はお姫様として、生きるためじゃなくて死ぬためにここに来たんから)
藍色に金製の星の飾りを散りばめた、夜空を模した半球状の大きな天井のある部屋に一人で立ち、ラーストチカはいくつもの候補の中から選んで身につけた薄青い石英のブローチの光を楽しむ。
いくつかの小さな採光窓しかないその場所は昼でも夜のようにほの暗く、ラーストチカの着た銀色の流れるような布地のドレスは、雲間の月に似た美しさで薄闇に浮かび上がった。
わざわざ人払いをして女官を遠ざけているので、無駄に広い暗室はかつて故郷で一人閉じこもっていた納屋と同じくらいに静かで、しかも絶対に邪魔が入ることはない。
だからラーストチカは好きなだけ安心して、自分の考えたいことについて考えることができた。
(私はお姫様として、ルェイビンに殺してもらえる。そうじゃなかったら、私が困る)
用途はわからないが美しい部屋の、金と泥藍でできた偽の空を、ラーストチカはルェイビンの着る鴉青色に重ねて見上げる。愛し合うふりをした一昨日のルェイビンの目は冷静で、その手は熱かった。
実はルェイビンは善良な人間で、屠って捌くふりをしてラーストチカを逃してくれる、という物語もそれはそれで綺麗だろう。
しかしラーストチカは、どうしてもルェイビンが本当に人を殺して料理する人間でいてほしかった。
可愛そうな境遇の少女に同情して逃がしてしまうようなつまらない男なのではなく、簡単に人の命を奪って食材として扱うことができる、特別に冷酷な男であってこそ、ルェイビンは姫君になったラーストチカの最期の相手にふさわしい。
だからラーストチカもまたその特別に釣り合った人間でいられるように、生贄として化け物に食べられる瞬間が近づいても、怖がることなく殺される運命に望む。
(私はもうすぐなれるはずだから。儚く綺麗なまま可哀想に死ぬ、つまらない人生を生きなくてもいいおとぎ話のお姫様に)
ラーストチカは一人薄闇の中で両手を合わせて、ルェイビンに殺されて終わるそのときを心ときめかせて待っている。
残酷な運命によって命を奪われる姫君として最期を迎えることで、誰よりも特別で尊い存在になること。
それがラーストチカの望みであり、夢であった。
14 魔法にかけられて
そして迎えた七日後の最後の晩餐の夜。
ラーストチカは衣裳部屋で様々な服を試して見つけた、最高に姫君らしい装いで食堂に向かった。
健康的な肉付きの身体をきらびやかに包むのは刺繍入りのサテンとビロードを使った真っ白なドレスで、腹部はコルセットで細く締め、二重に重ねて広げたスカートの引き裾が優雅で美しいシルエットのものである。
胸元には幾重にも連ねた粒ぞろいの真珠のネックレスが揺れ、紅玉をはめ込んだ銀細工がドレスを飾る。
さらに編んで結い上げた豊かな銀髪は小さな宝石を散りばめたヘアネットとヴェールで包み、色白でそれなりに華のある顔は大人っぽく要所を抑えた化粧をしてもらった。
(結構、似合ってるんじゃないのかな)
幼いころから思い描いていた通りの華やかな衣裳を着た高貴な自分の姿を鏡で見て、ラーストチカは上機嫌になった。
そしてつやつやとした赤いエナメル革の靴の履き心地を楽しむように歩いて、衣装部屋を出る。
ドレスのコルセットは少々きつかったが、その締め付けられる感覚も自分を自分ではない何かにしてくれるような気がして心地が良かった。
こうしてすっかり浮かれた調子のラーストチカを、案内役の年若い女官はあくまでも粛々と誘導した。
「こちらが、晩餐をご用意した部屋でございます」
女官は魚と流水の文様が彫られた扉を開けて、ラーストチカにお辞儀をした。
中庭を囲む渡り廊下は夕闇の中にあって、部屋から漏れる明かりが行き先を照らしていた。
「ご案内、ありがとうございます」
ラーストチカは女官にお礼を言って、食堂に入った。
外は夜気が突き刺すように寒かったが、中の室内はいくつもの燭台によってまぶしほどに明るくなっていて、火炉によって全体が暖められていた。
部屋の中央に置かれた円卓には真っ白なテーブルクロスが敷かれ、その上にはさらにまた華燭が燦爛と光り輝いている。
そして円卓の横には、普段通りの鴉青色の服を着た仏頂面のルェイビンが立っていた。
「今日がお前の最後の晩餐だから、お前の国の形式でお前の国の料理を用意してある」
ルェイビンはぶっきらぼうに、円卓の上に置かれた銀食器を指し示した。
そこに並んでいるのは箸という名の二本の棒ではなく、ラーストチカが半年間正しい使い方を学んだナイフやフォークである。
「わざわざのお気遣い、いたみいります」
ラーストチカは習った作法をやっと活かせることを内心とても喜んで、ルェイビンがひいてくれた椅子に座った。
卓上にはまだ何の料理も載っていなかったが、一旦部屋を出たルェイビンが戻ってくるとまず最初の一品目が置かれた。
「お前の国では、こうして食べさせたい順番に料理を運ぶそうだな」
そう言ってルェイビンが持ってきたのは、銀色の薔薇のように丸めて盛りつけられたニシンのマリネと野菜のピクルスの飾り切りだった。
「これは全部、食べてもいいものなのですか?」
「食べてもいいに決まっているだろう。お前のための料理なんだから」
あまりに綺麗で手が込んだ料理だったので、ラーストチカはもしかすると食べられない飾りが混じっているのかもしれないと思って尋ねた。
しかしルェイビンは馬鹿馬鹿しいことを訊くなといった様子で、ラーストチカにさっさと食べ始めることを勧める。
「ではお言葉に甘えて、いただきます」
目の前にあるものが本当に全て食べ物だとわかったラーストチカは、手を組んで食前の祈りを済ませてすぐにフォークとナイフを手に取った。
そして薄く食べやすい大きさに切り揃えられ巻かれたニシンの身にフォークをぷつりと刺して、口に運ぶ。
そっと噛むと舌の上に広がるその酸味のある甘さを、ラーストチカは思わず黙り込んで味わった。
(ニシンって、こんなに美味しくなる魚だったんだ)
酢で身の締まったニシンのしっかりとした食感を、ラーストチカはよく噛んで味わった。
寒い日に暖かい部屋で冷たいマリネを食べるのは、また格別の美味しさがあった。
ニシンのマリネは家庭でも作られる料理であり、ラーストチカの実家の食卓にも並ぶ献立だったのだが、今食べているものはそれとはまったく違うものだった。
ルェイビンが作ったニシンのマリネはもっときちんと小骨が丁寧に取り除かれていて食べやすくて、味付けも胡椒や香草が使われた複雑な風味がある。
淡泊な魚の旨みが凝縮されたその味は、上品なグラスに注がれた透明で香り高いハーブワインともよく合った。
「このニシンはすごく、美味しいですね」
ラーストチカは空のグラスを円卓に置いて、二枚目のニシンをフォークを伸ばした。
「そうか。これ以上に食べたかったら、後で余りを出してやる」
ルェイビンは少し自慢げに微笑んで、再びグラスにワインを満たす。
ニシンだけではなくてキュウリやニンジンのピクルスもよい具合に酢に甘酸っぱく漬かっていて、瑞々しい歯触りが快かった。
こうしてラーストチカは、すぐに一品目の皿を綺麗に食べ終えた。
「次はスープだ」
マリネの皿を下げて二品目にルェイビンが持ってきたのは、小さな人の耳のような形をした小麦の団子が入った真っ赤な色のスープだった。
(これは見たことがないスープだな)
スヴェート公国もそれなりには国土の広い国なので、ラーストチカの知らない料理があるのは不思議ではなかった。
故郷にはない色彩で彩られたスープをじっと見つめて、ラーストチカはまずは目で深皿の中身を味わった。
スープには爽やかな香りのするディルの葉が散らされていて、緑が赤色を引き立てている。
ラーストチカは真っ白なドレスを着ていたので、汚さないように気を付けることにした。
そしてラーストチカは一口目に、スプーンでスープだけをすくって食べてみた。
温かなスープは何かの野菜が溶け込んだ優しい味わいで、赤色はその野菜の色だと思われた。
二口目には、小さな団子を食べてみた。
スープの旨みが染み込んだつるりとした小麦の皮の中には、刻んだキノコや塩漬けのキャベツが入っていて、食感も楽しく食べごたえがあった。
(団子もスープも、全然食べたことがない味だけど美味しい)
自国の味のはずだけど異国の味のように知らないその料理を、ラーストチカは感慨深く堪能する。
赤いスープにはライ麦でできた黒パンも薄くスライスされて添えられていて、ちぎってひたして食べてみると硬めに焼かれたパンの酸味とスープの甘みがちょうど良く口の中で重なった。
ラーストチカは基本的に、美味しいものがない貧しい土地で育った。
だからルェイビンはラーストチカの生まれた国のご馳走を作ってくれているらしいのだが、ラーストチカにとっては何もかもが食べた覚えがない味である。
しかしどの料理もとても素敵なものだったので、ラーストチカはもうすぐ死ぬ前日の夜に、知らなかった味を知ることができた幸運を心行くまで噛みしめた。
「今から肉料理を持って来るが、パンのおかわりはほしいか?」
「はい、お願いします」
パンが足りるかどうかをルェイビンに聞かれて、ラーストチカは悩むことなく追加を頼んだ。
こうしてスープ皿が空になったところで、ルェイビンは肉料理の皿を新しいパンと一緒にラーストチカの前に並べた。
「これはそばの実入りの豚肉の丸焼きだ。ソースはコケモモを使っている」
ルェイビンが軽く説明をした通り、その皿からは香ばしく豚肉が焼けた香りがしていた。
こんがりと炙られ切り分けられた豚肉の真ん中には茹でた蕎麦の実の詰められていて、黒くとろみのあるソースが弧を描くようにかかっている。
「すごく良い匂いのする、お肉ですね」
さっそくフォークとナイフで一口の大きさに切って、ラーストチカは豚肉を食べた。
(うん。いい感じの焼き加減)
ラーストチカは素晴らしく調理された濃厚な豚肉の幸せな味に、舌鼓をうった。
塩胡椒で下味がつけられた豚肉は、皮はパリッと焼けている。その一方で中は赤身も脂身も口の中でほろほろと崩れるようなやわらかさで、滲み出る肉汁も肉そのものであるような気がするほどに濃密な旨味があった。
中に詰められている蕎麦の実は飴色になるまで炒めたタマネギが混ぜられていて甘く、ふっくらとした一粒一粒に滋味が感じられる。
その二つの素材の味をまとめあげるのが、読めない文字のように見事にかかったコケモモのソースだった。その蜂蜜が加えられたコクのある風味は、バターと塩胡椒で焼かれた豚肉と香ばしい蕎麦の実を綺麗に繋げて、ほどよい甘じょっぱさで調和させている。
(この豚肉も、ルェイビンが屠って調理したのかな)
ラーストチカは、厨房で見たルェイビンの姿を思い出しながら、豚肉を美味しく口に運んだ。
食事が他の生き物を殺して食す場である限り、食卓には常に死が隠されていた。
犠妃となった自分にも庖厨官であるルェイビンに殺される瞬間がそのうち訪れるのだと考えると、彼が作った料理を食べるだけでも胸が何かの期待にざわつく気もした。
それはなし崩しにルェイビンと口づけを交わしたせいかもしれないと、ラーストチカは思った。
(だけどルェイビンの料理は、少し美味しすぎるような気もするな)
幸せなはずの心にちょっとした違和感を覚えながら、ラーストチカは傍らに立つルェイビンを横目で見た。
するとルェイビンも、ラーストチカの方を見下ろしてきた。
「何か食べたい料理が、他にあったか」
「いえ、あなたの料理はすごく美味しいなって思ってたんです」
まったく別のことをルェイビンに尋ねられて、ラーストチカはグラスのワインを飲んでごまかした。
(そうじゃなくて、多分、ルェイビンの料理は夢じゃなくて、ちゃんと現実のものだから私は……)
ラーストチカはルェイビンの料理を楽しみながらも、どこか自分の望むものとの間にずれを感じていた。
おとぎ話には、人食いの悪い化け物がいる。人間をスープにして、煮込んで食べてしまう魔女がいる。
ラーストチカもまたこれから、おとぎ話のように煮込んで焼かれて食べられる。
しかしラーストチカを殺して料理するらしい男の料理は、おとぎ話にしてしまうにはあまりにも手が込んでいて繊細で、美味しかった。
そのことについて深く考えれば、もしかすると自分は夢から醒めてしまうのかもしれないと、ラーストチカは思った。
(だけど私は、ルェイビンが語ったおとぎ話のお姫様は、屠殺人に想いが通じたから望んだ通りに殺してもらえたんだって信じてる。たとえルェイビンが信じていなくても)
ラーストチカは、遠い昔に自分と同じ運命を辿ったはずの姫君のことを考えた。
おとぎ話の姫君が幸福だったのか、それとも不幸だったのかは、本当にいるかどうかも怪しい姫君自身以外は誰も知らない。
だがそれでもラーストチカは、自分は絶対に求めたものを手に入れるのだと信じていた。
(スーシャは私に、お前はお姫様になんかなれないって言った。でも私は、こうしてちゃんとお姫様として食事をしている)
豚肉をナイフで切って口に運びながら、ラーストチカは遠く隔てた故郷で別れた幼なじみの少年のことも思い出す。
ラーストチカは姫君として死ぬのを楽しみにして、故郷を離れた。しかしスーシャはラーストチカが異国で殺されるのを許せず、犠妃になることを選んだラーストチカを責めた。
二人の間には、決して埋まることのない深い氷の裂け目があった。
(スーシャが怒っていたのは多分、スーシャは真っ当に現実を見ていたから。だけど私は、おとぎ話に生きていたい)
ラーストチカは物語の中で生きて死ぬことを願って望み、そして選んだ。
だからラーストチカは、ルェイビンの料理の美味しさの裏にある現実には目をつむることにした。
どんな殺され方をするにしても、本物の姫君になることができるのなら、ラーストチカは何をされても構わず苦痛を受け入れる。
嘘を排除してテーブルの上の布の結び目を解けば、主や客人のために用意された食卓は空になってしまう。
だから本当のことについて考えないことにしたラーストチカは、おとぎ話を信じる少女だった。
とろけるようにやわらかい豚肉を飲み込み、ラーストチカは横を向き隣に立っているルェイビンの顔を再び見上げる。
「たとえ恋ではないにしても、私のことを何かしら特別だと思ってもらえましたか」
ナイフとフォークを一旦止めて、ラーストチカはお互い恋ができるかどうか試した結果をルェイビンに尋ねた。
「まあ、少しはな」
ルェイビンは特に何か考えた様子もなく、硬い表情を変えずに答える。
それはささやかすぎる回答である気もしたが、ラーストチカは好意的に受け取って微笑んだ。
「あなたは私の、少しよりももっと特別ですよ」
スーシャもルェイビンも、ラーストチカの信じるおとぎ話を否定した。
しかしラーストチカは、彼らが何も信じていないからこそ、彼らのためのおとぎ話になりたかった。
「きっと私を、素敵な料理にしてくださいね」
ナイフで切った豚肉にフォークを刺しながら、屠殺人に恋した姫君と同じようにラーストチカは頼んだ。
たとえ本当の出来事がどうでもよいことだったとしても、心を込めれば何かしら輝きを与えることができるのだと、ラーストチカは青い瞳に華やかな食卓を映して信じていた。
「ああ、わかった」
ルェイビンはしばらくの間を置いて、ゆっくりと頷いた。
切れ長のその目は、ラーストチカをただ見ていた。
冷たいのか、優しいのか。
面倒なのか、やる気があるのか。
その大きく鍛えられた身体の内にある感情が何なのかは、やはり馬鹿なのかもしれないラーストチカにはわからない。
だが同時にラーストチカは、わかる必要がないとも思った。
ラーストチカは姫君の身代わりであり偽物であるが、ルェイビンに殺されて料理され大帝の宴に捧げてもらえれば、永遠に本物になれる魔法がかかるはずである。
その特別な結末を迎えることができれば、ラーストチカはもう何も求めるものはない。
(だって私はずっと願っていたから。誰かがあの凍土から私を拾い上げて、何もない人生に特別な意味を与えてくれることを)
最初に会ったときからルェイビンは、ラーストチカが偽物の姫君だと気づいていたが、それでも本物として扱い望みを叶えてくれた。
その想いや理由が何であれ、ラーストチカはもてなし続けてくれたルェイビンに感謝していた。
そしてラーストチカは再び、フォークとナイフを手に食事に戻った。
しばらく美味しく食べていると豚肉の皿もパンの皿も空になって、ルェイビンが新しい料理の載った皿を持ってくる。
「このたれは少し辛いから、気をつけろよ」
「ありがとうございます。私は、辛い物も甘い物も好きですよ」
ふっくらと蒸された魚の切り身を前に、二人は料理をする者とされる者としてとして穏やかに話す。
ルェイビンは豚肉の次には、白身魚の蒸し焼きに山わさびのクリームを添えたものを運んできてくれていた。
澄んだ宝石のように照り映えたその一品の輝きに、ラーストチカは瞬きをする。
そうして燭台に照らされた暖かく明るい部屋の中で、ラーストチカは終わりを迎えて眠るその時まで、世界で一番に幸せな食事を続けた。
(これでもまだものたりない気がするのは、きっと贅沢がすぎるよね)
ラーストチカの胸の奥には、透明になりきらない何かが残っている。
しかしその想いに向き合うことは、数々のご馳走を前にしたラーストチカにはできなかった。
15 誰よりも特別な物語
最後の食事を思う存分に味わったラーストチカは、心地よく満たされた気分の中で眠気を覚え、気づけば寝室のベッドの中にいた。
女官に化粧を落としてもらって真っ白な夜着に着替えたラーストチカは、仰向けに寝転がって、金箔で獅子の文様が描かれたベッドを覆う天蓋を見上げている。
疲れて眠くて、布団に溶けて漂うように心地が良いひとときだった。
好きな服を着て脱いで、食べたいものを食べたいだけ食べて、眠くなったらそのまま寝る。
ラーストチカが今手に入れている幸せは、故郷の農村では成せないことばかりである。
思い残すことは何もなく、まぶたを閉じる。
やがてラーストチカは甘く柔らかな肌触りの絹の寝具に包まれて、もう二度と目覚めることがないような気がするほどに重い眠気の中に落ちた。
それは夢も見ないほどに深い眠りだった。
だからラーストチカは、自分が朝を迎える前に目覚めてしまったとき、何かの間違いではないかと驚いた。
「まだ夜なのに……?」
十分に眠ったあとのすっきりと醒めた頭で、ラーストチカは起き上がる。
ベッドの天蓋には薄いレースのカーテンが垂れているので、ラーストチカの視界は暗く白い。
夜明けの気配は遠く、かなりの夜更けであるようだった。
(こういうことって、よくあるんだろうか)
ラーストチカはほの温かいベッドを抜け出し、月明かりが淡く差し込む格子の飾り窓の方へ行こうと内履きを履いた。
過去にこの饗花宮で殺された少女が一人や二人ではないことを、ラーストチカは知っている。しかし知ってはいても、それが何を意味するのかを、考えたことはなかった。
(だけどたくさんいることは確かなんだ。私と同じように、この部屋で眠って死んだ女の子たちが)
最後の最後に時間が有り余ったラーストチカは、今まで考えていなかったことについて考える。
すると昨日までのルェイビンに殺してほしかった気持ちが、不思議なほど急に冷めだした。
(もしかすると私はこの国ではありきたりな人間で、ルェイビンにとっても本当はどうでもいい存在なのかもしれない)
ラーストチカは、自分と同じ境遇の少女が大勢いるのなら、自分は実はそれほど特別ではないのだとそのとき理解した。
犠妃であるラーストチカにとっては、好きか嫌いか以上に、農民でしかない自分を姫君として殺してくれるはずのルェイビンは特別な人である。
しかし庖厨官であるルェイビンにとっては、ラーストチカは何人も殺して料理してきた少女たちの内の一人に過ぎず、その死も単なる日常の一部にしかならない。
だから恋をするふりをしてみたところで、賭けたものの重みが釣り合うことは絶対になかった。
なぜならルェイビンは命を捨てたラーストチカと違って、最初から何も手放してはいない。
その隔たりに気がつくと、ラーストチカは自分がひどくつまらない存在に思えて、面白くなかった。
(特別にしてもらえるなら、ルェイビンの気持ちがわからなくても、殺されても良かった。でもそうじゃないなら、話が違う)
夢がさめる現実に気づいたラーストチカは一人ふてくされて、窓際に立って緋色の漆が塗られた格子を握りしめる。
本当のところは、誰かが犠妃として死ねば望みが叶うと提案したわけではない。勝手に期待していたのはラーストチカであり、他人と同じでは満足できないのもラーストチカだった。
だからこそ割り切ることはできず、願いはどこまでも大きくなる。
(私は何よりも特別になりたい。ルェイビンにとっても、誰にとっても)
窓の外から見える池は広く静かで、夜空を映した暗い水面は月明かりや夜通し灯る皇城の光にきらめいている。
それはラーストチカの生まれた雪深い村にはない、華やかで美しい眺めだ。
こうした知らなかった世界を知ったラーストチカは、自分でわかっていた以上に欲深かった。
このまま死んで全てが終わったとしても、故郷で別れたスーシャはきっと、公女の代わりに生贄として死んだ幼馴染であるラーストチカのことをある程度は大切に想い続けてくれるだろう。
ラーストチカは、それくらいにはスーシャに好かれていた自信がある。
しかしラーストチカは、故郷の地味な幼なじみのちょっとした好意だけでは、十分に満たされて死ぬことはできない。
ラーストチカは、もっと大きな意味がほしかった。
だからこの饗花宮でルェイビンが殺した大勢のうちの一人になってしまっては、ラーストチカの本当の望みは叶わない。
ラーストチカがなりたかったのは、誰よりも特別な物語を生きた姫君であり、ありふれた犠牲者では嫌だった。
「だったら私は、ここを出ていこう」
池を眺めるのをやめ、窓の格子から手を離して、ラーストチカはこれまでとはまったく正反対の決心をつぶやいた。
大勢の少女たちを殺してきたルェイビンにとっての特別な存在にまずなりたいならば、ラーストチカは彼に普通に殺されてはいけない。
けれどもラーストチカは、ルェイビンが優しさや愛しさといった感情を向けてくれることを望んでいるわけではなかった。
ラーストチカは貪欲なので、そんな平凡な特別では納得できない。
(だから化け物に喰われて死んでしまうお姫様が千人いるのなら、私は化け物から逃れて生き残るたった一人のお姫様になる)
ベッドの横に掛けられていた厚手の外套を羽織りながら、ラーストチカは自分が新たに望む未来について考えた。
ラーストチカがこの国にやって来たのは、恐ろしい化け物に殺されてしまう可哀想な姫君になるためであった。
しかし一方で、別のおとぎ話には囚われた塔から抜け出すしたたかな姫君もいることを、ラーストチカは知っている。
本当は偽物であるからこそラーストチカは、自分のなりたい姫君を選ぶことができるはずだった。
食卓の影にある嘘を見て見ぬふりをしても、現実はラーストチカのおとぎ話を否定する。
それならばラーストチカは、違うおとぎ話を生きるのだ。
「これで外に行けるかな」
外套の紐を結び終えたラーストチカは、姿見の鏡に自分を映してみた。
薄闇に銀色の長い髪を下ろして微笑むのは、昨日までとは違う意思を宿した華やかで美しい自分の顔である。
真っ白な夜着はドレスのようにたっぷりとレースをあしらったものであるので、薄青の外套を身に着ければ十分に人に見られても恥ずかしくない可愛らしさだ。
自分の装いがきちんと姫君らしくなっていることを確認したラーストチカは、寝室の戸を音を立てないようにそっと開けた。
外の冷気がラーストチカの頬を撫で、火炉で温められた寝室の空気と混ざる。
ゆっくりと顔を出して確認すると、中庭につながった渡り廊下はしんと静かで、人影はなかった。
(見張りも誰も、いないんだ)
いくつかの早咲きの花を咲かせた庭の梅を眺めながら、ラーストチカは静寂を破らないように気をつけて居館の正門へと続く磚の上を進む。
もしかすると、これまで犠妃に選ばれてきた少女たちは皆自分の立場を受け入れていたから、逃げ出した者は一人もいなかったのかもしれない。
逃げた前例がないからこそ誰も見張りがいないのであり、だからやはり自分は特別なのだと、ラーストチカは都合よく考える。
おそらく本来は夜着に外套で出歩くには寒い夜であったが、凍土で育ったラーストチカにはそれほど問題はなかった。
雲のない空を見上げれば、月は満月で闇夜に白い光が冴え渡っている。
やがてラーストチカは、何重にも屋根を重ね、鮮やかな色彩で塗られた饗花宮の正門の前に立った。
垂れた花を模した飾りがついた軒下も、立派な竜の形をした金の取っ手も、どこを見ても華やかで美しい門だ。
「昔々、世界に精霊や妖精、魔法使いがたくさんいたころ……」
かつて何度も口にしてきたおとぎ話を始める言葉を、ラーストチカは今日またほんの小さな声でつぶやいた。
取っ手の金具を引いて、扉を開ける。
分厚く重い木製の扉なので、さすがに無音というわけにはいかず、ぎぃっと木がきしむ音がした。
それでも人の気配は、近くにはなかった。
扉を開けた音に気づいた誰かがラーストチカを引き戻すのかもしれないし、居館を出ても続く皇城の敷地の中で誰かに捕まってしまうのかもしれない。
またたとえ運良く皇城の外に出られたしても、見知らぬ異国の地ではラーストチカは生きていけないのかもしれない。
しかし何が待っているのかわからなくても、ラーストチカは門をくぐって外に出た。
その瞬間に強く冷たい風が吹いて、ラーストチカの銀色の髪をなびかせる。
風にはためく外套を抑えながら、ラーストチカは白い鳥に乗って囚われていた塔から去っていく、美しい姫君の姿を思い浮かべた。
ラーストチカは、この別の新しいおとぎ話の欠片になる一瞬のために、館を出ていくことにした。
そうすることでラーストチカは、自分だけの特別を極めることができるはずだった。
扉を閉めて、前に進む。
楼閣の上から見えていた皇城の外へと繋がる運河を目指して、ラーストチカは暗い池の周りを一人歩く。
振り返れば星が凍る夜空の下、月明かりに照らされた饗花宮が見えていた。
「これでめでたし、でしょう?」
館のどこかにいるはずのルェイビンの仏頂面に、ラーストチカは問いかけた。
そして夜着の裾を持ち上げ、偽の姫君として学んだ通りに丁重にお辞儀をする。
あとは一度も振り返らずに、ラーストチカは外を目指した。
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