ミンギルとテウォン 4
24 光化門見学
予定されていた行事がすべて終わると、新しく編成されたミンギルとテウォンのいる分隊は、連隊として他の隊とまとめられて羅南駅へと向かった。
街の住民たちが旗を手に歓声をあげて見送る中での行進は華やかで、見目が良いという理由で目立つ場所を歩くことになったミンギルも気分が良かった。
羅南駅からは平壌と羅津を結ぶ平羅線の鉄道に乗って黄海側に出てから、平壌で平釜線に乗り換えて南に向かう。
鉄道に揺られる時間が長い旅であったが、各地の駅では青年団や婦人会が冷たいシッケなどを用意して待っていてくれたので、暑い日があってもなかなか快適に移動することができた。
そしていくつもの山々が車窓を横切っていくのを眺めた先に、目的地の京城はあった。
京城は各地からやって来る兵士が多く目立った歓迎はなかったが、その代わりに厰営地までの移動は少し遠回りをして光化門を見学することができた。
国境での会戦が長引かなかったおかげで華やかな街並みが意外と残っている京城は、近代的な通りは羅南とそう違いがないものの、宮殿や古い伝統家屋が並ぶ場所は古都らしい雰囲気があって長く歩いても飽きなかった。
(そういえばあのファン家の長男も、京城の学校に通っとるって話だったな)
過ぎ去った時代を思い出させる風景に、ミンギルはかつて働いていた地主の屋敷と、その家の後継者であったはずの人物を思い出した。
しかし京城は広く人口が多い都市であるので、ファン家の長男と出会う可能性はほとんどなかった。
ミンギルとテウォンがいる分隊を含んだ列は、今も庁舎として利用されているらしい日帝が建てた巨大な西洋建物の前を通って、景福宮の東側へと向かう。
前方を歩く人の群れの向こうに、それらしき建築物を見つけたミンギルは、指をさして目を輝かせた。
「もしかして、あれが光化門か?」
「俺にはまだ見えんけど、多分そうじゃないか」
小柄なテウォンは、ミンギルが見ているものを見ようと背伸びをする。
そのうちに門との距離が近づいて、二人とも光化門を目にすることができるようになった。
勇壮な稜線を描く北漢山を右手に建てられた光化門は、二重の瓦屋根のついた天高くそびえる宮門で、整然と石が積まれた城壁の大きさは歴史を知らないミンギルも何かを感じる趣がある。
門の前を流れる三清洞川には簡素な石橋が架けられていて、その橋脚の横では白い民服を着た住民の女性たちが洗濯をし、ささやかな笑顔で兵士たちに手を振っていた。
その橋を渡った先にある門の前の広場は狭く、見学しに来た兵士たちが集まるとすぐに混み合ってしまう。
押し合いへし合いになりつつも兵士たちは、小石で門に名前を刻んだり、あちこちを触って登ったりしていた。
「でっかい門のわりに、ここはなんか狭くないか?」
「橋ももっと立派なものにすれば良いのに」
「言われてみると、俺もそう思う」
同じ分隊にいる三人の兵士も、文句を言いながらも楽しんでいる様子で、門を見上げている。
ミンギルとテウォンは他の三人とは少々距離をおいて、二人で人混みの中で手をつないでいた。
「光化門は、本来は景福宮の真正面に建てられたものだった。だけど日帝がさっき見た建物――朝鮮総督府を建てるためにここに移築したんだ」
門の見事な造りとはちぐはぐな素っ気ない周囲の様子の違和感について、テウォンは端的にその理由について説明した。
テウォンの手はミンギルの手に比べるとずっと小さかったが、すらすらと疑問に答える落ち着いた声を聞いていると頼もしい気がして、ミンギルは握る手にほんの少し力を込めた。
「昔の王様も、日帝も米帝も今はもうここにおらんから、こうしておれたちが立っとるわけだ」
光化門を取り巻く風景が侵略者によって捻じ曲げられていることを、ミンギルは別にそれほど惜しいとは思わなかった。古い王国の支配者もただ同じ朝鮮人であるというだけで、おそらくミンギルやテウォンのような低い身分に生まれた者にとってはそれほど良い君主ではなかったはずだからである。
ミンギルのささやかな皮肉に気づいたテウォンは、つないだ手を握り返して微笑んだ。
「確かに俺たちには、王朝時代の威光は必要ないな」
滅んで今はもう意味がないからこそ、憎む必要もなく美しいと思えるものがあると二人が理解したところで、後ろから副分隊長の声がかかった。
「次の人たちのために場所を空けなきゃいけないから、もうそろそろ移動しましょう。他の三人も呼んできてください」
背後には清潔だが印象の薄い副分隊長の姿があって、その隣には腕を組んで黙っているジョンソがいた。
まとめ役をすべて副分隊長に任せたジョンソは、ただ無感動な眼差しで光化門を見つめている。
(黙って立っとるだけで良いなら、おれも分隊長をやれそうな気がする)
嫌味な意味ではなく、本気で自分も出世が期待ができるという意味で、ミンギルはジョンソの仕事ぶりを評価した。
テウォンが他の三人を呼んで戻ってきたところで、七人は今度は厰営地へと歩き出した。
25 日陰と有刺鉄線
共和国が占領して数週間がたった京城は、レジスタンス勢力の抵抗が激しいわけでもなく、市民は歓迎や困惑などの様々な反応を示し混乱しながらも新しい体制を受け入れているように見えた。
そのためミンギルとテウォンのいる分隊の仕事も戦闘を伴うものはなく、毎日は捕虜や反動分子を収監した建物の見張り役で過ぎていく。
農事よりも楽な仕事で一日が終わるのは幸せなことなのかもしれないが、軍人として敵と戦うことに憧れを持ちつつあったミンギルは正直、暇を持て余す日々に拍子抜けしてしまうところもあった。
(この場所に、こんな大人数が必要なのか?)
有刺鉄線でできた柵に囲まれた敷地で、テウォンや他の隊員と一緒に大勢の兵士とすれ違いながら持ち場について、ミンギルは自分に与えられた仕事の意味を疑う。
やるべきことがたくさんあっても、仕事が上手く回らなければ人は余る。それは軍隊でも農村でも変わらず、どうやらミンギルとテウォンは今は余った側にいた。
涼しく過ごしやすかった高地の夏とは違って、八月の京城の空気は湿っていて重く、雲も空も太陽も何もかもが濃い色彩で陰影を作る。
近くに他の兵士はおらず、運良くコンクリート製の建物が作る日陰がある通路の途中が二人の持ち場だったので、ミンギルとテウォンは涼をとって一息をついた。
そしてミンギルは手で額の汗を拭いながら、私語であっても迷わずテウォンに話しかけた。
「そういえば今日の朝の訓示は、何か大事なことを言っとったか?」
「ああ。米軍の捕虜は丁重に扱えって話だったよ」
例にもれずミンギルが半分寝ていて聞いていなかった中隊の訓示の内容を、テウォンはすぐに教えてくれる。
普段ならそのまま別の話題になるところであるが、今日は少々引っかかるところがあったミンギルは、素直な疑問を口にした。
「なんで米帝だけ? 南朝鮮は、同じ朝鮮人の同胞のいる国だろ」
むしろ同胞である南朝鮮軍の捕虜を丁重に扱うべきであって、米帝こそ完全な敵なのだからわざわざ生かす必要はないとミンギルは思う。
しかし国際政治にはいろいろと難しいことがあるようで、テウォンはそのあたりの事情をため息交じりにかいつまんでミンギルに説明した。
「どうも米帝は南朝鮮よりも地位の高い国だから、米帝の人間をひどい目にあわせると国連っていう世界中の国の集まりで責められるらしい。逆に軽んじられてる南朝鮮の同胞の兵士は、どんな扱いでもそんなに気にされないみたいだ」
人と人の間に格差があるように、国と国の間にも格差はあり、目には見えないけれども目の前のことには関わる、その遠く大きすぎる規模の話をテウォンはしていた。
ミンギルは日々様々なことを聞き流しながらも、自分は公正であることを目指す国に属していると考えていたので、テウォンの言っていることの意味がなかなかよくわからなかった。
「共和国はいつも平等って言っとるのに、そんな変なことを気にしなきゃ駄目なのか」
「朝鮮は小さな国だからな。敵を支援する大国を怒らせないことが、生き残るために大事なんだよ」
釈然としないミンギルが批判的な意見を述べると、テウォンは複雑な表情を浮かべつつ、諦観の方向で話をまとめた。
頭の良いテウォンは、理不尽なことを飲み込むための理屈を考えて、反論を我慢して諦め、耐えることができる。
ミンギルは馬鹿なのでそう簡単に納得はできないが、テウォンの正しさを信じて訓示の内容についての話を続けるのはやめた。
会話が途絶えて黙っていると、ミンギルは日陰から一歩先にある暑い風景を眺めるしかやることがなく、だんだんと頭がぼんやりとしてしまう。
(あの有刺鉄線とこのコンクリートの壁と、毎日同じ仕事しかないのが良くないんだ。多分)
冷たいコンクリート製の建物を背後に、地面ごと夏の日差しに照らされた黒い有刺鉄線を見つめながら、ミンギルは背中に汗が流れていくのを感じた。
ミンギルは七面倒臭い政治のことではなく、せめて楽しいことで気を紛らわそうと、京城名物の雪濃湯のことを考えた。
きっとそのうち自由行動を許されて食堂で雪濃湯を食べられる日も来るだろうと、ミンギルはささやかな休暇を与えられる日を待っていた。
26 敵軍の反撃
あとは釜山を占領すれば戦争は終わると八月初頭に聞いてから一ヶ月が過ぎて、暑さは残るものの日差しが和らぎ秋の気配を感じる九月がやって来た。
上層部がどれだけ威勢の良い言葉を並べても釜山は未だに陥落していなかったし、それどころか九月十五日には米軍が仁川への上陸作戦を成功させて、敵の猛反撃が始まったという噂もあった。
だが京城に駐留する朝鮮人民軍の兵士たちは、誰も自分たちに危険が迫っているとは考えていなかった。
なかなか釜山が占領できないという問題はあっても、大局は概ね順調に進んでおり、敵の脅威は遠い南にあると信じていたからである。
周囲とはややずれた視点を持つことがあるミンギルとテウォンも、その点では他の兵士たちと変わらず、自軍が負ける心配をすることなく、ただ自分たちが祖国の勝利にどんな貢献ができるかということを考えていた。
九月下旬に米軍が京城を奪還するための攻撃を始めるまで、惨めな負け戦がすぐそこまで近づいているとはまったく誰も想像していていなかったのである。
だから急降下爆撃機の低く唸るような飛行音と、どこかに落とされた爆弾が街を破壊する轟音がすぐ近くに聞こえ始めたとき、京城にいた朝鮮人民軍の兵士たちはまず恐怖を感じる前に混乱した。
「援軍が来てるから、兵力ではこちらが優位だって聞いてたのに」
「あんなのが爆弾を落とすなら、兵隊が何をしても無駄じゃないか?」
「だけど京城は、何があっても守り抜かなきゃいけない場所だろ」
京城を平和な占領地だと思って働いていた兵士たちは、敵と戦うために京城に来た援軍の兵士と違って、突然始まった戦闘に対応しきれないところがあった。
それでもそれぞれの不安や覚悟を口にしながら、兵士たちは皆自軍が強大な敵に対峙していたことを理解するしかなくなる。
持ち場を離れる命令もなく普段通りの建物の裏に立ちながら、ミンギルとテウォンも楽観的な期待を捨てて言葉を交わした。
「どうせ負けるなら、皆でさっさと逃げたほうが良くないか?」
「他の拠点が態勢を整える時間をここで稼がなきゃいかんから、負けがわかっとっても戦う人は必要なんだよ」
損得の勘定をして軍隊に入っただけであり、国に忠誠を尽くして死ぬ気はさらさらないミンギルは、勝ち目のない危険を察知するとすぐに逃げて生き残るための思考に切り替えた。
しかしテウォンは国全体のための犠牲になる可能性を真面目に受け入れて、役割を果たそうとする。
テウォンほど律儀にはなれなくても、兵隊としての誇りがそれなりに育っているミンギルは、テウォンに本気の反論はしなかった。
「まあおれだって、死ぬ気で戦えって言われれば多少は頑張るつもりはあるけどな」
西の米帝が攻め込んでいる方角の空に広がる黒い煙雲に、ミンギルは苛立ちを込めてため息をついた。
どうやらミンギルが雪濃湯を食べに行く機会がないまま、京城は戦場になってしまったようだった。
背後の冷たいコンクリート製の建物の中からは敵軍の接近に備えて反乱分子を処刑する銃声が時折響いていたが、ミンギルとテウォンのいる分隊は実行係には入ってない。
抗戦の命令も撤退の命令もないまま、敵がすぐそこに迫ってくるのを待つしかないのかと、二人は気をもんでいた。
結局新しい命令を聞くことができたのは、戦闘が始まって着実に米帝が京城を奪還しつつあった数日後の昼である。
副分隊長は米軍が攻撃してる地点から離れた厰営地の営庭の外れに分隊の全員を集めて、今後の予定について話し始めた。
「我が朝鮮人民軍は京城の絶対防衛を目指しつつ、一部の戦力を戦略的に撤退させることを決定しました」
馬鹿馬鹿しいほどに丁寧な語り口で、副分隊長はまず上層部が決めた方針から説明した。
また普段よりも青ざめた顔をした副分隊長と相変わらず無表情な分隊長のジョンソの後ろには、なぜか数人の学生服を着た女学生が立ってた。
皆可愛らしいと言えば可愛らしいのだが、どことなく冷たい印象も感じる表情を浮かべた少女たちは、何となくこちらを馬鹿にしているような視線でミンギルたちを眺めている。
この少女たちは何なのだろうと全員が思っていると、副分隊長がやっと本題に入って少女たちが何者であるかも教えた。
「私たちはこちらの女子義勇軍に志願した勇気ある女学生の方々を連れて京城を脱出し、中隊に合流して議政府を目指して北上します」
議政府は京城のすぐ北にある、山に囲まれた要衝の地である。
副分隊長の声は震えていて、今後待ち受けている本物の戦争が辛く苦しいものであることを予感させる。
しかし戦って死ぬのではなく、逃げて生き延びることを目指す側に選ばれたことに、まずは分隊全員でほっとした。
(だけど、この女子たちも連れて行かなきゃいかんのか)
ミンギルはあまりじろじろと見ないように注意しつつ、女子義勇軍に入ることを決めたという女学生の集団の様子をそっと伺った。
むりやり連れてこられたという雰囲気もなく、不安よりも意欲の方が勝る表情をしているので、おそらくごく普通の兵隊よりもずっと真剣に共産主義を信じている女学生なのだと思われた。
副分隊長の話が終わると、中心人物らしい少女は一歩前に進み出て信頼を求めて微笑んだ。
「祖国のために、私たちも一緒に頑張ります」
言葉の意味だけを考えれば、少女の一言は健気なものであるはずだった。
しかしその話し方は表情と同じようにどこか高飛車で、眼差しには自分勝手さが滲んでいるように見えたので、ミンギルはあまり優しい気持ちにはなれない。
(これは、おれが女嫌いなだけなのか?)
異性によい思い出がないせいで物事の見方が偏っているのかもしれないと、ミンギルは他の人の反応も見た。
テウォンがミンギルと同じように、女学生たちに対して少々引いた態度をとっているのは、想定していた通りのことである。
しかし出征前は都会での異性との出会いを夢見ていたはずの他の三人も、義勇軍志望の女学生には距離を置こうとしているように見えたので、自分の感覚は思ったよりは間違ってはいないのだとほっとした。
また副分隊長も命令をこなすのに精一杯で少女たちに構ってはおらず、分隊長のジョンソは面倒くさげに一瞥しただけである。
女学生たちは周囲の男たちとの関心のずれにまだ気づいていないのか、ただ自分たちの理想を叶えることだけを考えて、知識や教養を詰め込んだ瞳を輝かせていた。
27 破壊の中で
爆撃機が落とす数え切れないほどの量の爆弾の音は絶え間なく不快に響き、戦車砲が放つ青白い閃光がその破壊を照らす。
米軍の圧倒的な火力による攻撃は凄まじく、朝鮮王朝が王権の象徴として造営し、日帝が秩序を捻じ曲げながらも近代化を進め栄えさせた京城の華やかな風景は、すべてが灰と瓦礫になりつつあった。
煙に覆われて晴れていても暗い空の下、ミンギルとテウォンのいる分隊は、女子義勇軍志願者を連れて、電線がもつれて倒れた電柱を避けて市内を撤退のために駆けていた。
石やコンクリートの建物は砂糖菓子のように砕かれて焼け焦げ、木造の家屋は燃えてはじけて崩れている最中の街を横切れば、太陽の光のものとは違う嫌な熱さを感じる。
敵の重火器による掃討が進む街には命令に従って戦っていた兵士だけではなく、逃げ遅れた住民もいて、あちこちに両者の焼けたり捥げたりした死体があった。
建物が壊されて燃える煙の濃さに、人間がばらばらに血を流して焼け焦げる臭いを感じずに済んだのはありがたいことなのかもしれないと、ミンギルの冷静な部分は考える。
(あまりにも酷い状況を前にすると、もう慌てるって感じでもなくなるな)
半歩後ろにいるテウォンの不安や自分の落ち着きを俯瞰しながら、ミンギルは淡々と安全な道を探して先頭を行く分隊長のジョンソの背中について行った。
ミンギルとテウォンは言葉を交わさず、女子義勇軍志願者も、いつもはやや無駄口が多い他の三人も黙っている。
粉塵でざらついた地面を重い軍靴で踏みしめ、米軍の苛烈な攻撃の隙間を何とか縫うようにして、分隊はミアリ峠を目指した。
ミアリ峠は議政府へと続く道につながる分岐点で、ごく普通の移動だけではなく、南の住民を北に連行する際にも使われていた。
心を無にしてひたすらに峠に向かうことだけを考えて動けば、まだ京城が美しい街だったときには古風な建物の背景としてあった山々がしだいに近づく。
灼熱の地獄のような市内からの脱出がようやく叶いそうになって、分隊は緊張を解きそうになった。
だがちょうど後ろからついて来た女子義勇軍志願の女学生たちが歩いていた十字路の曲がり角から、思ったよりも深く侵入していたらしい米軍の兵士たちが現れる。
彫りが深くても浅くても白人の顔をした米軍の兵士の集団は、ミンギルとテウォンのいる分隊よりもやや人数が多かった。
また彼らは共和国では見たことがない見るからに強力そうな重火器を持っていたので、分隊は皆うっすらと死を覚悟した。
だが米軍の兵士たちは戦場に突然女学生の集団が現れたことに驚いていて、攻撃は控えて生け捕りにしようと彼女たちに駆け寄った。
一応銃を持たされていても、使い方がわかっているわけではない女学生たちは、きっと自分たちは助けてもらえるはずだと信じて自国の兵士たちを見る。
しかし米軍の兵士たちは親切心で女学生たちを保護しようとしているようにも見えたので、ミンギルはあまり積極的に動く気にはなれなかった。
(女だから酷い目にあうこともあるらしいが、女だから大切にしてもらえることもあるだろう)
まず女学生がいなければ自分たちは攻撃されていたであろう現実を前にして、ミンギルは冷めた気持ちになる。
女学生たちの期待の眼差しを受けた新兵たちは、一瞬の判断を求めて分隊長のジョンソの方を向いた。
戦場では一応はまとめ役らしく役目を果たして先導していたジョンソは、ここでも迷わずすぐに命令を下した。
「とにかく、逃げるぞ。峠へ急げ」
言っていることの内容はともかく、意外なほどの頼もしさを感じる声で、ジョンソが振り向いて叫ぶ。
女学生たちを連れて行くことを早々と諦め、ジョンソは俊敏に駆け出していた。
あまりにも鮮やかな敵を前にした逃走に、ミンギルはかえって尊敬の念も感じる。
(なんだ。普通に逃げても良いのか)
女学生たちとの別れが思ったよりもずっと早かったことに正直安心して、ミンギルはテウォンに目配せをしてジョンソに続いた。
ミンギルの側を離れずついて来るテウォンと同様、他の三人と副分隊長も女学生たちを無視して走る。
まったく戦う気を見せない自国の兵士の姿に女学生たちが唖然としてるのが空気で伝わるが、ミンギルは戦う必要がない戦いから逃げることが恥だとは思わない。
ミンギルは活躍する兵士になりたい気持ちはあっても、無惨に死ぬ兵士にはなりたくなかった。
「あなたたちは簡単に同志を見捨てる、意気地なしです」
最後に中心人物の少女が金切り声で叫ぶのが聞こえた他は何もなく、米兵は逃げていく敵を攻撃するよりも女学生を保護することを優先したらしかった。
(そこでおれたちを責めるなら、後悔はしなくて良さそうだ)
あまりにも簡単に他者に犠牲を強いる女学生の態度に、ミンギルは数時間前の第一印象の正しさを確信する。
ミンギルには振り向いて何か言い返したい気持ちもあったが、他の米兵がいつ現れるかわからない状況であるので、皆と一緒にむしゃらに峠の方へ逃げた。
28 初戦闘
だらだらと長い坂道を登りきったところにミアリ峠はあり、振り向けば炎上する京城が一望できるはずだったが、ミンギルは道の脇に立っているまだ無事な家屋を見る暇もなかった。
全員がただ逃げることに集中していたため、ミンギルが何とかミアリ峠を越えて街の外れの森に身を隠したころには、分隊は誰がどこにいるのかわからなくなっている。
だがどれだけ他の仲間がばらばらになっても、ミンギルとテウォンだけは二人一緒のままで側にいた。
「まだ、歩けるか?」
起伏のある道を長いこと走って息があがっているテウォンを気遣って、体力の余裕はあるミンギルは歩をゆるめて様子を伺う。
少し後ろいるテウォンは逆にミンギルの隣に並ぼうとして、歩みを早めて返事をした。
「だって行かなきゃ、死ぬだろ」
焼け野原にされる市内の光景にすっかり怯えたテウォンは、以前に山道を走る車に乗って酔ったとき以上に真っ青な顔をして、木と木の間を手でつたってぎこちない足取りで進み続けいる。
一方で無駄死にはしたくはないが、それと同じくらい惨めに生きたくもないミンギルは、戦場ではテウォンよりは冷静に自分たちに許された生き方について考えていた。
(本気で降伏すれば生かしてはもらえるのかもしれんけど、その後のことを考えるとやっぱり嫌だよな)
生き残ることが大事だが、生きていれば幸せというものでもないと、ミンギルは逃走はしても降伏は選択肢から排除する。
伐採はされていても葉が生い茂る季節の森は暗く鬱蒼としていて、敵から身を隠すことができる建物がすべて壊されていた市内に比べればずっと気分が落ち着いた。
今のうちにテウォンの荷物を引き受けてようかと考えて、ミンギルはまた話しかけようとした。
しかしそのとき、自分たちではない人の気配を木々の茂みの向こうに感じたので、ミンギルは黙った。
もしかするとはぐれた分隊の誰かがいるのかもしれないと、頭の半分は楽観的に考えている。だがもう半分の頭は警戒するべきだと、緊張感を強めていた。
ミンギルが神妙な顔で担いでいたカービン銃に手をかけて立ち止まると、テウォンも休憩などではないことを理解してそっとミンギルと距離を縮める。
だが木々の向こうにいる誰かは二人に気づいていないようで、そのまま茂みを越えて近づいてきた。
歩いてきたのは、直前まで敵を警戒するのを忘れていた様子の、南朝鮮軍のヘルメットを被った三人の兵士だった。
市内よりも森林の方が安心できるのは敵軍も変わらないらしく、彼らは本当に虚をつかれた表情をしている。
(これは、勝てる相手だな)
先に銃を構えていたミンギルは、考えるよりも先に引き金を引いて敵を撃っていた。
訓練以外で初めて銃声を鳴らしてみれば、標的用の板の代わりに敵の胴体に穴が開く。
そして間の抜けた驚きが張り付いたままの顔で、一人の兵士が倒れていった。
遭遇した相手の迷いのない攻撃に、他の兵士は慌てておそらく米帝製であろう銃を構えだす。
敵がやや遅れて戦闘態勢を整える一方で、ミンギルとテウォンに支給されているカービン銃は連射ができない構造で、毎回ボルトを引いて弾丸を装填する必要があった。
だからミンギルは最初の一撃を終えるとすぐに、テウォンの手を掴んで引っ張って屈ませ、二人で太い木の幹の後ろに隠れる。
そして素早くボルトを引くと一瞬だけ遮蔽物の影から相手を覗いて、スイカのようなヘルメットのすぐ下にある二人目の眉間を撃ち抜いた。
妙にゆっくりと流れている気がする時間の中で、ミンギルは間違いなく敵の頭に銃弾が当たったことを感じ取る。
そのまま相手が銃弾に倒れるの目にする前に、ミンギルは木陰に隠れて次弾を装填して三人目を狙った。
だが三人目は最初の二人が殺されている間にミンギルたちのすぐ近くまで移動してきたらしく、小柄で非力に見えるテウォンを人質として抑えることで何とか状況を打開しようとしていた。
間違えてテウォンを撃ってしまわないように注意しながら、ミンギルは銃を構える方向を変えた。
だがしゃがんで木の幹に隠れていたテウォンは、敵に掴みかかられる前に震えながらも自分が持っていた銃の引き金を引いた。
ごく至近距離の銃撃であったので、テウォンは弾を外さずに相手の胸のあたりに当てた。
純朴そうな顔立ちの青年である相手は、即死はせずに痙攣しながらテウォンの上に倒れた。
ひどく怖がっている様子のテウォンはすぐに青年の身体を押し退けたが、軍服には血の染みがいくつか付着してしまったようである。
地面に倒れた青年は口や胸から血を流しながら、言葉にならない声を発して目を見開いていた。
その姿を気の毒に思ったミンギルは青年の側に近寄り、ヘルメットをずらして頭部に銃口を当て、引き金を引いてとどめを刺した。
銃声が鳴ると同時に赤黒い血や薄い色の脳髄の飛沫がミンギルの軍靴を汚し、青年は呼吸を止めてぴくりとも動かなくなる。
苦しげな死に顔は日焼けした労働者のもので、同胞であること以上に貧しい人生を送った兵士としての親近感を感じさせ、ミンギルを微妙な気持ちにした。
(おれとテウォンがもしも南に生まれていたら、きっと南朝鮮軍の兵士になっていた。たったそれだけの違いしかないはずなのに、敵味方になって殺し合う)
ミンギルは戦場で兵士を殺すよりも、たとえ民間人であっても資本家を殺すほうがずっと気分が良いはずだと思った。
豊かな生活を送っているらしい異邦人である米兵はともかく、南朝鮮軍の兵士は殺して納得するにはあまりにも立場が近すぎて、思想の違いは知識がなければ意味のないものになる。
ミンギルは勝てない敵からは無事に逃げて、勝てる敵は確実に殺す兵士としての才能を持っていて、テウォンもミンギルほど強くはなくても自分の身を守るだけの技量はある。
その事実を確かめることができた結果には安堵していたが、自分たちの持つ力で殺した相手が本当に殺したいと思える相手ではない現実には心が曇った。
きっと自分たちは優秀な兵士になって戦場で華々しい活躍ができるとミンギルは信じていたが、実際は潰走する戦況の中で人殺しになっただけである。
どうしてここまでひどく期待を裏切られることになってしまったのか。ミンギルはまったく現状に納得していなかったが、この疑問についてはテウォンに訊ねようとはしなかった。
テウォンはきっと一生懸命答えを用意してくれるだろうが、それはおそらくミンギルにとって役に立つものではないだろうし、何よりテウォンはミンギルよりもずっと戦場の残酷さに怯えて動揺しているはずである。
死んだ敵兵の死体を見るのをやめて振り向くと、テウォンは銃をにぎったまま呆然と地面にへたり込んでいた。
一歩間違えれば死んでいたことが怖いのか、人を撃ったことが怖いのか、それともとどめを刺したミンギルが怖いのか、ミンギルには判断がつかない。
「また敵が来るといかんから、もう行こう」
ミンギルが声をかけて手を差し伸べると、テウォンは我に返った様子で返事をした。
「ああ、うん」
どうやら腰を抜かしてらしいテウォンは、弱々しい力でミンギルの手を握り返し、助けを借りることでやっと立ち上がった。
危うげな表情でも無事に五体満足でいるテウォンをまじまじと見て、ミンギルはほっとして軽口を叩いた。
「背負って連れて行かんと、駄目かと思った」
背が低くてやせたテウォンは軽いから、腰を抜かして歩けなくなって荷物になっても、それほど困らないとミンギルは思った。
しかし赤子のように背負われるのはさすがに恥ずかしいらしく、テウォンは顔を赤くしてすぐに言い返す。
「俺だって、そこまで弱くはないからな」
弱いことは弱いと素直に認めた上で、テウォンは最低限の自立は主張した。
初めての戦闘に動揺しながらも強がる姿が無性に愛おしくて、ミンギルは唐突にテウォンを抱きしめたくなったが、そんな暇はないので我慢して照れて笑って歩き出すことにする。
森の地面には三人分の南朝鮮軍の兵士の死体が転がっていたが、彼らを弔うのはミンギルたちの仕事ではないし、歩けば遠ざかって見えなくなった。
だがテウォンはどうしても兵士が死んだことが気になるらしく、後ろを振り返ろうとして何度もやめて、ミンギルに話しかけた。
「その、ごめん。最後は結局お前に任せて」
「別に、おれは平気だよ」
瀕死の兵士のとどめを刺したのが自分ではないことを気にしているテウォンに、ミンギルはこともなげに答えた。強がりではなく、本心の言葉である。
そもそもあの兵士は放っておいたところで必ず死んでいたのだから、ミンギルの一撃はただ絶命を早めただけであるはずだったが、その事実がテウォンにとって救いになるかどうかはわからないので言わずに黙った。
今まで頼り切って生きてきた分、戦場ではテウォンをできるだけ守りたいとミンギルはささやかに願う。
一方でテウォンは平然としているミンギルにお礼を言って、取り繕った笑顔で無理に明るくまとめた。
「お前と俺の二人なら、きっとこの困難も乗り越えられるよな」
想像していたよりもずっと過酷だった戦場の現実を前にしながらも、テウォンは今は辛くても耐えていればきっと幸せになれると信じようとしていた。
単純に失望の気持ちが強くがっかりしたミンギルは、祖国が言って聞かせてくる未来を疑い始めていたが、他に良い考えがあるわけではないのでとりあえずテウォンに同意した。
「ああ。おれたちは絶対にこの戦争を生き残って、真新しい服を着て、たくさんのおかずと一緒に飯を食べて暮らすんだろ」
羅南の兵営での満ち足りた生活を何とか思い出せば、その将来像は言うほど空虚ではないはずだとミンギルは自分にも言い聞かせる。
まずは生きて仲間を見つけなければ良い未来はないと気持ちを切り替えて、ミンギルはテウォンと鬱蒼と茂る森林を進んだ。
29 仲間との再会
それから森を抜けるまで、ミンギルとテウォンが敵に遭遇することはなかった。
議政府に続く街道に出るとあたりはすっかり夕暮れになっていて、戦闘が起きている場所はすっかり遠ざかった雰囲気で静かだった。
「空き家があれば、野宿しなくても良いんだが」
「住民も逃げとるから、ありそうな気はするけどな」
道に沿って流れる川が夕日に赤く染まり、対岸の木々の暗い影を淋しげに映すのを眺めて、テウォンがどこかに帰りたそうな顔をする。
ミンギルもさすがにゆっくりと休憩したい気分で、遠くに目を凝らして家屋を探す。
すると道をずっと進んだところに、人が一人立っているのが見えた。
(多分、あれは仲間だな)
顔はわからないが、着ているものの雰囲気で判断してお互いに警戒を解く。
距離を縮めてみると彼はやはり同じ分隊のお調子者で、歩いてくるのがミンギルとテウォンだとわかると他の二人も出てきて軍帽を脱いで手を振ってきた。
これまで所属している分隊にあまり仲間意識を持っていなかったミンギルも、戦場での戦いを経験してみると見慣れた顔ぶれに安心感を覚える。
戦場ではぐれてしまってもまた合流できるというのは、置かれている状況を考えればかなり運が良いはずであった。
戦闘で心が挫けていたテウォンも大分元気を取り戻したようで、ミンギルよりも前を歩いて三人に近づき、声をかけた。
「皆、無事だったんだな」
テウォンはまず仲間の顔を見て、それから彼らの後ろにある民家を見ていた。
かつてミンギルとテウォンが働いていた屋敷よりも小さいものの、貧農というわけではなさそうな、瓦葺きのしっかりした伝統家屋である。
屋根付きの門の影には分隊長のジョンソもいて、こちらを見て適当に頷いていた。
そこが空き家なのかそれとも住民がまだいるのかまだわからないものの、ミンギルはとりあえず野宿はしなくて良さそうだと一息ついた。
「テウォンとミンギルは、何となく生きてる気がしてた」
「僕はもう、もうちょっとで死ぬかと思うくらい大変だったよ」
「俺も、本当にそうだった」
三人はそれぞれの言葉でミンギルとテウォンの生存を喜び、自分たちの苦労を伝える。
やがてテウォンは、他の三人とジョンソと自分たち二人の人数を数えて、一人足りないことに気づいて訊ねた。
「えっとじゃあ、副分隊長は?」
確かにもう一人小綺麗な雰囲気の人物がいたと、ミンギルはテウォンに言われて思い出す。
副分隊長とテウォンが口にした瞬間、周囲の人間は全員神妙な顔をして一瞬黙った。
そして不平家がため息をついて、仕方が無さそうに副分隊長の姿が見えない理由を語った。
「副分隊長は、死んだよ。京城市内で、敵に頭を撃たれて倒れるのを見たから」
元々人の命が軽い国だったような気はするが、戦場にいる兵士の命はさらに軽く、不平家の報告もあっさりしたものだった。
しかしテウォンはそれなりに衝撃を受けたようで、言葉を失った様子で肩を震わせた。
「副分隊長が……」
消え入りそうな声で、テウォンが呟き黙り込んだ。
そこに離れていたところから新兵たちの会話を聞いていたらしいジョンソが、暗い話題に区切りをつけるために、強引に割って入ってくる。
「まあ戦場では、そういうこともある」
自分の仕事が増えるという意味では本当に残念だと思っているのか、ジョンソは肩を落としていた。
「だけどとりあえず、黙祷くらいはしとくか。副分隊長が死んだ京城の方角を向いて」
仲間を死を悼むためか、それとも忘れるためか、ジョンソは新兵たちに弔いの時間を設ける提案をした。
「はい、京城はあっちですよね」
お調子者が、黙祷のためにしては気楽に返事をする。
それから新兵たちはジョンソの提案に従って、京城の方角を向いて黙祷を捧げた。
ほとんど日が落ちた暗い紫色の夕闇が街道沿いを包む光景は、人の死を弔うのに適していた。だが全体としては一応やるだけはやるという雰囲気で、それほど真剣なことにはならない。
だからジョンソが適当に始めたように、ジョンソが飽きたところで黙祷は終わった。
ミンギルは副分隊長という役職のついた人の死のぞんざいな扱いを前に、ある意味での平等さを感じた。
だがそれは分隊という狭い範囲の中では皆平等に死ぬ可能性があるからであり、同情されるか否かという点で民間人と比べれば、兵隊である自分たちは他よりも気にかけられない存在になる。
兵士の男が死んだ場合の同情は女や子供が死んだ場合よりも絶対に薄く、どんなに弱い立場にいたとしても、やむを得ない死として片付けられるのだ。
(仕方がないことにしないとやっていけないから、同じ兵隊同士ではそう思うしかないわけだが……)
ミンギルは死んで同情されたいわけではなかったが、自分たちが軽んじられていることは気に入らなかった。
だが少なくともいま周囲にいる仲間とは対等であるという事実には、それなりの幸福を感じる。
先に民家に入っていく他の新兵たちは、名前を未だに思えておらず、ずっと側にいるテウォンのように特別ではなくても、ミンギルと同じ価値の存在なのである。
30 分隊長の手料理
分隊が集合できた民家は戦火によって住民が逃げ出した空き家であるらしく、誰もいなかったため皆遠慮なく上がり込んで過ごした。
軍隊が既存の家屋を借りて休んだり泊まったりすることは舎営と呼ばれ、よくあることである。
京城から出発したばかりであるため、戦闘糧食はまだ背嚢に十分に入っていたが、せっかくの人のいない民家に入ることができたので、全員で食べられるものを隅々まで探す。
蔵や台所をそれぞれ見てみると、卵や野菜、米や味噌など想像以上の食料が見つかり、お調子者は訝しんだ。
「避難する人って普通、食べ物を持って逃げ出さないか?」
「相当慌てていたってことなのかな」
あまりにも出来すぎた結果を疑うように、不平家も台所の調理台に並んだ食材を見つめる。
しかし罠が仕掛けられているかもしれない敵地というわけでもないので、皆それ以上は疑問に思わず見つけた食材をどう使うかという点に話題は移る。
「これだけの食材があったらご馳走ができるはずなのに、俺達はゆで卵くらいしか満足に作れん」
テウォンは卵を一つ手にして、残念そうに肩を落とした。
戸口の影から新兵たちの様子を見ていたジョンソは、妙に自信がありげに声をかけた。
「それなら今日は、俺が作ろうか」
思いも寄らない上官の申し出に、新兵たちはきょとんとした顔をする。
「分隊長がですか?」
赤玉の卵を手にしたまま、テウォンがジョンソに聞き返す。
するとジョンソはテウォンが持っていた卵をそっと取り上げて、今まで一度も部下の前では見せたことがない、誇らしげな笑顔を浮かべた。
「俺は先祖代々の料理人の家系で、支那の名店で働いていたこともある。はっきり言って、軍事よりも料理の方が得意だ」
前職について語るジョンソは、普段よりも饒舌である。
その自信に満ちた威勢の良さに、新兵たちはジョンソの言葉に甘えることにした。
「じゃあよろしくおねがいします」
「手伝えることがあったら、何でも言ってください」
部下らしく指示を仰いで体裁を取り繕いつつ、お調子者と不平家が食材の調理をジョンソに頼む。
残りの三人も軽く頭を下げて、ジョンソに敬意を払った。
「それじゃ米を研ぐのと、野菜を洗うのは頼んだ。俺は洗い終わった野菜を切る」
ジョンソは軍服の腕をまくり、壁にかけてあった三角巾で髪をまとめた。
そして料理を始めるための身支度を整えたところで、煤で汚れた白壁と竈が並んだ古い時代の造りを残しながらも、電灯の明かりに照らされ、ガスや水道で近代化された台所に立つ。
その背筋を伸ばした立ち姿は、本人の言う通り、戦場にいるときよりも自然で有能さを感じさせた。
(分隊長は職業料理人で、支那にいたのか)
ミンギルは簡単に説明されたジョンソの過去に納得しながら、他の新兵と一緒にジョンソの指示に従った。
「米が割れないように、もう少し優しく研いだ方がいい」
「里芋を洗っていて手がかゆくなったら、塩か酢をつけろ」
料理人としてはそれなりにこだわりを持っているらしく、ジョンソは料理については新兵たちの仕事にあれこれ助言を与えた。
兵営の料理当番では本当に最低限のことしか学んでない新兵たちは、米の研ぎ方や野菜の洗い方にも、コツがあることを初めて知った。
新兵たちが洗った野菜を笊に入れて渡すと、ミンギルは空き家に置いてあった包丁で鮮やかに切り揃えていった。
他人の家だとは思えないほど滞りなく調味料を取り出したれの味を作っていく様子も、武術の演舞か何かのように美しい手並みである。
空き家に食材が不自然なほど残っているのも、ジョンソが料理人として持っている呪術的な力が働いているからなのかもしれないと思わせるほどに、すべてがジョンソの働きでまとまっていく。
ガス釜の力で米が手早く炊けていく匂いと、ぐつぐつと煮える土鍋の湯気によって、いつの間にか住民の消えた台所は家庭的で優しいぬくもりに包まれていた。
最後にジョンソが卵と細かく刻んだ野菜を軽快に混ぜ合わせて、焜炉で熱した揚焼鍋で焼けば、香ばしい匂いと音が立ち昇って新兵たちの心を踊らせた。
「よし、これで完成だ」
すべての料理を器に載せて、ジョンソが満足げに三角巾を外す。
気づけばまるで手品のように、新兵が料理を運んだ板の間に置かれた座卓の上には、色とりどりの具が入った卵焼きに、秋野菜を使ったナムルとすまし汁、炊いた赤米という立派な夕食があった。
どの献立も時間を計算しつくして作られていて、品数は多くともすべてが食べごろの温かさである。
新兵たちは西瓜色の座布団を並べた席に座って、食されるのを待つばかりの料理に驚きと賞賛の眼差しを注いだ。
「だし汁を作る暇がなかったから、味はだいたい醤油と味噌でまとめてある」
一番上座の席に座ったジョンソは、誇らしげに自分の采配の解説をして、まず一番に座卓の中心に置かれた土鍋の中身を匙ですくって口にする。
それは炊いた飯だけが各々の器に盛られて後は大皿から直接とって食べる、軍隊式ではないごく普通の家庭の配膳の方法であるが、ミンギルとテウォンにとっては初めての体験であった。
(数時間前まで戦場におって人を殺して逃げとったのに、今は平和に食卓を囲んどる)
忙しく変わる状況に混乱しながらも、ミンギルは生唾を飲み込んだ。
「すっごい美味しそうです。ご馳走になります」
「こんなに綺麗な卵焼きは、なかなか出会えません」
「俺もそう思います」
一番目上の人物であるジョンソが食事を始めたので、新兵たちはジョンソにお礼を言ってから箸や匙をとって料理に手をつけた。
「こんな夕食は初めてです。ありがとうございます」
「よく味わって、いただきます」
ミンギルとテウォンは他の三人よりもより深く感激して、食事を始める。
(軍隊の料理も美味かったけど、分隊長が作った料理はまたその上を行っとるな)
素朴で親しみやすい家庭料理でありながらも、宮殿で出される食膳のような端正さを保ったジョンソの手料理を、ミンギルは美を理解していないなりに美しさを感じてまじまじと見つめた。
食べ始める挨拶をしてからはテウォンの真似をして作法を守るのも忘れて、ミンギルはまずほどよい焼目が入った優しい薄黄色の卵焼きに箸を伸ばした。
食べやすい大きさに切り分けられ、青磁の器に盛り付けられた卵焼きは、箸で掴むとしっかりと重い。
ミンギルは焼けた卵のほのかな匂いをしっかりと堪能してから、その卵焼きを一口で頬張った。
(炒り卵でも、ゆで卵でもない、卵焼きの味だ……)
じんわりと汁を含んで焼けた卵焼きは、ほどよい柔らかさでほどけて、ミンギルに醤油の風味のある塩っぱさで味付けられた卵の旨みを届けた。
みじん切りにされた彩り豊かな具の野菜は、歯触りがよいにんじんに甘くとろみのある玉ねぎ、そしてさわやかな香りの長ねぎで、卵のコクがそれらをまろやかにまとめていた。
よく噛んでから飲み込めば、ほのかな温もりが胃のなかへと落ちていく。
気づけばミンギルは、二つ目の卵焼きをもうすでに食べていた。
卵を何個も使ったものであっても、全部一人で完食くらいに美味しいと思ったが、他の人もいることを思い出して自重する。
「ミンギルが食べてる卵焼きも、美味そうだな」
チンゲン菜を湯がいて味噌で和えたナムルを食べていたお調子者が、夢中になっているミンギルを見て卵焼きを一つつまむ。
「里芋のすまし汁も、秋夕に食べれなかったから、今日食べれて良かったよ」
「うん、俺もそう思った」
不平家と同意する男は、すまし汁の里芋をかじって、四季の移り変わりをしみじみと感じ入っていた。
時間がたっても熱々のままの土鍋に入った里芋のすまし汁は、秋夕の行事食である。
「去年の今頃は、きのこを狩りに行っとったな」
すぐ隣ではテウォンが、すまし汁の具のきのこを食べて遠い目で昔を懐かしむ。
逃走中は青い顔をしていたテウォンであったが、今は戦闘中の出来事は一旦忘れて、食べながら昔の記憶に浸る余裕を見せていた。
しかしテウォンほど昔のことを思い出すのが好きではないミンギルは、秋野菜の旨みが溶け込んだすまし汁で身体を温めても、感傷的な気分にはならない。
(赤米は昔食べていたものよりもずっと、美味く炊けとると思うが)
元が硬い米であってもやわらかくふっくらと炊かれている陶椀の中の飯に、ミンギルは幸せなため息をもらす。
ジョンソは黙っているミンギルに、答えを確信した誇らしげな表情で訊ねた。
「どうだ、美味いか?」
普段は面倒だから黙っているミンギルであるが、今日黙っているのは何も言えないほどジョンソの手料理が美味しいからである。
だからミンギルは、炒めたナスのナムルを載せた飯を頬張って、黙って頷いた。
油を吸ったナスのナムルは照りのある紫色が眩しく、ごま油とにんにくのほどよい風味が食欲をそそる。チンゲン菜のナムルの方も、味噌の甘く香ばしい味が野菜のほろ苦さや香りを引き立てていて、さっぱりとしてくどくない。
どの品もすべて、上品だけれども食べごたえのある、きっと毎日食べても飽きることのない温もりの宿った味である。
(この情がなさそうな分隊長から、思いやる心を感じる料理が出てくるのが不思議だ)
垂木がむき出しになった天井に話し声が響き、戸によって秋風から守られた暖かい部屋となった板の間で、新兵たちは見知らぬ他人の家にいるとは思えないほどくつろいで食卓の上の料理をつつく。
食卓の準備をした人物の冷淡さに反した食事の賑やかな楽しさに、ミンギルはやはりジョンソに呪術めいた力を感じた。
部下であるミンギルの無言の賞賛を当然のものとして受け止めて、ジョンソは卵焼きを得意げに食べている。
側にいれば食べ物には困らない気がして、ミンギルはジョンソにどこまででもついて行きたくなった。
31 人間らしさ
夕食を食べて満腹になったところで、分隊の六人はそのまま住民の逃げ出した民家で寝た。
母屋の部屋に置かれた箪笥の上に畳まれていた布団を敷けば、兵営に置かれていた寝台とは違う庶民的な生活の匂いの中で眠ることができる。
(ちょっと薄めだが、これくらいの寒さなら十分だな)
真冬にはオンドルを使うことを前提とした、やや薄めの肌触りのよい布団の中で横になってミンギルは目を閉じた。
「大家族の家にちょうど泊まれて、本当に良かった」
一人一組の布団があることに感謝して、テウォンも掛け布団を被って小さく丸まる。
「なんかもう、実家に帰りたくなるな」
「いやもうこれは、実家よりも居心地が良いかもしれないね」
「俺は、実家の方が良いと思う」
他の三人も見張りを立てるとか、そういうことをまったく考えずに布団の中に入っていて、全員がそのうち穏やかな眠りにつく。
ミンギルとテウォンもまた、戦場から逃げてきた疲れと夕食をたっぷり食べた満足感で強い眠気を感じてすぐに寝た。
だが一眠りしたところで、ミンギルは誰かが起きて布団から出る気配を感じた。
目を開けて物音がする方を見ると、ジョンソが起きて部屋から出ていくのが見える。
(分隊長は、小便に行くんだろうか)
半分寝た頭で、ジョンソの行き先を考える。
そこでミンギルはふとジョンソと二人っきりで話してみたいと思い、隣で静かに眠るテウォンを起こさないようにそっと布団を抜け出し後を追った。
九月の末の夜更けの空気はひんやりと寒く、薄暗い民家に響く隙間風の音がより一層冷たさを際立たせる。
ジョンソの足音は便所ではなく、縁側の方から聞こえていた。
紙を貼った木の扉を押し開けて、ミンギルはそっと外を覗き見る。
濃い夜の闇に包まれた縁側には、ジョンソが一人立っていて、煙草に火をつけていた。
マッチの明かりがジョンソの手元を照らし、煙草の端に赤い光を灯して消える。
喫煙者になる機会がなかったミンギルは、煙草の煙のほろ苦い匂いに思わずくしゃみをした。
突然の背後のくしゃみの音に、ジョンソは驚いた様子で振り向いた。
だがその音がミンギルによるものだとわかると、すぐにいつもの無感動な表情になる。
「すまんな、起こしたか」
「いえ。小便に行きたくなって、便所を探しとっただけです」
ジョンソの声掛けに、ミンギルは咄嗟に適当に話を作った。
自然に敬語を話している自分が奇妙で、ミンギルはどこか落ち着かない気持ちでいた。
ジョンソの整った顔を見ていると緊張するので、じっと彼の手元の煙草を見る。
するとジョンソはミンギルが喫煙が気になっていると思ったらしく、わざとらしく煙草をふかして自嘲した。
「本当に真面目な料理人は舌が馬鹿になるから煙草は吸わないらしいが、俺は不真面目だからな。皆には内緒だが、リム同務も一緒に吸うか?」
そもそも今のジョンソはまず料理人ではなく共和国の兵士であるという冗談を理解して、ミンギルは笑った。
皆には内緒だと言われたのは嬉しかったが、ちょっとの煙でくしゃみがでるので煙草を吸える気がしない。
だがもっとジョンソの話を聞きたいと思ったミンギルは、縁側を歩いて近くに寄ってさらに話しかけた。
「おれは煙で鼻がむずむずする、煙草は吸ったことがないし吸えもしない若造です。だけど昨日初めて敵を殺せましたから、ちょっとは新兵から抜け出せたかもしれません」
世間話をする感覚でミンギルは初めての殺人を経験したことを明かして、そのままの流れでジョンソに問いかける。
「分隊長が初めて人を殺したときは、いつだったんですか?」
ジョンソが人を殺したことがない可能性を、ミンギルはまったく考えなかった。絶対にジョンソは人を殺したことがある人間だと、ミンギルは直感でわかっていた。
重い内容を気軽に投げてくるミンギルの問いに、ジョンソは一瞬真面目な表情になってこちらを見た。
端正な顔でじっとミンギルを見つめ、ジョンソはミンギルの意図を推し量る。
だがやがてジョンソはミンギルが特に深い考えを持っているわけではないことを理解して、質問者と同じように無駄話をする調子で答えた。
「そうだな……俺の場合はまず、軍に入る前のことになるからな」
ジョンソは戦争だからこそ許されている罪を、その外で犯していることをさらりと告白する。
それにはさすがのミンギルも少々の衝撃を受けて、顔を上げて聞き返した。
「戦場じゃないところで人を殺しとるってことですか?」
「まあ、そういうことになる」
ジョンソはまったく悪びれた様子もなく頷いて、紫煙を燻らせて人を殺すことになった事情を話し出した。
「俺は昔、ある地方の裕福な家の屋敷で料理人として働いていたんだが、その家には一人の少女が妾として囲われていた」
妾という立場にいる人に実際に会ったことがないので、ジョンソが語る状況を正確に頭に思い浮かべることはミンギルには難しい。
しかしジョンソの淡々とした語り口に反し、色恋の関わった話が始まっているのは確かなようなので、ミンギルは努力して男女の情愛について考える気分になろうとした。
「彼女は若く美しかったが、その家の主人は年老いて醜いうえに寝所でのふるまいも酷いものだったから、彼女は主人を恐れて怯えていた」
榛の木が植えられ、数個の壺が並んだ内庭の暗闇に今ここにはいない異性の幻を見ながら、ジョンソは一人の少女の不幸と自らの罪について語る。
「主人は別に俺にとっては悪い雇用主じゃなかったが、ある夜に何となく俺は彼女を助けたくなって、主人を古い包丁で刺して殺したんだ」
誇りも後悔もなく、ただの事実として、ジョンソは人を殺した経験を話した。
ジョンソはその少女について、好きだったとも、恋をしていたとも言わなかった。
だが少女を苦境から救うために直接の恨みがあるわけでもない主人を殺したのだから、ジョンソは大なり小なり彼女に想いを寄せていたのだろうとミンギルは理解する。
若く美しい女性は我がままで傲慢な人物しか見たことがないミンギルは、ジョンソがその少女をどのような気持ちで助けたいと思ったのかまったくわからない。
だがジョンソが人を殺してでも守りたいと思える異性に出会えたことは羨むべきだと考えながら、ミンギルは語られる過去に耳を傾ける。
ジョンソは人を殺した事実を述べるときとは違う、切実さのこもった声で罪を犯したことについての自分の気持を吐露し始めていた。
「俺は彼女に感謝してもらえるものだと思っていた。彼女に毎晩酷いことをしていた男を殺したんだから、当然それは良いことに決まっていると、俺は信じていた」
そこでジョンソは、深く息をついた。
信じていたということは、期待は裏切られたのだろうと、ミンギルは予想する。
ジョンソが続けた言葉はやはり、少女から返ってきた拒絶についてである。
「だけど彼女は主人を殺した俺も怖がって、年老いた主人を見るときと同じ怯えた瞳で俺を見た。だから俺は……」
最後に自分がした行為を言いかけて、ジョンソは口を噤んだ。
ごく普通に考えれば、少女に受け入れてもらえなかったジョンソは彼女の前から去るはずである。
だが長い沈黙にミンギルは、ジョンソは少女もまた殺すか、殺すよりももっと惨いことをしてしまったのかもしれないと唐突に思った。
(おれは馬鹿だから、分隊長が何を選ぶ人なのかはわからんけど)
ミンギルは飲み込まれた言葉の続きを求めて、ジョンソが再び口を開くのを待つ。
しかしジョンソは口を閉ざしたままで、結局どうしたのかは教えてくれなかった。
ジョンソが少女が何をしたのか知っているのはその少女だけであり、起きたことの半分はミンギルが聞くことができても、もう半分は彼と彼女の二人だけの秘密なのである。
「そういう事情があって、分隊長は支那の方に行っとったんですね」
答えを聞くのを諦めて、ミンギルはジョンソにずいぶん間のあいた相槌をうった。
聞き手の存在を思い出し、我に返ったジョンソは、曖昧な笑みを浮かべてごまかした。
「そうだ。まあ、リム同務が期待していたような話じゃないだろ?」
どうやら隠さなければいけないような罪を一部でも打ち明けたのは、ジョンソからミンギルへの上官としての中途半端な誠意であるようだった。
その独特な距離感の中に、ミンギルはジョンソに自分と似た性質を感じ取る。
だからミンギルは自分にしては慎重に言葉を選んで、ジョンソへの共感を伝えた。
「分隊長がしたことは、戦場で赤の他人を殺すよりも、ずっと人間らしくて良いことだとおれは思いました」
ジョンソが犯した罪は自分勝手で残酷で、しかしだからこそ深い感情が宿っていて、ミンギルにとっては戦争で行われる味気のない殺人よりもずっと温かく血が通ったものに思えた。
その捻れた考えを聞いたジョンソは、最初は困惑の色を浮かべた。
だがやがて納得した表情でゆっくり頷き、すぐ隣に立つミンギルに顔を近づけて名前を呼んだ。
「リム同務は、体を動かすことが得意でも頭が悪いということになっているが、実際は深く物事を考えている」
ジョンソのあっけらかんとしながらもどこかに影が宿る瞳が、テウォン以外と近接することに慣れていないミンギルの泳ぐ視線を、ごく至近距離で捉える。
唐突にじっと見つめ合うことになり、思いのほか知性があると褒められたミンギルは、気恥ずかしくなって一歩下がって離れた。
「そんなことはないです。おれは物覚えも物わかりも悪いですし」
ミンギルは首を横に振って、ジョンソの言葉を謙遜ではなく本気で否定する。
だがジョンソはミンギルの思考をミンギル以上に整理して、説得的に根拠を述べた。
「いやいや。同務が忘れたりわからなかったりすることは、同務にとって重要ではないことであって、自分に必要なことだけを無意識のうちに選んでいるという時点で同務はかなり賢い」
言われてみると確かに、自分は不要なことだけがわからず、大事なことは意外とちゃんとわかって生きているのかもしれないとミンギルは気づく。
しかしそれはどちらかと言うと冷淡さや薄情さにつながる性質であって、賢さとは違うはずだとミンギルは思った。
だがあまり上官の言うことを否定しすぎるのも失礼だろうと考えて、ミンギルはそれ以上は話を広げずに適当に頷いて会話を終わらせる。
「そうなのかも、しれないですね」
ジョンソも縁側下に置かれた石の窪みに貯まった水で煙草の火をしっかりと消し、吸い殻を捨ててあくびを一つした。そして閉めていた背後の戸を開いて、中に戻ろうとミンギルの方を見る。
「もうそろそろ、戻って寝ようか。こんなに良い寝床がある日は、もうしばらくないだろうから」
「はい」
控えめな返事を返して、肌寒さに本当に尿意を感じ出してきたミンギルは便所に寄ってから、薄暗く全員が寝静まった部屋に戻った。
かすかな温もりが残った布団の中にもぐりこむと、物音に起きたらしい隣のテウォンが薄目を開けてミンギルに小声で訊ねた。
「どこか行っとったのか?」
ミンギルはジョンソと話していたことは伏せて、テウォンに布団を抜け出してやってきたことを説明した。
「ああ。ちょっと小便に」
手短なミンギルの答えに、テウォンはすぐに納得して再び眠りに落ちる。
(初めておれは、テウォンに隠し事をしたかもしれん)
テウォンの熟睡した寝顔を見つめながら程よい硬さの枕に頭を預けて、ミンギルは感慨深い出来事が起きていたに後で気づく。
これまでのミンギルはどんなこともテウォンと分け合って生きてきたから、ミンギルが知っていることはだいたいテウォンも知っていた。
ジョンソと二人っきりで会話したことは、おそらくミンギルが初めてテウォンに秘密にした事柄で、ささやかだけれどもしみじみと考えさせられる含みがあった。
↓目次
↓次話