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分かるは罪。
分かったら関係は切れてしまうけど、分からないから永遠に付き合える、学びあっていける。
今日参加したグリーフケアのイベントのトークセッションで、とある精神科の先生が言った言葉だ。
分かったつもりの友人関係
この話を聞いたときに、自分の友人との付き合い方を反省したときのことを思い出し、妙に納得した。
というのも、わたしはこの友人には、この話しかできない。これ以上の話をすると嫌われてしまうかもしれないという恐れと、これ以上仲良くなることを期待してはいけないという諦めのような惰性のような形で関係性を勝手に決めつけ、勝手に壁を貼り、友人関係を続けていた。
だから、特定の誰かではなく"友人"という関係の人と関わっているとき、いつもどこかで試されているような気がして、気疲れすることが多かった。
それが、ある日、あまり親密ではないと勝手に決めつけていた友人にカフェに呼び出され、少し重めの相談をされた。
相談する関係ではない相手だと割り切り、冷め切った感じで友人関係を続けているわたしなら面倒だと感じてもおかしくないはずなのに、その時わたしは嬉しいと感じた。自分でもびっくりした。
その子の心が軽くなるように話を聞いてあげたいと思った。
この日の感情から、友達という関係だから吐き出せる悩みもあるのだ、吐き出してもいいんだと思えるようになった。
そこから、他愛もないくだらない会話をすることから始まる友人関係も大切にしなければならないと思った。
こうやって、会うたびに分かり切ったようなくだらない話で終わることもあるが、ふと予期せぬ相談をされる。
それは、相談したらわかってくれる人だと、一緒に過ごす時間がそう思わせているのかもしれない。
だから、長い時間付き合っている友人に対してある程度分かっているつもりでも、分からない部分がある・共通点が多くても必ずどこか違う部分がある。
そういった前提条件をもったうえで人と話すことで、他人の価値観を尊重できる自分になっていけるような気がした。
(これ、過去にどっかに書いた気がするが。)
「分かるは罪。」
なんでも知りたい・分かりたいな好奇心旺盛のわたしにとっては、少し苦痛な話。
そう思っていたけど、その人が補足するように、
「分かる、理解することが思考が止まることである。分かるが変わるになるのがよい。」と言った。
これだと思った。
わたしの思考がクリアになった感覚があった。
そう思ったのも、分かった!ってことを書きなぐる行為を繰り返していたnoteを振り返ってみると、
同じ話題で色んな"分かった"で自論を展開していることに気づいたからだ。
自分の中でひとつ答えを出せたとしても、
それは明らかな事実ではないため、
自分の出した答えは本当にあっているのだろうか?
と自問自答をする。本を読む、人と話してみる。
そうやって、考えることを続けていると、
今まで自分が持っていた答えよりも、もっとしっくりくるものがある。
でも、過去に出した答えも、わたしのなかでは正しいものだから、
それは否定せずに、この過程があったから今の答えにたどり着いた。
そう思いながら、変化している感覚がある。
わたしがいつも追い求めている「自分らしさ」みたいなところも、いつもいつも答えが違う。でも、どの答えも間違っていない。
そのとき、出した答えは、その時の正解だけど、その答えを疑い続けることが重要なのではないかとも考えた。
仮に、これを自分の中での答えを出して満足していれば、他者の意見に耳を傾けることができなくなるだろう。
学ぶことをやめてしまう頑固で傲慢な人になってしまいかねない。
いつも、学ぶ姿勢はもっておきたいと思った。
それから、このイベントが終わったときに、ゼミの友人と一緒に帰宅した。
そのときに、「前のゼミでは、答えを明らかにすることを求められることにめちゃくちゃ苦しんでたんだよね」と、過去の感情を言葉にすることができた。
わたしは、いつも何かを分かりたい・知りたいと思っているけど、分かるためのプロセスに高揚感を感じているだけで、明らかになることにそんなに価値を感じていない。
分かるとスッキリするけど、ワクワクはしない。
だから、結果主義な世の中にあまり興味を示さず、結果を残すこともせず、ただひたすらにプロセスを楽しんでいるだけなのかもしれない。
結果や分かることばかりを追い求めるのではなく、
分からないことに分からないなりに向き合い続ける。
そんな生き方もありなんじゃないかと思った。
いや、そんな生き方がしたいと思った。
今日も支離滅裂な文章だったけど、分からないを、分からなくてもいいじゃんと言いながらも、分からないから教えてください・助けてください。そういえる状態の中で生きていきたいという総括。
いや、この世に分かるなんて存在しないよという傲慢になりかける自分への戒め文章のような気がする。
と思いながら、自分の部屋の壁を見ると、金曜日に癇癪を起し物を投げつけた形跡かと思われる穴を見つけた。
こういう感情になるのはどういう時かだけは早急に分かった方がいいことだなと。
今日も最後まで読んでくださり、ありがとうございました。