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聖書を失ってみてわかったこと

最近おきたことで、とても考えさせられたことがある。
聖書が右からきて、左に消えていった。

全く興味がなかったのだけれど、仕事先の友人からいただいた聖書物語を読んでいた。
正直なところ、旧約聖書の生贄や聖絶の血なまぐささ、人間の身勝手な裏切りや狡猾な罠を描くばかりで、さほど好きな物語だとは思えなかった。
だけど、私のモットーで、縁があれば学ぶ。

半年かけて、ジリジリと旧約聖書部分を読み切った。

そんなとき友人の奥様が、私のことを浮気相手かなにかと勘違いして、突然現れ「夫が渡した本をよこせ、それは私のお金で買ったものだ」という。全く誤解だけれど、それも縁か、仕方ない、と渡した。

私に収集欲はないので本は頭に入れば物体はいらない。
結婚時にアパートに本は持ち込めず、数千冊の本を実家で処分した時に、本は買わない方向にシフトした。

物としての聖書の本はなくなったものの、頭の中で進行している物語上では、キリストがまだ生まれていない。
どうなるんだろう?

と考え始め、その時に、焚書坑儒はあってはいけないことだ、というのを体感で理解した。

学ぶということを、とりあげてはいけない。
知識でマウントをとって、他人の知識量をコントロールしてはいけない。
教えることで他者より優位に立とうとするのは醜い、
教えないことで優位に立とうとするのはさらに醜い。
教育倫理。

与えても受け取るかどうかは個々人の興味関心によるから、本人に選択をまかせるけれど、ただ、教える側は怒涛のように知識を得る方法や鍵を伝えるのが筋だと思う。

本を取り上げるのは、絶対、悪。
気付かなかったけれど、私はものすごくひどい目にあわされたんだ。

新たに入手して聖書を読んでいくしかない。
キリストがうまれて、噂に聞く「復活」がどう描かれるのか、頭の中で時を止めてはいけない気がする

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