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デイヴィッド・チャーマーズ『Reality +』「第3章 私たちは対象を知っているのか?」サマリー

「私たちは何を知りうるのか」-これは古今東西に共通する認識論の問いである。しかし、そもそも「私たちは対象を知っているのだろうか」という問いが必要である。対象を知っていることと、対象を知っていると思い込むことを区別することはとても難しいからだ。「知は力なり」(フランシス・ベーコン)は真実だが、その一方で誤った知識は力を損なってしまう。対象を知るということは困難を極める作業なのである。

外部世界についての懐疑主義

ニュースメディアの情報を吟味することまで含めると、「対象を知ること」を問うことは多岐にわたり困難を極める。そこで、ここではデカルトの外部世界をめぐる根源的な懐疑主義に限定して検証する。

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感覚があなたを欺いていないということを、あなたはどのように知るのか?

デカルトは『省察』において、「幻覚・夢・錯覚」という3つの古典的な議論を展開した。

デカルトは幻覚については「感覚は私たちを騙し続けてきたというのに、今この瞬間に感覚が私たちを騙していないといかにして知りうるのだろうか」という問いを立てた。

しかし、さすがのデカルトも、光の屈折による幻覚など部分的には発生するが、自己が暖炉のそばに温かい衣服を着て存在することなどの事実についての幻覚は発生しないと考えており、全面的な幻覚は否定している。

ところが、21世紀における幻覚の議論は、VRのヘッドセットを装着すると、話が変わってくる可能性がある。「VRデバイスは何度も人びとを騙してきたというのに、どのようにして今この瞬間にVRデバイスがあなたを騙していないといかにして知りうるのだろうか」と。というのも、VR上のイメージに対して自己の身体であると錯覚するという現象がたびたび起こることが報告されているからである。

ここではデカルトの議論に限定するので、いったんVRからは離れることとする。

あなたは夢を見ていないとどのように知るのか?

2つ目は夢の議論である。「夢は現実に似ているが、私たちはどのようにして夢を見ていないと知るのであろうか」という議論である。ただ、夢が永続することが想定できないため、1つ目の議論と同様、現在の現実を疑うという部分的な懐疑にとどまってしまい、デカルトはそこに満足していなかったようである。

デカルトの邪悪な悪魔

そこで、出てきた3つ目の議論は錯覚の議論である。「全能の存在が私を完全に騙して、実際には存在しない世界を経験させたとするならば、私はどのようにしてこのことが起きていないと知ることができるのだろうか。」 このような錯覚させる存在をデカルトは邪悪な悪魔と名付けた。

邪悪な悪魔の働きは部分的ではなく、私たちの外部世界を認識する感覚を全体的に騙しうるという想定が可能となる。幻覚や夢は一時的だが、邪悪な悪魔は感覚を根本から司っているからである。

邪悪な悪魔からシミュレーション仮説へ

デカルトの時代よりもコンピュータの時代の方が、邪悪な悪魔の働きはずっと容易になる。映画『マトリックス』で描かれた世界が分かりやすい。20世紀の哲学者は「水槽の脳」理論に依拠して議論を展開したが、21世紀になってシミュレーション仮説理論に移行してきている。

シミュレーション仮説の方がデカルトの意図を十分に捉えている。邪悪な悪魔は世界をシミュレーションすることを通して私たちの感覚に働きかけているからである。

さらに、バーチャルリアリティの進化が、邪悪な悪魔説の発展形としてのシミュレーション仮説を説得力のあるものとしている。全生涯にわたってシミュレーションの中で暮らすことが想定しうるからである。

懐疑主義のためのマスターアーギュメント(主議論)

外部世界を知り得ないという懐疑主義のための議論形式は下記である。

1.あなたがシミュレーション世界の中にいないということは知ることができない。
2.もしあなたがシミュレーション世界の中にいないということは知ることができないならば、外部世界について何も知ることができない。
3.ゆえに、あなたは外部世界について何も知ることができない。

前者2点が前提であり、最後の点が結論である。近年の哲学でこの議論は、懐疑主義のためのマスターアーギュメント(主議論)であるとみなされている。

第一の前提は第2章で事例を紹介した。十分にシミュレーションされて現実と見分けがつかないほどになれば、シミュレーション世界の中にいないことを知ることができない可能性がある。

第二の前提については、例えばパリや目の前のスプーンという外部世界について、十分にシミュレーションされていたとするならば、それがあるという確信もシミュレーションされている可能性が除外できない。

このような前提を認めるとするならば、外部世界については何も知ることができないという全面的な懐疑主義に陥ってしまう。これを避ける方法があるのだろうか。

我思う、ゆえに我有り

デカルトの方法的懐疑がその一つの方途となるであろう。方法的懐疑は、疑うことが目的ではなく、すべての知識の土台を確立することが目的であった。

デカルトが発見した土台は、自己の実存であり、有名な「我思うゆえに我あり」である。

しかし、どのようにして「我思う」と知ることができたのだろうかという懐疑が可能である。その「我思う」という思考の働きもシミュレータによるものではないかと。

問題となるのは前提の「我思う」をデカルトがどのように知ったのかという点である。思っていること自体は疑いようがないと彼は推論した。思考の働きを知ったことはいいとしても、そこから「私が」思うことまではつながらないし、ましてや私の存在まで結論付けることは飛躍である。

この懐疑に反駁するための代案としては、「我思う」については、「私には思考の働きがある、ゆえに私は存在している」と言明するのが最善である。仮に思考の働きがシミュレーターによるものであったとしても、少なくとも思考の働き自体の明証性は前提とできるからである。

このようにしてデカルトの議論を改善することにより、全面的な懐疑主義に陥らずに知識の土台を確保して、外部世界を知ることへの道筋を得ることができると考えている。

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