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紫式部に近づきたい〜弟・惟規、賀茂斎院でピンチ

大河ドラマ「光る君へ」は期待を上回る、おもしろさ。系図をみたら「光る君へ」の俳優の顔が浮かんでくるようになりました。平安時代が身近に感じられて、楽しい!

さて、第34回を見ていると、まひろ(紫式部)の弟、惟規が「神の斎垣を越えるかも、俺」なんて言ってましたね。

え、歌学書の、あのエピソードやるの?

それじゃあ、去年(2023年)の6月に、惟規が蔵人になるところまで書いた、その続きを書きますっ。

歌よみの惟規

俊頼髄脳としよりずいのう』という歌学書があります。著者は源俊頼。関白藤原忠実の求めにより、娘の泰子のお妃教育のために書かれた和歌の入門書です。『源氏物語』の時代よりも、100年ぐらいあとに書かれました。

平安時代の本は、基本的にオーダーメイド。依頼をうけて特定の読者のために書かれます。それが、次々に書き写されて人から人へ、やがてたくさんの読者の目にふれます。(『源氏物語』と同じ仕組み)

『俊頼髄脳』には、和歌の技法や和歌の歴史、歌ことばの解説、歌人たちのエピソード、ゴシップなど、初心者がこの本を読むと、きっと和歌に興味がわくだろうなあ、という内容がつまっています。

『俊頼髄脳』の中に惟規のエピソードは三つもあって、一つめは、賀茂斎院で捕まりそうになった話です。

大斎院だいさいいん〉と申しあげた、あの選子内親王が賀茂斎院でいらっしゃった時に、蔵人惟規が、斎院にお仕えする女房と愛をささやこうと思って、ひそかに、夜、お住まいの斎院を訪れたところ、警固の侍たちが見つけて、あやしんで、「あなたはどんな理由でここを訪れたのですか」と、尋問したところ、惟規は女房の局に隠れて、誰それと名のることができなかったので、侍たちは門に鍵をかけて、外に出られないようにした。恋人の女房は、大斎院に、「このようなことがございます」と、申しあげたところ、「あの者は、すぐれた歌人と聞いている。はやくゆるしてやれ」と、おっしゃったので、惟規はゆるされて、退出するときに詠んだ歌、

神垣はのまろ殿にあらねども 名のりをせねば人とがめけり
――この斎院の神垣は〈木のまろ殿〉ではないけれど、〈名のり〉をしないので、人がとがめたのだなあ

大斎院と申しける斎院の御時に、蔵人惟規、女房に、物申さむとて、忍びて、夜、参りたりけるに、侍ども、みつけて、あやしがりて、「いかなる人ぞ」と、問ひ尋ねければ、隠れそめて、え誰ともいはざりければ、御門をさして、とどめたりけるに、かたらひける女房、院に、「かかる事なむ侍る」と申しければ、「あれは、歌詠む者とこそ聞け。とく、 ゆるしやれ」と仰せられければ、ゆるされて、まかり出づとて、詠める歌、

神垣は木のまろ殿にあらねども名のりをせねば人とがめけり

原文は小学館新編古典文学全集による

大斎院とは、円融、花山、一条、三条、後一条の五代、57年もの間、賀茂斎院をつとめた選子内親王のことです。紫野にある、お住まいの斎院では文化活動が盛んで、風流を好む殿上人たちが、折にふれて斎院を訪れたようです。

その大斎院が、惟規のことを「あれは、歌詠む者とこそ聞け」とおっしゃたことに、注目! 惟規は歌人としても、実力を認められていたのですね。

『光る君へ』の「神の斎垣を越えるかも、俺」という言葉、『伊勢物語』69段で在原業平が伊勢斎宮と密通したか、しなかったか、というような禁忌を犯すという意味合いではなくて、〈大斎院に仕える女房と恋人関係になっちゃうかも、俺〉ということです。

なお、『俊頼髄脳』のこのエピソードは、『今昔物語集』に採録されています。

木のまろ殿

惟規が詠んだ歌「神垣は木のまろ殿にあらねども 名のりをせねば人とがめけり」は、神楽歌かぐらうた

朝倉や木のまろ殿に我がをれば 名のりをしつつ行くはがこぞ

を利用しています。斎院のことを「神垣」といい、〈斎院は「木のまろ殿」ではないけれど、名のらなかったので咎められてしまった〉と詠んでいます。

「朝倉や」の歌の解釈は難解で、『俊頼髄脳』の記事によると、惟規も、詠んではみたが、よく知らなかった(このこと、詠みながら、くはしくも知らざりつる事なり)ようです。それでも詠んでみるのが、惟規。

ーーーー(追記)ーーーー
惟規、自分の歌は〈天智天皇の引歌〉と言ってましたね!(「光る君へ」第35回)いや~、マニアックだなあ、うれしいなあ。

『俊頼髄脳』は、「朝倉や木のまろ殿に我がをれば 名のりをしつつ行くはがこぞ」の歌は、天智天皇の故事にかかわっていると記しています。

 この歌は、むかし、天智天皇が皇太子でいらっしゃった時、筑前国の朝倉といっている所に、人目を避けてお住まいになっていた。その建物は、ことさらに、あらゆる物を丸く造っていたことから、〈木のまろ殿〉と言いはじめたのだっだ。世間をはばかることがおありで、都にいることができず、そのように離れた所に住んでいらっしゃったのだった。そうして、用心のために、入ってくる人に、「必ず、こちらから問う前に、名のって、出入りせよ」と、決めてお命じになったので、必ず、出入りする人は名のったと、言い伝えられている。

 この歌は、むかし、天智天皇、太子にておはしましける時、筑前の国に、朝倉といへる所に忍びて住み給ひけり。その屋をことさらに、よろづの物をまろに作りておはしけるにより、木のまろ殿とはいひそめたりけるなり。世につつみ給へることありて、都には、えおはせで、さるはるかなる所におはしけるなり。さて、つつみ給へるが故に、入りくる人に、「必ず、問はぬさきに、名のりをして、出で入れ」と、起請を仰せられたりければ、必ず、出でいる人の名のりをしたるとぞ、申し伝へたる。

史実とは別に、このような説を歌人たちが語り継いでいたということが、興味深いのです。
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『俊頼髄脳』には、惟規の臨終の時のエピソードもあるけれど、どうだろ、「光る君へ」でやるかな?

大徳寺の近く、櫟谷七野神社(いちいだにななのじんじゃ)の境内にあります

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