哲学エンジニアとして生きるということ
私は哲学科で研究者として生きる道を志しながら、紆余曲折を経て気がついたら機械開発・設計の仕事に携わるようになった。その経緯は下記の動画でお話させてもらったことがある。
哲学と工学、ほとんど水と油の関係にあるような業界へと転身してしまった。様々な方々のご助力なしには成り立たなかったのではあるが、本当に自分でも不思議に思っている。
哲学と工学が近接しうる稀なケースは、せいぜい「技術倫理」というジャンルで、技術者の社会的責任を問い直すことくらいであろう。実際には、投資に駆り立てられて日々費用対効果を求められる忙しい現場の技術者には、「倫理」と言われても、暇人の虚しい空言にしか映らないのではないだろうか。
そんな中、哲学と工学の対話は可能なのだろうか。私は可能だと考えるし、その前提で今度の日曜日に哲学カフェを開催する。オンラインでのご参加も大歓迎である。
当日の考えるヒントをいくつかメモ書きしておく。
哲学と工学を結びつける一つのキーワードは「テクネー」である。
「テクネー(techne)」とは技術(technic)の語源でありながら、学芸(Ars)の語源でもある。いわば、技術は市民が習得すべき一般教養の一つであったわけで、単なる知識のアクセサリーではない。
市民が自立して自然や世界に対峙するための営みといったところだ。
ところが、時代が進んで近代において技術は専門分化が進み、「テクネー」の源流から大きく乖離してしまった。その理由の一つが、ハイデガーが唱えるいわゆる「ゲシュテル」である。
その点は次回の記事で執筆する。