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ゲシュテル~その語感について~

ゲシュテル(Ge-stell)については何度か、このnoteでも触れた。

この概念は主に上記の『技術への問い』に展開されている。何度読んでも謎めいた概念で、何の役にも立たないように見える。

しかし、一技術者の印象として、ドイツ語でゲシュテルとは何よりも「架台・フレーム」である。そこはむしろ明晰である。英訳では、Enframingという訳語が採用されている。やはりフレームなのだ。

アズワン社の画像より

つまり、ゲシュテルとは人間の思考の枠組み(フレームワーク)の大枠を規定してしまう力であり、それ近代の技術の根底を成す枠組み・土台となり、技術の進展の自己目的化へと人びとを駆り立てているのである。

しばしば、ゲシュテルは「駆り立て」とか「集ー立」とか訳されるが、根本で思考のフレームワークが支配されているがゆえに駆り立てられ、集め立てられるのである。

もう少しゲシュテルの語感について触れてみたい。

上記のブログでも紹介されている『ハイデガーの技術論』に沿って歩んでみることとする。

著者の加藤尚武氏はヘーゲル研究や倫理学研究の大家であって、ハイデガー研究者でない。日本のハイデガー研究者にありがちなハイデガーに取り込まれて帰ってこれないような叙述は皆無で、クリティカルにハイデガーを検証できている。

彼が一歩一歩ハイデガーの語る技術論に深く寄り添って、「挑発性」という訳語を採用している。「兵士の召集」とか「軍事物資の調達」とかいう日常語と近い意味で、このゲシュテル(Gestell)という言葉を使っているとのことである。

臨時召集令状(赤紙)表面 | 奈良県立図書情報館より

また、炭坑採掘機械がゲシュテルと呼ばれていたというドイツの女性との対話からこの語の語感を語っている。

つまり、単に思考のフレームワークというだけでなく、生々しい政治的暴力が行使されているのである。

ハイデガーはこのゲシュテルの暴力に対して、「技術との自由な関係」を提唱して、古代ギリシア語のテクネーという概念を対置している。中でも、詩作(Dichitung)の可能性に賭けている。

ゲシュテルという暴力に立ち向かうのは、詩作だというのは理解がしづらいが、ボブ・ディランの反戦歌が平和運動の支柱になったことを想起すればいいのだろうか。

そのあたりのゲシュテルとテクネーの関係については、次回の記事で触れていきたい。


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