ハイデガーの政治的存在論~ブルデューの社会学的分析から~
ハイデガーの技術論に関して、前回の記事でその国家との結びつきについて、何点か疑問点を挙げていた。
少し回り道をすることになるが、文化資本を提起したことで有名な社会学者のブルデューがハイデガーの政治性を社会学的に分析した興味深い文献があったので、今回の記事ではそれを紹介したい。
ブルデューは、社会学的分析を通して身も蓋もないことを言っている。
つまり、ハイデガーの政治性は哲学的な装飾は施されてはいるものの、同時代の政治的言説の影響を濃厚に受けている。しかも、政治性を哲学的に、特に存在論的に装飾してるために、その政治的な内容に関しては空虚であると診断している。それをブルデューは、ハイデガーの政治的存在論の特徴と分析している。
ハイデガーの政治性については、ナチズムへの関わりがファリアスの告発以来事細かに取り沙汰されている。ナチズムへの批判が厳しいヨーロッパでは、ハイデガーはもはや権威ある哲学者として取り上げられない傾向にある。
その一方で、ハイデガー擁護者はその高尚な哲学的スタイルを根拠に、政治的責任を免責しようとする傾向にあり、水掛け論の状態にある。
そこでブルデューは、外在的に同時代からの影響を事細かに分析しつつ、内在的にハイデガーの存在論を読解する。
例えば、ハイデガーの著作において本来性と非本来性、先駆的決意性と頽落、良心の呼びかけに耳を傾けた自己と世人といった隠語が実存論的分析論の用語として駆使されている。
その用語に着目してブルデューは、ハイデガーがシュペングラーやユンガーなどの同時代人の影響を受けてその用語に哲学的装飾を施していることを明らかにしている。
それと同時に、その存在論的装飾の過程を内在的に読解しつつ、政治性について表現していなかったことに着目して、その政治的空虚さを明らかにしている。
ハイデガーが政治的主張を強めた1930年代において、人文学のプチブル知識階級が、科学技術の隆盛と大学の増加というトレンドに抗して、その既得権益を失わんとする試みが同時代の思潮としてあったようである。
技術者、そして工場労働者が客観的な知識を積み上げて力を増していく状況に対して、知識人は「保守革命」というスタンスを取り、芸術性、とりわけ詩作を称揚して内面性への沈潜という抵抗の形を取っていたという思潮があったというのがブルデューの見立てである。
ハイデガーはその暗黙の保守的な政治的前提を、存在論的装飾でカモフラージュすることができたために、政治的スタンスが異なるはずのサルトルにまでその存在論を依拠されることになったのである。
ハイデガーは哲学的カモフラージュが巧みであったために、生前は戦後に大学教授の職を失職したことはあるものの復帰することができたことに見られるように、その政治的スタンスについてある程度免責されることに成功していたわけである。
ブルデューの鋭い分析を目の当たりにすると、ハイデガーの哲学そのもの存在意義まで問われることになるし、実際にヨーロッパでもこの分析が主流なのだろう。
政治思想という一断面で見れば、ブルデューの指摘は妥当性があると思うのが、哲学の存在意義というところまでは検証するのが困難なので、それはまた別の機会に改めるとことして、次回の記事ではこのブルデューの分析も参考にしながら前回の記事で挙げた疑問点について検証したい。
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