『構造的解離』を読みました

 前の記事の続きです。

 オノ・ヴァンデアハート他著の『構造的解離 上巻』を読み終えました。うーん……重かった。結局、上巻に収録された第一部では治療法的な技術の紹介にはたどり着かず、延々、構造的解離の分類・説明のみで完結してしまいました。内容が内容だけに、読んでいるだけでしんどかったです。

 ところで、ひとつ、以前から気になっているのが私自身のメモです。携帯電話のメモ帳に「解離は躁鬱の特殊技能?」とだけ書いていて、出典も何も書いてません。ジャネの本のどれか、たぶん話し言葉風の記述で読んだように記憶しているので『人格の心理的発達』でないかと思いますが、「いまになって世間では解離が話題になっているようだけど私の見解ではあれは躁鬱の人の特殊技能だといまは思っているんだけど」みたいな記述があって私がびっくり! 有識者に訊いてみなきゃ、と思って残したメモだったはずなのですが、今回読んだ『構造的解離』にそんなような記述は出てきませんでした。……私のメモがいい加減だったのか……?
 でもジャネ以外の本でも、解離はできる人とできない人がいる、みたいな記述を読んだことがあるような気もするし、〈解離=技能〉のメモは満更いい加減でもないような……。

 そして一方で、ちょっと記憶は曖昧ですが、精神科のとある先生から、複雑性PTSD(だったと思う)を抱える人は双極性障害(躁鬱病)のような見かけになることがある、的な話を聞いたことがあるような気もしていて、そうなると、躁鬱だから解離ができるのか、解離するほどの経験をもつと躁鬱らしい雰囲気が出るのか、その辺りの関係も気になります。
 躁鬱(の見かけになるの)が後か先かはともかくとして、解離が〈みんなに使える対処行動〉でないとしたら、〈解離が使える〉という素質というか特質自体に治療の糸口が見つかったりしないかしら、と想像したりもするのですが、どうなのでしょう??


 ジャネの心理療法で私が印象的に思うのは、催眠を使って、解離を〈補強する〉・解離した記憶を〈隠す〉手伝いをしていたことです。たぶん、現在の主流の治療方針〈解離した部分人格と連絡を付けるよう働きかける〉とは逆を行く対応だろうと思いますし、プライバシーとか人権に照らしても、現代ではきっとダメでしょう。
 催眠で、過酷な記憶を穏やかなものに書き換えて、ともかく日常を送れるようにする。でも書き換えは所詮書き換えですから、やがて、本来の記憶が力を持ってきて日常生活が困難になる。そうなるとまた、書き換える。ジャネの患者さんには、生活に追われる人たちも多かったようで、生活の支え手である彼らを、ともかく生活の場に戻れるようにしなければならない。
 催眠は、掛ける人と掛かる人との間に特殊な結びつきを作り、掛ける人が替わると、同じ意識レベルで掛けたり解除したりができないため、危険な側面があるそうです。でも、それに代わる技法はすぐには見つけられない。その難しさに思い悩みながら治療の場に立っていた(立っている?)ことも、何かに書いておられました。まっとうな人だな……、と思います。



 『構造的解離 慢性外傷の理解と治療 上巻(基本概念編)』
 オノ・ヴァンデアハート エラート・R・S・ナイエンフュイス キャシー・スティール著
 野間俊一 岡野憲一郎監訳
 星和書店 2011年

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