「迦陵頻伽の仔と旅人」(四)
声の主の意思を察するオトの耳に、良嗣は幾度となく救われてきた。犛牛の市価を誤魔化そうとした悪賢い豪商の目論見も、遭難した哀れな商隊を装った野盗たちの正体も、全てその助力なくしては看破できなかった。だからこそ、良嗣はオトの不自然な振る舞いを決して見過ごさなかった。
ドルジェが探し求める双子の兄は、恐らく既に命を落としている。成れの果てと思わしき骸に遭遇している以上は、真実を伝えて導くことが筋だ。だが、オトはそれを有耶無耶にして拒もうとした。理由はドルジェが言葉の内に秘めた意思の底に存在するに違いない──。
信頼ゆえに抱いた相棒への疑念を、良嗣は真正面から投げ掛けた。
「……話してくれ。お前はドルジェに何を感じた?」
「はぁ? 何って……決まってんだろ。『あの野郎ぶっ殺してやる』って、そんな風に嫌な感じだよ。ばかな野盗どもが突っかかってくる時の感じと似てたからさ、ちょっと驚いただけだって」
「それだけか?」
「……そうだよ」
「本当か? 殺意の他に……あるいは殺意の先に、何か感じ取っているはずだ」
更なる追求にオトは沈黙を貫き、相対する良嗣も無言で張り合った。夜の帳が下りた高原に、一瞬だけ静寂が戻る。立ち昇る焚火が弾けた音が、二人の間に流れる張り詰めた空気を際立たせた。
尚も口を噤んだまま、良嗣は真正面に座ったオトの瞳を捉えた。普段は如来や菩薩の像にも似た細い目は見開かれ、明王が持つ憤怒相染みた瞳が強い眼光を放っていた。
「あぁもう、わかった、わかったから、じろじろ見んなよ」
辛抱たまらず、オトは遂に無言の圧力に観念した。逸らした瞳を再び合わせた時、良嗣の表情は元の姿を取り戻していた。それでも、抱えた膝を握る小さな手は強張り、力が籠められたままだった。
「……さっき、兄貴をとっ捕まえて殺してやるって、それだけが生き甲斐だって言ってたろ。まったく、『生き甲斐』なんて大袈裟吹かしてるだけだと思うよな? でも……そうじゃないんだ。あれは本気の言葉だったんだよ。そこだけに自分の価値があるって、きっと本気で信じてるんだ。それでさ、もし、もう兄貴がとっくに死んでるって知ったら……。今のドルジェを繋ぎ止めてるもの……怒りとか恨みとか憎しみとか、胸の中に溜まったよくないものはどっかに消えちゃうよな。それって普通はいいことなんだろうけど……それがドルジェの全てだったとしたら、消させちゃいけないと思うんだ。もし、本当のことを伝えたら……ドルジェはこれからどうなっちゃうんだろう」
常に自信と活力に満ち溢れているはずのオトの声は、遣唐使船に潜んでいた頃の弱々しい少女のものに戻っていた。尖った八重歯で噛み締められた下唇からは、炎よりも黒ずんだ赤色がじわりと滲んでいた。
特別な力など持たない良嗣であっても、オトが露わにしている不安は容易く察せられた。
「……よく話してくれた。感謝する」
「どうだ、納得したかよ」
「ああ。お前が伝え渋った理由も、不安がる理由も腑に落ちた」
「よし、ならこのまま何もなかったことにして──」
「済まない。だとしても、やはり真実は伝えるべきだ」
良嗣の意思は頑なだった。一度心に決めたなら聞く耳を持たない性分をオトは把握しているが、心の内を明かせば応じるだろうと、一縷の望みを抱いたことも確かだ。オトは細い肩を力なく落とした。彼方から響く野犬の遠吠えも、足元でなびく草と風の囁きも、今のオトには大差のない雑音に過ぎなかった。
「そもそも、俺たちが伝えようと伝えまいと、このまま北を目指せば自ずから辿り着くだろう。俺でさえ見咎めた程だ。きっとドルジェなら遠目でも小刀に気付き、骸の元に向かう」
「いや、確かにそうかもしれないけどさ……。ドルジェがどうなったっていいのかよ、酷ぇな」
「酷い? 二度と会えない仇を当てもなく探し続け、いつまでも彷徨わせる生き方が正しいとでも? 絶対に晴らせぬ遺恨を抱えさせる方が、何よりも酷ではないのか」
「……んなこと言ったってさ、生き方があるだけマシだろ。生きる目的が何にもなくなって、空っぽになって、どうにかなっちまうよりはずっといい」
尚も食って掛かるオトの反論は精彩を欠いていた。良嗣の主張は間違っていないのだろうと、オトも頭では理解している。それでも、旅先で巡り逢った不幸な旅人の行く末を案じる思いを、どうしても拭い去ることができなかった。
意気消沈したオトの様子を見兼ねて、良嗣はやや躊躇いがちに言葉を紡いだ。
「……たとえ一つの目的を失おうと、次の目的が見つからない理由にはならない」
愛想に欠けた良嗣らしからぬ穏やかな声が、オトの胸をざわつかせ、陶然とさせた。良嗣が味わってきた大きな喪失、その先にあったもの。積み重ねられた様々な記憶の断片から産み出された感情が集い、瞼の裏へ波のように押し寄せていった。
塊となった数多の感情は大船を形取り、荒海に揉まれているかの如く揺れていた。黒い影が掛かってこそいたが、それはきっと眩いばかりの朱色に染められた船体だろうとオトは確信した。良嗣と巡り逢った遣唐使船の様相を、忘れられるはずもない。
やがて船の影は姿を変え、同じ身の丈をした二人の少女の輪郭を成していった。一人は鳥の如き羽根を背負い、もう一人は大仰な装束に身を包んでいる。羽根付きの少女はオト自身の姿、ではもう一人は──。
音子。
良嗣が喪った愛娘の名を、オトは思わず呼び掛けてしまいそうになった。
「……どうした?」
「何でもねぇよ」
口に出し掛けた失言、そして良嗣の心を垣間見た記憶を有耶無耶にしようとしたオトの誤魔化しの言葉は、意に沿わない憎まれ口だった。
「……あのなぁ、結局オマエはおれたちの吐蕃語を知らないし、ドルジェにオマエの言葉は届かない。オマエが何を伝えたがってたって、それを話すも話さないも全部おれの自由なんだぜ。わかってんだよな?」
「……ああ。お前が最善だと感じた選択なら、これ以上俺は何も口出ししない」
「……じゃ、おれの好きにさせてもらうからな。後からぐちゃぐちゃ文句言ったら、そのツラ引っ掻いてやる」
オトはつんと顔を背けた。指先でなぞり崩した砂曼荼羅のように、いつしか瞼の裏に焼きついた二人の影は瓦解していた。
幾度目かの静寂が高原を包む。今度は良嗣が沈黙を破った。
「お前も天幕で寝ろ。喋り疲れただろう、早く休んでおけ」
「まだいいって。おれが火の番やっとくから、オマエこそ先に寝とけよな」
「結構だ。……どうにも目が冴えてたまらん」
「何だよ、マネすんなよ」
二人は同時に夜空を仰ぎ、大地に身を委ねるように寝転がった。
良嗣の瞳は月を射止めた。大海のように果てしなく広がる暗闇の中で、柔らかな弧を描く月輪は何よりも大きく輝いていた。
海原を渡り、山河を越え、砂漠を踏み締め、目に映る景色は移ろい行く。そのいかなる地においても、良嗣の頭上には月があった。京の都から常日頃より見えた愛宕山も東寺の五重塔も彼方に過ぎ去り、馴染み深い景色はもはや影も形も存在しない。張り付いたように天上に浮かぶ月だけが、自分が故郷と繋がりのある世界を歩んでいると認識できる、良嗣の心の縁だった。
良嗣は月を眺めるドルジェを想った。月を見るたびにドルジェの脳裏には故郷で過ごした日々が蘇り、郷愁に襲われるだろう。やがて、自らが抱いた悪心に苛まれ、その呪縛に少しずつ心身を蝕まれていくはずだ。討つべき仇はもう居ない。その真実を伝えれば呪縛は解けるはずだ。だが、オトの指摘通り、今のドルジェを繋ぎ止めている細い糸は切れてしまうだろう。それに、自分一人では意思を届けられない。言葉を通わせられるオトに、必然的に重い役目を背負わせる羽目になる──。
「……畜生」
良嗣は月の眩しさから目を逸らし、自罰的に呟いた。
その傍らで、オトは天に光る無数の星々を眺めていた。目を細めなければ輪郭を捉えられないほど小さな一粒一粒の全てが、灼熱の太陽から光を浴びた砂のように煌めいている。それはオトにとって幾百日も見続けた夜空と何ら変わらぬ、ごく当たり前の光景だった。
どうしようもなく眠れぬ夜、オトは天幕を抜け出して星を数える。五十、六十までしか数えられた試しはない。いつも途中で飽きて眠りに就いてしまい、気付いた時には天幕の中で新たな朝を迎えているからだ。
オトは星を数えるドルジェを想った。ラサを出てから数日間、天幕も持たずに旅をするドルジェは、心の昂りを抑えられない時、きっと星を見て過ごしてきた。そして、これからも虚しく星を見て生き続ける。慕っていた父親どころか、仇として憎む兄まで失ったことさえ知らずに。仇討ちという目的を失ったと知れば、ドルジェの旅は終わってしまうかもしれない。それなら終わらせてはいけない。どんなに汚れたものでも、人の道に外れていても、生きる目的を奪ってしまうわけにはいかない。でも、もしも。もしも良嗣のように 、新たな生き甲斐を見つけられたなら──。
「……信じてもいいのかな」
オトは星を数えることを止め、月に向かって語り掛けた。円な瞳に映る月は、全てを包み込むように優しい光を放っていた。
◇
朝焼けに染まる東の空には無数の黒い影が掛かっている。獲物を探し求める荒々しい禿鷲たちが、群れを成して飛んで行く姿だった。
目覚めた三人の旅人は大麦粉で軽い食事を済ませると、旅立ちの支度を始めた。ラサを目指して南に向かう二人は天幕を片付け、他の荷物と共にヤクの背へ結び付けた。ドルジェも僅かな荷物を馬の背に括り終えると、改めて良嗣たちに向き直り頭を垂れた。
「この度は本当にお世話になりました。僕はこのまま兄が向かった北を目指します。……少しでも急いで、遅れを取り戻さないと」
「そうか。まあ……何だ、その、元気でな。ぶっ倒れてたばっかりなんだから、無理はすんなよ」
「はい。オトさんもヨシツグさんも、どうかお気を付けて」
交わされている言葉が耳慣れぬ異国の言語であっても、二人が件の骸の話題ではなく、別れの挨拶を交わしていることは良嗣にも理解できた。
「……息災を祈る」
餞の言葉とともに、良嗣はドルジェの肩を叩いた。一見すると華奢に見える肉体は確かな厚みを伴っていた。日々金槌を振るい続けていた職人の身体だ。師事していた父さえ喪わなければ良い鍛金師のままでいられたのだろうと、良嗣は失われた未来に思いを馳せた。
惜別の意を込めて、ドルジェは改めて良嗣に一礼した。そして馬に跨ろうとした、その瞬間。
「待った!」
オトの叫びが空気を震わせた。呆気に取られた表情を浮かべたドルジェに対し、良嗣の顔は普段以上に強張った。すぐさま良嗣は片膝を突き、オトに耳打ちした。
「俺の口から語るべきだ。お前は仲立ちしてくれればいい」
「大丈夫だ。おれにやらせてくれ」
「勧んで骸に関わろうとしたのは俺だ。仇を弔った恨みを買うようなら、その責は全て俺が被る」
「ばか、今はそんなの後回しだ」
身の丈に合わない大きさの外套を引き摺りながら、オトは馬から降りたドルジェの前に歩み寄った。外套に覆い隠された鉤爪が草原の土を抉っていく。足取りは力強く、一切の迷いもなかった。
「あのな、昨日の話なんだけど……」
「いえ、あんな話はもう忘れてください。無関係のお二人を無理に巻き込むようなことを言って、本当に申し訳ござ──」
「いいか、これ以上旅を続けなくたっていいんだ」
溜め込んだ感情の発露が、ドルジェの言葉を遮った。
「兄貴を探す意味なんかない。首を刎ねようなんて物騒なこと、もう考えなくていいんだよ。だって──」
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