Nozomi Nobody
年明け早々には、と思っていたのに結局2月になってしまった。 Nozomi Nobodyのウェブサイトを作りました。これまでいろいろのお知らせはTumblrにまとめていて、そのちゃんとしていない感じを気に入っていたのですが、媒体としての在り方に賛同できない以上、noteに日記を書き続けるのはやはり違うなという気持ちが強くなり、ではどこに、と考えたときにちょうど良い他の選択肢がなかったことと、活動が多岐に渡ってきたのでそれらをきちんとまとめられる自分の場所を持つのが良いのではな
部屋がとても寒いが、エアコンが苦手で極力使いたくなくそしてだから無駄に部屋で凍えている12月31日。 今年は年末の空気になるのがとても早かった気がする。クリスマスを過ぎる前から街のそこここに年末の空気があった。そのことをなんとなく不思議に思っていたのだけど、そうして今朝10時を過ぎてようやくベッドを這い出し寝室のドアを開ければ年末のその空気が静かな確かさでもって部屋の中にあり、空気というものは部屋の外にあるものだと思い込んでいたわたしは少しだけ驚いてからいつものようにキッチ
完全に身体がアルコールでひたひたになっており大変にしんどい。わたしに3日連続でひとに会い深酒をさせるなど年末のみが為せる技であるわ 家の中でも外でも仕事をしていた。どうにか目処がたって最低限の安堵を得たけれど、年を跨ぐ仕事があると納めるに納まらず気持ちが落ち着かない。お店の仕事が今日で最後だからそれでわたしも仕事納めとするつもり。 久しぶりに下北に行って友達のライブを観てとてもよくて自分のあれこれ音楽のあれこれについて考え、ビールを二杯飲んでから外に出ればふとサーカスの不
きのうは夜になって女子がひとりワインを持ってやってきた。はじめ17時頃に来ると言っていたのが18時頃になりそう、と連絡があり、結局彼女が到着したのは19時を過ぎたころだった。うちには電子レンジがないので、18時過ぎに完成するように用意していた食事は低温に設定したオーブンの中に入れ、ぼんやりと仕事の続きをしようかと考えたけれど、数十分向かい合ったところであまり進む気もせず、ウイスキーの水割りを作り、読みかけの小説を開いた。ナッツをつまみに飲んでいたけれどいよいよお腹が空いて、全
なんだか自分が自分と離れている。久しぶりに。ぼんやりと。でもこれは去年感じていた離人感とは違って、去年のそれはすーっと自分が自分から離れて斜め上くらいから自分自身を見ている感覚だった。いまのこれはもっと単純に自分自身のこころみたいなものにもやがかかって、いろいろなことがよくわからない、みたいな感じ。まぁでも書いていて思うけれど、自分がわかっていることなんていままでにあっただろうか。ということでもあるのだけれど。あるいは物事が進んでいかない、いまいちスイッチが入らない言い訳をし
きのうは帰り道に予兆があった。ああこれはもしかしたらダメなやつかもしれないという気がした。そうして家に帰り着いたらやっぱりダメだった。仕方がないので深夜まで映画を観て、少し酒を飲み(少し飲んだらなくなってしまった)、一日二切れずつ順調に減っていたシュトーレンの残り1/4〜1/5を一気に食べるなどして、ぐずぐずとベッドに入った。こういうときだけど、キッチンの流しの洗い物はきちんと片付けてから眠る自分をいつも少し面白おかしい気持ちで見ている。でもやらないと気持ちが悪いんである。そ
きのうは大ちゃん宅で大ちゃんの誕生日会があり、仕事が終わってワインとナッツのチョコレートを買って21時頃に到着。すでに7〜8人が集まっており、その後も入れ替わり立ち替わりたくさんのひとが来た。大ちゃんは自分の誕生日なのにせっせとごはんを作っては振る舞っていた。そういうのが好きなのらしい。その気持ちはちょっとわかる。大ちゃんといつか、わたしがなぜ肉を食べるのをやめたのかについて話して、この間会ったときにあれからそのことをずっと考えていると言ってくれ、だからきのうはすべてヴィーガ
いろんなひとのいろんな言葉が矢のように心に刺さりまくっている。ずぶずぶずぶずぶ、、、!!! 言葉に対してわたしはいつもまったく無防備であることに気がつく。がしかし、言葉に対して防御壁を張るなんて果たして可能なのか。ちょっとわからない。 わたしは常々思うのだけど、みんなちょっと言葉というものをあまりにないがしろにしすぎではないだろうか。その場のノリみたいなものだけで吐かれる取って付けたような言葉も、ネットでウケるように誇張されたり切り取られたりした言葉も、社交辞令とか口約束
なんやかんやと予定や仕事が入り続ける12月。ありがたい。のだけれど。日々はずっと切れ目なくそしてそれはずっと変わらなく。しかし謎に出費がものすごく嵩んでいるわ。しばらくは財布の紐を閉めなくては、と思うがひとと会って食事をし酒を飲むなどすればあっという間に湯水の如く流れ去っていく金銭と呼ばれるそれ。湯水の如く、というのはこういう場合にも使えるんだろうか。仕事しなくては。いやしているよ、まあまあ。 頑張る、という、いわゆる日本的なその概念については10代20代でさんざんやったか
自堕落な気持ちのまま、日頃の倍の量を食べる日々を続けていたらみるみるうちに顔がまるい。なんとなく人と会ったり、外に出掛けていくことが続いていたけれど、きのうでひと段落、たぶん。気持ちを落ち着けてやるべきことをやらなくちゃ、そろそろ、いい加減、と何度も思いながら、今日。 きのうは藝大の千住キャンパスというところまで出掛けて行って(とても遠かった、一時間半かかった)Art Pathというイベント(学生たちが作品を発表する文化祭のようなものらしかった)の中でのトークイベントに参加
雨。寒い。冬の冷たい雨のことをなんと呼ぶのだったか、なにか言葉があったような気がするのだけど勘違いかもしれない。花冷えというのは日本語らしいとても美しい言葉だなあということを思いながら駅までの道を歩いた。 自分のことを気分屋だと思いそのことをときどき恥じたりしてきたけれど人間なんて毎日毎分毎秒変わるのだから気分が変わるのだって当たり前のことだ、といまふと思った。 なんとなく散漫なこの一週間ほど。いつもの1.5倍から2倍ほどの食べものをほとんど飲み込むようにして体内に流し込
ずっと不思議なのだけど、音楽を作っているとわたしはいつも眠くなる。例えばばーっと歌詞を書いたり、あるいはメロディーと言葉が一緒に浮かんできて曲ができたり、もしくはいろいろ絞り出そうとしてもなにもでなかったり、そういうとき、ふっとぐーっと眠くなる。これは文章を書いてるときには起こらない現象で、対象が音楽のときだけ現れる。きのうは歌詞を書いていて、やっとちょっと言葉が繋がりはじめてノートにたくさん書いて、曲に当てようとしたけれどうまく当たらなくて、うーむとなって、そうしたらいつも
ずっと確定申告を白でしていたのだけど、今年からようやく青にすることにして、そうしたら青色申告会の講習のようなものに出て下さい、というような通知がきて、やり方なんてまったくわからず困ったなと思っていたのでありがたく参加し今朝最終回。朝の9時半からの回を申し込んでいたからいつもより一時間早く目覚ましをかけ、どうにか間に合う時間にベッドから出たけれど身支度をして外に出るということがどうにもこうにもどうしたって億劫であぁこれは行かれないかもしれないと思い別の日に変更してもらおうかとよ
久しぶりに渋谷に来た。夕方三茶で打合せがあり、それが済んだら映画に行くのにちょうどいい時間だなと思って調べたら観る機会を逃していたドライブ・マイ・カーのレイトショーがあるのを見つけて、三茶からバスに乗って渋谷まで出た。 渋谷に来るといつも、いつもどこにも行くところがなくて、ふわふわゆらゆら、幽霊みたいな気持ちになる。映画まで一時間あったから、本当は三茶で時間を潰した方が良かったのだけど、打合せのあと何となくそのままバス停まで歩いてしまい引き返すのも億劫ですいすいとあっという
この一週間わたしは明らかに落ち込んでいて、思ったよりも堪えていて、生活がぐうぐうになっている。幸い特に忙しくもないので、ぐうぐうのまま無理せず過ごしている。きのうは目が覚めたら12時前で、慌てて準備をして家を出てなんとか時間に間に合う電車に飛び乗ったけれど、乗り換えの駅で電車が遅れて待てど暮らせどやって来ず、隣のホームに来た急行が先に来て、このまま快速急行を待つより乗ってしまった方が早そうだと体の向きを変えたけれど、「遅れている快速急行の方が先に参ります」とアナウンスが流れた
今日はさきさんと下北のムーナで、海鮮の限定ランチを食べて、それは鯖のカレーと鮭のカレーと豆のカレーと、ライスとペラペラの豆の粉のお煎餅みたいなのと、ナンを揚げたようなのと、それから青菜としめじとお揚げのお浸しみたいなのと、1センチ角のさつまいものほくほくした何かと、白菜などの浅漬けのようなのが銀色の丸いお盆のようなプレートに乗ったもので、以前ムーナで豆カレーのセットを頼んだときごはんを少なめにしてもらっても食べきれなかったことがあり、それよりも多いものを食べ切れるだろうかと不