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友達を旅に連れて行きたかった少女の話【映画ルックバック感想】

(追記:最初「本当は創作とかどうでもよかった。友達を旅に連れて行きたかった少女の話」ってタイトルにしてたんですけど、いや藤野もどうでもよくは思ってなかったろうな…と思って改題しました)

映画「ルックバック」観ました!非常に良かったです。メチャメチャ喰らってしまって、見てからずっと京本のことを考えてます。僕はこういう引きずり方をさせる作品は、自分の中に傷が刻まれた感じがして好きです。当日呟いた感想はこんな感じ。

漫画の内容を忠実に追っていて、アニオリで追加されたところもそう多くなかったと思うんですけど、だけどアニメになったものを観たときの感想は明らかに漫画版のそれと違うなとも感じました。
結末を知っていて観るからというのもありますが…

平たく言うと、漫画版を読み終わったときに去来した「手に負えない現実の悲劇に対して創作のできることとは」とか「クリエイターの…」みたいな感想が、映画版だとあんまり湧いてこなかったんですよね。
クリエイターがとか漫画家がとかよりずっと重大なこととして。
ただただ、京本という少女の命が奪われたことが悲しかった。
外の世界に出て行った京本が美しくて、切なくて仕方なかったんですよ。

「マジで京本かわいかった、死んでほしくなかった…」以外の感想がねえな…と思って、俺は漫画がどうこうより女の子キャラのことしか頭に湧かない人間にこの3年のうちになっちゃったのかと思ってたんですけど、暫く原作読み返してて解ったのは、これ違いますね。
多分映画は、この1点について意図的に描いてる。

作中でもある「藤野ちゃんはなんのために描いてるの?」の問い。
これを映画では「藤野は描くことが好きなのではなくて描いた結果として読者が(京本が)笑うことが好き」なのだと、答えを用意したんじゃないかと考えました。

承認欲求は揶揄されがちだけども


よくSNS上で、まだそれほど有名ではない絵を描く人がRT数を伸ばしたいとかどうして伸びないんだろうだれも見てくれないみたいな話をして「承認欲求乙」みたいな意地悪な引用をされてたりすることがありますが、承認されたいなんて当たり前の話なんですよ。ただ客が見える所でメソメソするから馬鹿にされるだけで、承認欲求があることなんてわざわざなにかを描いて作って出すことを選んだ人間なら当然あります。自分が納得いくことが全てで世間の評価なんて気にしませんという求道者タイプのアーティストはごく少数だと思います。

承認欲求。ネット上ではもはや手垢のついた表現で、意味を深く考えるまでもなく「なんとなく馬鹿にされてること」としか認識されてませんが、この言葉を分解すれば「承認されたいと欲すること」、雑に要約しちゃえば認められたいとか愛されたい、報われたいということですね。
こんなもん創作をする人だろうとそうでなかろうと誰でも持ってると思います。日々の家事だって仕事だって同じです。この報われた感があんまり無くても平気な人もいれば「お前頑張ったな!」って言われないと自分の中の燃料が切れる人もいます。そこは個人差。

ルックバックの話に戻ります。学級新聞で描いた漫画を褒められて得意げ、自分より格上だと思っていた相手の京本に作品を絶賛されて有頂天で踊る、藤野は明らかにここでいう「褒められたくてしょうがない」タイプですね。自分が住む社会に承認されるために創作をしている。だから一回「おまえオタクになっちゃうよ」等風当たりが強くなったタイミングで「あ、これ承認されないわ」と描くのを辞めるのは自然な帰結です。目的と手段が合致しなくなったんだから。

多分ここが重要で。
後に彼女は「いくらやっても終わらない、めんどくさい、読むだけのがいいよ」と漫画を描くことを評するんですが、要は彼女にとっては作ることはプロセスでしかないんですよ。(※追記:描くこと自体がマジでどうでもいいという話ではなく、描くことに付随して得られるものが彼女にとって大きいのではという観察です)
描くこと自体が報酬にならないなら、彼女にとってのご褒美はなんだったのか。
京本がとなりにいることですよ。

「京本が可愛かったこと以外覚えてない」は多分正しい感想


京本が可愛かったこと以外覚えてない。京本かわいい。京本死なないで…あっ…うわあ…

僕の感想はこんな感じですが、多分これ正しくて、恐らく原作で小さいコマだった絵に尺を取ったりしてるのもそう取られるために優先順位を入れ替えてる。
藤野が京本といる場面が光り輝いてるの、あれ藤野の主観なんだと思うんです。
京本といるのが楽しくて仕方ない、自分が描くことで京本が笑ってくれる、京本と新しい場所に行ける。その歓喜があの映像美に投影されている。

だから僕ら観客が「京本かわえ…」以外語彙が無くなるのはある意味正しい。多分僕らはこのとき、藤野の気持ちを追体験している。

単純な話、承認欲求とかなんのかの難しいこと言わなくても、自分が描いたものであんなに喜んでくれて心から笑ってくれる人が居たら、もう他に何にも要らないですよ。フォロワーが何万人とか何万部売れたとかこのマ〇ガがすごい!入選とか、そういうことより遥かに嬉しい。
京本が「外に出て良かった、連れ出してくれてありがとう」と言ってくれたのも藤野の背中を押したでしょう。京本がこの先の世界に連れ出されることを望んでいると、喜んでくれると。
週刊少年ジャンプで連載をすることも東京に出ていくことも、藤野にとってはそれ自体が目的では無くて、京本を喜ばせたいという思いによるものだったと僕は解釈しています。
二人が手を繋いで走るとき、決まって藤野が京本を先導する絵だったのが象徴的です。藤野は京本を、京本が喜ぶ場所へ連れて行きたかった。

私たち、もっと先に行ける。
部屋から出て、街へ出て、この町も出て、
お金だって稼いで、
どこまでだって行けるよ。
一緒に冒険しよう、私が連れて行ってあげる!

しかしその気持ちは予期せず不一致を迎えます。
京本が藤野とは違う、創作のために創作をする求道者タイプだったから。

求道者として自己完結していた京本


求道者タイプは、自分が納得いくことが大事なので、他人の評価がどうこうとか付随する報酬とかはそこまで必要な要素ではありません。
究極的に言うと、他者を必要としていない。
だから仮に彼女が美大に行くことを決心した場面で、藤野が「もう十分うまいじゃん!」と評価したとしても、「いや、【私は】まだ納得行ってないの」と答えたでしょう。京本は案外頑固です。
一見藤野に依存しているように見えた彼女は、実は藤野よりずっと強い自分の芯を持った子でした。

藤野が外の世界に連れ出してくれたことに感謝しているのは本当。
そのおかげで自分にはもっと上手くなれる可能性があると気づけた。
だから、ここからは私自身で私のことを培いたい、もっと上手くなりたい。
「わたし、藤野ちゃんがいなくても一人で生きられるようになりたい」という言葉の意図は、恐らくこういうことだったんじゃないかと思います。

予期しない言葉に混乱した藤野は説得することもできないまま、京本とはそれきりになってしまう。
もっともっと遠くに連れて行けば、今までみたいに喜んでくれると思ったのに。
就職どうするのとか人と話せないくせにとか、色んな言葉を並べてみたけれど、恐らく藤野の中にあるのは「そんなこと言わないで、この先もついてきてよ」というそれだけの感情でしょう。
裏切られたように感じながら藤野はひとり帰路につき、目的が無くなって手段だけが残った、助手席に乗せたかった人の居ない一人旅に出る。

目的を失い、手段だけが残った旅


ふたりでいる場面がキラキラしていた半面、藤野が上京してからの様子は冷めたものです。
藤野の表情はあまり描かれず、連載作が評価されて結果が出ていても特にそれに関する喜びは描かれない。ただ客観的にアンケートの結果や「大人気」「大ヒット」「アニメ化」という文字列だけが並ぶ。
おそらく嬉しくはあったでしょう、だけど藤野にとっては浮かれるよりも現実の問題を対処していくことの方が大事。アシスタント不足で貧乏ゆすりをしながら電話をしている場面で、彼女にとって今創作は事務的な仕事になっていることがわかります。
まして彼女がしているのは世界一の漫画雑誌での週刊連載です。最大のモチベーションだったものとはとうに別離したのに、なんでかとんとん拍子で続いた仕事は人手不足のまま軌道に乗り、本人の意思を置き去りにして走り続けなきゃいけなくなっている。都心に構えたデカい仕事場も、とりあえずお金を派手に使ってみて楽しさやモチベを探そうとした結果なのかもしれないですね。

そりゃ楽しくないでしょう。
友だちと行くはずだった旅行で一人観光地巡りをしているようなもので、「わーすごい」とは思っても「すごいね!」って感動を分かち合う相手がいないんだから。

そしてその相手が永遠に喪われたことを、テレビのニュースと母からの電話で知ることになる。

死をどう受け止めるかは生きる者が決めて良い


京本の死。恐らくあの大学に行くかどうかの喧嘩別れ以降、連絡もとれてなかったんだろうなとわかる場面です。
ここからの展開については(パラレルワールドなのか?とかね)多少割愛しますが、思ったのはあの4コマ漫画が時空を超えて藤野の手に届いたのは、藤野に京本の部屋のドアを開けてもらうためだったんだろうなと。

全巻そろえた単行本、書きかけのアンケート、初めて会った時にサインしてもらった服。
喧嘩別れのようになっても、京本はずっと自分を応援していたことをそこで知る。
あの日突き放してしまったけど、私はあなたの背中をずっと見ていた。

独り旅をしてきた藤野が一人ではなかったことに気付いた瞬間が、あの部屋のワンシーンでした。

あの4コマを藤野はどう解釈したでしょうか。
明らかに事件と関係がある内容の漫画。だけど現実と違って藤野が助けに来る。そして「背中を見て」のタイトル。
あの時の藤野には僕らが見たパラレルワールドは認知できてないでしょう、だからわけがわからなかったはずです。
偶然とは思えない事件との一致、なんでこんな漫画を?どうして?
パラレルワールドの方の京本が「幽霊だ…」と呟く場面がありましたが、この時藤野は本当に、幽霊の京本がうなだれる彼女を今見ていて漫画を描いて自分の部屋に招き入れたように感じたかもしれない。

僕は心霊現象を信じるタイプではありませんが、「結局アレなんだったんだろう?」と思うような不思議なことは現実でもあります。認知できないだけでどこかにそうなる合理的な理由があったのだとしても、説明のつかないことを都合の良いように解釈して生きる糧にする権利が生者にはあります。

祈ることもそうです。
日頃から信仰が篤いわけでなくても、死後の世界を信じているわけでもなくとも、誰かが亡くなった時僕らはほぼ無意識に手を合わせ、死者の冥福を祈ります。勝手なことだと言えばそのとおりでしょう。
それでも、僕らは誰かの死に対して、彼岸で幸福に過ごしていることや穏やかな眠りにあること、せめて不幸でないことを祈らずにはいられません。不合理でもなんでも、人とはそういうものであるからこそ、死者のために弔い慰霊することを続けてきたのだと思います。

死んでしまった人は生きている人の歩みについていくことができない。
だから生きる人は時々振り返って、その人が自分と共にいたことを思い出す。
葬式は残された人間の為の儀式だとよく言います。ならばきっと、その時だけ都合よく「きっと見守ってくれている」と、生きる側が生きる側の都合で考えるのも間違いではないのでしょう。

死者の遺したものからなにを受け取りどう生きていくかは、此岸に残された生きる者に委ねられています。

死者と一体になり、このあべこべな旅路を生きていく

そうして藤野は仕事場に戻り、自分の仕事を続けていきます。
「仕事」です。彼女は連載という大ぶろしきを広げてしまった。
一番の読者がいないとしてもやっていかなければいけない。

彼女は京本が遺したであろう少し不思議な漫画を仕事場の壁に貼ります。
この場面で僕が思い出したのは、死者を火葬したあとその骨を食べる風習です。
どうかこのさきも自分の一部になって共に生きてくりゃれと、涙を流して故人の骨を砕いて食べる。死者が答えてくれるわけもない、それでも行う、遺されたものが生き続けるための儀式です。

恐らく藤野の胸に空いた傷は埋まることはないでしょう。
暫くの時間が過ぎて痛みが和らぐことは有っても、「京本はもういないんだ」と折に触れ思い出すし、自作がアニメになったときも「あの子に見てほしかったな」と感じる、その虚しさは癒えないでしょう。
もともと創作がしたくて創作をしていたわけではない。誰かに喜んでほしくてやっていた。
だけど一番喜んでほしい人はもういない。
自分を称賛する人で満席になった舞台の上に立ったとしても、京本の1席だけ空いているのを見て寂しくなるような生き方をせざるを得ないのだと。

だけどきっと、京本は見ていてくれる。
壁に貼った4コマがそう鼓舞してくれる。
根拠のない、都合のいい、自分が生きるための解釈をして、藤野は今後も目的を失って手段だけ残ったあべこべな旅を続けるのだと思います。



終わりに

というわけで、長くなりましたが「創作がどうこうより京本がかわいかったことしか頭に残ってねえ…」という感想って、藤野視点に立てば正しいんじゃね?というのをたっぷり書いた感想でした。
いや、本当につれえわ。引きずってたのでパンフレット買うか迷って迷って結局買わなかった。
家に帰ってオアシスの曲を聴いたり映画のサントラを聴いたりしてぼーっとしてました。
個人的にポルノグラフィティの「ロスト」がすごく今の気持ちに合致したので、これ貼って終わりにします。
京本の手が走ってる途中でだんだん藤野から離れていくシーンを思い出して、ウグ…つれえわ……
「ロスト」はライブ盤がまた凄いから(BD持ってる)、興味持った人は是非調べてみて!ください!


あなたは行きたくなかったでしょう
突然の風に攫われるように 僕とは離れた道を行った
惜しむ間もないまま行った

(中略)

茜色の空 闇夜の月 地球のどこかで産まれる命
宇宙の法則の上を歩く 小さすぎる僕たち

忘れたくはない 消え去ってほしくない だから今ここで歌に代える
あと何年経っても僕の中に 深く深くとどめておくよ

「ロスト」ポルノグラフィティ


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