思い描いた未来の自分ではなかった。それでも私は満足している。
仕事が大好きだった。
中学生の頃に将来は福祉の道に進むんだと決め、ボランティア活動が盛んな高校へ進み、四大を勧めた両親と高校の担任を押し切って短大に進み、一刻も早く現場に出たいんだと学生時代の全てをボランティア活動と施設実習とサークルに捧げた。
高校生の頃は、土日にボランティアに励み、勉強はできなかったけどそこそこに青春を謳歌した。短大に進み、1年の頃に中高生並みの時間割で卒業必修の単位を全て取得した。2年では2年生必修の講義と実習漬けの日々。自分で実習先を見つけなくてはいけなかったので、興味がある施設に片っ端から連絡をして受け入れ先を探した。月に1回はサークルの活動で医療少年院に慰問に行った。周りの子が他大学の男子ときゃっきゃしているのを横目に、医療少年院に収容されている少年たちとのレクリエーションに励んだ。
全力で福祉に関わる勉強をして、その時にできる現場での経験を誰より多く積んだと思っていた私だったけど、就職した先は非常勤だった。
就職氷河期だった。
短大卒が正規職員として働ける場所は本当に少なかった。当然だ。
四大卒の人たちでさえ、なかなか就職できなかった時代だ。
障害者支援施設の施設入所支援に入職、生活支援員として働いた。当然正規職員と全く同じ働きをする。が、給料は正規職員より安く、来年度も働ける保証はない。正規職員のおじさまに「非常勤は使い捨てだ」と吐き捨てるように言われたこともあった。今なら訴えれば勝てるかもしれない。それくらい、ブラックで無情だった。「非常勤で入職しても、正規職員になれる」ゼミの先生が言っていたが、世の中はそんなに甘くなかった。
私は4年間勤めて退職した。
施設を退職した後は、保育園の産休代替をしたり、高齢者施設で働いたり、病院で働いたりした。職を転々としたのは、この時もなおもっとたくさんの経験をしたい、様々な「福祉」の現場を見たいと思っていたからだった。そして、その転々とする中である職場に出会った。
経験だけが強みと信じる28歳(当時)。
公立の小学校で介助員として働くことになった。
初めて出会った子どもは、脳性麻痺の車椅子ユーザーだった。週3日勤務で、小学校の仕事がない日は病院の清掃業をしていた。週3勤務なので、つまり週2で働く相方がいた。私より年上の学校介助員としてはベテランの女性だった。「学校で働くということ」の基礎を全てこの相方から教わった。車椅子ユーザーの子が卒業を迎え、私も相方も介助員としての契約を終了し、学校を去った。仲良くなった先生方がいたので、退職した後も飲み会に参加したり、移動教室の引率の仕事を引き受けたりしていた。そうして、学校との縁が切れずにしばらく経った時、再度介助員として働いてほしいと言われた。
学校に行ってみると、そこには普通校の通常級に通うには難しいだろう子どもがいた(ちなみに、私は普通校・通常級という呼び方は好きじゃない。好きじゃないけど、名称にこだわっても仕方ないので使っている)。詳細に触れることはできないので省くが、私はその子と6年間過ごした。そして、その間に介助員から支援員に役名が変わり、最終的に「特別支援教室専門員」となった。
特別支援教室の主任と校長先生から「専門員は希さんしかいない」と言ってもらい、本来は試験や面接があったのをパスして専門員となった。そして、ここから私は自分が培ってきた知識と経験と技術を存分に発揮した。他大学の男子をきゃっきゃする間も惜しんで福祉に捧げてきたあの時間が全て、やっと報われた。
主任と校長先生は、私のことをとてもかってくださり、かなり自由に動くことを許可してくれた。それから、私の眼を信じてくれた。
なかなか理解してもらえないことだが、私は〝困っている子〟が見えた。もちろんこれから〝困りを抱えるだろう子〟も見えた。ひとクラス30人以上いる。担任は一人。全ての子に同じように眼を向けることはできない。その中で私は〝困っている子〟をどんどん拾い上げていった。初めの頃は、主任に「○年○組の○○さんは、多動で散漫なので席替えをした方がいい」というようなことから「△△さんは音読ができているようで丸暗記しているので読みの確認をした方がいい」など、私が観察して気づいたことを報告すると、主任が各担任へ話をしたり、必要であれば会議にかけたりなどしていた。この頃は、私のことを、私の言葉や眼を、信じてくれているのが特別支援教室の先生方と校長先生だけだったので、とても歯がゆい期間だった。
そんな月日が流れ、気づいた時には就学時健康診断(未就学児が小学校入学前に受ける検診)で「児童観察」というポジションに置かれるようになっていた。この頃には、校内の先生方のほとんどが私の眼を信じてくれるようになり、児童のちょっとした支援の悩みを直接相談してくれるようになったり、特別支援教室に入れたい児童がいるが適切かと観察を依頼してくれるようなことも増えた。当然、どんなに先生方が私を信じてくれても私は「特別支援教室専門員」なので、実際に学校単位で動くことになる場合は完全に記録係に徹していたのだが。
中学生の頃の私が思い描いた未来の私は、障害者施設で働いていた。福祉の仕事といったら「施設で働くこと」だったから。実際、私が一番時間を費やしたのは世の中の多くの人が思い描く「福祉の現場」ではなく、至って普通の、すぐそこにある小学校だった。
福祉とは「幸せになること」である。
私は、すぐそこにいる子どもたちが自分にあった学びの場に出会い「幸せになること」の手助けができることが本当に好きだった。
最初に介助員として学校で勤め始めてから14年ほど経っていた。たくさんの子どもたちに出会い、私の福祉はどれほど実現できただろうか。それは関わった子どもたちがこれからどのような人生を送っていけるのかーなのだが、少なくともあの瞬間、子どもたちが悩みながら、苦しみながら私や周りの大人たちの手をしっかり握ってくれたことを信じて、彼らの未来を想像しよう。