「迦陵頻伽の仔と旅人」(二)
西の彼方に沈み行く夕陽は、高原の空と水面を暖かな橙色に染めている。
湖畔の傍らに組まれた天幕の外で、旅人たちは焚火を囲んで食事と会話を交わしていた。行き倒れから救われたドルジェは、せめてもの礼にと携行食の大麦粉で二人の恩人をもてなした。厚意に応えた良嗣は交易用の茶葉を荷解きし、煮出してドルジェに振る舞った。飢えと乾きが満たされていくうちに、延々と頭を下げてばかりいたドルジェも平静を取り戻し、少しずつ自身の素性を語り出した。
「えぇと、鍛金師……?」
「金物を造る職人です。工房の生まれなもので、幼い頃から金槌を振るっていました」
「はぁー、意外だなぁ。職人なんて愛想のないヤツらばっかだと思ってたよ、こいつみたいなツラの」
オトは団子状に練り込んだツァンパを口に放り込み、頬を膨らませながら隣に座った良嗣を指差した。釣られて苦笑したドルジェは一瞬だけ良嗣の様子を伺うと、笑いを誤魔化すため椀に注がれた茶を啜った。高原の民が操る吐蕃語が飛び交う会話の意味は、何一つ良嗣に伝わっていない。ツァンパの素朴な味とざらついた食感を噛み締める良嗣の仏頂面は、普段通りの険しさだった。
「それにしても、お二人ともよくぞ唐の都からこのような土地まで……。巡礼の旅路はさぞかし大変でしょう」
「全くだ! 食い物も水もすぐ無くなるし、野犬にも野盗にも狙われるしよ……。でもな、そのぶん凄いモノもいっぱい見れたぜ。例えば──莫高窟《ばっこうくつ》ってわかるか? ずーっと北の砂漠の崖にたっくさん洞穴が開いてて、中の壁に描かれてた絵がな、これまた凄くってさぁ」
「それは興味深い。僕も一目見てみたいものです」
良嗣と口裏を合わせた通り、オトは自分たちの素性を『長安出身の巡礼者』と偽っていた。意気揚々と語った莫高窟の様子は巡礼の証明でもある。矢継ぎ早な言葉で語られた経験談には、何の澱みも後ろ暗さも含まれていない。たとえ習得したばかりの言語を操ろうとも、オトの多弁さは変わらなかった。
二人が旅先で出会った人物に真実を明かした機会は滅多にない。わずかに言葉を交わした程度の間柄であれば尚更だ。片や、遥か東の海を越えて入唐した挙句に遣唐大使の任を棄てた男。片や、身に宿した翼と鉤爪を隠して旅をする迦陵頻伽の少女。真なる目的地は拉薩の西、何者かの声がオトを喚ぶ雄大な山脈の最高峰。全ては二人が胸の内に抱え込み続ける秘密だった。
「ラサの街中にも大寺があるだろ? ずっと行ってみたかったんだ」
「大昭寺ですね。あそこはラサ随一の立派な寺院ですよ。唐からお越しなら文成公主※1 様がお持ちになったお釈迦様だって拝みたいでしょう。ああ、灯明※2 の臭いにはお気を付け下さいね。ヤクの乳臭さが本堂の中に籠ってしまって、慣れないと立ち眩みがするかもしれません」
「さすが、詳しいじゃないか」
「馴染み深い寺院ですから。それに先日、奉納する摩尼車をいくつか任せて貰えたばかりで。境内に並んでいますから、お参りの際は回していただけると何よりです」
「へぇ、そりゃ大したもんだな! 忘れずやってみるよ」
ドルジェは良嗣の桁外れな巨体と、流暢に通訳を務めるオトの聡明さに気を取られるばかりで、二人の素性を露ほども疑っていなかった。親子関係でないと自称する二人が共に旅する理由こそ気に掛けてはいたが、恩人に対する過度な追求を非礼と感じ、あえて深入りを避けていた。何より、好奇心旺盛で冗舌な少女との間で弾む会話には、無用な疑問を頭の片隅から取り払うだけの力があった。
「おい」
重い響きが鋭く割り込む。沈黙を貫いていた良嗣がオトを呼び止める声だった。
「悪ぃ悪ぃ。初めからちゃんと訳すからさ」
「全部は不要だ。彼の素性と旅に関する話以外、程々に省略してくれ」
「はいはい、えーと──」
こめかみに右手の人差し指を押し付け、オトは記憶を反芻した。鍛金師、工房の出、ラサの大寺の様子──。吐蕃語で繰り広げられてきた会話は、順繰りに日本語に訳されていった。
「目覚めて間もないのに、随分と饒舌な男だ」
「それがフツーなんだよ、ちょっとはオマエもドルジェを見習え」
「喋り疲れるのは御免だ。……きっと、一人旅の道中で他人と話せて張り切っているだけだろう」
「まぁ、確かに嬉しさのカタマリって感じの声だからな。あながち間違いじゃないかもしれないぜ」
オトが受け取ったドルジェの言葉には、純朴な表情通り何の淀みもなく、純然たる喜びが込められていた。旅の最中に様々な曲者の声を読み腹の内を探ってきたオトも、悪意を持たない初対面の相手との会話に、新鮮さと心地良さを感じていた。
一方の良嗣は水を差す忍びなさを覚えつつも、旅人としての本分を忘れていなかった。
「そろそろ俺からも尋ねさせてくれないか」
「おう、何だ何だ? おれがしっかり伝えてやるよ」
言語の不通を承知の上で、良嗣はドルジェの柔和な瞳を見据えて丁寧に語り掛けた。たとえ言葉が通じなかったとしても、意思を伝える意思を放棄してはならない。若かりし日に都の大学寮で漢語を学んだ時の教えは、四十歳を過ぎた今でも良嗣の記憶に留まり続けている。
「ラサを出てからこの湖沿いまで何日掛かったんだ? それと、南を目指せば間違いなくラサに着くんだよな?」
問い掛けの内容は、改めてオトによって流暢に伝えられた。ドルジェは顎に拳を当てて少しの間考え込むと、良嗣の切れ長な目とオトの円らな瞳を交互に見ながら、大仰な身振り手振りを交えて語り出した。
「馬の足で七日ほど掛かりました。荷を積んだ犛牛の足なら十日は掛かると思いますが、ラサはもう目と鼻の先です。まず、この湖沿いを直進した先に建つ白い仏塔を見つけて下さい。鮮やかな五色の祈祷旗が掛かっていますので、遠くからでも目立ちますよ。チョルテンはラサに至るまでの所々に建っていますから、一つ一つ辿って行けば迷わず街へ辿り着けるはずです」
回答は良嗣の予想以上に具体的で、オトの期待以上に前向きだった。思わぬ朗報がもたらした嬉しさのあまり、オトは良嗣の背中を幾度も拳で叩いた。
「やったな、あと十日もあれば着くってよ! 目印もあるから迷わないってさ!」
じゃれつく小さな手を振り払いながらも、良嗣はわずかに頬を緩め安堵の呼吸を漏らした。たとえ単なる中継点に過ぎなくとも、いよいよ間近に迫った目的地への到着は、先の見えない地平を歩んできた二人に射した確かな光明だった。
それぞれのやり方で喜びを露わにする二人に対し、ドルジェは決まりの悪そうな表情を隠すように頭を垂れた。
「本来ならラサまでご案内して、改めて丁重なお礼をすべきところですが……。申し訳ありません、先を急ぐ旅の途中なもので」
「気にすんな、別に恩を売るつもりで助けたんじゃないからさ。でも、そんなに急いでどこ行くつもりだったんだ? また慌ててぶっ倒れても面倒見てやれないからな」
「それは──」
わずかな間、水を打ったような沈黙が流れる。天幕の脇に留められた馬とヤクが同時に嘶き、緩やかな風が草原を揺らした。
「……あの、僕のこの顔、どこかで見覚えありませんか」
「はぁ?」
オトは片眉を上げたしかめっ面で、ドルジェの顔をまじまじと睨んだ。オトの耳が拾ったドルジェの声に、他人を騙す心や冗談は混ざっていない。奇妙な問いは間髪入れずに良嗣へ伝えられた。
「あるわけがないだろう」
「だよなぁ」
「聞き間違いじゃないのか?」
「違うって! まったく、何だってんだ」
二人は率直に否定の意を示した。反射的に漏れ出た浅い呼吸は溜息だった。落胆を隠せぬまま、ドルジェは改めて詳しい経緯を語った。
「……双子の兄を探しているんです。名はティルブ。七日前から行方が知れなくて。ラサを出て北へ向かったとの話だけは掴んでいるのですが」
何でもないはずの発言だった。しかし、オトは言葉の端々から、柔肌を突き破るように刺激的な響きを感じた。それは声に悪しき念が混じったときに覚える感覚と限りなく近かった。
日本語の会話はドルジェの思考に届かない。語られた経緯を良嗣に訳し終えると、続けざまにオトは抱いた懸念を述べた。疑心を口振りから悟られないよう、あえて堂々とした態度を崩すことはなかった。
「何だか調子がヘンだ。さっきまでは感じなかった、嫌な響きがする」
「……信用は早計だったか。もし妙な真似をするようなら俺が──」
「おい、気が早いって! 待ってろ、もうちょっと色々聞いてみるから」
外れた試しのないオトの勘に、良嗣は全幅の信頼を寄せていた。語気に違和感を察したならば、そこには何らかの意味が隠れているに違いない──。確信の末、良嗣は警戒心の鎧で身を固めた。
「ごめんな、ほんとに知らないんだよ。誰かとすれ違う機会なんてしばらくなかったし、名前もウワサも聞いた覚えがないしな」
「いえ、こちらこそ無理を言って申し訳ございませんでした。万が一にでもすれ違っていたらと期待したもので……」
「やっぱりそいつも職人だよな。どうした、仕事ほったらかして逃げちまったのか? それともケンカでもしたか?」
「はい。あいつは職人で、兄弟である以上に兄弟弟子でした。でも今は──」
逸らされたドルジェの瞳は揺らめく炎に向けられた。手に握られた椀は小刻みに震え、底に残された少量の茶が荒い波を立てる。
「師匠の、父の仇です」
オトは無言で良嗣の腕を掴んだ。柱のように逞しい腕に、五つの鋭い爪がぎりぎりと食い込む。良嗣は決して振り払おうとせず、オトの心の痛みを受け止めた。
「僕はもう一度あいつに会わなきゃならない。こんな場所で立ち止まってなんかいられない。あいつを見つけて父を殺した理由を吐かせたら、喉を掻っ切って薄汚い禿鷲どもの餌にしてやる。……それだけが、それを成すことだけが、僕の生き甲斐なんです」
ドルジェは懐の中から小刀を取り出し、抱えた思いを託すかのように強く握り締めた。複雑な模様が刻まれた銀色の鞘が、炎が放つ光を反射して怪しく輝く。
煌めく小刀を直視する二人は押し黙りながらも、互いが同じ光景を想像していることを察していた。大草原の中で無数の禿鷲に啄まれ、無惨な姿を曝け出していた骸。そして、骸が死してもなお握り締め、やがて良嗣が墓標として大地に突き立てた小刀。旅の最中に目にしていた小刀と、ドルジェが手にする小刀は瓜二つだった。
二人の記憶の中に眠る頭蓋骨が肉と煉瓦色の皮を纏い、確かな表情を織り成していった。その形相もまた、ドルジェの容貌と瓜二つだった。
太陽は地平線の彼方へ去り、今にも姿を隠そうとしている。