見出し画像

『“時計の刻む音は夜のほうが響き渡るように思えるが、それは、意識が感覚や観念をほとんど空虚にしているがために、その音にたやすく呑み込まれてしまうからである。”~「DPPT event vol.7 Winter Durational Performance 2024 不眠症 -insomnia-」に寄せて』

同内容のPDF版については、以下よりダウンロード可能です。どうぞ合わせてご利用ください。

第1章 9時~11時55分

 9時だ。東京駅丸の内南口から、駅前広場へ引き返せば人はまだまばらで、薄膜のような日差しに白く染められた石畳の向こうの、街灯へ抱きつく白い影がひときわ眩しい。9時1分。石田高大さんのパフォーマンス《Right Up! 光れ!》は、すでに始まっていた。
 街灯は、根元に抱きつく彼の背丈の4.5倍ほどか、徐々に細くなっていった先端の、少し下あたりに実った3機のロケットみたいな灯具を見上げ、石田さんは両手をかざす。その手は花のように合わせられ、届かないライトをそれでも抱こうとするかのようだ。
 抱きしめては離れ、また別の角度から抱く…を繰り返す石田さんの耳やこめかみも街灯にぬくもりを分けていて、マッサージするかのように力を込めたり、時に溝の汚れを払ってやったりもする彼のむき出しの指先はきっと冷えている。そして白いパーカーの前を開け、身頃で包むように、1分ほど目を瞑って街灯を抱きしめてやった彼は、隣の街灯へ走る。それが9時9分のことで、実はすでに一度移動していた。

 ちょうど記念撮影でもするかのように丸の内駅舎を背に立てば、広場には街灯が左右2列、7基ずつ伸びていて、そこから道路1本挟んで繋がった「行幸通り」、そのさらに先には皇居外苑の緑も垣間見える。
 石田さんは向かって右列の最奥から始めたようで、それを仮に【1】とする。彼は、3分から10分には満たないほど、平均すれば4~5分かけて1基の街灯を“あたため”、【1】の手前の【2】、【2】の手前の【3】、そして【4】→【5】→【6】と駅舎へ近づく形で順々に移動し、9時38分、熱を計るかのように左手を自らの額に、右手を【7】に当てていた彼は広場を駆けて横切った。そうして抱きついた左列の最前、その街灯を【8】と呼べば、【9】→【10】→【11】と今度は駅舎から遠ざかっていって、点検のごとく灯具を指した石田さんの足元に、まばらな街路樹から簾のように光が落ちる。高い空から降り注ぐ日差しは林立する高層ビルの切れ目から隠れては現れ、時にそれらの壁を輝かせながら、広場を切り裂くように照らしている。石田さんは、日陰の【7】あたりからフードと手袋を脱ぎ着し始めて、日なたの【12】で手袋をまた外す(フードはすでにかぶっていなかった)、そしてチャコールグレーの硬い“肌”へ、力づけるように右の拳を当てた。

 【13】→【14】と、左右の街灯14基をあたため終えた彼は、また【1】に戻る…その前に、広場と行幸通りを繋ぐ横断歩道の傍らに立った街灯にもまっすぐ駆け寄った。それは石田さん6人分くらいで、これまでのものよりも1.5倍近く高い。ひとつだけ付いたシンプルな円盤状の、歯医者のデンタルミラーみたいな灯具が、高さとあいまって一層小さく見える下で、石田さんは抱きつきながら少し回った。この街灯を【15】とすれば、同じデザインの街灯が向こうの右列側にもあって、彼はその【16】も漏らさずあたためた。そうして【1】に戻ったのが10時19分のことで、この約80分の間にも広場は着実に賑わっていき、通行人が時に石田さんを、そして彼が指さす街灯を見上げながら通り過ぎる。石張りの舗装路には日時計のような街灯と、行き交う通行人の影が流れ、石田さんの影は“T”の字になった。彼は太陽に向かって両腕を広げていて、そして“充電”が終わるとまた街灯に抱きついた。

 石田さんはこの後も、街灯に抱きついては少し離れ、太陽光を浴び、また抱きつく(そして時に、灯具へ向かって手を突きだす)…という一連の動作を、蜜蜂のごとく飛び回りながら繰り返していくが、一方で、昨年7月の《再開発 Re-Development》(展示リスト①)において彼は“動かなかった”。27日と28日、計27時間にわたったパフォーマンスで、石田さんはビルの一室、その中央へ配されたパーテーションの前に立ち続けていて、時折、

アーティストを空間の中の
好きな位置に動かし
新しい「街」
を作ってください

と書かれたドローイング=指示書を読んだ観客が、ふらりと彼の前に立ち、手を取って動かした。動かされ、“再配置”された彼は、数十秒ほど経つとまた壁の前に戻ったが、27時間の中で当然パフォーマンスは変容していって、複数の観客が彼と共に“アーティスト”として立ち始め、互いの肩に手を置き、時に抱き合った。2日目の、背中を丸め、足を曲げた疲労の色濃い石田さんの手を取った北山聖子さんは、彼を座らせマッサージした(誰かに触れられている間は、彼は壁に戻らなかった)。パフォーマンス中、石田さんはある種のインフラと化していて、観客は時に彼を意のままに用い、時にメンテナンスしていたわった。
 その彼が、今はこうして街灯を労い、ここまでずっと見ていたダイチさんもひととき加わる。時刻はちょうど10時半を回ったところで、2回目の【3】だ、ふたりは間合いを計りながら、交互に街灯を抱きしめた。

 11時45分くらいには3周目も【5】に差し掛かっていて、その少し前から、石田さんは何回もジャンプしたり、足をコサックダンスのごとく上げたりして熱を生み出しては分け与えている。傍らのベンチでは、そんな彼に目もくれることなく東京駅をスケッチする人がいたが、12時5分前からパフォーマンスを始めた山﨑千尋さんは、東京駅をむしろ背にして、手に持った脚立を広げ、腰かけた。

第2章 11時55分~16時35分

 マフラーで首から口元を覆った山﨑さんが、両手をポケットに突っ込んだその黒いパーカーと、ライトグレーのカーゴパンツには白いペンキが盛大に跳ねている。さらに現場作業用の腰袋を装着して座りこんでいるのは広場の中央で、観光客が正面から駅舎を撮ろうとすれば、左右に掲揚された国旗の真ん中には彼がいた。

 東京駅は1914年12月20日に開業し、本イベントが開催される2日前にちょうど100周年を迎えた。観光客がこぞって撮影している「東京駅」と刻まれた石碑がある正面玄関(旧帝室口)、閉ざされた扉の先の広間には当初壁画があったようで、「海の幸」「山の幸」という画題を与えられた黒田清輝は、「これを日本の水陸における労働の現代的な偶像に置き換え」て下絵を描いた。大小6枚組のそれらは1945年5月の空襲で焼失したそうだが(『辰野金吾と美術のはなし 没後100年特別小企画展』東京ステーションギャラリー,pp.78-79)、山﨑さんの姿は、荷を背負い、綱を引き、カンナで木材を削る労働者たちを現代に蘇らせたようだし、駅舎もまた労働によって造り上げられたことを、観(光)客に思い出させているようでもある。

 そして、丸の内北口へと向かえば北山さんもまたパフォーマンスを始めようとしていて、

Terence Conran:
Making 
Modern 
Britain 

と書かれた東京ステーションギャラリーの壁面ガラス、そのBritainの「ri」あたりに立った彼女は、斜めがけにした黒のバッグからおもむろに、白いハンカチのようなものを取り出して、ゆるく曲げた両手で胸高に持って広げる。真四角だったそれは縦長の長方形に、さらに90度横倒しにする要領で倍の(最初の正方形で言えば4倍の)大きさになった。そこからまた縦長の長方形(8倍)を経て広げきったその正方形(16倍)を見て、「地図みたいですね。」と言ったのはダイチさんで、私は、「紙を42回折ると、その厚さは38万キロ離れた月にまで到達する。」という、噂のような、思考実験のような話を思い出していた。もちろん、それ自体不可能ではあるが、反復が、ある種の驚異や詩情に繋がりうるということは、Durational Performanceに通ずる気がする。

 北山さんはその“白地図”を確認するかのように一拍置いた後、摘まむように持っていたふたつの角を、モンシロチョウが静かに羽根を閉じるかのように合わせた。そして丁寧に元の大きさへ畳んだそれを北山さんはまたバッグへしまう。時刻は12時6分で、布を出してから再びしまうまで、2分ほどだった。

 ちょうど2週間前の12月8日、「トキ・アートスペース」(展示リスト②)の中央に立った北山さんも、バッグから文庫本サイズに折り畳まれた白い布を取り出し、同じようにゆっくりと開いていった。開ききったそれは彼女の足から頭の先まで、角を支える両腕がぴったりと隠れるほどで、切れ目なく40分ほど行われた、広げる→畳むというサイクルはやはり1回につき2分前後だった。そしてそれは、布を使って身体を計るようでもあり、逆に身体を使って布を計るようでもあった。
 例えば、最大サイズの半分はまっすぐ立った北山さんの背丈ほどで、そのさらに半分の正方形は上半身をほぼ覆い隠したが、こうして文章を書きながら揺られている西武新宿線の乗降口を見れば、それはちょうど広げきった布ほどで、扉の片面はその半分に、そこに開いた窓は最大サイズの1/8に近しい。

 北山さんが次にバッグを開いたのは12時14分、さらにその次は24分で、どうやら10分に一度の頻度で布を広げるらしい。その間は、ドーム状の駅舎内をゆっくりと回遊したり、観客と少し話したりもしていて、昨年6月の《閉て開け(たてあけ)》(展示リスト③および参考記事[1])でも、会場の窓を8時間開け閉めしていた彼女は時折手を休め、ソファーに座り、同時に別のパフォーマンスをしていた山岡さ希子さんのことを見ていた。それは、開け放った窓から訪れる風の気配を、しばし感じる時間でもあった。
 同年5月の《太陽に輪ゴムを打つ》(展示リスト④および参考記事[2])でも、タイトル通り、原っぱに立った北山さんは、足元に置いた輪ゴムの束から腰をかがめて1本拾い、左手の親指の腹と、フック上にした右手人差し指とで引き絞ったそれを太陽目がけて撃った。放たれる輪ゴムと輪ゴムの間隔は、当初の30秒ほどから約120秒へ、3時間弱かけて段々と遅くなっていったがそれは客観的な時間の話で、彼女の主観的な時間としては、60カウントで打っていたようだ。

 北山さんは、自らの心身と手近な道具とを“ものさし”にして、時間を、そして空間を計測しているのかもしれない。布をしまった彼女が駅舎内を見るともなしに見ている間も、あるいは広げている間も、ずらりと並んだ改札からは乗客が吸い込まれては吐き出されていって、白い布は時にはためいた。その“呼吸”は一見不規則だが、緻密なダイアグラムに基づく運行とも結びついているはずで、周期的に咲いてはしぼむ布は、メトロノームのごとく駅のリズムを測っていた。

 広場へ戻れば石田さんが、おそらく3周目の【11】にいて、座り続ける山﨑さんのまばたきも少ない眼は、撮影あるいは鑑賞しようとする私たちではなくもっと遠くを見ているようだ。彼の背後に立てば、皇居外苑と思しき木々、その稜線からは高層ビルも頭を覗かせている。

「夜が来るのを待ちながら、ジョヴァンニは北の荒れ地を眺めていた。砦からは前方の山のせいで、小さく三角形をなした部分しかみえなかったが、今ここからは霧のとばりに淀んだはるか地平線の果てまで一望のもとに荒れ地を見はるかすことができた。それは土埃をかぶった低い灌木の茂みがところどころ生えているだけの、石ころに覆われた一種の砂漠になっていた。右の方角の果てに、一筋黒っぽく見えるものは森かも知れなかった。両側には険しい山並み。それが延々とのびた城壁のように垂直に切り立って続くさまは壮観であり、その頂きは秋の初雪に白く覆われていた。」(ディーノ・ブッツァーティ『タタール人の砂漠』岩波文庫,p.127)

という一節を読む時、砂漠の向こうから到来するはずの“敵”をひたすら待ち続けるジョヴァンニ(・ドローゴ)の目と同化しながらも、読者は「長い警務勤務の間に幾度となく組み立てては、毎日新たに細部を練りなおしながら、英雄的な空想にふける」(同書,p.128)彼の姿をも俯瞰している。その時、砦を背に、砂漠を眺めるジョヴァンニもまた景色の一部と化していて、山﨑さんも、駅舎を背負って風景になろうとしていたのかもしれない。

「京は出入口がアーチ形の城門の形で、上に望楼(ものみやぐら)がある。もし城門や城楼が日影の観測に使用され、時刻を決めたとすれば、会意としての解釈も可能であり、その観測方法をいう字であるかもしれない」(白川静『常用字解[第二版]』平凡社,p.167)

というのは漢字「景」の成り立ちで、山﨑さんもまた“風景”と化しながら、身体によって光を観測し、時を刻んでいた。開始すぐの12時頃、駅舎を背にした彼の影は向かって左に伸びていたが、13時を過ぎると、今度は翳り始めた地面の右側に、さっきより薄くなった影が落ちていた。それは、石田さんと北山さんのパフォーマンスが、その周期性故に時を計る一単位としての機能を内包していたのとは対照的で、石田さんを探せば【1】にいた。4周目なのだろうか、日なたのベンチにしばし座った彼は【1】へ走り、抱き、そしてまた駆け戻って座っていた。

 14時を回ると、山﨑さんは翳っている駅舎側へと移動したため影も消えた。旅行者と思しき一団が、横並びになって記念撮影をしており、その度に、山﨑さん(と、時に私たち観客)は背景として切り取られる。それはすなわち、様々な角度から撮られたイメージとして増殖することでもあって、SNSを検索すれば、“山﨑さんのいる風景”が見つかるのではないだろうか。
 富岡進一氏の『描かれた労働―ターナーにおける産業の表象』(『ターナー 風景の詩』毎日新聞社,pp.230-241)によれば、ターナーは、自身の風景画に「漁師、農民、羊飼い、家事をする女性」といった様々な労働の担い手を、単なる引き立て役以上の懐旧や問題意識を込めて描いていたらしいが、山﨑さんも、作業員姿の自らを東京駅に配置することで、風景になりつつも“風景画”を描いていたのかもしれない。それは、省みられることのない街灯たちに“光を当てる”石田さんのパフォーマンスとも通じていた。

 14時9分。山﨑さんの背に衝突したのはスマホを覗きこみながら後ずさりした撮影者だったが、「待ち針に(ミシンの針が)ぶつかっちゃった!」と、居間のテレビで裁縫コンテスト番組の出場者が叫んでいて、山﨑さんもまた待ち針のようだった。通行人が、四方八方に行き交う縫い針だとすれば、駅舎内を回遊する北山さんは、北口ドームという“穴”を繕っていた。

 石田さんは、名札でも縫い付けるみたいに広場の街灯をぐるぐると巡るが、その“縫い目”は時に乱れて、駅舎前にいた私の隣、山岡さんの前まで来た彼は拳を近づける。彼女もそれに応えて自らの拳を合わせ、そうしてまた石田さんが、たしか【10】へと戻って抱きついたのは15時15分頃だったか(その後、私のところにもやって来たし、北山さん目がけて走っても行った、彼は皆を縫い合わせていた)。その抱きつき方にはコーチが選手の背中を叩いて激励するかのような力強さがあって、対して、開始直後には恋人を抱きしめるかのようなやわらかさがあった。
 そうした変化は、DPPTのイベント第一弾として発表された《6つのサイコロ》(展示リスト⑤および参考記事[3])とも通ずる。彼は計8時間にわたって6つのサイコロを振り続け、そこには、盤上に散らばったサイコロを積み、左手のお椀をかぶせて崩すという手順が含まれていたのだが、その時、発せられる音は次第に大きくなっていった。しかしそれは乱暴に、上から下へ叩きつけるようになったわけではない。むしろ痙攣のごとき最小の動きへと洗練されていった結果で、石田さんのパフォーマンスにおける習熟や、それに伴う疲労、そして人や物との関係性にはスポーツ的な色合いがある。

 …が、目の前の特設リンクでスケートに興ずる親子連れたちはもっとなごやかな雰囲気だ。樹脂製らしいそれは、中央広場から横断歩道を渡った行幸通りの、広い中洲のようなところにあって、「Marunouchi Street Rink」というイベントらしいが山﨑さんはそこに移動していた。彼はリンクを、というよりその先の皇居外苑を背に座っていて、彼の目には、今度は東京駅が映っているはずだ。

***

 年が明けて1月22日、この日の彼が見ているのは、隣接するマンションの通路かもしれないし、同じく隣り合う一軒家の、窓掃除に余念のない人かもしれない。山﨑さんが《Thinking of conversation topics》を発表したのは「150年」展(展示リスト⑥)でのことだ。住宅密集地の空き家6軒の窓という窓を繋ぎ合わせてダンジョン化した展示空間を経巡った先の屋上で、急流めいた首都高速5号池袋線を背に住宅を見おろす。そこには三角屋根が亀の子、あるいは雲海のように連なっていて、その内一つの屋根に、二人の人物が並んで椅子に座っている。山﨑さんと(キャプション代わりに配布された“栞”によると)彼の恋人だった。
 椅子の脚は屋根の傾斜に合わせてカットされ、固定されているようだから彼らは無理のない姿勢で座っているし、手を繋いだり、声こそ聞こえないものの何かを話すそぶりをしていたりと、季節外れのうららかさとあいまって牧歌的だ。それは、「(処刑を待つ)罪人みたい」と山岡さんが言った、東京駅でのパフォーマンスとは全く違う雰囲気だが、彼らの右手方向、少し離れた位置に広がる雑司ヶ谷霊園の林の向こうからは、ビル群がにょきにょきと生えていて、2つのパフォーマンスは雰囲気こそ違えど、“風景”になりつつ“風景画”を描くという点では近いかもしれない。
 カップルが屋根の上でのんびりしているようにも見える、というよりほとんどそうなのだが、例えば洪水で屋根の上に避難しているみたいなシチュエーションもそこには薄く重なっていて、そもそもこの「150年」自体がそうだ。時の止まった(といっても、残されたカレンダーなどを見ればまだ数年程度のようだが)個人宅に土足で侵入し、単管パイプの仮設通路を伝って行き来する体験は多分にアトラクション的でありつつ、“災害”後の世界のシミュレーションでもあった。それは「終末もの」と言われる一連のフィクション作品の系譜とも言えるかもしれない。
 「あそこどうやって行けるのかな」と、傍らで見る観客同士が山﨑さんたちを指しながら話す。こうした疑問が繰り返し発せられたのは、そこに彼らの身体があったからで、もし他の形式の作品が設置されていたとしたら起こらなかっただろう。やったことはないが、『SIREN』というホラーゲームには「視界ジャック」というシステムがあるようで、どうやらプレイヤーは、周囲のキャラクターが見聞きしているものを盗み見・盗み聞きでき、例えば高台に陣取る敵の目を借りて、地形を把握し、新たなルートを見つけたりするようだ。「150年」でも、後は引き返すしか選択肢のない屋上において、鑑賞者は山﨑さんたちの身体に“憑依”して、彼らの視界には何が映り、どんな風が頬を撫でるのか、時折座り直す椅子の掛け心地と共に追体験する。しかし、

「恋人には座っている間『一瞬について考えて欲しい』と伝えてあり、その間私は『150年』について考えてみようと思います。」(キャプション代わりに配られた栞より)

という彼らの思考は当たり前ながら分からないし、

「それで、ふたりとも気が済んだら家に帰って、その日考えたことについて話し合います。」(同上)

というその場にも、私たちの居場所はない。そうした遠さは150年という時間にも通じて、「時間なのでそろそろ…」と、係の人に声を掛けられる。19時20分。屋上から下りる間も彼らは変わらず座り続けていて、暗くなって、もうどちらがどちらかも分からないシルエットと化した片方の腕が空を指さす。1時間ほど前まで見えていた星は、薄雲の向こうに隠れていて、隣接するマンションの一室、カーテンの切れ目からは光が洩れている。18時半頃、その部屋の住人ふたりが連れ立って帰宅し、その時から灯り続けている光だ。山﨑さんたちも、きっと見ていただろう。長時間パフォーマンスをする、それを可能な限り見続けるということは、こうした“些細な”一瞬を拾い集めて共有していくことと言い換えられるかもしれないし、それこそ、即時的な“視界ジャック”が浮き彫りにするような距離を埋めうる、遅効性の営みなのかもしれない。

***

 12月22日の東京駅に戻れば、15時58分、いつの間にか山﨑さんの正面左側の街灯が静かに点いていて、慌てて振り返るが駅前広場の街灯はまだ点いていなかった。しかし、それらが点灯するのも時間の問題で、石田さんがベンチで腹筋をしたり腕立てをしたり、バレエダンサーのごとくくるくると回ったりしながらそれらをあたためている間に、16時10分、山﨑さんの右側の街灯も全て点灯した。16時25、26分頃には駅舎もライトアップされ、16時半、【15】を抱きしめていた彼の向こう一列の街灯(【1】~【7】、のっぽの【16】もこの段階で点いていたか)が輝き始めて、それを見て取った石田さんは駆け寄り、1基ずつ確認しては右親指を立てて力強く「OK」を出していく。その間に、反対側の街灯(【8】~)もすでに点いていて、石田さんはそのままの流れで「OK」を出していくが【10】だけが点いていない。自らの鼓動を分け与えるように、左手を胸に、右手を【10】に当てて目を瞑る彼の足元では、山岡さんが持参した石7つで【10】の根元を囲っていた。16時35分のことだった。

第3章 16時35分~20時10分

 その内1つの石を持った山岡さんは、そこから「東京駅」と刻まれた石碑へ向かい、石を置き、また【10】へと戻るがその間も石田さんは暗いままのライトを励まし続けている。石碑の前でも観光客が、その上に置かれた、心臓みたいな石に気付くことなく撮影をしていて、2個目の石を持った山岡さんはしばし佇んで待つ。その頃にはもう、山﨑さんが脚立を担いで広場側にやって来ていて、彼のパフォーマンスはいつの間にか終わっていたらしい。

 北山さんのパフォーマンスも17時までだ。見納めに駅舎へ駆け込んだ16時43分頃はまだ薄明るかった外も、16時54分、北山さんを追ってまた駅の外へ出る頃には急激に青暗くなっていて、10メートルほど離れたあたりで彼女は振り返る。布を広げ、畳み、そしてまたバッグにしまう彼女の一連の所作を、オレンジにライトアップされた駅舎が見ていた。駅舎と北山さんの間を、足早に通行人が過ぎていった。

 7個の石は、「東京駅」の石碑からも、いまだ点灯しない【10】の根元からも消えていて(石田さんもパフォーマンスを終えていた)、石はどうやら“遺失物”として回収されてしまったようだ。山岡さんが取りに行く。山﨑さんも15時頃から場所を移動していたが、それもどうやら“駅舎を撮影する人の妨げになる”と諭されたためらしく、ここにむしろ、屋外パフォーマンスの効能があるのではないか。例えば、道路交通法第76条第4項第2号が「道路において、交通の妨害となるような方法で寝そべり、すわり、しやがみ、又は立ちどまつていること。」を禁ずることによって防がれている事故というのはたしかにあって、もちろん重要なのだが、一方で、道路の、街の使用法というのは放っておけば硬直化していき、それは知らず知らず私たちの身体と思考も縛る。街にパフォーマンスを持ち込むことは、“凝った”都市を内からストレッチすることかもしれない、そしてそれは、そこに生きる私たちの身体をもほぐす。

 欠けることなく戻ってきたらしい石は、駅舎両脇に配された“小山”、その向かって右側“山頂”にすでに4個置かれていた。南口方面へ向かえば、〈1.植え込みの中〉と、〈2.膝高のライト下〉に点々と置かれた石の先には山岡さんの背中が見えて、彼女は〈3.南口スロープ途中の外壁の縁〉に石を置いて引き返してくる。そしてまた小山に引き返した山岡さんは、石を両手に1個ずつ持つと〈1〉と〈2〉に石があるのかを目の端で確認しながら〈3〉の少し先へ向かう。〈4.交番脇の掲示板下〉に置いた彼女はさらに〈5.南口エレベーター前〉にもう1個を置いて、また〈4〉→〈3〉→〈2〉→〈1〉と確認しながら小山に戻る。そして、同様に石を2個持った山岡さんは、石が1つも無くなった小山を出発すると、〈5〉のエレベーターを越えて、横断歩道を渡り、そして〈6.KITTE横の郵便ポスト上〉に石を置いた。私たち鑑賞者とDPPTメンバーは、時に行き交う人たちの中へ溶けてしまいそうな彼女の後ろ姿をぞろぞろと追った。山岡さんは〈6〉から道なりに5メートルほど行った先の〈7.三角コーンの上〉へ慎重に石を置き、これで7つの石は北斗七星のごとく展開された。

 道々に点在する石を〈6〉→〈5〉→〈4〉→〈3〉と確認しながら引き返して〈1.植え込みの中〉と〈2.膝高のライト下〉の石を拾い、再度道中の石を確認しながら先頭の〈7.三角コーンの上〉を通り過ぎる。そして、数メートル先の〈8.KITTE礎石脇〉と、さらに横断歩道を渡った先の〈9.Apple前〉へと置いたのは17時35分で、山岡さんのパフォーマンスが始まってからおよそ1時間が経過していた。ここからは最後尾と後ろから2番目の石を回収し、それらを先頭の少し先へと運ぶことを繰り返して進んでいったが、その動きは返し縫いみたいだ。

 《往復する拳たち Fists going and forth vol.3》と題されている通り、石を使ったこの一連のパフォーマンスは昨年5月(展示リスト⑦および参考記事[4])から行われていて、初回では16個、《vol.2》では30個(だったが、途中で割れたり砕いたりして変動した)、そして今回の7個と様々な個数が試みられている。石を運び続ける、という点では共通しているのだが、過去2回は室内で実施されたということもあり、山岡さんは2台のテーブルの間を行き来した。一方のテーブルから、6、7歩離れたもう一方へと1個ずつ移し、終わるとそれらをまた戻す。8時間にわたって繰り返される中、ピストン運動めいたその軌道はほぼ変わらないが、石を額縁のごとくテーブルの縁に並べたり、天板を石で引っかいて奏でてみたりと、往復の“間”には様々な動きが盛り込まれていて、それは、義務から義務へと行き来するがごとき日常における遊びのようだ。デュレーショナルパフォーマンスを見ることもまた、ぽっかりとした“無為な”時間を取り戻すことでもあって、皆で集まって行うそれ自体がひとつの抵抗なのだろう。

〈9.Apple前〉から横断歩道を渡った後の道のりは、丸ビル→行幸通り(=山﨑さんが15時頃からいた“中洲”)→新丸ビル→日本工業倶楽部会館→日本生命丸の内ビルというもので、いわば東京駅を起点として、道路で分かたれた“島々”を巡って駅前広場より一回り大きな半円を描いた。詳述すれば、

〈10.丸ビル前の円柱型フロアガイド上〉
〈11.ペットロボット「LAVOT」が3体並ぶウインドウ前〉
〈12.地下階段の脇〉

(横断歩道)

〈13.仮設スケートリンク入退場口のフェンスの間〉
〈14.送水口の上〉

(横断歩道)

〈15.バーの屋外テーブル上〉
〈16.新丸ビル出入口脇の柱の影〉
〈17.「新丸ビル」サインの前〉

(横断歩道)

〈18.日本工業倶楽部会館の壁面の溝〉
〈19.三菱UFJ信託銀行本店ビルの案内板上〉

で、〈19〉に山岡さんが石を置いたのが18時33分、開始からおよそ2時間後だ。東京駅の中央玄関を“12時”だとすれば、7時から8時のあたりだろうか。この時、石は〈19〉を先頭に、横断歩道を2本挟んだ〈13〉まで伸びていた。しかし、その道のりを体感することはできても一望することはできなくて、今回の《往復する拳たち Fists going and forth vol.3》には、ランドアート的な側面があったのかもしれない。

 そして、Durational Performanceは、反復や持続を伴うというその性質故にその後の展開を“予期”しやすい。それはベルクソンの以下の一節、

「美的な感情のうちで最も単純なもの、すなわち優雅(grâce)の感情を考察してみよう。まずは優雅さとは外的な運動におけるある種の心地よさ、ある種の容易さの知覚にすぎない。ところで、容易な運動とは個々の運動が互いを準備し合うような運動であるから、われわれは遂には、予見された運動のうちに、そしてまた、来るべき態度を指示し、それらをいわばあらかじめ形成するような現在の態度のうちに、より高度な容易さを見出すに至る。ぎくしゃくした運動が優雅を欠くのは、その個々の運動が自足していて、それに後続する運動を告知してくれないからである。優雅が折れ線よりも曲線を好むのは、曲線が絶えずその方向を変えるにもかかわらず、その新たな方向の各々がそれに先立つ方向のうちですでに指示されているからである。したがって、運動することの容易さの知覚は、ここでは、いわば時間の歩みを引き留めて現在のうちに未来を保持することの快楽と一体をなしているのだ。(中略)このように、優雅の感情にはある種の身体的・物理的な共感(sympathie)が関与している。」(アンリ・ベルクソン〈著〉,合田正人・平井靖史〈訳〉『意識に直接与えられたものについての試論—時間と自由』ちくま学芸文庫,pp.22-24)

にも通ずるかもしれないが、もちろん全てを言い表しているわけではなくて、

「美は、ぎくしゃくした動きの連続から成るものだ。その動きの多くはほとんど重要ではないが、それらがいつかひとつの〈ぎくしゃくした動き〉をひきおこし、それこそが重要なものになるということを私たちは知っている。」(アンドレ・ブルトン〈著〉,巖谷國士〈訳〉『ナジャ』岩波文庫,pp.189-190)
「〈ぎくしゃくした動き〉の言語はSaccadeである。リヨン駅で身をはずませている蒸気機関車のイメージと連動し、それが発車しないままでぎくしゃくと動きつづけた末に到達するような、不規則で発作的で瞬間的な、ただひとつの〈ぎくしゃくした動き〉なるものの観念を伝えている。(後略)」(同書,訳注190-1,p.309)

と語られるような“ぎくしゃくした動き”もまた、Durational Performance、というよりパフォーマンスには含まれているはずだ。あたかも雲間から顔を出す月のごとく、展開=未来もまた見通せたり見失ったりする。そんな「優雅」と「ぎくしゃく」の間を往還する動きをもって、Durational Performanceは時間を捉えようとしているのかもしれない。

 〈19.三菱UFJ信託銀行本店ビルの案内板上〉に石を置いた山岡さんは、また横断歩道を渡って“時計の針”を8時、9時と進める。日本生命丸の内ビル周辺の〈20.パーテーションポールの上〉→〈21.街路樹の股〉と置いていくが、この時、私が(もしかしたら山岡さんも)一安心したのは、引き返した先の〈13.仮設スケートリンク入退場口のフェンスの間〉に石がちゃんと残っていたからだ。街の方々へ置かれていった石たちは、ある意味で、その場所の“空間的安全性”、言い換えれば管理の隙を測る探針のようなもので、例えば〈8.KITTE礎石脇〉と〈13〉を比べれば、後者の方が場所の一時性故に(管理の目が届きやすく)石は撤去されやすいだろう。川の流れの緩急によって石の分布が変わるように、都市の流動性を測っていたと換言できるかもしれない。
 そもそも、山岡さんが今回を含めた3度のパフォーマンスにおいて使用している石は、どれも埼玉県寄居町の玉淀という、「荒川が秩父の山地から平野部へ移り変わるところ」(寄居町『玉淀河原 ~親水護岸と親水広場~』https://www.town.yorii.saitama.jp/soshiki/13/tamayodokawarashinsuihiroba.htmlより。2025年1月30日閲覧)で採取されたもので、パフォーマンスの度に拾っては返しに行っているらしい。その動き自体、水の循環を体現するかのようだ。

 その後も、〈22.日本生命丸の内ビルの自動ドア脇〉→〈23.切られた街路樹の上〉→〈24.埋め込みライトの上〉と進み、東京駅北口へと続く〈25.横断歩道途中のブリンカーライト上〉にも置く。そして山岡さんが〈26.駅舎脇の格子蓋上〉の次に選んだ〈27.東京ステーションギャラリーの壁ガラス前〉は、北山さんが正午過ぎからパフォーマンスを始めたあたりだ。〈27〉向かいの〈28.丸の内北口改札の円柱脇〉から再び駅舎の外に出て〈29.駅舎北側切妻部のアーチ下〉→〈30.駅舎正面玄関向かって左の“小山”の上〉→〈31.「東京駅」の石碑脇〉と“帰還”したのが19時36分のことで、駅前広場の街灯【10】は、なお点灯していなかった。

 〈31.「東京駅」の石碑脇〉に集まったのは6個で、〈24.埋め込みライトの上〉に取り残されていた1個を回収しつつ、私たちは大手町方面へ向かう。それは「将門塚」に向かうためで、各人の掌には1個ずつ石が収まっていた(山岡さんを含め、ちょうど7名だった)。
 「前はもっと木が生えていた。」と言う山岡さんは、おそらく2020年11月から2021年4月にかけて実施されたという第6次改修工事の前をイメージしていたのだろう(当時の様子については、史跡将門塚保存会『史蹟・将門塚の歴史と第五次整備工事までの変遷』https://masakado-zuka.jp/file/20201110154621288.pdfを参照。2025年1月30日閲覧)。鬱蒼と茂る木々の面影はなく、シャープな木塀で囲われた敷地内を一望すれば、玉砂利の“川”には石橋が掛けられている。そこを渡った先に平将門を祀った板碑があるのだが、「碑」の語源を調べてみれば、

「石碑をいう。古くは宮廟の傍らに石碑を立てて、日景をはかって時を識り、また犠牲をつなぐのに用いたという。」(白川静『字統』平凡社,p.742)
「(1)たていし。(ア)日影によって時間を測るための石柱。(イ)宗廟に立てていけにえをつなぐ石柱。」(尾崎雄二郎ほか編『角川大字源』角川書店,p.1262)

とあって、前述の「景」と同じく「時間を測る」イメージが現れる。そして、

「供犠はある一つの物=客体を従属関係へと縛りつける現実的な絆を破壊する。つまり生贄を有用性の世界から引き剥がして、知的な理解を絶するような気まぐれの世界へと戻すのである。」(ジョルジュ・バタイユ〈著〉、湯浅博雄〈訳〉『宗教の理論』ちくま学芸文庫,p.55)
「供犠とは将来を目ざして行われる生産のアンチ・テーゼであって、瞬間そのものにしか関心を持たぬ消尽である。この意味で供犠は贈与(ドン)であり、放棄(アバンドン)なのである(中略)供犠においては、捧物はどんな有用性をも免れているのである。」(同書,pp.63-64)
「バタイユはこの純粋な贈与の次元、贈与を行う者へと戻ることのない、まったくの放棄としての贈与の次元を供犠にとって最も本質的なものであると考える。自らが労働して生産したもの、自己所有する貴重な事物を破壊し、消失してしまうことは、有用性がつながる連鎖、その回路のうちにとどまるはずだった〈富〉をそこから引き剥がし、なにも再生産に役立つ見込みのないやり方で消尽することである。」(同書『文庫版あとがき』,pp.245-246)

というバタイユの「供犠」の概念にも繋がって、Durational Performanceにおいても、パフォーマーと鑑賞者とが時間という“自己所有する貴重な事物”を相互に生贄とすることで、日常的な“有用性”の世界から抜け出そうとしているのかもしれない。
 
 石を携えたままお参りを済ませる。そして傍らの、三井物産ビル前の植栽に1つずつそれらを隠し置いたのが20時10分頃のことで、私たちはそこで解散し、帰路についた。

「―それをそのままにしておいて私は、なに喰くわぬ顔をして外へ出る。―
 私は変にくすぐったい気持がした。『出て行こうかなあ。そうだ出て行こう』そして私はすたすた出て行った。
 変にくすぐったい気持が街の上の私を微笑えませた。丸善の棚へ黄金色に輝く恐ろしい爆弾を仕掛けて来た奇怪な悪漢が私で、もう十分後にはあの丸善が美術の棚を中心として大爆発をするのだったらどんなにおもしろいだろう。」(ちくま文庫『梶井基次郎全集』所収の『檸檬』より。pp.20-21)

 こうして置き去りにされた石たちは、1週間後の12月29日に全て回収されたようだ。しかし、それらはまだ山岡さんの許に“逗留”していて、この3月3日に「石を川に戻し、城址公園で遊ぶ Return these stones to the river」と題して、玉淀の河原へと帰すらしい(イベント詳細は展示リスト⑧を参照)。パフォーマンスは、まだ終わっていない。

「不可避なものとしてある未完了は、一つの運動である応えを、―たとえそれがある意味で応えの不在であるにせよ、運動である応えを―いかなる割合においても鈍らせたり、緩慢にしたりすることはない。それどころか未完了は、その応えに不可能なことの叫びという真実を授けるのである。」(『宗教の理論』pp.16-17)

 1月30日。いまだ夜闇に溶け続ける街灯【10】を、石田さんが今なおあたためているような気がした。

注)タイトルは、『意識に直接与えられたものについての試論—時間と自由』p.52による。

展示リスト

「DPPT Workshop vol.4 石田高大 《再開発 Redevelopment》」(「Summer Durational Performances 2024 海底に沈む、触れるように波を臨むプラクティス Practices for Sensing the Submarine Topography through the Shape of Wave」内)_企画/DPPT+PARA_2024年7月28、29日_ PARA神保町 2F_東京都千代田区神田神保町2-20-12 第二冨士ビル

北山聖子 パフォーマンス(中山正樹 個展「BODY SCALE」内)_2024年12月8日_トキ・アートスペース_東京都渋谷区神宮前3-42-5 サイオンビル 1F

「DPPT workshop vol.3 Performance by 北山聖子《閉て開け (たてあけ) Close/Open》+山岡さ希子《往復する拳 vol.2 Fists Going and Forth》」_企画/DPPT+PARA_2024年6月15日_PARA神保町 2F

パフォーマンス《太陽に輪ゴムを打つ》(「大森愛・木村浩之 展」内)_北山聖子_2024年5月3日_田中現代美術研究所_神奈川県秦野市菩提1403

「Durational Performance Project Tokyo (DPPT) ワークショップvol.1」_プレゼンター/石田高大、企画/Durational Performance Project Tokyo (Jungle Gym +IPAMIA)+PARA_2024年3月22、23日_PARA神保町 2F

「150年」_大竹舞人、小野まりえ、加藤広太、黒瀧紀代士、島田清夏、副島しのぶ、髙橋穣、高見澤峻介、田中勘太郎、布施琳太郎、Houxo Que、宮原嵩広、横井菜々、吉田山+orm、山﨑千尋_2025年1月18〜27日_東京都豊島区南池袋4-22-10

「DPPT Performance by 山岡さ希子《往復する拳 Fists going back and forth》workshop vol.2」_企画/DPPT+PARA_2024年5月27日_PARA神保町 2F

「石を川に戻し、城址公園で遊ぶ Return these stones to the river」_山岡さ希子_2025年3月3日_玉淀河原_埼玉県大里郡寄居町寄居


参考記事

[1]

[2]

[3]

[4]


いいなと思ったら応援しよう!