日常系エッセイが生んでいる価値
包み隠さずいえば単にいいねがほしいだけの文章、すなわちかまってほしいから書く文章というものはある。自覚のありなしはさておき。140字だろうと4000字だろうと。別に伝えたいメッセージなんてないけど書く文章。
寂しいから。誰かとつながりたいから。実際いいねがもらえれば用は成しているんだけど、客観的にその文章に価値があるかといえば、概ねNOと言われても仕方ない。
じゃあ客観的に価値のある文章ってなんだ?と問えば、新しい問題提起や価値転倒を生む文章だとか、読んだ人をポジティブな行動へと導く力をもった文章だとか、いろいろ回答は考えられるんだけど。ふと考えたのは、個人の感情の動きを素のまま綴ったような、いうなれば日常系エッセイのような文章に価値はあるんだろうか、ということだ。
感覚の解像度を上げること
そういう文章の根幹的な価値となるのは、感覚の解像度を上げること、だと思う。「この感覚をこんな的確な表現で言い表してる文、はじめてみた」という経験は多くの人にあるのではないだろうか。
感覚の世界は思考(≒言語)の世界よりずっと広い。そして感覚は本来的に言語に変換できない。クオリアというやつだ。しかし、言語的要素のほぼ無限の組み合わせにより、本来言語では表せないはずの感覚を言語でカチリと捕らえることができ(たように感じられ)ることはある。それは喩えるならばドーナツをつくることで、穴という概念の輪郭を捕らえるようなものだ。
そして人間はまさにそのように、感覚を言語で捕らえたがる生き物だと思う。それは人間が「複雑な言語体系」と「それに支えられた高度な思考能力」を手にしてしまったからこそ生まれる欲求だ。言語で言い表すことができれば、その感覚、あるいは概念を思考のテーブルで取り扱うことができる。具体的には、テキストで記録することができ、何度も反芻しやすくなるかもしれない。
そして人間がそこまでして、感覚の世界を捕らえたいと願うのは、生きることの喜びそのものが感覚的なものだからだ。その喜びとは、感情の振れ幅の大きさに比例するものだと思う。喜び、悲しみ、怒り、楽しみ、不安、驚き、戸惑い、恐れ、狂い……人生で経験した感情の振れ幅の大きさこそが、その人生の豊かさを表す指標になると僕は思っている。
人間は言葉にできない感覚を取り扱うのが苦手だ。言葉にできないものはうまく捕らえられず、自覚することなく通り過ぎてしまったり、覚えていたいと思ってもみるみる忘れていってしまったりする。だからすこしでも言葉で、感覚の世界の解像度を上げることで、生きる喜びを感じ取りたいのではないだろうか。
そんな「感覚の言語化」が起こる場面というのが、自給自足はもとより、誰かの感覚を言い表した文章を読んだときだと思うのだ。ある感覚をカチリと芯で捉えた表現を読んだときに、自分の中の膨大な感覚のライブラリのどこかが共鳴して、あの感覚はそういうことだったのかと腹落ちする。そうして言語で捕らえられる範囲が、感覚の世界の解像度がちょっと上がる。それを起こすための日々の素振りというか、基礎練であるというのが、日常系エッセイの本質的な価値なのではないかと思う。
もっとも、言語化なんてしなくても感覚そのものを丁寧に味わえればそれでいいんだけど。そんなわけで今日もせっせと文章をしたためる。
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