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自分を表現する言葉に気づけていないだけ

ふと流れてきたnoteを読ませていただきまして、いろいろ考えることがありました。高知で私立学校教員をしている「のざたん」です。

読んだnoteはこちらです。みなさん読まれましたか?

これを読んだ1人の教員として感じたことをメモしておきます。

委縮させる学校文化

小学生のころは、文章など書くこともできず「何を書いたらいいですか」の子どもだった。『いいから思ったことを書きなさい』とだけ指示をされ、書いたら「あーだこーだ」言ってくる。子どもながらに感じましたね。「あー、自分の思ったことを書いたらアカンのだ」と。

で、手に入れた手法としては評価されている誰かの文章をパクる。パクるという言葉が小学生のときにあったのかはわからないけど、自分の言葉を述べるんじゃなくて、誰かの言っていることをそのまま書き写した方がマシだと。高校生になったときまで、ボクは少なくともそう感じてた。

小論文との出会い

ふとしたことから、教員を目指そうと思ったので、必要になるかもしれない『小論文』を高校3年生のときに予備校で受けることに。いま振り返れば、この経験はボクの人生に大きな影響を与えている。

きれいな文体で書く必要はない。
高校生であるキミたちの意見が聞きたい。
論文ではなく『小』論文なのだ。
正しい意見を聞きたいわけではない。
なぜ、その試験を行うのかを考えて欲しい。

多少はズレているかもしれませんが、小論文の授業の最初に言われた言葉。

この言葉にボクは救われた。

高校生のころ、物思いにふけることは多かった。でも、おしゃべりが好きなわけでもなく、書くのも苦手。そんなボクに「自由に意見を書いていい」のだと。そして「文体はキレイでなくていい」と。文末の「だ」とか「である」とか「です」だとか揃える揃えないは二の次だと。漢字の間違い?あとでいい。それに救われた。細かい書き方は後でいい。それはありがたい許しだった。

意見を書くことは認められること

この講座があったおかげで、「自分の意見を書くということは認められることなんだ」と気づくことができた。

教育については、しょっちゅう物思いにふけっていたので、楽しく書いてた覚えがある。そして、いまだにその講座で書いたときの小論文を持っているぐらい、自分にとっては捨てられない講座だった。

大学を経て、社会人になり、自分の意見を述べることが増えてきて、文章にまとめることが必要となり、必死に吸収しようとしてきた。

ブログに書いてみたり、こうしてnoteで発信したり、Facebookやtwitterなどでアウトプットをしてみたり。試す回数を増やすことで、文章をつかってアウトプットする機会を増やしてきた。

企業で働いていたときに、インターンの大学生と知り合い、就活のESを読ませてもらう機会があった。その文章はとても曖昧で、誰もが書くような表現で、目の前にいるステキな大学生の様子が、彼らの書いたESからは1ミリも伝わらないことを肌で感じることができた。

そして、ちょっと対話するだけで、書けるようになることを体験した。ボクがしたことは、彼らの行動を認めて、文章に書き起こすことを促すだけ。

中高生と触れ合う中で

全国的に今年度から学校では、子どもたちがポートフォリオを記録していくことを求められ始める。勤務校でも、記録を取り始めており、今日取り組んでいる様子を見かけた。今回紹介した話題になっているnoteを読んだ直後だったので、より強く感じたことがあった。

彼らは、自分を表現することばを、手に入れていない

誰が悪いとかではなく、そういった自分を言葉で表現する機会がないのだ。いい文章を書きましょう・正しい文体で書きましょうとされてきているからなのかと感じる。「思ったことをそのまま書けばいい」なんて乱暴な指導がされたり、作文の指導すらないまま読書感想文を書いて来いと課されたり。そりゃ書けるわけないよ。言葉の表現の仕方に気づけてないんだから。

ありふれたフレーズか無言かの表現

そんなわけだから、「頑張ります」「みんなのために」「素敵な大人に…」的な言葉で埋め尽くされていたり、単語で止まっていたり。どちらも自分から出た言葉ではないケースがある。

一方で、自分の好きなこと・得意なこと・これからやりたいこと等を、どう文章で表現していいかわからず筆が止まってしまうケースもある。

どっちがいいではなく、何が悪いでもなく。彼らは自分の感情を表現するスキルがないのだ。したことなかったし、そうすることを妨げられてきたから。

ボクのできることは

だから、できるだけ彼らの話を聞いて、何を考えているのかを言ってもらって、そのまま書いたらいいよと伝えることにしてる。自分の口から出た言葉をそのまま書くことから始めればいい。しゃべり言葉上等。文字に起こせば、視覚的に気づくことが出てくる。そうすると、彼らは感じる

「あれ、この自分の書いた文字って、自分の言いたいことと少しズレてる。違和感がある」

その違和感に浸れたら、あとは簡単。勝手に書き直し始める。悩み始める。そして楽しみ始める。そしたら、大人は見守るだけ。それだけで、彼らは武器を手にし始じめる。「あ、こうやって使っていいんだ」って。

そしてこの次の世界観へ

言葉を扱って表現することって実は難しい。情景・想い・考えといったものを言葉で表すことって大人でもなかなかできないもの。でも、大人は気づいている。写真で表現をしてみたり。動画で表現をしてみたり。音で、絵で、これらのハイブリッドで。様々な自己表現の方法を手に入れているわけで。それを子どもたちと共有することが、大切じゃないですか?

文字でしか評価されなかった時代から、多様な表現が評価される時代に移り変わっているなかで、自分のあり方を表現する最適な方法を見つける場が学校にあっていいよねって。だからこそ、立ち上げる新コースの選抜方法は動画で提出にしているわけだし。

自分のありかたを、自分の得意な手法をつかって表現する子どもたちが、妨げられない世界観を大切にしていこう。子どもたちに何かを教えるではなく、子どもたちが気づくのを見守る教師でありつづけるだけ。これだけはブレずに続けていく。子どもたちの生きてる環境は、彼らでしか適応できないんだから。

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