紫式部に近づきたい〜弟・惟規、越後で死す
〈『俊頼髄脳』には、惟規の臨終の時のエピソードもあるけれど、どうだろ、「光る君へ」でやるかな?〉なんて以前の投稿で書きましたが、第39回で、みんなに愛された惟規が、越後国でお父さんの為時に看取られて、死んでしまいましたね。グスン(涙)。
『俊頼髄脳』のエピソードを紹介します。
越後国へ
紫式部と惟規の父、藤原為時は1011(寛弘八)年、越後守となって赴任しました。
惟規は当時は六位の蔵人。通常、清涼殿にのぼることができるのは五位以上ですが、六位の蔵人は特例として昇殿を許されます。でも叙爵、つまり正六位上から従五位下に昇進すると、蔵人ではなくなります。ひきつづき五位の蔵人にスライドするわけではないのですね。
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為時という儒者の子に、惟規というものがいた。親が越後守になって下向する時は、六位蔵人だったので一緒に下ることはできなくて、従五位下になった後に、越後国に向かったところ、その途中から発病して、行き着いたときには重篤な状態になってしまった。
紅葉、薄、松虫、鈴虫
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親は待ちうけて、あれこれと看病したけれど、良くならなかったので、こうなってしまっては来世の安楽を願いなさいと言って、枕もとに座った僧が、「死後は、ただひたすら地獄をめざします。「中有」と言って、次の生がまだ定まらない間は、はるかな荒野に鳥、獣などさえいないので、たった一人でいる心細さ、この世の人の恋しさ、堪えがたさを想像しなさい」と言ったところ、惟規は目を細めに開けて、臨終で息も絶え絶えになりながら、「その中有の旅の途中では、強い風にゆれる紅葉、風になびく薄などの根もとに、松虫や鈴虫の声などは聞こえないのかなあ」と、ためらいつつ言ったので、僧は憎さのあまり、荒々しく、「なんのためにそのようなことを聞くのか」と尋ねたところ、「もしそうなら、それらを見て心をなぐさめようと思って」と、息も絶え絶えに言ったので、僧は、何かにとりつかれて正気をなくしているのかと思い、逃げ帰ってしまった。
仏教では、人は死んだあと「中有をさまよう」(死後四九日の間、未来の生を受けないで、現世と冥途との間の暗い世界をさまよう)〈日本国語大辞典〉とされます。そこでふつうは死に臨むと、ただ仏にすがって、来世の安楽を願いますが、惟規は違いました。
“中有”には鳥や獣さえいないので心細さや人恋しさを堪えねばならないという僧の言葉を受けて、惟規は〈紅葉や薄の根元に松虫や鈴虫の声は聞こえないの〉〈もし聞こえるのなら、それをなぐさめにする〉と言います。
ひゃー罰当たりなことを言う人だ、恐ろしや、と肝っ玉の小さい僧は逃げ帰ったのかもしれません。
著者の源俊頼が、わざわざこれを書き記したのは、臨終に際して、極楽往生よりも、風流な自然を思い浮かべるところが、ユニークだと思ったからでしょう。ちょっと感動したかも。「このような考えの人もいたと、おわかりいただくために、役に立たないことですが申しあげたのです(さる人の心ばへもありけりと、しろしめさむ料に、やくなけれど申すなり)」と書き添えています。
「光る君へ」の惟規なら、ありそうですね。
辞世の歌
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親がいて、それでも身体が動く限りはと思ってそばに付き添って、じっと見つめていると、両方の手を持ち上げて、近づけるので、よくわからないまま見ていたところ、なにか書こうとお思いなのではと、ほかの人が気づいて惟規に尋ねたところ、うなずいたので、筆に墨を含ませて、紙とともに渡したところ、書いた歌、
みやこには恋しき人のあまたあれば なほこのたびはいかむとぞ思ふ
ーー都には恋しい人がたくさんいるので、やはり今回はなんとしても生きたいと思うのだ
最後の「ふ」の字を書くことができずに息絶えたので、親が、「そのようだ」と言って、「ふ」の字を書き添えて、形見にしようと思ってそばに置いて、いつもそれを見て泣いたので、涙にぬれて、ついに破れて無くなってしまったということです。
惟規は、辞世の歌の末尾の「ふ」の字を書く前に、力尽きてしまいました。
いかむとぞ思ふ
この歌の第五句「いかむとぞ思ふ」の「いかむ」という語句が、簡単なようでわかりにくいので、説明しますね。
「いかむ」は「生かむ」。四段活用の動詞「生く」の未然形に、意志の助動詞「む」〈「~しよう、~したい」という意味〉の終止形が接続しています。
四段活用の「生く」は現代語に訳すと「生きる」。自動詞で〈自ら生きる〉という意味。用例には、
「生か-む」「生か-まほし」(=生きたい)
「生き-て」
「生く。」
「生け-る」(=生きている)※已然形
などがあります。
そんなわけで、第五句「生かむとぞ思ふ」は「なんとしても生きたいとわたしは思うのだ」と訳すことができます。
「いかむ」を「生かむ」と「行かむ」の掛詞とみることも可能ですが、どうだろう、そのような言葉のテクニックはここでは無視して、素直に「生きたい」と解釈するのが、私の好みです。
みやこには恋しき人のあまたあれば なほこのたびは生かむとぞ思ふ
この歌は、勅撰集の『後拾遺集』恋三にも採られています。『後拾遺集』の詞書「父の供をして越の国におりますとき、重い病気になって、京におります斎院の中将のもとに送りました」(父の供に越の国にはべりけるとき、おもくわづらひて、京にはべりける斎院の中将が許につかはしける)によると、恋人の斎院の中将に送った恋の歌になりますが、真相はいかに。
「光る君へ」では、都におおぜい(=あまた)いる恋しい人たちは、家族や使用人たちという解釈で、それがとても感動的でした。
和歌は、いったん作者の手を離れると、わりと自由に、いろいろな物語を生み出していくものなのだな、と思います。昔も今も。