紫式部に近づきたい~死別
避らぬ別れ
古文では、人が避けることができない別れ、つまり死別を「避らぬ別れ」と言うことがあります。「世の中に避らぬ別れの無くもがな」(この世の中で死による別れなど無くなってほしい)と詠んだのは、在原業平。
仲良くけんかしていた、紫式部と藤原宣孝ですが[結婚(1)、結婚(2)]、二人が結婚した1年後(1000年)に娘[大弐三位]が誕生、その翌年(1001年)の4月25日に、宣孝が亡くなります。
(四〇・四一)
ーー去年から薄鈍色の喪服を着ている人に、女院(東三条院詮子)がお亡くなりになった春、とても霞んでいる夕暮れに、ある人が置かせた歌
雲の上も 物思ふ春は 墨染めに 霞む空さへ あはれなるかな
▽雲の上の方々も悲しみにくれる春は、墨染め色に霞む空までもしみじみと悲しく感じられます
ーー返事
なにかこの ほど無きそでを ぬらすらん 霞の衣 なべて着る世に
▼どうして取るに足りない私が狭い袖をぬらすでしょうか。墨染めの霞の衣をみなが着るこの世の中に
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宣孝が亡くなった年の12月に、一条天皇の母で藤原道長の姉、東三条院詮子が亡くなります。”雲の上”は宮中のこと、宮中にいらっしゃる高貴な方々の悲しみの前では、私の悲しみなど取るに足りないものですと紫式部は詠んでいますが、私のことは、そっとしておいてくださいと言っているようにも思えます。考えすぎかな?
(四二)
ーー亡くなった人(宣孝)の娘が、親によく似た筆跡で書いていたものを見て、詠んだ
ゆふぎりに み島がくれし 鴛鴦の子の 跡を見る見る まどはるるかな
▼夕霧の中で島に隠れ、いなくなってしまった親を探す鴛鴦の子のように、あの人の子の筆跡を見ては 心乱れています
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大河ドラマ『光る君へ』では、宣孝の子どもたちは登場していませんが、宣孝の娘と紫式部の間に交流があったことがわかります。お互いに慰め合ったのでしょう。
(四三)
ーー同じ人が、荒れた宿の桜の美しいことといって、折ってよこしたときに
散る花を なげきし人は このもとの さびしきことや かねて知りけむ
▼桜が散ることを嘆いていた人は、桜が散ったあとの木の下や、子のもとに残された宿がさびしいことを、前から知っていたのかしら
(左注)「物思いが尽きない」と亡くなった人が言っていたことを思い出したのだそうです
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紫式部が産んだ子はまだ幼く、心細さにおしつぶされそうになっているようです。残される人たちのことを心配しながら宣孝が亡くなったと聞いたと、左注にありますが、そんなことを聞かされたら、号泣してしまいます。
(四八)
ーー結婚生活がはかなく終わったことを嘆くころ、陸奥国の有名な歌枕を描いた絵を見て しほがま
見し人の けぶりとなりし ゆふべより 名ぞむつましき しほがまの浦
▼あの人が火葬の煙となってしまった夕べから、その名が親しいものに思える塩竃の浦
”しほがま”は、本来は塩焼きに使う釜のこと、そこから塩焼きの煙が連想されます。そこに、宣孝を火葬した煙を重ねていますが、もう一つ、古今集の有名な哀傷歌も意識されているかも。
ーー河原の左のおほいまうちぎみの身まかりてののち、かの家にまかりてありけるに、しほがまといふ所のさまをつくれりけるを見てよめる
君まさで 煙たえにし しほがまの うらさびしくも 見え渡るかな(哀傷・八五二・紀貫之)
◆主がお隠れになって、煙が立つこともなくなってしまった、塩竃の浦が、心寂しく見渡されるなあ
喪失感が強く伝わってくるでしょ。
『紫式部日記』でも、「雨の降る日は琴柱を倒せ」と言った、大きな厨子の中に、漢籍をわざと重ねて置いたなどと、宣孝を思い出して、書き記しています。(紫式部の”大好物”の漢籍を置いたのでしょうか)
宣孝が亡くなったのが長保三(1001)年、紫式部が彰子さまのもとに出仕するのが寛弘元(1004)年12月29日、この間に『源氏物語』が書き始められたと考えられています。
■これまでに紹介した歌
女ともだち(1) 紫式部集 1、2、6、7番
女ともだち(2) 紫式部集 8、9、10、11、12番
女ともだち(3) 紫式部集 15、16、17、18、19、39番
結婚(1) 紫式部集 28、29、30、31番
結婚(2) 紫式部集 32、33、34、35、36、37番
結婚(3) 紫式部集 4、5番
越前へ 紫式部集 20、21,22,23,24,25、26,27、80,81番
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