「迦陵頻伽の仔と墓標」
黒羽を翻す禿鷲が、曇天を切り裂いて大地に舞い降りた。その光景に相対する時、高原を征く旅人たちは皆、限りある命へと想いを至らせる。
禿鷲が集う先には総じて、骨肉を曝け出した物言わぬ骸が転がっている。それは生存競争に敗れた獣か、旅の途中で力尽きた人間の末路に他ならない。
西域の南側、百余年昔に没落した吐蕃王朝の影響下にある高原地帯に入ってから、良嗣とオトは幾度も同様の有様に遭遇している。しかし今、二人の眼前に繰り広げられる光景は、普段と僅かに異なる様相を呈していた。
良嗣は薄目を更に細めて、東に二里※1ほど離れた草原に集う禿鷲たちを捉えた。黒羽の塊の奥からは、燦然たる輝きが一点、陽光を浴びた雪山の峰のように鋭く放たれている。見慣れぬ景色に良嗣が抱いた違和感は、自然と口から溢れ出た。
「光……」
良嗣は跨った犛牛の手綱を握り、左手を強く引いた。力強くも従順なヤクは、長い黒毛を風になびかせ、緩やかに進行方向を変えた。
「おいこら! ただでさえ遠回りしてるんだ、寄り道してる場合かよ!」
良嗣の肩に腰掛けているオトが、焦燥ゆえの不満を漏らした。旅の足は馬から駱駝、駱駝からヤクへと替わっていったが、オトの定位置は未だに変わらない。座り心地が良いからだとオトは常々口にしているが、悪戯を仕掛けやすい、という別の理由に良嗣は気付いていた。今もオトは一つ結びにした良嗣の後髪を幾度も引っ張って、堂々と抗議の意を示している。
遥か彼方からオトを導く何者かの唄声は、陽関より南西の果てに聳え立つ、雄大な山脈の頂点から響いていた。しかし、良嗣は未開の荒野が広がる南西を避け、商隊が進む道なき道に倣って南寄りへ迂回する進路をとり、点在する集落を経由しながら拉薩を目指した。オトを呼び声の元へ送り届ける責任を抱く良嗣にとって、無為に危険な道を歩むことは本意でない。吐蕃の都であったラサを拠点に物資や情報を収集し、改めて山脈沿いに西へ進む計画は、その信条に則った算段だった。
南への進路を外れたヤクが、重々しく大地を踏み締めていく。高原を包む香しい草の匂いに、次第に屍臭が混ざり始めた。二人は鼻の呼吸を止め、息苦しさに耐えながら言葉を交わした。
「あいつらに絡むつもりか? やめとけって」
「たかが知れている相手だ、すぐに終わらせる」
来訪者の接近に気付いた禿鷲たちが、ぎゃあぎゃあと騒々しく喚き立てる。獰猛な声に宿る感情を察したオトは口元を歪ませ、苦々しい思いを歯軋りに乗せた。
「おれたち、ずいぶん歓迎されてるみたいだな」
「歓迎? 悪い冗談はよせ」
「本当だって! エサが自分から歩いて来たとか、都合いいこと考えてんじゃないか」
「……舐められたものだ」
良嗣は心に抱いた驚嘆を、冷淡な返事と仏頂面で隠した。鋭敏で繊細なオトの耳は、これまでも自身を導く唄声に限らず、空模様が移り変わる前兆や野盗の気配などを読み取ってきた。そして旅路が進むにつれ、感覚の精緻さはより強固になっていった。人間はおろか獣の声に秘められた感情さえ察する力は、人智を超えた存在たる迦陵嚬伽がなせる業だと良嗣は納得していた。
たとえ人並外れた能力、そして鳥の如き羽根と鋭い鉤爪を持っていたところで、外套で身体を覆ったオトの姿は人間の少女と相違ない。無数の瞳と嘴は、最もか弱い獲物へと狙いを定めていた。
「お、オマエのせいだぞ! どうにかしろ!」
「ああ、すぐに纏めて追い払う」
「まさか……。アレ、またやる気かよ」
「こいつを鎮める準備を頼む、積荷を持ち逃げされては敵わん」
自らの足で禿鷲たちへ歩み寄る良嗣に代わって、オトはヤクの背に乗り替え、慌てて右手で手綱を握った。
微かな空気の振動が、じわりとオトの鼓膜へ届く。空いた手で申し訳程度に左耳だけを塞ぐ些細な抵抗は、もはや意味を成さなかった。不穏な響きの正体を良嗣の深呼吸と察した瞬間、オトの背中に冷汗が滲んだ。
「ばか! 待てよ! まだ心の準備が──」
僅か一瞬、良嗣は溜め込んだ息を炸裂させ、あらん限りの力で雄叫びを上げた。
人並外れた巨躯から放たれた雄々しい咆哮は、駿馬よりも疾く大地を駆け巡り、禿鷲たちの心臓を震わせた。
喚きながら逃げ去る禿鷲たちの翼が、二人の頭上を掠めていく。巻き起こされた突風は、オトの長髪を高原の草とともに舞い踊らせた。
「うるっせぇな! おれの頭、かち割る気か!」
恐怖で仰け反るヤクを宥めながらオトが発した怒声は、方々へ飛び去る禿鷲たちの悲鳴で掻き消された。
「いつも強引なんだよオマエは! 少しは加減しろっ!」
「……肝に銘じよう」
「あぁ? 山犬どもに襲われた時も同じこと言ってたよな?」
「一々戦っていたら身が保たん、追い払うのが最善策だ」
「なら、そもそも最初っから相手にしなきゃよかったんだよ!」
土埃を払いながら言い争う二人は、やがて露わになった骸に向き直った。
禿鷲が去った後に残された身体は、成人男性ほどの体躯の人間だった。体の大部分は既に風化が進み、臓物は全て喰い尽くされ、所々に肉が残された白骨が仰向けに転がっている。羊毛の衣服は細かく引き裂かれ、原形を留めぬ布切れと化していた。
そのような有様の骸から発せらていた光の根源は、乾涸びた右手の中に眠っていた。
「……これが俺を呼んだのか」
良嗣は膝を突いて座り込み、骸が握る小刀を眺めた。一尺※2ほどの刃を納める銀色の鞘には、幾重にも重なったうねる紋様と、高原の民が使う文字が刻まれている。小刀の細やかな意匠から発せられる威厳と気品を感じ取った良嗣は、さながら皇帝より下賜される逸品のようだと感じた。
入唐の前後を問わず、これほどまでに精緻な細工を目にした経験がなかった良嗣は、好奇心の赴くままに小刀を鞘から引き抜いた。刃こぼれ一つない白銀色の刀身から放たれた光は、鞘が放つそれよりも更に強く、見る者の瞳を貫く輝きを有していた。
鞘に入ったままの穢れなき刀身は、命を奪う何者かに対する抵抗が行われなかった事実を意味する。骸がいかなる思いを胸に最期まで小刀を握り続けていたのか、そもそも生前はどのような身分の人物だったのか、良嗣は思案した。いくら考えたところで、真相は見つかりようもない。死者は答えを語ることもなく、ただそこに在るだけだった。
やがて、良嗣は小刀を抜き去ったまま、骸の手に鞘だけを握らせた。
「何やってんだ、死体漁りはしないって決めただろ!」
「落ち着け、持ち去る気はない」
柄を握り締めた良嗣は、横たわる身体の傍の大地に向けて、真っ直ぐに刀身を突き刺した。草原の土に切先を埋めた小刀は、風に煽られても揺らぐことなく、凛々しい立ち姿を見せていた。
不可解な行動に困惑を隠せぬオトは、良嗣にゆっくりと詰め寄った。一歩一歩足を踏み締めるたび、鉤爪が大地を抉っていく。
「もしかして、墓のつもりか?」
「荼毘に伏すだけの薪もない。俺にできるのはこの程度だ」
「どういう風の吹き回しだよ、いつもは見向きもしないくせに」
「……無視し続けるわけにもいかん。そう感じただけだ」
骸の前で物思いに耽る良嗣の意識は、遠く過ぎ去りし祖国の土を踏んでいた。
呼び覚まされた故郷の記憶には、かつて御所車の窓越しに目撃した、鴉の餌食と化す稚児が現れた。肉を失い崩れ落ちる寸前の骸は、短い生涯を物語る瞳すら失い、全てを鴉に奪われる時を待つばかりだった。
無惨な姿に哀れみを抱きこそすれど、良嗣は何の行動にも至らなかった。足止めも弔いもせず、ただ道すがら遭遇した一人の死と背後に隠された人生を、単なる他人事と見做して遠ざけた。あらゆる死を自分事として受け止めれば、強靭な肉体で覆った心が押し潰されてしまう。それは愛娘を喪ってから思い至った、良嗣が自身を守る術だった。
だとしても、今こうして現実に相対した死を、哀れみだけで終わらせたくないと良嗣は望んだ。骸が人生の最果てで唯一守り通したものを、生きた証として輝かせようとした。その非合理的な行動への迷いを、良嗣はオトに打ち明けた。
「俺の行いは無駄か。無意味だと思うか」
握られた屈強な拳の中で、ぎりぎりと骨が軋む。痛ましい響きと簡潔な問い掛けに秘められた思いは、オトが即座に飲み込めるものではなかった。上空で旋回する禿鷲たちが、答えを急かすかのように鳴き続ける。少しの間腕組みをして考え込んだ後、オトは険しい表情を顔に貼り付け、流れるように語り出した。
「おれたちはこいつの顔も名前も知らない。地獄に堕ちるような罪人かもな。弔ってくれなんて願っちゃいないかもしれないだろ。今ぶっ刺した小刀だって、こんだけの上等な品、もし野盗どもに見つかれば一晩の酒代に消えちまうぜ。全く、大した自己満足だな」
放たれた返答はいつになく鋭利だった。良嗣は決して慰めの甘言を求めていたわけではないが、幼き相棒から受けた単刀直入な諫言は、どんな高官の叱責よりも重い響きを帯びて伝わった。
押し黙った良嗣に、オトは少し緩めた表情を向け、溜め込んた言葉を静かに告げた。
「……でもな、おれだってさ、無駄じゃないって思いたいよ」
オトは伏し目がちに、軽く息を吸い込んだ。翼を羽ばたかせるような伸びやかさで、口から旋律が紡がれていく。
唱えられた偈頌は、オトが長安で耳にした経文の一節、雪山偈だった。誰しも平等に訪れる命の生滅流転を述べる教説が、骸にとって、また良嗣にとっての救いになるよう、オトは一心に請い願った。
澄んだ唄声が風に溶けきると、高原は穏やかな静寂に包まれた。唄に優れた迦陵頻伽の妙なる声は、荒ぶりながら空を舞う獰猛な禿鷲の心すらも虜にし、安楽の境地へと至らせていた。
いつしか、良嗣は無言で掌を合わせていた。拳を握り続けて硬化した両手の皮膚は、蓮華の蕾にも似た合掌の中に包み隠されている。重なり合った手が再び離れるまで、オトは無言で良嗣を見守った。
白雲の切れ間から、橙色の夕陽が射し込んでくる。二人の背後、南西の遥か彼方に鎮座する雪山の頂は、高原に築かれた小さな墓標のように煌々と輝いていた。
「迦陵嚬伽の仔と墓標」完
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