見出し画像

井筒俊彦「創造不断——東洋的時間意識の元型」(『コスモスとアンチコスモス』)/頼住光子「井筒俊彦と道元」

☆mediopos3433  2024.4.11

10年ほど前の刊行になるが
KAWADE 道の手帖『井筒俊彦』に
頼住光子「井筒俊彦と道元」が掲載されている

これは道元の研究家でもある頼住光子が
道元を高く評価しさまざまに論じている井筒俊彦の
『コスモスとアンチコスモス』(1989年)に収められている
「創造不断————東洋的時間意識の元型」をとりあげ
その内容について紹介しているもの

この論文は
道元の時間論(「有時」)と
スーフィズムの神秘主義的哲学者イブヌ・ル・アラビーの
時間論(「新創造」(創造不断))について
両者に通底していると考えられる
「東洋的時間意識の元型」を論じたものである

両者は宗教的基盤の性格や歴史的発展の経緯では
互いに大きく異なっているにもかかわらず
「それぞれの時間意識の元型的構成において」
「同じ一つの元型を共有すると言っても
決して過言ではないほど近い」といえる

論文には
「1 イブヌ・ル・アラビーの「新創造」について」
((イランのテヘラン大学での1972年の公開講演)
「2 道元の「有時」について」
(一九七八年のエラノス講演)
という「東洋的時間意識の元型論」をテーマにした
二つの講演録があわせて収録されている

「創造不断」とはイブヌ・ル・アラビーの
哲学的時間論の構造における鍵概念である

井筒俊彦は「創造不断」について
「瞬間ごとに新たなものとして
存在が立ち現れてくることであり、
それは「時の念々起滅」であるとともに、
「存在の念々起滅」であるとして、
この「創造不断」において存在即時間が成りたっている」
と示唆している

イブヌ・ル・アラビーと道元とでは
「神を立てるか否か」において異なってはいるが
「観想的主体に開けてくる本源的時間論」として
「時間の原初的直観における根本的一致」を示している

イブン・アラビーのいう「創造」とは
神の天地創造という一回性の出来事ではなく
「無に没落しつつ新たな生起が一瞬ごとに起こること」であり
そうした「創造不断」と呼ばれる事態において
「無分節から分節に向かう
「神的エネルギーの存在生成の脈動」「神の慈愛の息吹き」が
観想主体の「心」の脈動と重なり、
両者が同化し、時々刻々に変容していく」のだという

そのイブン・アラビーの時間論を
さらに精緻に展開させているのが道元である

『正法眼蔵』に「有時」の巻があるが
井筒は道元の時間に対する理解を
時の「非連続の連続」を意味する
「有時経歴(うじきょうりゃく)」と表現し

「深層の種子が刻々と表層に表れる」という唯識哲学と
「「事事無礙」における「現在」があらゆる時間とつながり合う
「時間の究極的ゼロ・ポイント」」である華厳哲学によって
時の「非連続の連続」を跡づけているという

井筒はとくに道元の「我」に関する議論に注目している

道元は「刻々の現成における時間と存在との一体性を著す
「有時」を、「吾有時」と」表しているように
「刻々の時間と存在の現成を支えるのは
「吾」(=我)」だとする

「我」は「生滅流転の世界に生きる経験的、現象的主体」
であると同時に、
「事事無礙」を「寂然不動の相において観察する
形而上的主体」であり
「全世界、全時間を自己が担って、
「現在のこの一瞬」(而今(にこん))において、
存在として時として、現成する」というのである

イブヌ・ル・アラビーにおいても
「創造不断」の現成における「我」のあり方を
「「創造不断」の覚知において観想者の「我」は、
絶対者の「彼」性と完全に同化する」というように
スーフィズムにおいては「人間神化」の境が説かれている
(いうまでもなくイスラームでは異端思想だが)

そこでは「神」が立てられてはいるものの
「創造不断」的時間意識元型そのものの内的構造は
道元の「吾有時」と通底している

我・存在・時間

存在は「我」において
瞬間ごとに新たなものとして立ち現れてくるのである

■井筒俊彦「創造不断————東洋的時間意識の元型」
 (井筒俊彦『コスモスとアンチコスモス』岩波書店 1989/7)
■頼住光子「井筒俊彦と道元」
 (KAWADE 道の手帖『井筒俊彦/言語の根源と哲学の発生』河出書房新社 2014/6)

**(頼住光子「井筒俊彦と道元」より)

*「井筒俊彦の業績を見渡してみると、禅仏教に関する著作や論文がかなりの数にのぼることに気付かされる。中でも、道元の言葉は様々な箇所で折に触れて引用され、井筒の道元に対する傾倒が見て取れる。」

*「井筒の道元への評価の高さは、道元の主著『正法眼蔵』に対する「中国と日本を含め、おそらく禅師たちの著したあらゆる作品の中で最も哲学的なもの」(『禅仏教』三〇五)という説明にも表れている。」

**(頼住光子「井筒俊彦と道元」〜「創造不断————道元とイブン・アラビーの時間論」より)

*「『創造不断————東洋的時間意識の元型』と題された論文の中で、井筒は、道元とスーフィズムの神秘主義的哲学者であるイブン・アラビー(イブヌ・ル・アラビー)とを比較する。両者は歴史的、コンテクストを異にしながらも、その思想の透徹性ゆえに東洋哲学の最深淵に達しており、(・・・)「絶対無分節の自己分節」を「創造不断」という時間論として結実させたというのである。この「創造不断」について、井筒は、瞬間ごとに新たなものとして存在が立ち現れてくることであり、それは「時の念々起滅」であるとともに、「存在の念々起滅」であるとして、この「創造不断」において存在即時間が成りたっていると指摘する。神を立てるか否かをめぐって正反対の立場を取る仏教とイスラームに属しながら、両者は、観想的主体に開けてくる本源的時間論を打ち立てており、その点で、「時間の原初的直観における根本的一致」を示しているのである。」

*「井筒は、イブン・アラビーの唱える「創造」とは神の天地創造という一回的な出来事ではなくて、無に没落しつつ新たな生起が一瞬ごとに起こることであると指摘する。この場合、「神は、実は、究極的な事態としては神以前であり、「無」である」。この「無」は単なる空無ではなくて、「存在の形而上的根源としての絶対一者」「「有」的充実の極言」であり、「宇宙論的存在エネルギー」として、まず、「その第一段階において「神」の顕現となり」、段階的に存在世界を形成していくと言う。このような無分節から分節に向かう「神的エネルギーの存在生成の脈動」「神の慈愛の息吹き」が観想主体の「心」の脈動と重なり、両者が同化し、時々刻々に変容していくことこそが「創造不断」と呼ばれる事態なのである。」

*このようなイブン・アラビーの時間論をさらに精緻に展開したのが道元であると、井筒は主張する。イブン・アラビーが果たし得なかった「「瞬間」の時間論的・存在論的深層構造を徹底的に究明」している点に道元の独自性があると言うのである。

*「井筒は道元の時間の時間に対する理解を、『正法眼蔵「有時』巻の言葉を使って「有時経歴(うじきょうりゃく)」と表現する。これは、時の「非連続の連続」ということを意味する。この「非連続の連続」を、井筒は、大乗仏教の代表的な哲学思想である唯識と華厳とを使って跡付ける。唯識哲学における深層の種子(しゅうじ)が刻々と表層に表れるという論点と、華厳哲学の「事事無礙(じじむげ)」における「現在」があらゆる時間とつながり合う「時間の究極的ゼロ・ポイント」であるという論点に依拠して、井筒は『正法眼蔵』「有時」巻を解読する。唯識と華厳という大乗仏教の哲学理論の頂点を援用しているのは、道元がそれらの大乗仏教の理論を自家薬籠中の物にした上で自らの思想を展開しているという、井筒の道元に対する高い評価を物語る。」

*「特に井筒が、道元独自の議論として評価するのが、「我」に関する議論である。道元は、刻々の現成における時間と存在との一体性を著す「有時」を、「吾有時」と言う。つまり、刻々の時間と存在の現成を支えるのは「吾」(=我)なのだというのである。この「我」に関して井筒は、「生滅流転の世界に生きる経験的、現象的主体」であると同時に、「事事無礙」を「寂然不動の相において観察する形而上的主体」であると述べ、全世界、全時間を自己が担って、「現在のこの一瞬」(而今(にこん))において、存在として時として、現成するというのである。」

*「共時的構造の探求という井筒の方法は、人間の深層次元における共通構造に着目したものである。「創造不断」とは、時間空間に限定されつつも、それを超えて現在のこの一瞬に、全時間、空間を収斂させ、そこから全てを展開していくことであった。この「創造不断」は、まさに、あらゆる塾の思想を「今、ここ」を生きる自らの実存において受け止め、人間存在の深奥に潜む共通構造を探求した井筒の学的営みにおいて実現されたのである。」

**(井筒俊彦「創造不断————東洋的時間意識の元型」より)

*「「創造不断」(・・・)は、もともと、イスラームの哲学者イブヌ・ル・アラビーの存在論体系の基本術語の一つで、原語(アラビア語)ではkhalq jadid)。「ハルク」は「創造(行為)」、「ジャディード」は「新しい」という意味。従って「ハルク・ジャディード」は字義通りには「新しい創造」、「新創造」の意味だが、イブヌ・ル・アラビー特有の術語としては、「時々刻々に新しい創造」を意味する。」

*「時々刻々の新創造。この表現は。それ自体のうちに、時間論と存在論との二側面を合わせもっている・「時々刻々」が、その時間論的側面であることは明瞭であろう。その点だけは明瞭だが、しかし、それが哲学的に含意するところが必ずしも明らかではない。先ず、時々刻々とは、時の念々起滅を意味することに注目する必要がある。すなわち、これは時間の直線的連続性の否定なのである。外界の事物、いわゆる外的世界、とは本性的にはなんの関わりもなく、一様に流れる「絶対時間」(ニュートン)、どこにも途切れのない恒常的連続体としての時間を否定して、途切れ途切れの、独立した(「前後裁断」)時間単位。刹那、の連鎖こそ時間の真相であると、この考え方は主張する。要するに時間は、その真相において、ひとつ一つが前後から切り離されて独立した無数の瞬間の断続、つまり非連続の連続である。というのだ。。

 しかし、それだけではない。この種の哲学的思惟元型においては、時は有(存在)と密接不離の関係にあり、窮極的には時は有と完全に同定される————道元のいわゆる「有時(うじ)」、存在・即・時間。従って、時の念々起滅は、同時に、有の念々起滅でもある。」

*「本論は、第一部、第二部を通じて、時間についての、この東洋思想の元型を、二つの際立って対照的な精神文化の具体的な場面で追求してみようとする。」

*「その一は、イスラームの一神教的・人格神的信仰を基盤とし出発点とする哲学的思索の場面。ここでは、当然のことながら、「新創造」は、神による時々刻々の創造を意味する。神は、瞬間瞬間に、まったく新しく世界を創っていく。「始めに、神が天地を創造した」という『旧約聖書』のテーゼは、イスラームでも同様に教義の第一項目だが、今私が取り上げようとしているイスラームの思想家たちにとって。「始めに」とは、無始なる過去におけると同じく、今もなお、神的創造行為は、時々刻々、続けられている。絶え間なく清冽な水を噴きあげる泉のように、存在が神から溢れ出る。それが時間の真相である。このような原初的存在・時間的直観を基にして、イブヌ・ル・アラビーをはじめとするイスラームの思想家たちは、「新創造」の哲学を、実に特異な形で展開していくのだ。」

*「もうひとつの場面は、道元の時間哲学に窮極する(と私の考える)大乗仏教の時間論的思想である。一神教的イスラームとは違って、これは、神のいない世界、神を必要としない世界、創造主という中心点のない世界。イスラームの神の代わりに、時間・存在の源泉として機能するのは、ここでは「我」である。現在の「一念」に時間の全体を凝縮させつつ、時々刻々の現在に全存在世界を生起させていく「我」。「我」の挙体全動的「尽力」によって、存在と時間とが「有時」(存在・即・時間)として現成する。」

*「イスラーム思想と仏教思想とは、起原からいっても、宗教的基盤の性格からいっても、さらにはそれらの歴史的発展の経緯からいっても、互いに著しく相違する。にもかかわらず、両者は、それぞれの時間意識の元型的構成において、互いにかくも近い。同じ一つの元型を共有すると言っても決して過言ではないほど近い。しかし、逆の見方をすれば、その同じ一つの元型が、両者において、非常に違う形で展開し、それぞれのイスラーム的時間論、仏教的時間論として具体化している。時間の原初的直覚における根本的一致、それの思想的展開における具体的相違。たしかに、我々に一考に値する問題が、どこにある、と思う。」

**(井筒俊彦「創造不断————東洋的時間意識の元型」」〜「1 イブヌ・ル・アラビーの「新創造」について」より)

*「「創造不断」の観念の形成に、観想主体の「我」が導入されなければならなかったという事実は、イブヌ・ル・アラビー個人の思想を超えて、より一般的に「創造不断」的時間意識元型そのものの内的構造に深く関わる重要な意義をもつ。」

*「イブヌ・ル・アラビーは、「創造不断」の現成における「我」のあり方を、次のように説いている。「創造不断」覚知の主体として働く観想者の「我」は、もはや個体としての彼の人間的「我」ではない。それは、絶対者の「彼」性そのものと完全に同化した「我」である。(・・・)「創造不断」の覚知において観想者の「我」は、絶対者の「彼」性と完全に同化する、というイブヌ・ル・アラビーの言葉には、どれほど観想(三昧)が深まっても、人間の「我」は神の「我」の位までは行きつけないという諦念の淡い匂いがある。
 しかし、それにしても、観想がここまで深まれば、少なくとも人の「我」と絶対者の」彼」との間にはいささかの間隙も、もはや残らないのであって、このような意味での神・人同化の段階を、スーフィズムでは「人間神化」の境とするのである。」

**(井筒俊彦「創造不断————東洋的時間意識の元型」」〜「2 道元の「有時」について」より)

*「世界が刻々に生起している。その世界現出を身をもって体験しつつある我々自身を含めて、全存在世界は、時々刻々に、新しい。創造不断。イブヌ・ル・アラビーはそれを「新創造」と呼び、道元は「有時経歴(うじきょうりゃく)」と呼ぶ。」

*「唯識と華厳————前者は、人間の意識深層における時間生起のひそやかな営みを分析的に解明して、時間の非常非断的性格の深層構造を明かし、後者、華厳、は存在の非時間的秩序と時間的秩序との接点を、すなわちtotum simul的非時間フィールドが、いかにして、時々刻々に現成していく「現在」の多重多層的存在フィールドとして自己を時間化するか、その転換の機微を明らかにする。」

*「ある一つの「現行」のアラヤ識「薫習」によって生じた「種子」を起点にして、「種子生現行」————「現行薫種子」を次々に重ねていく存在論的プロセスが、時間論的には、非連続の連続であることは、当然である。すなわち、存在世界は時々刻々に新しく、時間はその度ごとに前後際断的「現在」として現成していく。いわゆる外的世界、いわゆる外的事物事象の認識は、その構造において、このような非常非断的時間性を示す。なだらかな、無間断的流れとしての時間形象は、日常意識特有の妄想として、ここでは完全に否定される。この点において、唯識の説く時間意識は、まさしく道元的「有時」の観念を、深層意識的に基礎づけるのである。
 しかしながら、「種子」と「現行」の相互作用の上に成立する「現在」の一念の内実、すなわち、それの存在論的・時間論的厚みは、華厳哲学に至って、より精緻な形で理論的に解明される。」

*「存在論は、そのまま時間論として読みなおすことができるというところに、華厳哲学の————仏教哲学の、と言ってもいい————大きな特徴がある。」

*「而今」は刻々に移っていく。「而今」は刻々に新しい。しかしながら、その一つひとつが非時間的totum simulの挙体現成である故に、この意味での「現在」は、普通に考えられているような、過去と未来の結合的・分岐点としての、ほとんど無に等しい一点ではない。一瞬でありながら一瞬ではない。無限の過去と無限の未来とのすべての内的区分を己れのなかに呑みこんで、しかも一瞬であるような「現在」だ。この「現在」には、いわば全時間を溶融した時間的厚みがある。道元的な言い方をするなら、「而今」としての「現在」は、一瞬一瞬「尽時」でなければならない。そして、「現在」が、時々刻々に「尽時」(すべての時を尽す)であるということは、とりもなおさず「現在」が、時々刻々に「尽有」(すべての存在を尽す)であるということでもある。「尽時」「尽有」の「現在」。こうして道元その人の時間論の世界に入る。」

*「「尽時」、刻々の時が、刻々に全時を尽す(「十世隔法異成」)。時時無礙的に重々無尽の多層構造をうちに秘めた「現在」(「而今」)が、一瞬一瞬の有為転換を刻みながら遷流して、その度ごとに時の全体を包んで「永遠の今」(nunc aeterunum)である、
 そして「現在」の一念が、時のすべてを尽すということは、当然、それが有(存在)のすべてを尽すということでもある。「尽時」は「尽有」、道元の華厳的時間意識は「現在」の一念に存在と時間のすべてを収斂させる。すべての時間単位が相即相入するこの一瞬、それはまた、一切のものがそこで相即相入的に成立する無辺際の存在空間でもあった。「此一念中具万法」(此の一念中の万法を具す)。存在空間としての「現在」は、華厳的イマージュに移して言えば、空に舞う一塵の中に全宇宙が舞い、一花開いて世界開く場所なのである。」

*「根源的非時間マンダラが、そのすべてを挙げて、刻々に時間フィールドとして、現成していく。根源的非時間マンダラの中心点は「空」だった。これに対して、非時間マンダラの現象的展開形態としての時間フィールドの中心点は「我」。これら二つの中心点相互のあいだには緊密な照応関係がある。と言うより、二つは、それぞれの機能次元を異にするだけで、本源的には一つのものである。非時間的マンダラの中心点が、そのまま時間的展開の次元において、「我」として働くのだ。(・・・)道元が「わが有時」という表現を使っていることいん、深い意味を読みとらなくてはならない。
 「有時」「経歴」の中心に、「我」を置く。ここに至って、道元の「創造不断」的時間論は、思想的独創性の深みを窮めるのである。」

*「もともと、我々の経験的世界————時間が時間として成立する存在次元————が、生滅遷流の世界であるとともに、不変不動の真如の世界でもあるのだ。このような世界の主体的中心、「我」、は、当然、互いに矛盾するこれら二面を具えた「我」でなければならない。そのような「我」であってこそ、非時間的存在マンダラを、刻々に「有時」のつらなりとして展開していくことができるのである。」

*「こういう意味で、「我」は時であり、有である。とすれば、全世界存在(「尽界」)を満たす限りない事々物々の森羅たる姿は、「我」のつらなりにほかならない、と言えよう。時時のつらなりとも言えよう。」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?