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わたしは人に、何を求められ、何を求めているのか。

わたしは、人が人と関わる時、
そこには絶対に何かいいことがあるという動機が含まれていると思う。

直接的なメリットだけではなく、この人といると居心地がいいという感覚など、とくに定義はないがそこには必ずメリットがある。そう考える。

だから、わたしと会話するために時間を割いてくれる人は、
わたしのどんな部分を求めているかがとても気になる。

ある友人は、わたしに会うたびに「面白い話をして」と言ってくる。
その子が興味を持ってくれそうなわたしの話を話してみる。
そしたら、笑ってくれる。嬉しい。

アルバイト先。
わたしは「朝の仕事ができる人」として認識され、
店長がやるような業務を任されるようになった。
それでも、暇なので掃除もこまめにするようになった。
気づけば、リーダーに昇格していた。

優しくて、だいすきな店長。
だけど、店長とは全くと言っていいほど、話しがかみ合わない。
一番は合わないのは「間」。
合わないなりに、店長と話す時間もあるけど、
わたしのことはほとんど知らないと思う。

だから、仕事のできる人という期待されている自分でいることをいつも頑張っている。
そうすることでしか、その場に必要とされない気がするから。

わたしが求めている「わたしという人間にしかできないことをお願いされたい」という欲はこのアルバイトで満たせなかった。
(所詮のアルバイトなのでそこまで期待していなかったけど。)

相手に期待されている自分ではなくなったら、
わたしは必要とされなくなる。
そんな思考がずっと抜けない。

だから、どんな相手に対してもわたしのどんな部分を好きでいてくれるのかということをいつも気にしてしまう。

外に出て、人と話す時間は大好きだけど、めちゃくちゃ疲れる。
これが、わたしのひとり好きの理由でもあるかもしれない。

でも、これ見方を変えれば、相手に失礼な気もする。
こういうわたしだったら好んでくれるんでしょ?
と言っているようで、少し傲慢な態度にも映る。

だけど、人が信じられないわたしは、
こうやって多少のキャラを演じなければ、
傷つく。苦しい。しんどい。

わたしなりの自己防衛。

一方で、わたしは他者に何を求めているのだろうか?
ずっと、考えた。

わたしが本当に求めているのは、
「会話」ができる人。

会話の波長が合うこと。
わたしを理解しようとしてくれること。
新しい考えをもたらしてくれること。
一緒に考えようとしてくれること。

これって、多分だけど、
感覚的なところで「合う」がなければ、
求めることができない。

わたしの求めるものを相手が提供してくれて、
相手が求めるものをわたしが提供できる。
それが、自然であればあるほどいい。

そうすれば、友達や恋人、家族なんて関係に名前をつけなくても、
その人との関係を続けることができるのではないか。
そう思う。

最初に例にあげたふたりとは、
頑張って関係を築ている感じがする。
だから、わたしが頑張ることを辞めたら、
きっと、関係が終わる。
わたしはふたりに何も求めていないから。

そう思ったときに、この関係とても不自然だなと思った。
(店長は、仕事として雇ってくれているので対象外)

と、同時に、
わたしは「会話」ができる人との出会いをもっと大切にしたいと思った。

多分、過去にも書いたが「合う人に会う」ために生きたい。(大好きな若林論)という想いがとても強くなっている。

大学に行けば、わたしの合う(合わせてくれている)・居心地いいと感じる友人やゼミの先生、カウンセラーに会えるけど、それはわたしが学生だから。
お金を払って話すという時間を買っているから。
卒業後のわたしは、どこに合う人を求めればいいのか分からない。
そんなふわふわとした想いが「合う人」との出会いを一層求めているのだと思う。

なんて、考えてたら"わたしは居場所を提供する人"ではなく、
合う人との出会いの場を提供する人でいたいと思った。

そしたら、わたしがずっと課題としている生きづらさも、
軽減するような気がする。

合う人は、多ければ多いほどいい。
ひとりに依存させるマッチングではなく、
色んな合う人との出会いを提供していきたい。

なんか、解像度が高くなってきた?
フィーリングの部分で合うって正直、
めちゃくちゃ難しいけど、ここ突き止められる人になりたい。

じゃあ、何やるか?
そんなこと、分からない。
分からないから、人に聞く。
そんなわけで、
誰かわたしと話してみませんか?(笑)


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